仏道正法眼蔵・草枕全機

                                                                                                                      ・・・ 正法眼蔵・U部 ・・・ 

       全    機     (ぜんき ・・・ 普遍的自己 ・・・    

 

                               
              

  トップページHot SpotMenu最新のアップロード              塾長 :   高杉 光一  <2006.3.28 〜 > 

 

 

        リニューアル中 ・・・・・・

 

    INDEX                            wpe54.jpg (8411 バイト)            

プロローグ          ・・・・・ 7年ぶりの再開 ・・・・・    2006. 3.28
No.1 <1> 真理の体験 2006. 3.28
No.2 <2> 実在と夢・・・・物理空間と認知 2006. 4.13
No.3        (1)・・・・・ 局所性の否定  2006. 4.13
No.4       (2)・・・・・ 光あれ!/リアリティーの分割 2006. 4.13
No.5       (3)・・・・・ プランク・スケールと、流体ブラックホール 2006. 4.13
No.6       (4)・・・・・ 実在と夢 2006. 4.13
No.7       (5)・・・・・ 超媒体である命と、人間原理空間  2006. 4.13
                                       推敲/リニューアル 2012. 5.11

       

   プロローグ            

                           7年ぶりの再開  

「高杉光一です。

  久しぶりの『正法眼蔵』になります。最後に“現成公案”の章をアップロードしたの

は、(1998.8.23) となっています。現在、2006年ですから、もう7年以上もの歳月

が流れたことになります...

  当ホームページ開設が、1997年7月 ですから...この《正法眼蔵・草枕》は、

開設直後の頃から書き始め...ちょうど1年目ぐらいの時期に、休止していたようで

す。

  あえて、間を空けたのは、執筆がマンネリ化してしまうのを恐れ、しばらくたってから

再開しようと考えていたからです。少しは、修行の成果、心境の変化があるものと期待

したわけです。

  しかし、この7年間は、ホームページの立ち上げで、実に忙しいものでした。また、確

かにその忙しさもあって、ホームページの方は拡大・充実し、軌道に乗った観がありま

す。

 

  さて...ところが、禅修行成果...禅境深化の方はどうだったのでしょうか。

忙しさにまぎれ、心もとないかぎりです。文明の流れ・・・時代の流れが、これほど急速

でなかったなら...私は他のスタッフと共に、禅に打ちこむ1人の居士(こじ/出家せず、在

野で禅の修業をする者)として、己の禅の境涯を深めることに没頭していたものと思います。

  しかし、ともかく、7年の歳月が流れました。はたして、禅境時間的熟成はあった

のか...私自身も、半信半疑ながら、再び 『正法眼蔵』 と向きあってみることにしまし

た。禅修業の1番弟子である里中響子も、《危機管理センター》の担当者として、私以

上にめまぐるしい日々を送っていたようです。

  しかし、人生とは、このようなものなのかも知れません。長すぎず短すぎずキッチ

とその中に収まるものなのかも知れません。また、それを納得するのが、修行の道

であり、その中途半端もまた、“人生の悟り”なのでしょうか...

 

  ともかく、久々に、“仏道”のページを再開します。このページは、“迷える者の足跡”

師を持たない孤独な私の禅体験に、その存在価値があると考えています。どうぞ、7年

を経た、新展開にご期待ください...」

 

                                      <人間原理・ガイア塾/ 塾長: 高杉 光一>  

 

  <1> 真理の体験     

 

  仏道の究極は、“透脱(とうだつ)”であり、“現成(げんじょう)”である。

  “透脱”とは、生においては生を解脱(げだつ)し、死においては死を解脱することである。

死を離れること、生死に没入することが、いずれも仏道の究極である。また、生死を捨

て、生死を救うことが、いずれも仏道の究極である。

 

<要約>

人間の生き方の究極は、徹底した自己否定と、それによって可能な徹底した自己肯定である。

 

  “現成”とは、生きることである。生きるとは、いまここに、われの生命を実現してい

ることである。それが実現するときには、生命のすべてが現れないはずがなく、死のす

べてが現れないはずがない。

 

<要約>

  一旦、小さな自分を捨ててしまえば、それよりも更に大きな普遍的生命、即ち、命の全体を

体験することができる。

 

(1)・・・・・         

「 さて...“透脱”“現成”の意味は、本文の中で的確に説明されているので、ここ

では形式的な説明は必要ないと思います...

