My Weekly JournalOPINION1999年

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wpe5A.jpg (45859 バイト)   INDEX                                         

No.10  政治改革は、まず“国民主権”の回復から        <平成維新の標準的目標・No.3> 1999. 1.26
No.11  21世紀/平成民主主義へのスタート            <平成維新の標準的目標・No.4> 1999. 3.26
No.12  日本に残った最後の身分格差、“官”と“民”の差別解消を
                                                                                                 <平成維新の標準的目標・No.5>
1999. 5. 4
No.13  国民による、国民のための、国民の国家を       <平成維新の標準的目標・No.6> 1999.10.29 

 

 

                                          No.10      (1999.1.26)

                       <平成維新の標準目標 No.3>

     政治改革は、まず“国民主権”の回復から          

   

 憲法で保障されている“国民主権”は、選挙で1票を投ずるだけでは確立しま

せん。その1票を投ずる選挙システムを、国民自身が掌握していなければ、選

挙は何の意味も持ちません。

 

 現在の、この国の国民意識と政治との間の深い亀裂は、まさにここから発生して

いると考えます。そこで我々が、日本国民としての“主権”を回復するためには、“選

挙関連・議員の身分”を審議するシステムを、国会とは別の所に、早急に作るべきで

す。そして、政治のシビリアン・コントロールを確立すべきです。

 

 今、日本の国が必要としている平成維新の大改革は、まずここからスタートしなけ

れば、決して大きな流れにはならないように思います。また、真の“国民主権”が回

復された下でなければ、どのような改革もすべて失敗に終わってしまうのではないで

しょうか。我々国民が今なすべきことは、政党政治の枠の中で、技術的に改革を議

論することよりは、我々国民の手に政治を取り戻すという“決意”なのではないでしょ

うか。

 

  我々1億の国民一人一人が、それを望み、決意すれば、これはいとも容易に実現

することなのです。これが、シビリアン・コントロールの真の力なのです。

 

 

  日本は今、政治、行政、経済、教育、文化 ...ありとあらゆるものが空洞化し、

弱体化しています。一体この国家をここまで衰退させた元凶は何だったのでしょう

か。私は、それは政治だったと考えています。政治の腐敗が日常化し、それが行

政、経済、教育、文化をまで腐敗させてしまったものと思っています。最高位にある

分水嶺の水が腐ってしまい、日本の緑の山々、豊かな平野、伝統ある精神を、すべ

て腐敗させてしまったのです。

 

 そこで、この国の政治を根本から変えるにはどうしたらいいのか...ここはひと

つ、国民一人一人が真剣に考えてみる必要があります。今、我々は、明治維新にも

匹敵する大改革を必要としています。そのためには、政治の大車輪を維新回転させ

なければなりません。現在あるシステムを変えるのは容易ではありませんし、さまざ

まな軋轢を生みます。弾かれたり、押しつぶされたりする所も出てきます。しかし、日

本はいま平成維新の大改革をしておかなければ、国家として衰退の一途をたどって

いくことになります。

 

 そこで、政治をまず国民の手に取り戻すことから始めなければなりません。まず、

次のことを考えていただきたいと思います。

 

 いったい、誰が選挙システムを動かしているのか?

 

    結果として、真に我々が望む人が立候補し、当選できているのか? 

     

    まず、ここから検証してみる必要があります。我々主権者である国民が、本当に

選挙を掌握しているのでしょうか。単に1票を投ずるというだけではダメなのです。選

挙のシステムを真に国民が掌握していなければ、すべては空洞化してしまうので

す。1票は持っていても、いつも選びたい人が誰もいないというようなことになってし

まうのです。

  そこで、官僚OB、二世議員、三世議員というような、まるで200年前のような風

景が出現してきてしまうわけです。つまり、あの明治維新の前の風景に逆戻りしてし

まっているのです。いったい、何故、何時からこんなことになってしまったのか...

いずれにせよ、国家が沈没し始めている現在、こんな珍妙な風景は早急に正さなけ

ればなりません。

 

 

  民主主義ということで、私達は、衆議院、参議院、県議会、市町村議会の代議員

を選出しています。これらの選挙は、毎年必ずどれかがあるようで、その都度毎度

の大騒ぎをやっています。しかし、よく考えてみるべきです。私達は、本当にこの代

議員達を選出しているのでしょうか。

 その実態は、まさに見せ掛けとしか思えません。また、そうでなければ、国民意識

と政治の実態に、これほどまでの乖離(かいり)が生まれるはずが無いのです。

 

  政治に対する不信感70%以上 ...

          支持政党なしが常に過半数 ...

                               (1999年1月1日のテレビ・新聞)

  この事実が、日本の政治の風景を如実に物語っています。つまり主権者である国

民は、1票の投票はしていても、選挙システムは別の誰かが勝手に動かしていると

いうことです。いったい誰が、憲法で保障されている我々の“国民主権”を奪い、空

洞化させてしまったのでしょうか...

 

  さて、まさに今、国会では衆議院の定数是正問題が浮上しています。そこでは、

各党それぞれが党利党略にもとづいて、勝手なことを言い始めています。しかもこれ

は、ついこの間歩いてきた同じ道であり、同じ議論の蒸し返しです。

 

  しかし、待って欲しい...ちょっとおかしい...国民に選出される側の人々、国

民に審判される側の人々が、何でこんなことを言っているのか...しかも、主権者

である国民の意見はどこにあるのでしょうか...

 

 被選挙者である議員だけで、選ばれる側の不毛な議論を繰り返しているというの

は、一体どういうことなのでしょうか。確かに彼らは、我々の選出した代議員ではあ

ります。しかし、国民は選挙のシステムまで彼らに預けた覚えは無いのです。この国

民の主権を行使する選挙のシステムと、代議員の身分を審査する2つのシステムを

残し、他の審議を代行してもらうように選出したのです。肝心のこの2つまで持って

行かれてしまっては、“国民主権”は空洞化し、まさに憲法違反となってしまいます。

そして、政治に対するシビリアン・コントロールも効かなくなってしまうわけです。

 

  ところが、国民の関心の低さをいいことに、そこらあたりを被選挙者である彼らが

勝手に動かしてきた...ここが、まさに現在の日本の大混乱の元凶なのてではな

いでしょうか。

 

 衆議院の定数削減に関して、与党・自民党幹事長は、こんな見解を述べていまし

た。

 

 衆議院の定数削減は、比例区のみから50人削減すべきである。小選

挙区をいじくると、膨大な作業になって大変なことになる。

 

  まあ、これまでの経緯から見ても、当然な本音の発言だと思います。しかし、選ば

れる側の人間が選挙システムをコントロールしているからこそ、こんな不遜な発言が

出てくるのではないでしょうか。そして私達も、それを当たり前のように聞いてしまっ

ているところに、この国の政治風土の深刻な現状があるのだと思います。

 

    代議員を選ぶのは、我々国民の貴重な権利なのです。むろん、定数、区割、1票

の格差、システムの変更、選挙管理等、すべてを含みます。それを、選挙される側

が、“小選挙区をいじくる”だの、“膨大な作業になって大変なことになる”だのとは、

余計なお世話と言うものです。ましてや、選ばれる側が、選挙区の区割りに口をさし

はさむなどは、言語道断です。

 

  代議員を選ぶのは国民の権利であり、義務です。当然、選ぶ権利があるというこ

とは、そのシステムも国民が作るということです。一方、選ばれた側の代議員は、コ

ト自分達が選出される場である選挙に関しては、発言はもっと謙虚であるべきだと

思います。また、あえて言うなら、一切の発言は差し控えるべきではないでしょうか。

無論、それには、完全に独立した“公正な第三者機関”という受け皿が必要なわけ

ですが...

