仏道正法眼蔵・草枕画餅

        画  餅        がびょう/ 古仏云く・・・ 画餅飢に充たず・・・  >

 

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 トップページHot SpotMenu最新のアップロード       執筆 :  高杉 光一 <1998.4.9/  開始>

                          

  

 
有名な“画餅” の巻です...道元禅師はいったい何を言っているのでしょうか...

 

     画  餅        wpeA5.jpg (38029 バイト)              


  諸仏が真理を体験するとき、万物が真理を体験する。たしかに覚者と万物は、表

面的に見れば同一のものではない。しかし、真理を体験するとき、各の体験が、互

いに妨げあうことなく実現するのである。全く差別なく実現するのである。これが仏

道の明白な教えである。

 それを、諸仏と万物が同一であるか異なっているかという分別によって学んでは

ならない。そのため、「一つのことに通じれば、すべてのことに通じる」というのであ

る。一つのことを体験するということは、一つのことが本来備えている姿を奪うことで

はない。一つのことを他のことと対立させることでも、対立をなくしてしまうことでもな

い。強いて対立をなくそうとすることは、こだわることである。体験することが、体験

することにこだわらないとき、一つの体験は、すべての体験に通ずる。このように、

一つのことを体験するということは、そのものになりきることである。そのものになり

きるということは、すべてのものになりきることである。

 

<要約>

  我が解脱することは、我と彼の対立を超えて、我と彼がともに解脱することである。しかしそれは、

我と彼の対立をなくしてしまうことではない。対立を対立として認めながら、そのことにこだわらない

とき、解脱があるのである。

 

(1)・・・

  仏教の本流とは、真理の体験的伝承の系譜と言われます。出家した釈尊が、あ

の金剛座の菩提樹の下で得た最高の真理とは、どのようなものだったのでしょう

か。およそ2500年前、釈尊が明けの明星を見つめて悟ったその覚醒とは、どのよ

うなものだったのでしょうか...

 

<金剛座 >

  釈尊が修行された地方に、尼蓮禅河と呼ばれる河があり、そのほと

りに金剛座と呼ばれる巨大な岩がありました。岩は大地の奥深くにま

で達し、上には菩提樹がまばらに生い茂っていたと言われます。ここは

釈尊だけでなく、多くの修行者達の静坐の場所となっていたようです。

 

(2)・・・

 釈尊の成道は、知られざる行為であるゆえに、言葉で説明できる行為ではない

と言われます。いわゆる無我の境地であり、“悟り”の境地です。

(3)・・・

  しかし、それでも、あえて説明するとすれば、このようなことだったのでしょうか。

その釈尊の極限の無垢の心に、この宇宙の本質が流れ込んでいったと...釈尊

は、DNA原理の源流から吹き渡ってくる、“無明”の風と共鳴できたのだと...

         <これは釈尊の御心であり...唯一、釈尊のみの知る世界です...>

 

(4)・・・

    “一つのことに通じれば、すべてのことに通じる”...とあります。これは、あれこ

れと書き加えるよりも、本文をくり返しお読み下さい。

 

 

  覚者がいっている。

「・・・画にかいた餅(もち)は飢(う)えを充たさない・・・」 (/古仏いわく・・・画餅飢えに充たず・・・)

  このことばを学ぶ修行者たちは、諸方からやって来る求道者や仏弟子を始めとし

て、その名や地位や姿も様々であるが、みな、間に合わせの解答に満足している。

従ってこのことばを伝えられて、あるものは、

「経典やその解説書を学ぶことが、まことの智慧を得ることではないから、それを画

にかいた餅というのである」

といい、あるものは、

「小乗、大乗の教学が、悟りの道ではないことをいおうとして、このようにいうのであ

る」

という。凡そ彼等のいうように、経典による教えが仮のものであって、真実を知るの

に役立たないということを言おうとして、それを画餅とよぶと考えるのは、大きな誤

りである。

  そのような者達は、仏道を正しく伝えず、覚者のことばに暗い者達である。この

一言を明らかにしないならば、諸仏たちの言葉を理解しているとはいえない。画に

かいた餅が飢えを充たさないというのは、例えば...

