仏道正法眼蔵・草枕有事

  
               有   時    <う じ/・・・普遍的時間・・・>

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  トップページHot SpotMenu最新のアップロード          執筆: 高杉 光一  <1997.12.11/  開始> 

                            

   

                                                                   


  この“有時”では、道元禅師の時間観念が、どのようなものであったかがうかがえ

ます。もともと仏教では、時間論というものには、それほど重点を置いていないと言

われます。したがって、この道元禅師の時間論は、多岐にわたる仏教思想の中でも、

特筆すべき例外的風景ということでしょうか。

    

 

    有   時       


 先覚者が言っている。

 「あるときは高い山頂に立ち、あるときは深い海底を行く。あるときは鬼神の姿とな

り、仏の姿となる。あるときは杖や払子(ほっす/導師が法式に用いる道具 )となり、あるときは

仏殿の柱や燈龍となる。あるときは太郎や次郎となり、あるときは大地、大空となる」

 この「あるとき」(/有時)という語は、

「・・・時間はそのまま存在であり、存在はみな時間である・・・」

という意味を含んでいる。

 

<要約>...「有時」という語は、一般には「あるときに」という意味に用いられてきたが、ここでは

それとは全く違った意味に用いる。即ち、時間を離れて空間はありえず、空間を離れて時間はない

のであるから、時間と空間を総合して、「存在時間」或いは「時間的存在」というものを考える。それ

を「有時」と呼ぶのである。

 

(1)

    ここは道元禅師の書かれた原文だと、素晴らしい名文です。少し書き移してみた

のですが、変換できない漢字がいくつかあり、無理でした。折りがありましたら、原書

の方をお読み下さい。

(2)

 先覚者が言っている...原文だと、<古仏言く>になります。これは、中国の薬

山という禅師を指しています。つまり、薬山の詩というほどの意味です。

 意味は、こうです。“有時”とは、高い山頂に立ち、深い海底を行く。鬼神の姿をとっ

たり、仏の姿になったりもする。また、仏殿や燈篭についても“有時”だと言っていま

す。“有時”、つまり“普遍的時間”とは、そのような、あまねく世界の全てに浸透して

いると言っています。

     

  仏の姿そのものが時である。そのため、あらゆる時に、仏の荘厳なかがやきがあ

るのである。それが今の日常の時に外ならない。

 

 <要約>...時間は抽象的非現実的なものではなく、日常的現実的なものである。

 

(1)

 全ての事象に、仏性の輝きがあると言うことです。このことを、とっくりとお考えく

ださい。道端の石ころ一つ、ゴミ一本、虫けら一匹にも、仏性の輝きがあるのです。ス

スキの穂先のかすかな揺れにも、くるくると舞い落ちてくる一枚のイチョウの葉にも、

真実が爆発し、仏性が輝きわたっています。ここは、まさにそのような、真実の結晶

世界なのです。

 

                                                               (1998.1.12/)


  一日二十四時間の長さを計ったことのない人も、一日が二十四時間であることを

疑わない。時の移り変わりが明らかであるから、それを疑わないのである。しかしそ

のことを知っているわけではない。

  もともと、人が自分の知らないことについて疑うとき、その疑いは一定しないから、

後になってそれが、今の疑いと一致するとは限らない。しかし、疑いそのものが時の

姿であることには違いない。

 

<要約>...自覚していると否とにかかわらず、われわれはみな時間的存在なのである。

 

  一切世界のすべてが自己のうちにあり、一切世界の事事物物が、みな時である

とを学ぶべきである。事事物物が邪魔し合わないのは、時が時を邪魔しないような

ものである。従って、自己が発心すれば、一切世界も同時に発心し、自己と同じ心を

持つ時が始まるのである。このことは、修行、成道についてもいえることである。一切

世界のすべてが自己のうちにあり、それを自己が体験するのである。「・・・自己が時

である・・・」 とは、このようなことである。

 

<要約>... 我も世界もともに時間的存在であり、その両者を切り離して考えることはできない。

 

(1)