 

 こんなことは、他の先進国ではとっくにやっていることです。

      日本では、これが既得権勢力によって、押さえ込まれてきたようです。

 

  国民の代表からなる公正な“第三者機関”が、選挙の実質を取り仕切り、議員の

身分をキッチリと取り仕切っていけば、上記のような不遜な発言も生まれてこないは

ずです。また、それに反発して意気込む野党の苦労も、皆無になるというものです。

 さらに、議員の身分に関することも、この第三者機関で取り仕切っていくわけです

から、議員の倫理問題や汚職の追及も、わざわざ国会の場で行う必要がなくなりま

す。国会では、本来の国政について、本腰で論じてもらいたいものです。

 

 それにしても、日本の国会は、これまで不良議員の個人的問題に、どれほどの精

力を割いてきたのでしょうか。まさに、スキャンダルの花園といった感さえあります。

この国には、種々様々な何十万、何百万という集団があります。しかし、これほど犯

罪発生率の高い集団というのも聞いたことが無いように感じるのですが、どうでしょ

うか。それは、様々な特権が、議員をそのように変えてしまっているのでしょうか。ヤ

クザや暴力団でさえも、その暴力行為や抗争で新聞を賑わすのはごくまれなことで

す。しかし、国会議員は、ほぼ間違いなく、1年中賑わせています。むろん、事件の

スケールも、倫理的影響も、暴力団抗争の比ではありません。これはやはり、特権

で武装した議員を、国民がしっかりシビリアン・コントロールできていないところに問

題があるのだと思います。また、このような議員を選出せざるを得ないところにも、政

治に対するシビリアン・コントロールの欠如があるようです。

 そして、この風景を裏返してみれば、このような不良議員を含む集団が、“国民主

権”を我々から奪い、空洞化させ、自らを当選させている人達でもあるのです。

 

  むろん、全てが不良議員だと言っているわけではありません。尊敬すべき立派な

議員も多数います。また、清と濁を併せ呑んでいるような議員も多数いるようです。

しかし問題は、シビリアン・コントロールが効かないという所にあるのです。議員は、

選挙で洗礼は受けていると言うかもしれませんが、国民意識と政治との乖離(かいり)

、政治に対する不信感の増大、国家の大混乱が、現実に目の前で起こっているので

す。つまりシビリアン・コントロール下にない選挙の洗礼では、国民は信じないという

ことです。また、事実、信じるに足るほどの仕事をしていないから、この日本という国

家が沈没し始めているのです。

 

  ところで、自民党幹事長は、元防衛政務次官の中島洋次郎代議士の引き起こし

た幾つかの事件(政党助成金の問題、架空秘書の問題、富士重工の斡旋収賄の問題等、)を、“特殊なケ

ース”だとテレビの前でコメントしていました。しかし、そんな言葉を信じている国民

が、一人でもいるのでしょうか。国民は一つ一つの確証こそつかんでいませんが、そ

れは特殊なケースどころか、ほんの氷山の一角だと考えています。

 したがって我々は、中島洋次郎代議士個人よりも、国民の政治に対するシビリア

ン・コントロールを空洞化させてしまっている、その背後の集団やシステムこそ問題

にすべきなのです。そして、何よりもまず、政治に対するシビリアン・コントロールを確

立すべきなのです。これはつまり、議員の身分や倫理に関する問題は、公正な第三

者機関によって、日常的に厳しく監視されるべきだと言うことです。

 

   それに加え、国民の側に立つ公正な第三者機関が選挙システムを取り仕切るよう

になれば、真にこの国のリーダー達が育ってくることが期待されます。官僚OBや二

世議員、三世議員ばかりが目に付く国会は、やはりきわめてイビツと言わざるを得ま

せん。当人たちはそれでいいのでしょうが、これでは国家が立ち行きません。

 

 繰り返しますが、この国を大改造するには、政治を変えなければなりません。政治

を変えるには、

 

   “選挙関連/議員の身分”を取り扱う、

        国民を代表する公正な第三者機関の設立

 

が急務です。そしてまず、我々国民が、“1票”と“選挙システム”の掌握という、“主

権”を回復しなければなりません。平成維新の大改革は、まずここからスタートして

行かなければ、大きな流れは作れないような気がします。我々は、今まさにこのこと

を“決意”し、平成維新の大車輪を動かしていかなければなりません。

 

  この“第三者機関”は、三権分立の司法においてもいいし、それが難し

いなら、国会承認の第三者機関でもいいと思います。また、外国でうまく

機能しているシステムを、詳しく調査することも必要だと思います。いずれ

にしても、国会から完全に独立し、“国民主権”を背景に、国会議員を完全

に俎上に乗せている機関でなくてはなりません。

               <都道府県議会、市町村議会についても、同様です>

 

 

            

                                                                                  No.11         (1999.3.26)

                                                         <平成維新の標準目標 No.4>

  

    21世紀平成・民主主義へのスタート

 

 20世紀の終焉と共に、日本の“昭和・民主主義”もいよいよ閉塞感を深めていま

す。来る21世紀の“平成・民主主義”とは、どのようなものになるのでしょうか。

 まず、その第1歩は、“真の国民主権の確立”、そして“真の公開・対話型社会”の

実現から.....

 

 

 (1) 負の遺産                

 

 優秀な日本の官僚が、この国の高度経済成長をリードしてきたのは紛れもない事

実です。しかし、その高度経済成長という役割を終えた現在、当時のままのシステ

ムは弊害のみが際限もなく拡大しています。従ってここもまた、“平成維新”の大改

革が急務となっています。これまでの官僚の功績は認めつつも、ここは21世紀へ向

けて、再構築しなければなりません。

 

    それにしても、政・官・業の“鉄の三角形”と言われる構造が批判され始めたの

は、いつ頃からだったでしょうか。それは、高度経済成長時代にはうまくいっていた

といいます。しかし、その時代的役割が終了すると、今度は負の遺産として逆流し

始めたようです。これは、社会においても人間関係においても、しばしば散見する構

造だと思います。ただ、それが国家の屋台骨全体となると、構造が大きすぎます。

その既得権、利権構造、特権階級の形成が、今や日本を未曾有の大混乱に陥れる

までに増大してしまっていたようです。

 

 

 (2) 甘えの構造            

 

  思えば、あの大蔵省の護送船団方式の金融政策さえ、10年20年前から改革が

叫ばれていたように思います。しかし、ついにあのバブルの時代にさえも実行され

ず、バブル崩壊の大混乱の中での清算となりました。しかも、うまく平成維新の大改

革が軌道に乗れば清算となりますが、失敗すれば二流国、三流国へと転落していく

のは目に見えています。いったい、何故改革ができなかったのか。何が、改革を阻

んできたのか。

  結局それは、政・官・業をはじめとする、この国全体の、“甘えの構造”から来てい

たのだと思います。むろん、そうした利権とは全く縁のなかった国民大衆の側にも、

その実態を許してきたという“甘えの構造”がありました。例えば、二世議員や官僚

OBが支配する国会の現状を許してきたのも、やはり我々国民の側の甘さでもあっ

たのです。

 

  さて、人類史上で繁栄を誇った数々の国々が、いかに衰退の川を流れ下った

か.....