 

「・・・諸悪をなさない・・・」

「・・・もろもろの善を行う・・・」

「・・・何者かが、ここに現前している・・・」

「・・・常に、そのものを究め尽くしている・・・」

 

  ...というような解脱の境地を現わしているのである。暫くこのように学ぶべきで

ある。画餅ということばを、今までに見聞したものは少なく、ましてこれを知り及んで

いるものは全くいない。そのような者達が、どうしてまことのことを知っていようか。

  今までに、一人二人の愚か者達に当たってみたところ、彼等はそれを疑おうともせ

ず、自ら学ぼうともせず、人の話に耳をそばだてようともせず、そのようなことには全

く無関心な様子であった。

 

<要約> 

 「画餅」とは、字義通りには、いわゆる「画にかいた餅」であるが、ここではそれを、解脱の境地と解

するのである。

 

(1) 上記の<要約>のとおり、「画餅」とは、「解脱の境地」と解しておきます。

 

 

  画餅には消滅の相があるばかりでなく、不滅の相があることを知るべきである。も

ちろん米を用いて作られる餅そのものは、必ずしも消滅するともいえず、不滅である

ともいえないが、今はそれを画餅すなわち解脱の境地として悟る時である。それが

来たり去ったりするものであると考えてはならない。

 

<要約>・・・ 解脱は、個々の体験であるばかりでなく、人間の普遍的本質を貫く不滅の体験である。

 

  餅を描く絵具は、山水を描く絵具に等しい。いわゆる山水を描くには、青絵具を用

いる。餅を描くには、もち米を用いる。それは、ともに解脱の境地を現わしている。そ

の用むきは等しく、働きは等しい。

  従って、今ここに 「画餅」 と名づける解脱の有様は、一切のごま餅、菜餅、乳餅、

焼餅、きび餅などが、ことごとく画によって実現することである。そのような立場から

すれば、画も、餅も、一切の存在もなんら異なるものでないことを知るべきである。

  従って現実の餅は、みな画餅である。この外に画餅を求めるならば、未だに画餅

にあわず、画餅のことを悟らないのである。画餅は、あるときには実現し、あるとき

には実現しない。しかしそうではありながら、それは古今の姿を超えている。消滅の

相を超えている。そのようなところに、画餅の国土が現われ、成立するのである。

 

<要約> 

 ちょうど、一枚の画餅が餅一般を現わしているように、我の解脱が、山水の解脱、世界の解脱を

実現しているのである。

 

(1)・・・

   餅を描く絵具は、山水を描く絵具に等しい。いわゆる山水を描くには、青絵具を用

いる。餅を描くには、もち米を用いる。それは、ともに解脱の境地を現わしている。そ

の用むきは等しく、働きは等しい。

  私は、この上記の道元禅師の言葉を理解しているかどうか、はなはだ自信があり

ません。ただ、この意味の流れは好きで、何度読んでも飽きません。軽妙で、超越し

ていて、自信に満ち溢れています。数百年前の道元禅師が、毛筆でこの文字をした

ためているお姿が、その御心が、偲ばれます...

 

「飢えを充たさない」

という「飢え」は、世間一般にいう飢えのことではない。腹の中に一物もない解脱の

境地をいうのである。そのような境地は、画餅の解脱の境地と対立するものではな

い。従って画餅をたべても飢えはやまない。飢えに対立する餅はなく、餅に対立する

飢えはないのであるから、飢えをやめる道理がないのである。飢えは飢えで、一切

世界を究め尽くしており、餅は餅で、一切世界を究め尽くしているのである。

 

<要約>

  「画餅が飢えを充たさない」ということばを、「解脱の境地においては対立はない」というように解釈

するのである。対立ということがぜんぜん問題にならないのであるから、対立をなくしてしまう(/飢え

をやめる)必要がないのである。

 

(1)・・・

  飢えは飢えで、一切世界を究め尽くしており、餅は餅で、一切世界を究め尽くして

いるのである。

  上記の概念を、しっかりと考察し、把握しておいて下さい。何度も出てくる、基本的

世界観です。

 

 

  今、山水を描くには、青絵具を用い、或いは奇岩怪石、七宝、四宝を用いる。餅を

描くにもそれを用いる。人を描くには四大元素を用い、万物を用いる。仏を描くには、

金泥、泥絵具を用いるばかりでなく、仏の三十二相、一茎の草、永遠の修行を用い

る。

  そのようにして、いちまいの仏を描くのであるから、一切の仏はみな画仏である。

一切の画仏は、みな仏である。そのような仏と画餅について、身をもって学ぶべき

である。どちらが形のないもので、どちらが形のあるものか、どちらが物で、どちら

が心であるかということを、身をもって学びなさい。

  このように学ぶとき、生死の移り変わりは、ことごとく画である。仏の無上の悟りは、

画である。存在世界も虚空も、すべて、画でないものはない。

 

<要約>・・・ 一枚の絵の中に、万物が描かれている境地を体験するのが、解脱である。

 