  その上で、“透脱”という、相矛盾する意味の上に成立する概念とは、はたしてどの

ようなものでしょうか?仏教の経典では、このような説明手法が多く用いられていま

す。それは、その真に説明する所が、言語を超越しているからでしょう。2つの概念の

矛盾を超越した所に、“悟りの境地”があり、経典の“学びの本質”があるからです、」

 

 

**********

 

 

 

(2)・・・・・       

      生死を離れ、生死に没入し...生を解脱し、死を解脱する...

 

そこに...どのような人格が析出するのでしょうか。『正法眼蔵』の執筆者/道元禅

は、そこに“仏道の究極”があると言っておられます。そこに、“悟りの境地”があると

いうのです。

  いわゆる仏典は、それこそ仏教文化圏に、山のようにあります。仏教には、聖書(キ

リスト教)コーラン(イスラム教)のような、唯一絶対という聖典はありません。しかし、すべ

てが“仏道の究極”を指し示しています。仏教は、“信仰の道”というよりも、“智慧の道”

と言われるのは、こういう所にも表れています。

  それにしても、これはどういう意味なのでしょうか。私はこれは、“無心に、現在行っ

ている行為・状況に、没頭せよ”ということだと思います。言い換えれば、“そのこと以

外は考えず、その中に深く深く没入せよ”、それが“悟りの境地”を体現するということ

です。

  私たちは、山の頂上に登り...時には、息が止るほどにその絶景に感動します。

その瞬間は、その感動に没入し、それ以外のことは考えません。そうした純粋な混じ

り気のない心が、まさに“悟りの境地”ときわめて近いものです。

  サッカーをすればサッカーに没頭し、他のことは何も考えない。絵を描けば絵に没

頭し、音楽ならば音楽に没頭する。他のことは何も考えず、深く深く没入する。それ

が、“生死を離れ、生死に没入”するということです。そこに、“仏道の究極”が見え、

“悟りの境地”もまた、そのすぐ近くにあるということでしょう。

  しかし、言葉の上での理解は、宝物箱の一番上の、透明なセロファン紙を剥(は)

したようなものです。肝心の宝物は、まさにその中にあります。母親と未分化の赤ん

坊の心/穢(けが)れのない純粋な子供の心/青少年の心は、“悟りの境地”に近い

とは、このような“無心の心”を言うのでしょう。

  一番上のセロファン紙の意味は、大人にとっても同じことです。その下に、幾重も

修行体験を経て、更に幾重もの包みがあるのが見えてきます。そして、宝物箱の

“悟りの言葉”のより深い意味を、より深く理解し、更に深淵な“悟り”の境地へと迫

って行きます。人生の意味は、まさにこの、“真理の体験”の中にこそあるのでしょう」

 

(3)・・・・・      

  “現成”とは、生きることである。生きるとは、いまここに、“われの生命”を実現

していることである。

 

“われの生命”...そして、“命のすべて”...とは、非常に含蓄のある言葉です。

無限の深い意味を持っています。この世とは、何はともあれ、“われの眼”で見た“一人

称の世界”なのです。“君”“彼”という、2人称3人称は、眼前するリアリティー

中には存在しません。リアリティーは、あくまでも1人称“唯心”から見た、“巨大な全

体”なのです。

  小説のように...3人称の、“彼から見た風景”というのは、眼前するリアリティーの

世界には存在しないのです。それは、相互主体性を反映した、フィクション(小説、虚構)

世界でのみ成立するのです。

  では...この世のすべての認識、すべての存在に関わる“我”とは...一体何者な

のでしょうか。“われの命”“命のすべて”とは...一体何なのか。これは、単なる

1生物個体の自我を超越した、はるかに大きな背景...“心の領域”の広野が垣間

見えてきます。

  仏道では、この風景を“唯心”といいます...“唯心”とは、言い換えれば、“ただ1つ

の、不可分な、巨大な全体”です。この巨大な全体には、局所部分というものが存在

しません。だから、不可分な全体なのです。これが、今まさに眼前するリアリティーの姿

であり、現代物理学と共通します。

  さて...リアリティー名詞によって差別化し、動詞で波動させたのが、“言語的亜

空間世界”です。人類は、この“言語的亜空間”に文明を築き上げ、展開しているので

す。3人称の視界が開かれるのは、この亜空間におけるフィクションだからです。その

フィクションの中に住む人間は、まさに相互主体性世界を展開し、豊かな文化を花開

かせているわけです。これもまた、深淵な生命進化構造化の、偉大なベクトルの上

にあることなのでしょうか...