 

 その“衰退”の始まりとは、まさに今の日本のような状況から、川を流れ下って行っ

たのではないでしょうか。元々日本は、極東アジアの小さな島国です。資源も、めぼ

しいものはほとんどありません。したがって、二流国、三流国へ衰退して行ったとし

ても、誰も全く不思議とは思わないでしょう。いや、逆に同じ状況下にある東南アジ

アの国々などでは、何故日本だけが先進国なのかと、不満さえ囁かれているのを感

じます。

  なるほど、そう言われてみれば、かって南蛮と呼ばれたルソン等の島々、シャムと

呼ばれたタイ、そして早くから英国の植民地となって開けていたインドは、何故先進

国になれなかったのか...

  あの、明治の開国まもない我が国が、日清戦争、日露戦争と勝ち進み、たちまち

世界有数の列強国になったのは、まぎれもない歴史的事実です。しかも奇跡は、太

平洋戦争の敗戦後に、再びおこりました。あの全てを失った焦土の中から、日本は

再び経済大国、技術大国として、奇跡の復活を成し遂げたのです。

  その結果、現在の世界情勢下では、アジアの中で唯一、また有色人種の中でも

唯一、日本だけが自他共に認める先進国となっています。

 

  さて...私が心配するのは、これらは全て過去の遺産だということです。これら全

てが、先人の“情熱”と“バイタリティー”と“勤勉”の成果だったということです。この

上に胡座をかいていては、日本は数年を待たずに先進国から脱落してしまいます。

日本はファンダメンタルズ(経済の基礎条件)がしっかりしているから大丈夫、と楽観視し

ている人々もいますが、私は事態は深刻と見ています。それは何故かというと、民

主主義と文化の両面で、真空現象が起こり始めているからです。つまり、経済的に

はファンダメンタルズはしっかりしているかもしれませんが、国家のソフトウエアーの

面、民主主義と文化のファンダメンタルズは、まさに壊滅状態に陥っています。

 

  あの、かっての日本の伝統精神や伝統文化は、何処へ消えてしまったのでしょう

か。また、それに匹敵する、新しい精神や文化は何処に存在するのでしょうか...

この活力の消えうせた民主主義や文化では、経済のファンダメンタルズなどはたち

まち雲散霧消してしまうのではないでしょうか。むしろ、

 

  “貧しくても、心豊かに...”

 

というのが日本人の本来の理想の姿だったのではないでしょうか。それが、今では

日本人としての本音の部分にまで、貪欲な商人魂が居座ってしまっているようです。

むろん、商人は商人魂でいいのですが、政治家や文化人までというのはどうでしょう

か。

 

  < ここの推理は重要なので、もう1つ別の角度から眺めてみることにします.....>

 この現在の日本の姿というのは、“お大尽の家のドラ息子”といった状況にたとえ

られないでしょうか。金もあるし、ファンダメンタルズもしっかりしている。しかし、親は

何故か心配がいっぱいという.....

  何故、心配なのでしょうか。時代劇でもお馴染みなように、こうしたケースでは、大

概家は潰れてしまうのでは.....

 

  さあ、この期に及んでも、まだ日本は笑いながら、“甘えの構造”にぶら下がって

いるつもりでしょうか.....

 

 

 (3) 愛着の持てる国家に         

 

  そういえば、最近の日本人は、顔つきが悪くなったといいます。また、かっての高

度経済成長をしていた頃の日本人は、目が輝いていたとも聞きます。

  それじゃあ、今はいったいどうなんだというと、どうやら“ドラ息子”の雰囲気が当て

はまるようです。これでは、ファンダメンタルズが多少しっかりとしていても、とてもこ

の国の将来に期待が持てません。まさに、今、何とかしなければ、日本は確実に二

流国、三流国へと衰退して行ってしまいます。

 

 では、どうしたらいいのか..... まあ、顔つきのことを言われても、急にはどうし

ようもありません。したがって次にできることは、しっかりとした社会システムを構築

して行くことだと思います。まず、この国に生まれてきて良かったと思える社会。誰に

も機会が平等な、公明公正な社会の構築にある思います。このことが実現されてい

るなら、国民は殆どあらゆることに耐え、この国家を愛して行くことができます。ところ

が、これが逆の場合、国民はいかに国が豊かであろうと、国家への愛着は湧いてこ

ないものと思います。

 

 

  ところで、日本の政治家はどうなのでしょうか。こうした公明公正な社会の実現の

ために努力をしているのでしょうか。私が思うに、どうも政治家は逆のベクトル(力と方

向)を使用しているように思えるのですが.....

  例えば、利益代表、利益誘導、利得斡旋などという考えが大っぴらに闊歩してい

るようですが、これは社会の不平等を助長しています。保育園の入学や就職にまで

議員が口を挟むし、病気で入院するにも有力議員の口利きがあった方がいいと聞き

ます。では、それを頼めない人々はどうすればいいのでしょうか。結局、何らかの形

で差別を受けることになるわけです。また、そこから生まれてくる特権意識や特権階

級というサークルも、社会をますます不透明で愛着の湧かないものにして行きます。

 

  つまり、こんなことを主要な政治活動としているとなると、まさに本末転倒というこ

とになります。こうした政治家や、こうしたことを許している政党は、“国民主権”の時

代の21世紀には不要な存在となります。私達はよくよく考え、それが不条理なもの

かどうかを情報公開して討議し、排除すべきものは大胆に排除して行かなければな

りません。むろん、入学や就職に議員の口利きを頼み、特権意識を持つような人々

も、まず社会の側が排除して行かなくてはなりません。つまり、そんなことを頼んでも

何にもなりませんよということを、実践して行かなければなりません。そうなれば、政

党の方も当然変わっていくと思います。

 

 

 (4) 公平公正に評価する、国民的な社会システムの確立を

                

  これは政治や行政だけでなく、文化そのものについても言えることです。広い意味

での文化や芸能の世界でも、最近は二世の姿が目につきます。例えば、一般人に

はなかなか狭き門の芸能の世界も、二世ならフリーパスと言う事でしょうか。これも

政治家の二世議員と同じように、どうも感心できません。むろん、しっかりとした芸や

思想があるのなら、何の異存もありません。しかし、マスコミも含めた業界もたれ合

いの文化、既得権/特権階級の形成というのでは、社会全体が夢をなくしてしまい

ます。すでにこの日本がそうであるように、国家の文化そのものが急速に衰退して

いってしまいます。

 