(1)・・・

  このように学ぶとき、生死の移り変わりは、ことごとく画である。仏の無上の悟り

は、画である。存在世界も虚空も、すべて、画でないものはない。

  さて、この言葉の真意を、どのように解したら良いのでしょうか。まず、 道元禅師

は、“生死の移り変わりは、ことごとく画である”と書かれておられます。

  すると、“喜び”は人生という画の、一筆の絵具と解してはどうでしょうか。また、

“悲しみ”も、別の一筆の絵具。すると、“出会いと別れ”は、離合集散する線でしょ

うか。私たちは、日々それを紡ぐように描き、人格という一枚の画を描いているの

でしょうか。

 

(2)・・・

 “悲しみ”や“別れ”は、人生につきものです。しかし、それも一筆の絵具と認め、

しっかりと見つめておいて下さい。その色の深さ、想いの深さが、人生の深さとな

ります。

 

(3)・・・

  “喜び”も“悲しみ”も、“出会い”も“別れ”も、皆この真実の結晶世界の一枚の画。

  “喜び”は喜びで、一切世界を究め尽くしています。“悲しみ”は悲しみで、これも

一切世界を究め尽くしています。

  さらにまた、“出会い”も“別れ”も、それぞれにそれぞれの、一切世界を究め尽く

しています。そして全ては、互いに妨げあうことなく、一枚の画の上で実現している

のです。

 

< 飢えは飢えで、一切世界を究め尽くしており、餅は餅で、一切世界を究め尽くし

ているのである。>

 上記の言葉も、同じ概念です。仏道におけるこのような世界観というものを、少し

づつ心に納めていって下さい。何故、全てが互いに妨げあうことなく実現しているの

か...

 それは、“時のない世界”だからでしょうか。時がないということは、“永遠”を意味

します。本来、“リアリティー”が時間と空間に分断される以前は、時間などというも

のは存在しなかったことをお考えください。

 

<リアリティー>

  直訳すれば、“真実性、迫真性”ということでしょうか。しかし、この言葉は最も基本

的な概念であるために、説明の非常に難しい言葉です。ここでは、まさに目の前に

眼前している、ナマの世界というふうにお考えください。一切きれ目の無い360度の

世界。あらゆる固有名詞を消し去り、時間と空間も未分化のナマの世界です。私た

ちが目 撃しているのは、まさにそのような世界なのですが、そこに人類文明の亜空

世界の座標が描き込まれてあるのです。

  たとえば、膨大な言語や数式で、人間的な亜空世界が出来ているのです。この

亜空世界に入るために、子供は教育され、一人前になるまで勉強をするのです。そ

して、たとえば、アメリカはどこにあるかと聞かれれば、それを亜空世界の座標の上

で示すことが出来るのです。そんな、眼前に見えもしないものを、です。が、リアリ

ティーに対する、こうした人間的亜空世界というものも、文明の巨大な力なのです。

 

(4)・・・

  こう書いている私自身も、今まさに、そのあたりを、たった一人で歩いています。

  

                                                                   (1998.4.30)

  仏祖がいっている。

「道は成じて白雪が多い、画くことのできた山水、数枚が現われる」

 これは解脱の境地をうたったことばである。修行の完成を表すことばである。解脱

の境地を、数枚の青山白雪と名づけて、描いているのである。一動一静として、画

でないものはない。われわれの今の理解も、ただ画から得られるのである。仏の十

の尊称も、三つの力も、一枚の画である。修行の道も、一枚の画である。もし画が

真実でないならば、一切の存在はすべて真実でない。仏法も真実でない。仏法がも

し真実であるならば、画餅も真実であろう。

 

<要約>

  仏道の教えのすべてが、釈尊の解脱の境地から発しているのであるから、もし、解脱が真実でな

いならば、仏道のすべてが真実でないということになる。

 

(1) 一動一静として、画でないものはない。

  これは、私の好きな概念の一つです。このような概念を引き出してきた道元禅師

の境地とは、どのようなものだったのでしょうか。まさに、私が草枕で探し求めてい

る、道元禅師の心の深淵です。

 またこれは、最初に正法眼蔵を読んだ時、多少なりとも理解できた概念の一つで

した。今回も、そうした若い頃を思い出し、懐かしく読んでいます。しかし、多少理解

できたとしても、深さということでは全く別問題です。在野の、しかも独学の私に、ど

れほどのことが分かるでしょうか 。

(2)・・・

  さて、まず、“画”とは何でしょうか ...この現前しているリアリティーの、空間的

捕捉、あるいは理解とでも言ったらいいのでしょうか。私たちは...