  “物の領域”“心の領域”の統合されたものが...いわゆる“この世の姿”です。

21世紀は、膨大な未知なる領域...まさに“心の領域”の解明が、大いに進むと言

われます。このことが、様々な宗教に及ぼす影響も、また計り知れないものがあると

思われます...」

                                             

    

   <2> 実在と夢・・・物理空間と認知       

 

  このような体験が、生を生としてあらしめ、死を死としてあらしめるのである。このよう

な体験が実現するとき、それは大きいともいえず小さいともいえず、無限であるともい

えず有限であるともいえず、長いともいえず短いともいえず、遠くにあるともいえず近く

にあるともいえない。

  われわれの今の命は、このような体験によってあらしめられるのであり、同時にわ

れわれの命がこのような体験をあらしめてゆくのである。

<要約>

普遍者としての体験は、無我の体験である。そこでは、すべての個的要素が問題でなくなる。しか

し、同時にそれは、生きるという個的な体験によってしか実現されないのである。

 

(1)・・・・・ 局所性の否定     

「上記の言葉の意味は、何べんも読めば、言葉上は理解できると思います。しかし、その真

に意図するところは、何処にあるのでしょうか...

 

         世界が我の体験をあらしめ・・・我の体験が世界をあらしめてゆく・・・

       認識・・・認知・・・そして、この世のストーリイの発現の光景・・・

     絶対一人称/リアリティーの・・・意識/この世の流れとは・・・

 

  リアリティーとは、まさに今...“眼前に展開している・・・ナマの迫真の世界”です。

目の前展開している...“ナマの人間的・風景”のことです。それは、“物の領域”

“心の領域”統合された、“この世の姿”です

  それは...“特別なもの”ではありません。ぐるりと、東西北、上下左右を見渡して

みても...何処にも空間的な切れ目”などは見当たりません。つまり、それは“唯心”

の世界であり、“1人称の・・・ただ1つの・・・不可分な・・・名もなき巨大な全体”なので

す。

  “1人称の・・・私だけが目撃する・・・この世のこの世の迫真・風景”なのです。“最初

から終焉まで・・・だけが見渡す・・・1人称の迫真・世界”なのです。それゆえに、“私

という1人称”を、大切にして欲しいと思います。それは何物にも代えがたい・・・他人

に干渉されることのない・・・無上の絶対世界なのです...」

 

「科学における...

  もっとも深遠な発見と言われる“ベルの定理”は、数学的に“局所性を否定していま

す。それは、量子力学に決定的な影響を及ぼしました。量子力学で言う...“局所・部

分の否定・・・局所原因の原理の否定・・・相補性や参与者の導入・・・”...これは、ど

のような“人間的・光景”を指し示しているのでしょうか。

  直感的には分かりにくいものがありますが、それは...“唯心/リアリティー”...

同一であると、私は理解しています」

 

(2)・・・・・ 光あれ!/リアリティーの分割  

“光あれ!”と最初の言葉が発せられ...そこに“光”という概念が出現しました。

リアリティーから“光”が分離され、名詞による初めての分断が起こります。次に、“天”

“地”という名詞が発せられ、リアリティーから“天”“地”という概念が分離され、

“名もなき巨大な全体”から、“天”“地”が析出します...

  これが、いわゆる、キリスト教天地創(旧約聖書/宇宙創造神話/世界観/・・・仏教の経

典ではありませんが、概念を借用しました・・・)になるわけです。“光”“天”“地”は、最初から

あったともいえず、なかったともいえず...名詞与えられて、認識世界に分断が起

こり、結晶化したものです。こうして、世界の構造が始まり、進化して行くことになり

ます。

  以後...私たちは名詞によって、眼前するリアリティー無限に分割しはじめまし

た。また、それらを四次元時空間に配置し、“言語的亜空世界”を作り上げ、ダイナミッ

に波動させて来たのです。この亜空間は、現在もなお構造化/進化が進み、さらに

拡大つつ、複雑化しています。

  では...それは物理的実在とどう関わるのかといえば、それは実は何とも言えな

いのです。物理空間もまた、認識認知の世界に漂う、壮大な夢かも知れないので

す。また、物質実在/リアリティー/迫真”かも知れないが、それが“情報/夢”

は無いという、確かな証拠は何処にも無いと言えるようです。それが、つまり、“この

世”“心の領域”と、不可分に関与してくるからです...」


   
これらは、現時点における、私の解釈です。絶対というものではありません...  