  さて、ここで必要なのも、やはり情報公開と、国民意識の高まりでしょうか。文化

や芸術などの分野では、投票やオーディションを徹底し、国民や市民の支持を得るこ

と。そうした社会との一体感が、今の日本には何よりも必要なのではないでしょう

か。

  例えば、一般人が殆ど見た事も聞いた事もないような歌舞伎役者が、何故か毎年

文化勲章を受けるのも、奇異な感じがします。また、本人も言うように特段変わって

いない女優が、天から降ってきたように勲章授与に値するというのも、どうにも違和

感があります。一体、こんなことを誰が決めているのでしょうか。何故、どうして、そん

なことが言えるのか、キチンと説明して欲しいと思います。

 

  つまり、それが納得のいくものなら、むろん何の異存もないわけです。これは二世

議員にしてもそうですし、二世芸能人にしてもそうです。真にその力があり、ふさわし

い人ならば、まさに大歓迎といったところです。しかし、そのためにも、私達は社会

のあらゆる場面で、“公平公正に評価する、国民的な社会システム”を必要としてい

ます。この国の政治、行政、文化、あらゆるものが権威を失っているのは、それが国

民の支持を得ていないということに尽きると思います。

 

  そこて゛、例えば分化勲章なら、どの省庁のどの部署が扱い、誰が担当したのか

を明確にすべきだと思います。また、どのような団体から推薦があり、どのような候

補の中からそれを選抜したかも、その過程も含めて公表すべきだと思います。そう

なれば、おのずと国民の関心も集まり、勲章の権威も高まるのではないでしょうか。

国民が見ていて、明らかにおかしいような文化勲章では、国家の信頼性が問われま

す。

 

  また、オーディション、写真、映像、絵画、文学作品の選抜や授賞でも、その審査

の過程は原則的に全て公開にすべきだと思います。そして、不正を排除し、あらゆ

ることを明確にしていくことが、何よりも大切だと思います。

 

  また、こうした文化を担う各分野・各団体の公開度や質を格付けし、ランキングを

公表していくのも一考に値します。この様なシンク・タンクなら、インターネット上で無

数に出来るのではないでしょうか。また、こうした選考の業務そのものを、信頼の出

来るシンク・タンクに依頼するのも面白いかもしれません。

 その上で国民に作品の募集を呼びかければ、日本の文化もたちまち活性化してい

くように思います。そして、これもまた、文化の面での“国民主権の確立”であり、平

成の新・民主主義のスタートになるものです。

 

                (政治における“国民主権の確立”は、こちらへどうぞ)                       

 

 

 (5) 21世紀平成・民主主義へのスタート

 

  21世紀へかけて、日本は“平成維新”となる国家大改造が急務となっています。

この今、未曾有の国難と言われている世紀末、我々はまさに“明治維新”や“昭和

維新”の、情熱とバイタリティーと勤勉を必要としています。

 

  明治維新とは、下級武士が引き起こした、“武家社会の破壊と富国強兵の革命”

でした。そして敗戦後の昭和維新は、日本の“産業構造的な経済の革命”でした。

本来この昭和維新は、新しい社会的パラダイム/民主主義の革命となるべきステ

ージだったのです。しかし、日本ではそれが占領軍によって植え付けられたことも

あってか、その民主主義の本質部分が見事に欠落し、形骸化が進みました。

  思えば、それから半世紀が過ぎようとしているわけです。そして、国民もようやく、

日本の民主主義は何処かおかしいのではないかと気づき始めました。

 

  この国家の大改造...平成維新...平成の新・民主主義は、“国

民主権”の立場から、国家・社会全体を再構築していくことから始まり

ます。さあ、とりあえず、スタートです!

 

**************************************************************

 

  政治/行政/マスコミ.....         

  このどれ1つをとっても、これまでのように技術的に抜本改革していくとなると、莫大なエネルギー

を必要とします。あるいは、ほとんど不可能なのかもしれません

  しかし、これほどの困難な課題も、“国民主権”の立場から再構築していくのは、比較的容易で

す。ただ、注意すべきことは、多数の暴走ということでしょうか。

  多数が必ずしも正しくはなく、正義でもないということはしばしばあります。最近よく耳にする“いじ

め”などは、規模は小さいですが、その典型的なものです。このあたりは、法的にも、平成・民主主義

の熟成という観点からも、十分に見守って行く必要があります。

 

 

  難しい課題なので、執筆には大変苦労しました。書き足りないこと、推敲

が不十分なところもあるかと思います。その点は、どうかご容赦ください。

             

                              執筆担当: 津田 真

             

 

  

                                          No.12      (1999.5.4

                                          <平成維新の標準目標 No.5>

     日本に残った最後の身分格差、

                “官”と“民”の差別解消を       


   
プロローグ        

  この平成の大不況・大失業のもとで、“官”と“民”の労働環境の格差が、益々開

いてきました。本来、この大混乱の原因は、“官”の側の失政や、硬直化した体質に

ありました。しかし、その彼等自身に危機意識が薄いといわれます。何故かと考え

てみれば、官公庁では、努力をしなくても一定の身分は保証され、給与も極めて安

定しているからでしょうか。

  一方、“民”の方は、自分自身に何の落ち度もないのに、“官”の失政や金融不祥

事のあおりをまともにくらっています。そして今まさに、未曾有の大不況、大失業時

代、就職氷河時代と、暗い嵐が吹きまくっています。現在の日本のモヤモヤした不

満や不信の一端は、まさにこうした不条理な社会構造そのものに原因があるのでは

ないでしょうか。

  この同じ国、同じ市町村で働きながら、何故これほど労働環境に格差があるので

しょうか。これほど“官”と“民”とが違うとは、一体どういうことなのでしょうか。ここま

で来ると、もはや意識の面でも、“身分が違う”ということが明白になってきます。

 今、日本が進めている平成維新の大改革において、この官・民の“身分”の格差解

消も、ぜひ早期に実現すべき課題と考えます。おそらく、この官・民の“身分の平等

化”で、社会が平坦になり、今後の行政機構の大改造も、きわめてスムーズに進む

ものと思われます。

  そのためには、まず官公庁の中に、民間の知能と技術を導入するパイプを太くす

ることだと思います。こうして民間活力を持ちこみ、風通しを良くし、行政機構全体で

数段の能力アップをはかる必要があります。このぐらいしなければ、21世紀に予想

されるハイレベルの複合的な危機に対処できないのではないでしょうか。むろん、不

要な人材は評価を下げ、民間並の解雇も考えるべきです。こんなことを言うと、すぐ

に弱者のことが引き合いに出されそうですが、ともかく官も民も、原則はフラットだと

いうことです。弱者のことは、大局ではなく、別に対処を考えれば良いことです。

 

 

 (1) 官僚の危機意識の欠如      

 

  石原・新東京都知事が、就任後の記者会見でこんなことを言っていました。(テレビ)

 

“都庁の役人と初めて会合を持ったが、彼等はどうにも危機感というものが希薄だ。

都の財政状態が、まさに危機なんだという事を、肌で感じ取っていないようだ...”

 

     なるほど...

           やっぱり...