   このリアリティーの空間的理解、時間的理解、その統合的理解という形式を、

一体どこから拾ってきたのでしょうか 。

  ...それとも、“認識”や“基底意識”の原理の中に、本質的に持ち合わせていた

形式なのでしょうか。

(3)・・・

  ところで、肉体的に“眼”を持っているということは、この世界を空間的に捕捉する

のに優位です。一方、生体時計は観測されていますが、この世界を時間的に明確

に捕捉する器官を、人体は持ち合わせてはいないようです。あえて言えば、“運動”

や“変化”を認識する総合的な人格でしょうか。そして、その人格とは、時間を海とし、

そこを泳いでいるという仮想現実に立っているわけです。

 

(未分化のリアリティーから見た場合、時間と空間のどちらが優勢かと考

えるのは、無意味と思います。また、相対性理論のような時間と空間の

関係式でも、そのどちらが優勢かと考察するのは、数学的ではありませ

ん。

  しかし私は、人体に“眼”という非常に強力な器官が具わっていること

から、人間的には空間優位と見ています。それがすなわち、“画”という

視覚的認識です。もっとも、道元禅師は“有時”の項で、すべては“時”で

あるとも言っているわけですが...)

 

(4)・・・

  今、“我”という、出所の判然としない自己が、ここに発現しています。およそ、全

ての生命体が、自己という主体性を主張しているのです。そして“我”は、一枚の切

れ目のない、“画”の中の世界を歩んでいます ...その無時間的永遠の形態の流

れ、それが 一動一静として、画でないものはない  という風景なのでしょうか。

 

(いずれにせよ、説明の難しいところです。私の書き散らした言葉を拾い集め、

自分なりの考察の一助として下さい。)

   

 

  雲門匡真大師(うんもんきょうしんだいし)に、ある僧が尋ねた。

「仏に捉われず、祖師に捉われないということは、どういうことですか」

  師が答えた。

「ごま餅」

 このことばの真意を静かに思いめぐらすべきである。このような問答が現われるか

らには、超仏超祖を説く師があり、それを聞かなくても理解する禅者があり、それを

聞いて理解する修行者があるはずである。だからこそ、このような勝れた問答がな

されるのである。今のごま餅の問答において、問うものも答えるものも、ともに画餅

の境地を現わしている。それによって、

「仏に捉われない、祖師にも捉われない」

ということばがあり、

「仏にも魔物にも捉われない」

という境地が実現するのである。

 

<要約>

「仏に捉われず、祖師に捉われない」ということは、むろん仏や祖師を否定することではなく、既成

の観念を破って、何ものにも捉われずに、直接的に真理を体験しようとすることである。雲門は、

「ごま餅」という語によって、解脱の境地を示しているのである。

 

(1) 「ごま餅」 とは、ふざけた言葉です。

  それにしても、うまそうです。つきたての餅に、塩ごまでもまぶしたのでしょうか。

イタリア風でも、中華でもなく、フランス料理でもありません。いずれにしても、食材

のナマのうまさを十分に生かした、素朴な食いものです。

 

                                                                    (1998.5.7)


  わが師が言われている。
(/道元禅師のいうわが師とは、学僧として宋に渡った時の、天童山如浄のこと)

「脩竹(しゅうちく)芭蕉が画面に入る」

  このことばの真意は、長いものも短いものも、ともに画を学ぶということである。脩

竹とは、長い竹のことである。竹は世界の動きに従って成長するものであるが、同

時に、竹の年月が世界を動かすのである。その年月の長さを量り知ることはできな

い。なぜならば、それが世界そのものであるため、かえってそれを思慮分別すること

ができないからである。

 

  世界の動きは、一切の事物そのものであり、思慮分別そのものであり、解脱の道

そのものであるから、俗世間や小乗の者達の考えとは異なっている。それはいわ

ば、長い竹の動き、長い竹の年月、長い竹の世界である。そのような長い竹の一族

として、すべての諸仏たちが存在するのである。天地宇宙が、長い竹の根・茎・枝・

葉であることを知るべきである。従って長い竹が、天地宇宙を長く久しいものとし、大

海、大山が一切世界を堅牢にし、禅者のもつ杖や竹片を永遠のものとするのである。

 

<要約>

  我をあらしめるのが世界であり、世界をあらしめるのが我である。我の解脱をあらしめるのが諸仏

祖の解脱であり、諸仏祖の解脱を現前させるのが、我の解脱である。

 