 

(3)・・・・・ プランク・スケールと、流体ブラックホール 
 

現代物理学は...

  一般相対性理論量子力学という、2本の相矛盾する基礎的理論で構成されてい

ます。つまり、現代物理学ダブルスタンダードなのです。むろん、厳格な物理学で、

こんなことが許されるはずは無いのです。

  そのために物理学者たちは、この2つの理論の統合・超越に、莫大な労力を費やし

て来ました。しかし依然として、両理論とも正しい”ということで...その前に茫洋とし

リアリティーが横たわっています。

  物理学は、“物の領域”のみの考察であり、“心の領域”統合されて、リアリティー

となるわけです。そのリアリティーは、“日々/常時・・・私/1人称の・・・眼前”に迫

真し、“人間原理空間ストーリイ”として、時間軸に沿った夢の世界を開示します。

“私たち1人称的・主体”は、その夢の世界の旅人という側面を持つわけですが、

最大の謎は...まさにこの、“自己/自我/1人称主体”...の正体なのです...」

 

「さて、ともかく...

  一般相対性理論量子力学の統合には、“距離”というものに、“下限”が必要なこ

とが分って来ました。そして、それはおそらく“プランク・スケール”だろう、ということに

なっています。“意味”を持ちうる、“最短の長さ”“プランク・スケール”ということの

ようです。

  これは、素粒子のスケールよりもはるかに小さな、“極微のスケール”でだといいま

す。それ以下では、“距離”といった概念が存在しないと考えられる、“限界のスケー

ル”だとも説明されます。

  当然のことですが...これはまだ仮説の段階です。しかし、両理論の統合には、

というものの、何らかの“粒・構造”が必要だということのようです。

 

“プランク・スケール”には、具体的な大きさが存在します。


  プランク長   :
10−35

  プランク質量 : 10−8Kg

  プランク密度 : 1097Kg/m


(プランクは、ノーベル賞を受賞したドイツの理論物理学者。量子論の端緒を開いた1人。

  “プランクの定数”は、量子力学に現れる基礎定数の1つで・・・

                          =  6.62607×10−34/ジュール秒

 

  重力理論(/一般相対性理論)の統合は、有名なホーキング博士ホーキング放射の理

論から、本格化したようです。また、これらの仮説も、最近のブラックホールの研究から

分ってきていることのようです。

  最近は、ブラックホールを研究するのに、銀河中心をのぞく必要はないようです。

ラックホールの様な“事象地平の現象が、いわゆる“流体ブラックホール”でも研究

が可能になりました。ロケットエンジンの“ラバルノズル”などのアナロジー(類推)から、

“事象地平”の研究が進んでいるようです...」

 

「簡単に説明しましょう...少し専門的になりますが、サッと読み流してください。

  まず...絶対零度(セ氏 -273.15度)に近い液体ヘリウムなどの流体の中では、“音

/音波”も、量子のように振舞います。これは、ごく普通に観測されている現象です。  

この量子化した音を、“フォノン”と言います。これは光の量子である“フォトン(光子)

に対応しています。

  この、“流体ブラックホール”における“フォノン”の振る舞いが、ブラックホールにお

けるの振る舞いに相当するのです。も...実は、周波数波長伝播速度

によって決まるという共通項があります。これが、“流体ブラックホール”アナロジー

(類推)を可能にしているのです。

  は...ブラックホール事象地平重力ポテンシャルの壁を登る時...波長

が引き伸ばされます...仮に、ブラックホールへ落ちて行く人を外部から見ていると、

光の波長が引き伸ばされるために...非常にゆっくりとスローモーションで落ちて行

くように見えると言います

  また、重力による赤方偏移”で、普通よりも赤く見えるだろうとも言われています。

さらに、“事象地平では、“赤方偏移”無限大になり、無限の時間をかけて落ちていく

ことになるようです...    これは、古典的解釈と言えるようです... 