 

  という感じがします。なんと言っても、この大不景気・大失業時代にあっても、公務

員は全くその影響を受けていないのですから。しかもその元凶は、大蔵省の護送船

団方式の金融政策の失敗であり、前内閣の失政にあったのです。そして今、何より

も求められているのは、行政にかかわる規制の撤廃、及び緩和です。

  しかし、その肝腎の彼等に、危機意識が希薄なのです。まさに、全国各所で環境

破壊問題が起こり、放漫行政によって自治体の財政がパンクしているのに、誰にも

責任がないというわけです。大蔵官僚にしても、大不祥事を起こしても、政策的な大

失敗を何十年と続けても、ほとんど罪にも問われなければ、責任も問われないので

す。いや、それどころか、

“よく仕事をした”

 ということで、この大不況・大失業時代の中で、タップリとボーナスが出ているので

す。しかもそれは、我々の税金というわけです。こんな矛盾した、皮肉なシステムが

温存されていいものでしょうか。国民はもっと怒るべきであり、もっと継続的に責任を

追及すべきです。

 

  “無気力の心理学”によれば、何もやらなくてもある程度の生活が保証されれは、

人は無気力になっていくといいます。今、日本の“官”の社会をおそっているのは、こ

の無気力なのではないでしょうか。また、つい最近まで、東西の軍事ブロックで覇権

を争っていた共産圏が瓦解していったのも、まさにこの官僚社会の無気力だったの

です。

  したがって、すでに閉塞状況に陥っている日本の官僚社会にも、早急に民間活力

を導入しなければなりません。放置すれば、やがて日本もあの国々のように、急速

に社会体制そのものが崩壊していくことになります。

 

  さて、一方、“官”の失政のあおりをくらった民間の方を、もう一度眺めてみます。

こっちの方は、同じ無気力と言っても、やり場のない無力感が漂っています。そして

事態は、修羅場と化しつつあります。貸し渋り、リストラ、倒産...そして、いよいよ

大企業でも、本格的な整理再編が始まろうとしています。

  役人も当然こうした事態を横目で見ているわけですが、全般的に危機感が薄いと

はどうしたわけでしょうか...まさに、彼等の意識は、官僚的無気力に占領されてし

まっているのでしょうか...

  繰り返しになりますが、構造的とはいえ、ここまで加害者と被害者といった様相が

出て来ると、公務員と民間のサラリーマンとは、明確に“身分”が違うと言わざるを得

ません。しかも、官公庁の公費の乱用や情報の非公開の体質は、まさに支配者の

“身分”を感じさせるものです。

  しかし、この国の主権者である国民は、そんな支配階級を雇った覚えは全くない

のです。いやしくも、国民が直接何らかの仕事を依頼したのは、あくまでも選挙で選

出した代議員と首長のみなのです。つまり、“官”と“民”という身分格差が生まれる

ような人達を雇った覚えは、全くないということです。

 

( ちなみに、青島・前東京都知事の退職金は、4300万円余りとか...都民の感覚

からして、一体どのような計算をすれば、こんな膨大な退職金が計上されるのでしょ

うか。在職は4年間ですから、1年間で1000万円以上という計算になります。しか

も、その他にボーナスも出ているわけです。そして、やった仕事の評価は、都市博の

中止だけとは...一体こんな調子で、都職員にも給与やボーナスを支払っているの

でしょうか。まさに、有り余る財政で、金庫が札束で溢れんばかりの自治体のように

見えるのですが...)

 

  それから、危機意識の欠如ということでは、薬害エイズ問題が典型的でした。ま

た、ヨーロッパと比べて10年から15年も遅れたといわれる、ダイオキシン対策問題

もあります。これとても、10年以上も承知の上で放置していた、厚生省の責任はどう

なったのでしょうか。この間、厚生省は国民のことは考えず、産業界の利益だけを考

えていたのでしょうか。

 さらに、あの阪神淡路大震災時の危機管理の無策ぶりも、記憶に新しいところで

す。燃え盛る火の海の脇を、避難する車の渋滞が延々と続いているのには、ハラハ

ラさせられました。また、何故、ヘリによる消火をしないのかと、ヤキモキもしました。

  他にも、原子力関連事業の事故や、それに絡んだスキャンダルの数々も、明らか

に危機意識の欠如が招いたものでした。

 

  これらのいずれの場合でも、責任の所在を明確にし、責任と権限が表裏一体とな

る行政スタイルの確立が急務です。国民は、こうした行政の危機意識の欠如や空洞

化を、機敏に肌で感じ取っています。そしてそこから、行政に対する不信感が醸成さ

れています。

  今、官僚機構が成すべきことは、自らの保身ではなく、全てを開示し、国民と一体

となり、国民の信頼を回復することではないでしょうか。そしてそれには、民間との格

差や距離、身勝手な身分意識の違いを捨てることから始めるべきです。

 

 

 (2) 身分制度廃止の歴史・・・      

 

  遠い昔...この国の官僚とは、貴族や公家だったのでしょうか。それから徳川幕

藩体制の時代になり、役人は士・農・工・商という明確な身分制度のうちの士、つま

り武士階級の独占となりました。この武士階級は、いわゆる軍事力でもあり、文化は

文武両道として栄えました。このあたりに、近代日本人の精神的なルーツとアイデン

ティティーがあったのでしょうか...

  そして、ご存知のように明治維新となり、武士階級そのものが崩壊します。また、

身分制度もなくなり、全てが平民となります。が、それ以後も、日本の社会に残った

いわゆる“部落民”を、新平民として統合します。この時、同じ平民として統合してこ

そ意味があるものを、なぜか新平民として統合するという不手際がありました。そし

てこれが、つい最近までしばしば耳にしていた、部落解放運動として残ったわけで

す。

 

  さて、ではこれでこの国は、全ての身分差別がなくなったのでしょうか。私は最初

に述べたように、どうも現代社会に至っても、“官”と“民”という2つの身分制度・身

分格差が残ってしまったように思っています。

 

  “官”の“民”に対する不信感は、根深いものがあります。郵便を民間に任せて大

丈夫かとか、学校給食を民間に任せて子供は大丈夫かとか...その他、あらゆる

検査や許認可でも、そうした感情はあるようです。一方、“民”の方も、権力者として

君臨した“官”に対しては、歴史的な反感と不信感を持っています。これが、もはや

本能のようになり、体質の中に深く染み込んでいる人々もいます。

 

  私は、平成維新の大改革の中で、日本の社会に残った身分制度の最後の残

滓...この、“官”と“民”の格差も、きれいに解消されて行くべきだと考えています。

そしてこれを越えた時、日本の民主主義は新しいステージへの第1歩を踏み出すの

ではないでしょうか。

 

  むろん、行政機関や公務員の仕事を、全て民間と同じにしろと言っているのでは

ありません。それぞれ、仕事の性質が本質的に異なるものもあり、民間へ移行でき

ないものも多く残ります。しかし、特殊な仕事を除いては、“官”と“民”との垣根を低く

設定し、人事交流を活発にし、労働環境としても民間とフラットにして行くべきだとい

うことです。本来、現憲法下では、身分の格差は、何の根拠も無いものなのですか

ら...