   一切世界のすべてが自己のうちにあり、一切世界の事事物物が、みな時であるこ

とを学ぶべきである。事事物物が邪魔し合わないのは、時が時を邪魔しないようなも

のである。

  この言葉を何度も読み返し、このことの意味をじっくりとお考えください。心が深ま

れば、さらに深い時と存在の抽象風景が見えてきます。

 

(2)

  従って、自己が発心すれば、一切世界も同時に発心し、自己と同じ心を持つ時が

始まるのである。

 自己が発心すれば一切世界も同時に発心し、自己が悟れば一切世界も同時に悟

るということです。従って、そこには自己と同じ心を持つ悟った時、存在、事物、が展

開していきます。

(3)

  “道元禅師の時間”は、時間・存在・光明・自己が、一体のものとなっていると言わ

れます。

 

  このような道理によって、世界に様々の事物や諸々の草があり、それがみな時であ

り、その各の時が、一切世界を覆い尽くしていることを学ぶべきである。そのように学

ぶことが修行の初めである。

 そのような境地に至るとき、はじめて、一本の草、一つの事物の真実が明らかにさ

れるのである。それが、一つの事物を悟ることであり、一本の草を悟ることである。

 

<要約>... 世界を部分と全体に分けてしまわずに、「世界の中に一本の草木があり、一本の草木

の中に世界がある」 、という相互関係によって見ていくべきである。

 

  このような時のほかに、時は無いのであるから、その時がすべての時を究め尽くし

ているのである。ある草もある事物も、ともに時であり、それぞれの時において、一切

世界を究め尽くしているのである。このような時のほかに、どのような時も無いことを

考えてみるべきである。

 

<要約>...世界を成り立たせるものは、われの一瞬一瞬の全体験である。

 

  ところが仏道を学ばないものは皆、

「あるときは、鬼神の姿となり、ある時は仏の姿となる」

ということばを聞いて、

「それは例えば、河を過ぎ山を過ぎるようなものである。我はすでに山河を通り過ぎ

て、今では宮殿に住んでいる。従って山河と我は天と地のように隔たっている」

と思う。

 しかし、それが真実のすべてではない。山を登り河を渡った時にも、我はあったの

である。

 

<要約>...「過去は過ぎ去ったものである」 という考え方は、常識的な考え方にすぎない。

 

(1)・・・

  “過去”とは何でしょうか.....我々は、“純然たる過去”というものについて、何

を知っているでしょうか。我々の知っている過去とは、“今”の記憶の中で起動して

る過去の風景なのではないでしょうか。

  昨日はすでに何所にもなく、あるのは我の思い出のみ。とすると、本来過去など存

在せず、それは大いなる幻影、大いなる歴史ストーリイの発現。そしてその歴史ストー

リイの序列が、時の流れなのでしょうか...

(2)・・・

  この世界は唯心、客観性を否定する唯一絶対の世界。その絶対主体性の中で

は、“純然たる過去”を見ることは不可能ということなのでしょうか。つまり、“今”を離

れた“過去”というものは存在しない、という...

(3)・・・

  かなりややこしい話です。私も試行錯誤しています。したがって、このあたりは自

分自身で考え、ご自分の世界観というものをお持ち下さい。

 

                                                                (1998.2.16)


  我のうちに時があり、我は以前からあったのである。したがって時は我から過ぎ去

るものではない。そのような立場からすれば、過去の時も、我の現在のうちにある。

もし、時が我のうちを過ぎ行くものであるならば、我のうちには、常に現在がある。

 それが「有時」ということであり、過去の時、現在の時を、呑みつくし吐きつくしてい

るのである。

 

<要約>

 時間は常に現在から現在へ体験されるものである。過去も、我が刻刻の現在において過去として

体験しているものであって、現在の我なしには体験されることがない。

 

  たとえ鬼神の姿が昨日の時、仏の姿が今日の時であるとしても、昨日も今日も、

我が山の上から千峰万峰を見渡すときのように、我が今ここにおいて見るのである。

昨日の時も、今の我によって体験されるのであるから、離れているように見えても、

現在である。このような考え方からすれば、松も時である。竹も時である。

 

<要約>

 あらゆる時間は、自己によって体験される時間である。あらゆる存在もまた、自己によって体験され

る存在である。

 