  ここで、“ホーキング放射/ブラックホールの量子的な熱放射の概念”が登場してく

るのです。ここが実は、重要なポイントになるのですが、その説明は残念ながら、別の

機会に譲ることにします。説明が、非常に長くなってしまうからです。

  ここで、私が話したいのは、“流体ブラックホール”での、の現象の方です。これは、

くり返しますが、ブラックホールに対応しています。

  音波が成立するのは、波長がそれを伝える...“流体を構成する分子の・・・

分子間距離...よりもはるかに長い場合です。分子間距離よりも短くなると、そもそも

音波フォノン(量子化した音)は存在できないのです。

  そして実は...まさにこの制限が...空間をプランク・スケールの粒子の集合体

と見る、“仮説”を生み出しているようなのです。“流体ブラックホール”が...ともに、

“絶対零度に近い流体”や、“ボーズ・アインシュタイン凝縮体の・・・ガス”を想定してい

るのは、分子のランダムな熱運動による散乱を排除するためのようです。

  そうした、条件下で...ブラックホールにおけるホーキング放射類似した現象が、

“流体ブラックホール”フォノン(量子化した音)で、観測可能だということです...ブラッ

クホールにおける“事象地平の類似現象”が、私たちの身近で、実際に、近々観測可

になるのでしょうか...」

    参考文献: 日経サイエンス/2006.03/相対論を書き換える・流体ブラックホール

 

「最先端科学ですので、詳しい事情は、私には分かりません。

  さて...一般的には、滑らかなエネルギー量というものも、無限に分割できるもので

はなく、量子の世界では粒子の数でカウントします。1個の光子1個の電子というよう

にです。そこには、つまり、エネルギー単位というものの“下限”があったのです。

  それと同じように、空間にも、“最短の長さ”“プランク・スケール”という“下限”があ

るという概念が登場してきたわけです。しかし、時空に、“プランク・スケール”超微

細構造があるとすると、相対性理論見直しが必要になるとも言われます...今後

の理論物理学の展開に、注目したいと思います...」

 

(4)・・・・・   実在と夢        

「さて...“実在と夢”ということを考えてみましょう... 

  現代物理学の研究は、このように“実在”構造化が進み、日々進化しています。

しかし、それでも、“認識”“認知”の世界に漂う、“壮大な夢”かも知れないのです。

それが“1人称世界の夢”ではないという、確かな証拠は無いのです...

  それを証明するには、デカルトが分割した、“物の領域”“心の領域”の統合が必

要です。しかしこれは、相対性理論量子力学を統合するようなわけには行きませ

ん。文字通り、“この世の本質に迫るものです。はるかに、壮大なスケールでの探求

が必要になります...」

                                              ********************

「しかし...デカルトは言いました...“我思う・・・ゆえに我あり・・・”と...した

がって、確かに、“我”という“1人称の何者か・・・”が存在するのです。これは、間違

いないことです...」

                        ********************

 

(5)・・・・・ 超媒体である命と、人間原理空間 

「くり返しますが...

  人類文明の形成する“言語的亜空間”は、眼前するリアリティーと重なっています。

様々な草木の名前、空や水や大地という名詞で...人類はリアリティー無限に細

分化し...そのように“人間的解釈”を展開してきたのです...私たちはこれを、別

名、“人間原理空間”(/当ホームページの名前)と呼んでいます。

  形容詞は豊かに名詞を修飾し...動詞世界はダイナミックに波動させ、壮大な

ストーリイが流れ出して行きます...そして、“意識の広野歴史が記憶されて行

きます...

  光/電子技術ネットワークで形成される“人工・情報空間”も、本質的には“言語的

亜空間”に含まれます。では、“言語的亜空間”に、何故、微細なストーリイが溢れ出

すのでしょうか。そして、それを駆動するものは何者でしょうか。むろん、動詞エネ

ルギーをもち、実際に世界を駆動しているわけではありません。

  “認識”“認知”“意識”というロセス性が、時間軸上で形成されるのは、何故

のか...また、ストーリイ一定の傾向...強いバイアス(偏向)がかかってくるのは、

何に起因するものでしょうか...また、“超媒体である命の本質”は、いったい何処か

らやって来るのでしょうか。

  それから、“言語的亜空間”が構成する“複雑性の深度”...時空間的スケールは、

ストーリイ性に、どのようなをもってくるのでしょうか...分からないことばか

りです...もはや、私の手には余る問題になってきました...

  しかし、時空を考えること...また思惟することは...まさに“命の本質”に属する

ものかも知れません...」

 

「ともかく...壮大な意識の大河”が流れて行きます...“1人称のリアリティー”

が...その“茫々と流れる夢・・・”を、内省的に目撃しています...」

 

    これらは、現時点における、私の解釈です...絶対というものではありません...  

              

                          

 

 

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