 

 

 (3) 諸悪の根源       

 

 かって、“諸悪の根源”という言葉がはやりました。あれはたしか、権力機構と癒着

した総合商社のことだったでしょうか。しかし、平成の大改革を必要としている現在、

日本の社会を停滞させている諸悪の根源は、公務員の終身雇用制を中心とした、

その“身分”にあると考えます。この安楽で活力を減退させる身分制度が、現在の日

本社会における改革勢力と、ことごとく対立しているのではないでしょうか。

 

  官公庁では、“学歴社会”、“年功序列”、“終身雇用”と、まさに今改革を要求され

ているほとんど全てが、金看板のように残っています。まずは、この真正面にある公

務員制度の金看板を下ろさないことには、この国の真の行政改革は始まらない様に

思います。すでに一般社会では、これらの古い雇用形態は崩れつつあると聞きま

す。むろん、良い面と悪い面は表裏一体のようにあるわけです。しかし、すでに時代

の大勢は、よりダイナミックな方向へ決しています。また、官僚社会の無気力を打破

するためにも、こうした硬直的な雇用形態は、早急な是正が必要です。

 

  もっとも、こんな“身分”のことを言えば、既得権を持つ関係者は、激怒するかもし

れません。しかし、繰り返しますが、この程度のことは、市場原理で動く民間では当

たり前のことです。都職員の削減でも、青島・前都知事の言葉を借りれば、

 

“生首を切るようなもので、とても出来ない”

                                 ( 都知事退任後、テレビで、 )

 

 といいます。そして削減を実現するには、定年で退職した人の補充をしないことだ

とも言っていました。むろん、これは本音の発言であり、ひとつの妥当な行政テクニ

ックなのだと思います。

  しかし、まさにここに、“官”と“民”の身分の違いというものが、如実に表現されて

います。つまり、民間では、それこそ100万人もの生首が切られている現実がある

にもかかわらず、都の職員ではそれがかわいそうだから出来ないと、平然とテレビ

で発言しているわけです。この一事を見ても、青島・前都知事には、やはり庶民の声

はあまり届かず、

 

“都職員の言っていることは、実によく分かる”

 

  という状況だったのでしょうか。また、そんなことを言っても少しも違和感を感じな

いほど、“官”と“民”との間には、“身分の違い”が歴然としていたということでしょう

か。

 

 

 (4) 高度化する社会と行政機構   

 

  それにしても、社会がきわめて多様化・高度化しています。今のままの公務員の

採用・教育・意識程度では、この国の運営に支障をきたす部分が益々増大してきま

す。

 

      高度化する産業の分野で...

     最先端科学技術の分野で...

     宇宙開発の分野で...

     環境や厚生医療の分野で.....

     多様化する複合的な危機コントロールの分野で.....etc

                                     

  たとえば、あのエイズにおける危機管理対策ひとつをとってみても、まさにあの有

様でした。しかもその後も、エボラ出血熱をはじめ、この種の危機の社会的なポテン

シャルが、日増しに増大しているのです。したがって、この種の国家的危機のコント

ロールも、それこそ次元の違うレベルで再構築していく必要があるように思いま

す。21世紀は人口増大や文明の加速化で、まさにSF映画のような危機が、多元的

に現実化する世紀なのですから.....

 

    さて、私は“官”と“民”の本質的な違いは、高度なモラルと高い国家意識にあると

考えてきました。ところが、大蔵省の構造的な不祥事が象徴的に示すように、国民

は官僚のモラルの低さに嘆いています。また、国家的な危機意識の低さにも、国民

は怒りを爆発させています。少なくても、その職務や任務の本質において批判を受

けるようであれば、公務員たる者はその職を辞すのが本筋ではないでしょうか。その

公僕たる精神性の高さのみが、その職責の大半を占めているのですから...

  しかし、辞任もせず、行状も改めないとなれば、行政機構が動脈硬化を起こし、国

家そのものが崩壊してしまいます。ここはどうあっても、官僚社会の中に民間活力を

導入しなければなりません。また、21世紀社会の建設という意味からも、“官”と

“民”の身分格差を解消し、国家を再生していかなければなりません。

 

  この“官”と“民”の身分格差は、歴史的な流れからしても、この平成維新の中で

解消していくべき課題と考えます。

 

                            執筆: 津田 真

************************************************************

 

  今、日本の官公庁は、学歴、年功序列、終身雇用制が主流にあり、民間との人

事交流はきわめて細いのが実態です。また、“お役所仕事”と批判されるように、高

給の割に仕事は楽というのは本当だと思います。さらに、自治体によって多少の格

差はありますが、雨が降れば“雨天手当”、窓口を担当すれば“窓口手当”、冬にな

れば“寒冷手当”というように、民間では考えられないような、

バカらしい

手厚い手当てがあることが知られています。しかし、これらはみんな私達の税金か

ら支払われているのです。何故、こんなことになっているのでしょうか。

  いつか、テレビの対談で誰かが言っていました。“役人たちは、自分たちで勝手に

法律や文書を作り、こうなっている。だから、しょうがないじゃないかと言う”と...ま

あ、こうは言っても、役人だけで法律を作れるわけではありません。議会で法案が通

らなければならないからです。では、市民の代表である議会のチェック機能が働いて

いるかというと、必ずしもそうでないところに問題があるわけです。第一議会がしっか

りしていれば、納税者が呆れるような“雨天手当”、“窓口手当”、“寒冷手当”などと

いう法案が通るはずがありません。一般市民はみんな、そんな手当など無しに働い

ているのですから。   ......(自治体によっては、一部是正されているものもあるようです)

                         

  また、地方自治体が様々な事業を展開し、そのほとんどが赤字になっている実態

があります。しかも、単なる赤字というよりは、自治体が倒産するか、パンクしてしま

うほどの赤字です。いったいこんなことをしてしまった責任を、誰が取ったのでしょう

か。むろん、実際には誰も責任を取っていません。指導実行した首長や議員、そし

て役人は、実質的な責任を負うこともなく、たっぷりと給料とボーナスを貰っていま

す。ここは少なくとも、担当者の給料の大幅カット、ボーナス無しは当然だと思いま

す。また、行政的な処分としては、降格や懲戒解雇まであってしかるべきです。こん

なことは、民間では当たり前のことですから。しかし、自治体ではそれが全く成され

ていない所に、民間との“身分”の違いを感じさせます。つまり、“殿”は、何をやって

もお構いなしという事でしょうか.....

 

  さて、官公庁の給与等に関しては、人事院が担当しています。しかし、これとて

も、民間の側から見れば納得の出来るものではありません。赤字の自治体では、当

然ボーナスのカットぐらいはあってしかるべきです。そもそもボーナスは、民間で利

益の上がった会社が行うべきものであり、非営利の公務員が率先してボーナスをも

らうというのには、違和感を感じます。まして、不祥事を起こした大蔵省や防衛庁の

担当者にボーナスが出るというのは、本来の趣旨に反しますし、国民感情を逆なで

するものです。何故そこまでして、不祥事を起こした彼等に、ボーナスを支払う必要

があるのでしょうか。

  もっとも、汚職で議員辞職勧告の出ている国会議員にも、ボーナスが支給される

お国柄です。何故、こんなことが今も放置されているのでしょうか。こうしたことが、ま

さにこの国を、モラルハザードという社会的な大混乱に陥れているのではないでしょ

うか...