(1)・・・

  “唯心”の立場から時間を眺めれば、時もすべて我が心の内なる風景です。過ぎ

行くもの、やがて到り来るもの、そうしたあらゆるものが、過不足なく夢のように流れ

ていきます。

(2)・・・

  私も、今このあたりをざっと読んでいますが、読み流して習得できるようなものでは

ありません。日々の生活の中で、時を重 ね、じっくりと読みあかしていくことをお勧

めします。

 

  時が飛び去るものとばかり考えてはならない。飛び去ることだけが、時の働きであ

ると学んではならない。時が飛び去るだけであるならば、時と我の間に隙ができるに

違いない。今までに有時の道理を明らかにしたものがいないのは、みな、時が去るも

のとばかり考えているからである。

 この問題について要点をいうならば、一切世界のあらゆる事物は、つらなっている

時である。それは有時であるから、我の有時である。

 

<要約>

 時は自己から飛び去っていくものではなく、常に自己によって体験され、自己において実現されるも

のなのである。

 

  有時には経歴の働きがある。それはいわゆる今日という日から明日という日へ経

歴する。今日から昨日へ経歴する。昨日から今日へ経歴する。今日から今日へ経歴

する。明日から明日へ経歴する。

 

<要約>

 「 経歴 」とは、時の全体が現在において体験され、現在において成立することである。時は常に現

在から現在へ流動的に体験される。

 

  経歴は時の働きであるから、過去と現在が重なり合うことはないが、過去の禅者たち

は、青原(せいげん)も、黄蘗(おうばく)も、江西の馬祖(ばそ)も、石頭(せきとう)もみな時である。

我も彼もすべてが時なのであるから、修行も悟りも時である。泥まみれとなって衆生を導

くのも時である。

 

<要約>   現在において、過去の全体が互いに邪魔しあうことなく体験される。

 

1)・・・

  青原(せいげん)も、黄蘗(おうばく)も、江西の馬祖(ばそ)も、石頭(せきとう)もみな時であ

...といっています。これは、痛快な概念です。彼等は今も、まさにその辺に居て、

右往左往し、深い悟りの境地を表し続けています。なんと、にぎやかなことではない

でしょうか。

 

  ところが、前述のような、仏道を学ばないものの考えや、そのもととなる考え方が

誤っているために、彼等は真実を知らない。しかし、真実はすでに彼らのうちにある

のであって、ただそれに気がつかないだけなのである。

  彼らは、今の時、今の自分が真実でないと思うから、ほとけの姿は自分に無いと

きめてしまうのである。しかし、自分には仏の姿がないといって逃れようとすることも

また、有時のひとかけらにほかならないのである。それが、まだ悟っていないものの

学ぶべきところである。

 

<要約>

 時間というものに、真実の時間とかりそめの時間があるのではなく、全ての時間が真実な充実した

時間なのである。

 

  今のこの世界に午の刻(うまのこく/午前11時から午後1時)や未の刻(ひつじのこく/午後1時から午

後3時)をあらしめているのも、それぞれの時を繰り返している有時の働きである。子

(ね/午後11時から午前1時)も時であり、寅(とら/午前3時から午前5時)も時である。解脱(げだつ)

ていない人も時であり、解脱している人も時である。

 

<要約>

 一日を繰り返している時の流れは、自己が体験する時であるとともに、全ての人に普遍的な時で

ある。

 

  このような時が鬼神の姿となり、仏の姿となって、一切世界を照らすのである。この

ように、一切世界が一切世界を究め尽くすことを「究尽」という。仏の姿が仏の姿のま

まに、発心、修行、悟り、解脱と実現することが有時なのである。

 

<要約>

   人間が修行して段々とほとけになるのではなく、本来ほとけである自分に目覚めて、それを実現す

ることが、真実の時間を生かすことなのである。

 

  一切の時が一切の事物として究め尽くされていて、そのほかに余りはない。余り

は余りとして有時なのであるから、たとえ半分しか究め尽くされていないときでも、半

分なりに究め尽くされているのである。たとえ、つまづいたと見える時も、有時にほか

ならない。更にこれをつきつめてゆけば、つまづきが現れる前も後も、ともに有時であ

る。それぞれの時においての、このような活発なありさまが、有時なのである。

 