  芭蕉は、万物を自己の根、茎、枝、葉、花、果、実、色艶としているから、秋風を

帯びて、秋風を解脱している。一片の汚れもなく、清浄そのものである。何ものにも

捉われることなく、それぞれに解脱している。悟りに至る時の長短にこだわらないか

ら、時の短さを論ずるには及ばない。解脱の力によって、万物を自由に働かせてい

るから、春夏秋冬を自己の時としている。

 このような長い竹や芭蕉の凡てが、画である。そのため、竹の音を聞いて大悟す

るものは、画である。それに凡人、聖人の違いがあると疑ってはならない。長い竹

があれば短い竹もあり、短い竹があれば長い竹もある。これらがみな画なのである

から、長短の竹が必ず画面に納まるのである。長い画があれば、短い画のないは

ずがない。この道理を明らかに学び究めるべきである。

 

<要約>

  解脱の時は、長い修行をしたものも短い修行をしたものも、なんの隔てもない。長い修行をした

ものは長い修行のままに仏であり、短い修行をしたものは短い修行のままに仏である。

 

(1)竹の音を聞いて大悟するもの とは...<PP>

  これは、香厳(きょうげん)禅師のことでしょうか ...香厳禅師は、唐の末期の時代

の人で、“無門関”の第五則に登場しています。非常に聡明な人物でしたが、長年

の修行にもかかわらず、ついに悟ることができませんでした。それで、「画餅飢に充

たず」 と言って、今まで勉強してきた書物や筆記したものを、全て焼き捨ててしまい

ました。そして、絶望の中で修行も諦め、師のもとをも去りました。

 その後、慧忠(えちゅう)国師の墓所に参拝し、そこで墓守として一生を終わる決心を

したそうです。ところが、それほど真面目に取り組んでいた人ですから、師のもとを

離れても、まさに心路を窮めて絶する状況にあったようです。言い換えれば、禅

的な機は熟しきっていたのです。自分では絶望し、完全に諦めていても、つい思い

はそっちの方へ行っていたのでしょうか.....

  そうしたある日のことです。悶々と庭掃除をしていた香厳は、瓦礫をはき集め、竹

薮の中に捨てました。すると、小石の一つが、カチンと竹に当たりました。この小

石が竹に当たる音を聞いて、香厳は忽然と大悟し、笑い出したといいます

 

(この小石の音を、聞いて見て下さい...全存在を、この小石の音の中に叩き

込み、“カチン”、と自ら響いてみて下さい...)

 

  長い間探し求め、最後は絶望の縁にまで追いつめられていたものが、カチン

いう素朴な音で大悟したのです。理屈をこね回して悶々としていた日々がうそのよう

に、カラリと大悟したのです。

  この例からも分かるように、このようなことは教えて分かるものではありません。ま

さに、香厳のように、自ら大悟するほかはないのです。そして、悟ってみれば香厳の

ように、笑い出すほど身近にあるものだったのです。

 

 ( しかし、では私自身に、そんな豪快な大悟がやってくることがあるのかというと、

難しいように思います。まず第一に、私には心路を窮めて絶するという状況が

ありません。

  これは、性格から来ているものなのでしょうか...それとも時代という、一般化

した風景なのでしょうか。いずれにしても、釈尊の時代や、禅の隆盛した中国の唐

の時代とは、背景の文明が大きく異なってきています。しかし、それでもなお、これ

からは、益々仏教の時代と言われています。)

 

 

  一切世界、及び一切の事物はすべて画餅なのであるから、人間の体験する真理

は画から現われ、仏祖は画から生れる。従って画に描いた餅でなければ、飢えを充

たす薬はない。画に描いた飢えでなければ、まことの自己に逢うことはできない。画

に描いて充たすことでなければ、悟りにいたる力はない。

  およそ、飢えを充たし、飢えを充たさず、飢えないことを充たさないということは、

画に描いた飢えでなければ、得ることができず、いうことができないということであ

る。暫くこの境地が画餅であることを、身をもって学ぶべきである。この教えを学ぶ

とき、解脱によって万物をわがものとし、我が万物に従って行く働きができるのであ

る。この働きが現前していないようでは、道を学ぶ力がまだ現われていないのであ

る。その働きを表す悟りの画が、今ここに実現しているのである。

 

<要約>

  解脱によって、すべての対立から自由になり、対立を対立として生かして行くことができるので

ある。

 

(1)・・・

  ここは、本文を何度も読み返し、道元禅師の真意を汲み取って下さい。未熟者の

私が書き加える言葉はありません。

                                  

   

 

  “画餅”は、ここで終わりです。

 

  “画餅”は私の好きな項目のひとつなのですが、ここでもまた己の未熟さを痛感し

ています。なお、この項目は、近々“会議室・プレゼンテーション”の方で再度取り上

げますので、そちらの方もお読み下さい。

                           

 


            次は、“現状公案” になります。ご期待下さい。