 

  いずれにしても、これらは全て“官”の側であって、

                         民間では考えられないことです...

 

 

                                       No.13      (1999.10.29)

                                    <平成維新の標準目標 No.6>

 

   国民による、国民のための、国民の国家を

                             

    <1> 主権者の決断              

 

  日本は今、未曾有の国難に直面しています。

 

  まず、政治は国民の信頼を失い、既得権の確保に汲々としています。自らが決

議した企業献金・団体献金の禁止を反古にし、さらに国会を2世議員、3世議員、

官僚OBで独占しつつあります。このような日本の最高意思決定機関が、いったい

何をやっているでしょうか。それは、まさに現下の社会状況が如実に示しているの

ではないでしょうか。つまり、経済の破綻、文化の破綻、モラルの破綻、教育の破

綻...これは一口で言えば、日本という国家の衰退そのものです。しかも、この状

況に至ってもなお、金権体質の政治からの脱却を図ろうという意思はないようで

す。ここは、いよいよ私たち主権者である国民が、大きな決断をしなければならな

い所に来ています。

 

  一方、マスコミは目先のエゴに縛られ、国家戦略を見失っています。ほんらい文

化の伝達者であるマスコミが、この国の文化の創出にまで突出し、その著しい能

力の欠如をさらけ出し、国民をシラケさせています。マスコミは文化的な支配者で

あることをやめ、タレントであることをやめ、もとのメディア本来のスタンスに戻るべ

きです。かっては、それでうまく行っていたのですから、まずそこまで撤退し、来る

べき21世紀のマスメディアの姿を模索して行くべきではないでしょうか。

  やはり、国民が真に望んでいるのは、謙虚で勤勉で、粘り強い社会正義を貫くメ

ディアの姿ではないでしょうか。品位や権威というものも、そうした中で自然に醸成

されてくるものと思います。また、そうした中から、努力や勤勉、誠実さや社会正義

といったものが再評価されてくることを期待します。

 

  国民の忍耐も、そろそろ臨界点に達しつつあります。そして、この国民の改革志

向のエネルギーが一つの方向に結集した時、いよいよ平成の大改革が流れ出し

ます。この民主主義社会における維新回天とは、まさに国民の“総意”と“熱意”

と“智慧”が作り出す、新しい未来型の日本のシステムです。

 

 

 <2> マスコミ文化の功罪 テレビ         テレビ        

 

  テレビの番組が面白くなくなったと感じはじめたのは、もうずいぶん昔のような気

がします。かっては、時代劇のドラマ、現代劇のドラマ、動画、マンガ、歌謡曲、クイ

ズ等、見ごたえのあるものが連日たくさんありました。ところが、年々見たいと思う

番組が減少してきたのは何としたことでしょうか。そして最近は特に、見たいと思う

番組がほとんどなくなってしまいました。いや、それどころか、見ていてイヤミを感じ

るような画像や番組さえ散見されるようになってきました。いったい、これはどういう

ことなのでしょうか。本来、こんな問題はその分野の人達が考える事なのでしょう

が、いっこうに改善されてきません。現場の第一線の人々は、いったい何をやって

いるのでしょうか...

 

  それとも、問題はすでにもっと深刻な所に来ているのかもしれません。つまり、こ

の国の文化の水準が、すでに衰退し始めているのではないかということです。

 

  先日、ペルーで行われたNHKののど自慢の録画を見ました。そこで驚いた事が1

つあります。歌が、非常にうまいということです。それも、日本の古い歌がただうまいと

いうのではなく、心がこもっていて、本物以上にうまいのではないかと感じたことでし

た。やはり、時間の流れ方が緩やかなのでしょうか。そして、人の心に歌が響く、空間

のあり方が純朴なのでしょうか。

  さあ、それに引き換え、日本の文化的時空間は何としたことでしょうか...本物の

一流歌手が歌っても、聞くに耐えるような歌がろくにありません。これはもはや歌手が

へたくそというよりも、時空間のあり方、文化の流れ方の問題のような気がします。日

本にもかっては、そのような歌声のよく響く、純朴な時空間があったのですが...

 

  それにしても、テレビを見ていると気持ちがイラついたり、腹立たしくなってくるよ

うな時代になってしまいました。野村佐知代さんのいわゆる“サッチー問題”にして

も、その賛否は別にして、マスコミがそんな事をあおっていること事態が不愉快なも

のでした。国家の政治、経済、行政、モラル、教育が行き詰まり大混乱な折に、こ

んなことをやっている余裕はないと思うのですが...こんな所にも、現在のマスコミ

の迷走ぶりを感じます。

 

  さて、少年少女のオヤジ狩りや援助交際、覚せい剤等の蔓延は、すでにこの日

本の国内で常態化しているようです。その上、今年になって奇怪な事件が相次い

で発生し始めています。人ごみで包丁を振り回した殺人事件が2件も発生していま

すし、いきなり子供を殴ったりつねったりするような事件も多発しています。

  このように社会全体が閉塞感に陥り、イラつき始めた要因に、私はこの国のマス

コミ文化が深く関与しているものと思っています。

                                           (この分析は、別の機会に譲ることにします。)

  いずれにしても、マスコミは社会の公器としての役割を前面に打ち出してもらい

たいと思います。そして、もっと積極的に社会の啓蒙に寄与すべきではないでしょ

うか。ワイドショウや、お笑い系のバラエティー、芸能関係の裏話などは、それぞれ

社会的な影響や品位を考慮し、再構成する必要があると思います。テレビ番組も、

よりよい日本の文化を醸成するという、国家戦略を見失うことのないように願いた

いものです。

 

  

<スポーツニュースと芸能ニュース>

 

  ついでに、もう少し、テレビ批判をしたいと思います。テレビのニュースを見ている

と、スポーツニュースと芸能ニュースというのを毎日やっています。これがなかなか

不愉快なものを含んでいます。まず、スポーツニュースというのが、ほとんどプロ野

球のニュースを中心に組み立てられているというのがどうにも納得できません。こ

れは、NHKでさえもそうです。しかも、民放となると、毎年シーズンオフの冬になっ

ても、プロ野球のニュースをやっています。これはもはや、視聴者を愚弄しているに

等しいのではないでしょうか。冬は冬のスポーツがしっかりあるわけであり、冬のス

ポーツを中心にスポーツニュースを製作すべきです。

 

   <こんなことを、何故、私のような者が、あえて言わなければならないのでしょうか...>

                  