<要約>・・・ 時間は常に充実した時間であって、充実していない時間はない。

 

(1)・・・

    繰り返しますが、このあたりは何度もじっくりと読み、本文からその真意を汲み取っ

て下さい。この書は、本来が非常に懇切丁寧な解説書なのです。

(2)・・・

  意味の分からない所は、とばしていってください。いずれ、分かる時が来ます。

(3)・・・

  中には、現代人の我々と感覚的にずれていることもあります。しかし、いずれにせ

よ、このような書が、数百年も前に書かれていたというのには驚きます。また、この

仏教を広めた釈尊が生れたのは、今から2000年以上も昔というのは、さらに大きな

驚きです。そんな時代に、なぜこのような巨大な知恵が、人類文明にもたらされたの

でしょうか。

<そういえば、キリストの誕生も、ちょうどその頃と符合するわけですが、何故でしょうか...>

 

                                                                (1998.3.5)


 
従って、有時ということを固定して考えてはならない。人は、時が過ぎ去るものだと

ばかり考えていて、それが過ぎ去らないという一面には気がつかない。そのことに気

がつくことがそのまま時なのであるが、気がつかないこともまた、時なのである。

  もし人が有時について知らないとすれば、それを解脱することはできない。たとえ、

時が去らないものであるということを認めても、それが自己のうちにあることを理解

できない。たとえそれを理解しても、やはり空しく、まことの自己を模索している。そ

のようなものから見れば、悟りの智慧も解脱(げだつ)の境地も、ただ一時的なものに過

ぎないことになる。

 

<要約>・・・

    自己のうちにあって、自己を去ることのない普遍的時間に気づくこと が悟りなのである。

 

(1)・・・

  上記の<要約>にあるように、自己のうちにあって、自己を去ることのない普遍的

時間に気づくこと...このことを、じっくりとお考えください。

(2)・・・

  そこで、自己とは何か、自己とはどのような広がりなのか、どのような時空間にあ

るのかをお考えください。むろん、ここでは明確な結論を出す必要はありません。た

だ、自己の膨大な広がりというものを認識して下さい。

(3)・・・

  そこで上記の、自己を去ることの無い普遍的時間...とは、どのように解釈したら

よいのでしょうか。普遍的時間に乗って、縦横無尽にこの世を駆け巡っている自己を、

あなたは何と呼んでいるのでしょうか...

 

  しかし、そのような考えにかかわりなく、有時は今ここに実現している。

  天界のあちこちに現れる天王や天人たち(インドの神々)も、今の我が体験する有時で

ある。水の上や陸の上にいるものたちの有時も、我が体験し、我が実現しているの

である。生の世界、死の世界にいるすべての生物も、皆、我が体験し、実現し、経歴

しているのである。今の我において実現し、我において経歴するのでなければ、一

事一物として現われることなく、経歴することがないことを学ぶべきである。

 

<要約>・・・ 過去、現在、未来の、存在のすべてが、現在の我において成立するのである。

 

(1)・・・

  “自己・・・我”というものは、本来その他のものと比較できるものではありません。

我とはすなわち、この世の広がりであり、この認識世界そのものです。ましてや、我

が人の数だけあると考えるのは、科学的客観性における方便です。なぜ方便かとい

えば、この世には観察者はもとより、客観性などはありえず、あるのは現在の我のみ

だからです。

(2)・・・

  この絶対主体性...生きとしいけるもの、形のあるもの、形のないもの、それら全

ての相互主体性が、今の“我”のうちに実現しているということをお考えください。

 

  経歴ということが、ただ風雨が東西に動くようなものだと考えてはならない。一切世

界がめぐり動き、一切世界が進み退くことが経歴なのである。

  経歴とは、たとえば春が一事に万物を覆い尽くすようなことである。春といえば春

のほかに何ものもないのに、春が移り変わることを学ぶべきである。春は必ず、春か

ら春へ移り変わるのである。経歴そのものは春ではないが、それが春の時に成立す

るのである。このことを詳しく学ぶべきである。

「経歴とは、経歴すべき世界がかなたにあって、経歴するものがそれに向かって多く

のところをすぎ、長時間を経て行くことである」

と考えるのは、仏道を学ぶに真剣でないからである。

 

