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正法眼蔵・山 水 経  <さんすいきょう・・・山水が仏の教えを説く・・・


 
                             
 トップページHot SpotMenu最新のアップロード         塾長 :  高杉 光一  <1997.7.3 開始>

                         

   
   山 水 経     

               

  今ここに見られる山水は、諸仏の方々の悟った境地をあらわされている。山は山

になりきっており、水は水になりきっていて、その他のなにものでもない。それはあら

ゆる時を越えた山水であるから、今ここに実現している。あらゆる時を越えた自己で

あるから、自己であることを解脱(げだつ)している。

 

  (自然は真理が実現されるところであり、自己が自己を発見する所である。)

 

  山の働きは大きくて限りないから、雲に乗って空を行くものは、必ず山から出てい

る。風に従って進むものは、必ず山から解脱している。

 

  (常識の立場を離れて、山の真実に迫ることによって、自己を知り、自己を解脱することができる。)

 

(1) 

  これは、一体何の事を言っているのだ、と思うかもしれません。しかし、ここでは

辞書や文法で意味を理解しようとしても、ほとんど何の成果もありません。言葉の

意味は、小学生でも分かるものだからです。

(2)

 “諸仏”とは、 もろもろの覚者、悟りを開いた人、解脱した人を指します。

(3) 

  意味不明の文節は、とりあえずイメージで捕らえておいてください。この経典は、

こうしたものが大半を占めています。禅の心がいくらかでも分かってきたら、繰り返

し繰り返し読んでください。

(4) 

  私自身も独学ですので、今またこのページを作りながら学習しています。この、

ホームページの作成は、本当に良い機会を与えてくれました。

(5) 

  私がこの書物に出会ったのは、三十二、三才の頃だったと思います。書店で本を

物色していた時、「現代訳・正法眼蔵」と出会いました。それまでは、この書物のこ

とはほとんど知りませんでした。ただ、正法眼蔵という、おかしな名前の仏教書があ

るという程度の知識があっただけです。

 ところが、読んでみてびっくりしました。また、その内容の新鮮さと、感覚の鋭さに

驚かされました。それからは、このちんぷんかんぷんの内容の書を、むさぼるように

読み、首を幾重にもひねりました。また、半分ほど読んだ時、もったいなくて、後の

半分は残しておいたものでした。しかし、この書は、もともとサッと読んで、それでお

しまいと言うようなものではなかったのです。しかも、真に必要なのは、いずれか

の、ほんの一節で十分だったのです。

 

                                                                                                                                                (1997.7.9)

  太陽山の道楷(どうかい)和尚が一山の僧たちに示していった。

「青山(せいざん)は常に運歩し、石女(うまずめ)は夜(よる)子を生む」

  山の働きに欠けたとはろはないから、山は常に安住し、常に歩むのである。その

ことを詳しく学ぶべきである。山の歩みは人の歩みと同じなのであって、たとえ表面

的にはそのように見えなくても、それを疑ってはならない。ここで道楷和尚のいって

いることは、仏道の根本問題なのであるから、真剣に学びなさい。

 

(山が動かないと考えるのは、常識的見解に過ぎない。その奥にある静中の動、動中の静を見徹す

べきである。)

 

(1)

  道元禅師は、“真剣に学びなさい”と言っておられます。道元禅師は、よく知られ

ているように、永平寺の開祖です。その禅師の声が、いま、この瞬間に、この耳元

で語りかけています。

(2)

  いずれにしても、本文を何度も読み返し、イメージとして捉えていってください。や

がて、少しづつ見えてきます。また、さまざまな禅匠の名前がいきなり出てきます。

こうした中国や日本の禅の歴史についても,少しづつ書き加えていきます。

 

  青山は歩むことによって、安住している。その歩みは風より速いが、山になりきっ

ている人はそのことに気がつかない。山の中には一切世界が開いているが、山に

なりきっている人はそのことに気がつかない。山を見る眼がないものもまた、そのよ

うな道理を知ることがなく、見ることも聞くこともない。

 

(「山が歩む」ということは、消滅するものの中に永遠の相を見ることである。それに気づいても気が

つかなくても、我々は永遠の世界を生きているのである。)

 

  もし山の歩みを疑うならば、自己の歩みも本当に分かっていないのである。自己

に歩みがないのではなく、自己の歩みを未だ知らず、未だ明らかにしていないので

ある。自己の歩みを知るように、青山の歩みを知るべきである。われわれが青山を

見るとき、青山も自己も、生物でも無生物でもなく、両者の間には何の隔たりもな

い。そのため青山の歩みを疑うことができないのである。

 

(我が山を見ることによって、我が山と一体になる。それを、「山が歩く」といっても、「山が山を見る」

といってもよいのである。)

 