  それからもう1つ、スポーツ選手や芸能人の男性女性関係や、家族の話を聞か

されるというのも、好感度が半減してしまいます。スポーツにはスポーツマンシップ

があり、芸能には芸能の王道というものがあるはずです。そうした男女関係の話や

家族的な内輪の話は、専門雑誌やインターネットのホームページの方に譲るべき

ではないでしょうか。かってのテレビ番組は、こんなことをあえて言わなくても、きち

んとメリハリをつけていたはずです。それが何時の頃からか、何もかもがごちゃ混

ぜになってしまっています。しかし、そうかと思うと、一方ではスポーツといえば、プ

ロ野球ニュースしかないといわんばかりの取材構成です。何故、こんな幼稚なこと

になってしまったのでしょうか。まるで、全体構成が、アマチュアの域にまで退化し

てしまっています。

 

  いずれにしても、この国のスポーツの振興を図るのなら、スポーツマンシップの

精神で、あらゆる分野のスポーツを取り上げるべきです。それも、プロスポーツばか

りでなく、アマチュアのスポーツも取り上げるべきです。プロ野球に特化したマスコミ

のこのような横暴に対し、なぜ各方面のスポーツ団体から声が上がってこないので

しょうか。私たち国民は、マスコミに対しても、もっと声を上げていくべきです。ある

いはそれが通じないのなら、もっと直接的な行動で訴えて行くべきです。プラカード

なり、デモ行進なり、決起集会なり、あるいはインターネットを使うなり、方法はいく

らでもあると思います。

 

  それから、公共性の高いニュース番組の中に、芸能ニュースを組み込むというの

も、ニュースの権威を著しく低めてしまっています。しかもその芸能ニュースの内容

は、アイドルタレントの話題や、スキャンダルやゴシップの類です。これは、故意に

この国の伝統文化を破壊しようとしているようにさえ思えます。

  私などはそうした話題になると、チャンネルからチャンネルへ逃げ回っている始

末です。しかし、常にそうなのですが、各局が同じ芸能ニュースを流していて、結局

逃げ切れるものでもないのです。いったい何故、逃げ場もなく、そんなアイドルの裏

話を聞かされなくてはならないのでしょうか。繰り返しますが、この種のものは、こ

れまでもそうであったように、週刊誌やスポーツ新聞、あるいは専門雑誌やインタ

ーネットのホームページに任せておくべきです。

 

  さて、現在のように、日本の社会や文化全体がおかしくなってしまった時、私達

は過去の良かった時代を振り返ってみるべきです。そして、まず、その良き時代の

規範に、一度たち帰って見るべきではないでしょうか。

  国家が混乱した時、社会全体が道に迷った時、私達にはどっさりと日本文化の

伝統と歴史という教科書があることを再認識すべきです。そして、そうした歴史の

中から最善の方策を学び、新たな歴史の1ページを創出していくことに心血を注ぐ

べきです。

 

  むろん、これは私見ですが、芸能ニュースの代わりに科学産業ニュースや、教育

勤労ニュース、あるいは海外協力隊ニュースなどに切りかえていくのも一考かと思

います。まず、このあたりから、日本のテレビ界の視野を、国家や教育や文明の創

造に向けて行ってほしいものと思います。

 

  何時の頃だったか、日本人が勤勉過ぎるのを批判し、遊びも評価すべきだとい

う意見が多く出た時代がありました。ところがそうした反動からか、最近の日本の

文化は、逆に勤勉や努力、あるいは社会正義というものが、ほとんど評価されてい

ないのではないでしょうか。これがまさに社会が目標を失い、舵が効かなくなった

元凶のように思います。やはり、人間社会におけるドラマや感動は、勤勉や努力、

誠実や社会正義の中にこそあるのではないでしょうか。

 

  日本のマスメディアが、日産自動車のような大改革を断行することを願っていま

す。

 

 

 <3> この国の形と、国民主権の座標        

 

“マスメディア”は、企業としての経済の原理で動いているのか、

        それとも、国家を形成する文化の原理で動いているのか...

 

  むろん、この両方のベクトル(力と方向)で動いているわけです。しかし、どちらにより

比重があるかということが問題です。それからもう一つ、このシステムは、誰のもの

かということです。つまり、企業の株主の持ち物なのか、国民のものなのかという

視点です。この力点の置き方で、マスメディアのあり方も大きく変わってくると思い

ます。

  また、 同じように、

 

“医療や福祉”は、経済の原理で動いているのか、

        それとも、国民の健康と豊かさの原理で動いているのか...

 

  これも、国民の健康と豊かさの原理で動いているのであれば、当然現在の医療

システムは、

 

“対処医療”から.....“予防・健康管理型医療”.....

 

へ転換して行ってしかるべきです。それからもう1つ、忘れてはならないのは、

 

“政治や行政”は、利権や既得権で動いているのか、

       それとも、民主主義と国民主権の原理で動いているのか...

 

  結局、マスメディアは誰のものなのか医療や福祉のシステムは誰のものなの

政治や行政のシステムは誰のものなのか、ということです。私達は今後、ここ

をしっかりと見据えて決断していく事が肝要です。むろん、日本は国民主権の国

家であり、全ては主権者である国民が決定する権利を保有しています。

  したがって、私たち国民の側も、その意思と方向を常に明確に打ち出し、社会全

般のシステムを再構築していく必要があります。結局、この日本の国を良くしていく

のも悪くしていくのも、主権者である我々国民自身の自覚にあるのではないでしょ

うか。

 

  何時の時代でも、何処の国でもそうなのですが、政治に無関心であるというの

は、社会を混乱させ、腐敗させる元凶です。一方、一人一人が高い自覚を持つ社

会や国は、それそのものが素晴らしい理想郷となります。また、一人一人が高い

自覚と能力を備えた軍隊となれば、それはまさに最強の軍隊になります。

  つまり、何が言いたいのかといえば、今の日本も、一人一人が社会や国家に関

心を持ち、自覚ある行動をとっていけば、たちまち理想の社会や国家に改造できる

ということです。

 

  今日、10月29日から、1999年最後の通常国会が始まります。私たちは国民

主権の立場から、各党の誰が何を言っているのか、誰にこの国の政治を託せるの

かを、しっかりと見守りチェックしていきたいと思います。また、自民党の主張する

企業献金・団体献金の継続を、主権者である国民が認めるかどうかも決断が迫ら

れています。

  が、しかし、もしここで日本の政治が金権体質から脱出できなければ、社会は全

ての規範を失い、大混乱に陥ります。ぜひ、この20世紀の最後に、イギリス並の

大政治改革を断行し、21世紀の子孫のためによい国の形を残したいものです。激

動の20世紀でしたが、この社会改革こそ、私達20世紀の大人がやっておくべき

最後の大仕事なのではないでしょうか。

 

  さて、このあたりから、平成維新の大車輪がゆっくりと回り始めているのを感じて

います。これではいかん、と国民全体が思い始めた時、その思いはすでに臨界点

に達しています。そして、その思いが1つの方向へ動き始めた時、その流れは維

新天回へと加速して行きます。明治維新、そして敗戦後の昭和維新に続く、3度目

の国家大改造の流れです。しかし、これが大変な難事業だと思う必要はありませ

ん。主権者である国民全体がその気になれば、いとも容易に実現する総意となる

のです。あとは、その大改造の流れを、注意深く、しっかりと監視して行く事です。

 

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  さあ、私達は21世紀の日本を、

                どのような国家にしたいと願っているのでしょうか.....