<要約>

 時間が現在から現在へ移り変わる有様は、ちょうど春から春へ全世界が移り変わるようなものであ

る。仏道の理想は遠い未来にあるのではなく、今のこの現実のうちに達成されるのである。

 

(1)・・・

  経歴とは、なんともダイナミックで、楽しげなストーリイの展開です。  

                                        <この世の、ストーリイを楽しみましょう>

 

 

  薬山弘道大師(やくざんこうどうだいし)が、あることから無際大師(むざいだいし/石頭)の指示に

従って、江西の大寂禅師(だいじゃくぜんじ/馬祖)をたずねて問うた。

「経典の内容は大体わかりましたが、経典に書いてないことはまだわかりません。達

磨大師(だるまだいし/禅宗の初祖)が西からこられたことの意味を教えて下さい。」

  これに対して、大寂は次のように答えた。

「あるときは彼に眉をあげ、目を瞬(またた)かせ、あるときは彼に眉を上げ目を瞬かせ

ない。(・・・釈尊が優曇華(うどんげ)をねんじて揚眉瞬目されたときに、弟子のカーシャパがその真意をさとって微笑したとい

う故事にもとずく・・・) あるときは、彼に眉を上げ目を瞬かせるのがそれであり、あるときは

彼に眉を上げ目を瞬かせるのがそれでない」

  薬山はこれを聞いて大悟していった。

「わたしが以前に石頭和尚のところで学んだ時には、蚊が鉄牛に留ったように歯が

立ちませんでしたが、今ではよくわかりました」

 

<要約>

  経典に書いてない禅の奥義は何か、という薬山の問いに対して、大寂が、それは釈尊の無言の

教えを自在に行いあらわしていくことだと答えているのである。

 

(1) ふーむ .....

(2) この釈尊の故事は、“無門関”の第六則となっています。

  

                                                                    ( 1998.3.20)

 

  大寂のいっていることは,ほか者のいうことと同じではない。ここにいう眉目とは、

山海のことである。なぜならば、解脱者は自然と一体となっているからである。

  彼に眉を上げさせるものは、山を見るであろう。彼に目を瞬かせるものは、海を学ぶ

であろう。真実は彼に具わっており、眉を上げさせることによって、彼が生かされる。

真実でないことは眉を上げさせないことではなく、眉を上げさせないことは真実でない

ことではない。

 これらの時がすべて有時なのである。

 

<要約>

  真実の我をあらしめるのが他者であり、真実の他者をあらしめるのが我である。ここにいう「彼」とは、

釈尊、解脱者、真実の自己をあらわしている。

 

  山も時であり、海も時である。時でなければ山海のあるはずがないのであるから、

山海が今の時でないとは思ってはならない。もし時が壊れるならば、山海も壊れるで

あろう。時が壊れないならば、山海も壊れないであろう。このような道理によって明星

(釈尊の成道の時に現われたと伝えられる星)が現われ、仏が現われ、悟りの智慧が現われ、以心

伝心が現われたのである。これらがみな時である。時でなければ、そのようなことは

起らなかったであろう。

 

<要約>・・・ 世界が時間によって成り立っているからこそ、我々が真実を悟る時も来るのである。

 

  葉県(せつけん)の帰省禅師(きせいぜんじ)は臨済宗の直系の師であり、首山(しゅざん)の教

えを受け継いだ人である。あるとき僧たちに示していった。

「ある時は心が到って言葉が到らない。ある時は言葉が到って心が到らない。ある時

は心も言葉も、ともに到り、ある時は心も言葉も、ともに到らない」

   心も言葉も、ともに有時である。到るのも到らないのも、ともに有時である。到る時

が来ていなくても、到らない時はすでに来ているのである。

 そうであるとすれば、心は去ることのないものであり、言葉はすでに到来している

ものである。すでに到来しているものは心であり、去ることのないものは言葉である。

到る時はよそから来るのではなく、到らない時はまだ来ていないのではない。

 

<要約>

   あらゆる時間は現在なのであるから、未来はよそからやって来るものではなく、自己のうちに未来

として刻々に成立している現在なのである。

 

