2002年秋/日本の世情は、まさに排水の陣です!
しかし、日本のこの現状は、何かが欠けていて、何処かがふしだらで、衰退の美
学を演出して来た、何者かが存在している様相です。そこで、そもそも何故こんな状
況になったのか、その原因を改めて考察してみます。その上で、何をどうすればいい
のかを、再度考えてみようと思います...
私は、かねてからそれは、“清・濁”の“濁”の部分、“善・悪”の“悪”の部分を、マ
スコミが承認し、社会もまたそれを受け入れてしまった所に、そもそもの起因があっ
たと考えています。
かつて、テレビで、“政治とは、清・濁をあわせ呑むものだ”などと、堂々と言われて
いました。また、“政治家の仕事は、刑務所の塀の上を歩いているようなものだ。内
側に落ちたら犯罪者だ”と言うような意味のことを、堂々とテレビ画面で言い放ってい
る政治家もいました。また、他にも、“選挙の三種の神器は、地盤・カバン・看板”だ、
などと、それが当り前のように公言している政治家もいました。
それから、これはもう1つ別の角度の話になりますが、この同じ時代に、刑務所が
えりの犯罪経験者の作家が、活字文化やテレビ画面でもてはやされていたのを思い
出します。私は詳しい事情は知りませんが、何がしかの社会的犯罪を犯し、刑務所
に入れられ、その塀の中のことを面白おかしく書いていたのでしょうか。これなどは、
まさに犯罪を助長し、刑罰をあざ笑っていたような風景でした。しかも、それが、相当
の資本を投入し、映画化もされていたようです。一体、このような日本人の精神性をく
じくようなことを、誰が推進していたのでしょうか...
日本の文化や社会に責任を持ち、それを担ってきた立場の人々が、何故あえてこ
んな犯罪を助長するようなことをしてきたのでしょうか。この社会的影響もまた、非常
に大きかったと思います。誰が、いったい何故、こうした日本文化を破壊するような行
為をしてきたのでしょうか。私は、この刑務所がえりの作家に問題があるというより
も、そうした風潮を企画し、それを煽ってきたメディアの側に、非常に罪深いものを感
じています。
いずれにせよ、テレビや新聞を中心としたマスコミは、こうした社会的混乱を引き起
こす風潮を、積極的に創出してきたということです。したがって、大衆社会もまた、無
抵抗にこうした“濁”や“悪”や“犯罪”を面白おかしく吸収し、受け入れてしまったので
す。国家として、文化として、それが悪いと分かっていながら、民主主義社会の体制
に組み入れてしまったのです。
このように、“濁”や“悪”や“犯罪”を容認した文明社会が、その後どのような悲惨
な経路をたどるかは、多くの歴史が示すところです...
いずれにせよ、当時私は、“このテレビ番組は、非常に罪深い事をしているな”、と
思いながら、それらを眺めていました。しかし、さらに私を驚かせたのは、こうした事
態に対し、NHKをはじめとする他のテレビ局が、何のコメントもしなかったことでし
た。新聞もまた、同様でした。その時、厳しく批判を加えていれば、現在のような社会
情勢には、絶対にならなかったはずです。
ともかく、轟々たる非難は何もなく、音沙汰もなく、何となく社会全体が、そうした
“濁”や“悪”や“犯罪”を、正々堂々と受け入れてしまったわけです。
むろんその後、“濁”や“悪”は、深く深く静かに、日本の社会全体に根を下ろして
いったわけです。それが、現在の企業倫理の欠如や、マスメディアによる人権侵害な
ど、社会の根幹部分を腐らせてきたのではないでしょうか。そして今、1つの末期症
状が、顕在化してきたわけです...
さて...一度こうした“濁”や“悪”や“犯罪”を社会が形式的に認めてしまうと、中
世ヨーロッパにおける“免罪符”のようになってしまいます。罪の意識というものは非
常に希薄になり、政治の周辺では“利”を漁るのは当り前の行為になってしまいま
す。
原子力サークルの一連の不祥事、食肉業界の不祥事、流通業界の際限もない不
祥事も、このあたりにその根本的な原因があったのではないでしょうか。
つまり、政治家や官僚やマスコミ人が、率先して社会の倫理規範を壊してしまった
ということです。そして、その結果、一般大衆の倫理規範もまた、完全に緩んでしまっ
たということです。国会で、“疑惑の総合商社”と呼ばれたほどの代議士が、長年そ
れをやってこれたのも、まさにこの国の倫理規範全般が、緩み切っていたからです。
いずれにしても、“清・濁をあわせ呑む”というようなの政治家の発言は、ある一面
では真理を突いていました。しかし、これはあくまでも“政治の裏側での話”であっ
て、建前として民主主義社会の表側で公言すべきものではなかったと思います。
しかし、こうした政治家の失言や配慮不足に対しては、マスコミがしっかりと対処
すべきだったのです。こうした話は、神聖な民主主義社会の器の中に、絶対に入れ
るべきではなかったのです。
当時、私のような者ですら、それを強く感じていました。まして、その時代に対して
責任があり、また実力もあったマスコミ人は、当然それが分かっていたと思います。
何故、その人たちは、この事態を容認してしまったのか...私は、それが非常に残
念でなりません。
まして、そのような人たちが、勲章をもらったりしているとなれば、何がなにやら分
からなくなってしまいます。そう言えば、国が衰退し、その最大の原因を作った官僚
たちが、最も多く勲章をもらっているというのも、この国の混乱を象徴しているような気
がします...
さて、いろいろ言ってきましたが、もう一度問題を整理してみます...一体、誰が、
こんな危機的な日本にしてしまったのか...?
私はそれは、ここ20年ほどの、歴代の総理大臣をはじめ、この国を主導してきた
人達だと考えています。春と秋に勲章をもらったような人達が、実際本当に、この国
を真剣に導いてきたのか、と問いたいわけです。
これを具体的に分類すれば、まず国のことを考えない政治家の責任があります。
それから、この国の行政を担ってきた官僚機構の硬直化と天下りがあります。そし
て、第4の権力と揶揄されるようになった、マスコミの暴走も、この国の文化の衰退と
いう意味では、非常に大きな影響があったのではないでしょうか...
さて、現在、政治も行政も、様々な場で国民の批判に晒されています。しかし、唯
一、マスコミだけは、NHK以外は民間企業ということもあり、国民の批判の手が届か
ない状況にあります。今後は、“濁”と“悪”と“犯罪”を社会的に許容してしまったマス
コミをどうするかが、国家大改造の焦点になって来るように思います...
この力のある巨大なメディアを、いかにシビリアンコントロール下におき、経済の原
理ではなく、文化の原理で立て直していくか...ここが、国民にとっての大きな課題
になっていくと思います。
かつて、マスコミが文化の原理で動いていた時代...もう20年から、それ以上も
昔になるのでしょうか...テレビでは、面白いドラマや漫画が、それこそ山ほどあり
ました。歌はみんなの歌でしたし、本当のスターやヒーローがいました...
それが、この国の文化をマスコミが仕切るようになり、さらにそれを経済の原理で
動かすようになると、全てがスナック菓子や、インスタントラーメンのようになってしま
ったわけです。
むろん、マスコミは、質・量・インフラに至るまで、この国最大級の頭脳集団であり、
文化の担い手なのですから、まず自らの構造改革が望まれます。しかし、それが出
来ない時は、この国の主権者である国民が動かなければなりません...