  世界全体という立場から、青山(せいざん)を明らかにすべきであることを、人は知ら

い。しかし真実を知るためには、そのような立場から、青山の歩み、即ち自己の

歩みを検(しら)べてみる必要がある。それがあらゆる時を越えて前へ進むばかりで

なく、後ろへ退き歩み、歩み退くことを検べてみる必要がある。

  もしその歩みに休みがあるならば、諸仏祖たちは現れなかったであろう。もしそ

の歩みに極まりがあるならば、仏の教えは今日まで伝わらなかったであろう。進歩

も休まず、退歩も休まない。進歩は退歩にそむかず、退歩は進歩にそむかない。

このことを、「山が流れる」といい、「流れるのは山である」というのである。

 

(ここにいう「山」とは、一瞬のとどこおりもない、永遠の万物流転の様相にほかならない)

 

(1)

  ここは、黙って、何度も読み返してください。実際のところ、こんな文章を解かれと

言う方が無理なのです。しかし、これがいくらかでも解かるようになるということは、

道元禅師の心が、いくばくかは伝わったと言うことです。その端緒がつかめれば、

「山」の入り口ということです。それには、正法眼蔵一本ではなく、禅について、少し

づつ総合的に学んでいくことをお勧めします。

(2)

  私なども、読むたびに新しい発見をすることがあります。また、ただ上滑りをして

いることも、多くあります。

(3)

  道元禅師は、一体どのようなひらめきの中で、これらの言語の羅列に命を吹き込

んだのでしょうか。何の変哲もないわずか数行の文字が、読むたびに変化し、膨大

な力を生み出しています。道元禅師の心、そしてはるか溯って釈尊の心とは、どの

ようなものだったのでしょうか・・・・・

 

                                                               (1997.7.22)


  青山自身も歩むことを学び、東山自身も、水上を行くことを学ぶから、山を学ぶこ

とは、山が山を学ぶことである。山が山の姿のまま、自分のことを学んできたのであ

る。それを、

「青山が歩むことなどはできない。東山が水上を行くことなどはできない」

といって、山をそしってはならない。自己の考えが足りないから、青山運歩のことば

を怪しむのである。見聞が浅いから、

「山が流れる」

ということばに驚くのである。そのようなものたちは、

「水が流れる」

ということばさえよくわかっていないのに、自己のあさはかな見解に溺(おぼ)れてい

る。このように、山の働きのすべてが、真理を現わしているのである。

  山には山の歩みがあり、山の流れがあり、山が山を生むときがある。山が山を学

んで諸仏らとなることによって、諸仏祖がこのように実現しているのである。

 

(我が山を学ぶだけでは、いつまで経っても山のことはわからない。山が山を学ぶという心境に至っ

た時にはじめて、山の真実を知ることができる。)

 

  このあたりで、文節をもう少し詳しく見ていきましょう。もっとも道元禅師は、詳しく

過不足なく述べられています。本来、説明などは無用の長物です。ただ、それを、未

熟者の私が踏み分けていくところに、新来者にとって何らかの道標があると考えて

います。いずれにせよ、この道は、自分自身で切り開き、自分自身で悟らなければ

なりません。

       

<一番最初の文節>

今ここに見られる山水は、諸仏の方々の悟った境地を現わされている。

山は山になりきっており、水は水になりきっている。その他のなにものでも

ない。それはあらゆる時を越えた山水であるから、今ここに実現してい

る。あらゆる時を越えた自己であるから、自己であることを解脱している。

 

(1)

  今ここに見られる山水 とは、これはまさに今私たちが眼前に見ている

山や水です。このきわめて安定しているように見える山や水ですが、これは

実際にそれほど安定しているものなのでしょうか?

 

目の前にある飽き飽きするような山、水、・・・・・・

では、去年の山水は、いずこにあるのか・・・・・

それから少年の頃の山水は・・・・・

全ては、遠くはかない夢の様です・・・・・

 

  あの大地、あの膨大な質量は、全て記憶に変換され、私の脳の中に収まっ

ています。

 

  ここで、私が何を言いたいのかといえば、いわゆる常識というものを、一

度すべて御破算にしてほしいということです。そして、あらためて真実とい

うものを見つめる目を持ってほしいということです。そうでなければ、この書

を読み進むのは、なかなか難しいでしょう。

 

(2)

 諸仏の方々の悟った境地 とは、どのようなものでしょうか?それは、

山は山になりきり、水は水になりきっていること、全てが過不足なく、それ

そのものになりきっていることです。    

(3)

 このあたりの感覚は、禅を学んでいくうちに、少しづつ分かってきます。

例えば、山を知るには、自分も山になってみることです。水を知るには、自

分も水になり、水に溶け込んでみることです。あるいは、花を知ろうと思っ

たなら、自分もその花と一体化し、風に吹かれてみることです。

           <このあたりを、しばらく考えてみてください。私も考えてみます。>

 