  有時とは、このようなものである。到ることは到ることに覆い尽くされ、到らないこと

には覆い尽くされない。到らないことは到らないことに覆い尽くされ、到ることには覆

い尽くされない。心は心を覆い尽くし心のほかのなにものでもない。言葉は言葉を覆

い尽くし、言葉のほかの何者でもない。覆い尽くすことが、覆い尽くすことを覆い尽く

す。それが時の働きである。

  覆い尽くすこと自体は、何者か(/=我)によってなされるのであるが、結果的に見れ

ば、覆い尽くすことを覆い尽くす以外は、覆い尽くすことはないのである。そのことは、

例えば 「われが出て人に会う」 というとき、我が人に会い、人が人に会い、我が我に

会い、出ることが出ることに会うことと同じである。これらのことがすべて時でないな

らば、そのようなことは起らないであろう。

 

<要約>・・・ 現在は現在の全体験であり、未来は未来の全体験である。

 

(1)・・・

  有時とは、このようなものである  ...とあり、以下にその説明があります。到るこ

とは到ることに覆い尽くされ、到らないことには覆い尽くされない。到らないことは

到らないことに覆い尽くされ、到ることには覆い尽くされない。

(2)・・・

  この、一見紛らわしく、いかにも当たり前の言葉の意味を把握しておいて下さい。仏

道の基本的概念が含まれています。以下同じように...心は心を覆い尽くし、心の

ほかのなにものでもない。言葉は言葉を覆い尽くし、言葉のほかの何者でもない。

(3)・・・

  そして...それが“時”の働きである ...と結んでいます。これだけでは何の事か

よく分かりませんが、そのうち幾度か出てきます。とりあえず、心に留めておいて下さい。

(4)・・・

  「われが出て人に会う」 というとき...我が人に会い、人が人に会い、我が我に

会い、出ることが出ることに会うことと同じである。これらのことがすべて時でない

ならば、そのようなことは起らないであろう。

  ...このことの意味を熟考して下さい。非常に面白い概念です。

(5)・・・

  このあたりは、“永遠”の概念とも重なっているようです。そして、私も時の熟成を待っ

ているところでもあります。その時折で、思いが深まっていくのを、私自身も楽しみにして

います。

 

 

  また、これを修行の立場から見るならば、心は真理が現われる時であり、言葉は

向上の扉を開く時である。到る時は解脱の時であり、到らない時は着かず離れずの

時である。このように認め、このような有時をあらしめてゆきなさい。

 

<要約>

 現在においては現在を解脱し、未来に対しては未来を解脱した時、真実を学ぶことができるのである。

 

   以上が先覚者たちの言葉であるが、そのほかに言うべきことはないであろうか。い

や、次のように言うべきである。

「心と言葉が半ば到るのも有時であり、心と言葉が半ば到らないのも有時である」

  このことを身をもって究めなさい。

  彼に眉を上げ目を瞬かせるのも半有時であり、迷いの有時である。彼に眉を上げ

目を瞬かせないのも半有時であり、迷いの有時である。このように学び来たり、学び

去り、学び到り、学び到らないことが、有時なのである。

 

<要約>

 どのような中途半端に見える時も、迷っている時も、すべてが完結した時である。生きることそのも

のが、最高の体験なのである。

 

(1)・・・

  色々と書いてきたので、ここは特に書き添えることはありません。本文を繰り返し

読み、道元禅師の言葉から、その真意を汲み取って下さい。

(2)・・・

  仏の以心伝心の教えは、焦点がはっきりせず、この内容だけでは理解するのが困

難に思えます。むろん、薬山、石頭、馬祖といった歴史的大禅匠の逸話(中国の唐の時代

の話。玄宗皇帝と美女/楊貴妃の頃でしょうか。)であり、その彼等でさえ、私等と同じように迷って

いたのです。

(3)・・・

  それにしても、真実の一語を得るために、当時はまさに命がけだったようです。

 

 

 

  “有時”は、ここで終わりです。この項を書きながら、あらためて私自身の未熟さを痛感して

います。が、これも有時と思い、味わっておきます。

 

 


                  次は“画餅”です。ご期待下さい