(4)

  さて、このような難解で貴重な文章を自分のものにするには、どうすれ

ばよいのか。これは、私自身がこの書を手に入れた当時の気持ちでもあ

りました。結局、私は繰り返し読むことにしたのです。そして、そっくりその

まま呑み込んでしまうことにしたのです。

  いずれにしても、私は曹洞宗の坊主ではありませんし、このような書の

解かる人も、周りには一人も居ませんでした。したがって、立ち向かって

いくには、呑み込むほかはなかったのです。しかしまた、呑み込みきれる

ものでもありませんでした・・・・・

 

<パソコン画面に時々出てくる、 “データが大き過ぎて、読み込めません” という

やつです。むろん、これは当然のことで、そのために修行をするのです。いずれにし

ても、全てを呑み込むつもりで、受け入れることが肝要です。>

 

                                                                 (1997.7.30)

   たとえ、

「山は草木、土石、土塀によって成り立っている」

という見方があっても、それはとりたてて疑ったり迷ったりすべきことではなく、また

それによって山のすべてがわかるわけではない。また、

「山は宝玉の輝くところである」

と見る時があっても、そればかりが真実ではない。また、

「山は諸仏が修行するところである」

という考えがあってもそのような考えに執着してはならない。また、

「山は仏の不思議な働きを現わしている」

という最も適切な考え方が現れても、真実はそればかりではない。それぞれの考え

はそれぞれの立場に基づいているのであって、いずれも諸仏祖が悟ったこととは異

なる狭い考え方である。

  このように、物と心をわけて考えることは、釈尊の戒められたところである。心と

本質をわけて説くことは諸仏祖の求めなかったところである。まして、心や本質を表

面的に見ようとすることは、異教徒のすることである。そして、言句にこだわること

は、悟りの道ではない。

  このような立場を超えることがある。それが今ここにいう

「青山が常に歩む」

「東山が水上を行く」

ということである。このことを詳しく学ぶべきである。

 

(「主観と客観」 「理想と現実」 「目覚めたものと迷うもの」 という対立的な見方や、表面的な議論を

否定することが、「山が歩く」ということなのである。)

 

(1)傍線の部分

  このように、物と心をわけて考えることは、釈尊の戒められたところである。

心と本質をわけて説くことは諸仏祖の求めなかったところである。

  このことの意味を、自分なりに、真剣に考えてみてください。自分自身の心と、客

観的存在である物質とは、どのような関係にあるのか。釈尊は、何を戒められたの

か。諸仏祖は、どのように説いているのか。

(2)

  “禅の道”では、多くの知識をむさぼり集める必要はありません。ここは、量ではな

く、質が重要です。したがって、じっくりと、とことん考え抜いてください。もっとも、そ

のために知識が必要ということはあるわけですが。

(3)

  少しづつ、意味の分かる部分も出てきたかと思います。読み進んでいくうちに、次

第にそうした所が増えてきます。また、自分の気に入った文節などもにも巡り合いま

す。そうしたものを大切にし、深く考察し、自分のものとしてください。

 

                                                                   (1997.8.6)

  「石女(うまずめ)が夜(よる)子を生む」

ということは、石の女が子を生むときは、ちょうど夜がすべてを一体としてしまうよう

に、すべての対立から自由であるということである。

  石には男石、女石、非男女石があって、天地の欠けたところを補っているという。

また、天石、地石があるという。これは俗世間の人のいうことであるが、知る人は稀

である。

  われわれはこの「生児」ということばの真意を学ぶべきである。生児のときには、

親と子が別々にあるのではない。子を生んで親となることも生児であり、親が子とな

るときにも生児が実現することを学ぶべきである。

 

(真実の自分を悟ってみれば、それはもとからの自分と別のものではない。親も子も一つだと知るこ

とを、「石女が子を生む」というのである。)

 

 雲門匡真大師(うんもんきょうしんだいし)がいっている。

 「東山は水上を行く」

  この言葉の意味は、すべての山が東山であり、すべての山が水上を行くというこ

とである。それによって、九山(きゅうざん)やスメール山(古代インドの伝説で、世界の中心にあるとさ

れている山々)を始めとして、すべての山々がここに実現し、修行し、悟っているのであ

る。しかし、雲門自身が果たして、東山についてのそのような理解から解脱していた

かどうかはわからない。

 

(我が修行して悟ることは、我という一切の人間が修行し、悟ることにほかならない。) 

 

  今、宋の国には、あさはかなものたちが多く群をなしており、少数の真実者によっ

て撃退することができない。彼らはいう。

「今の東山水上行の公案や、南泉の鎌の公案のようなものは、もともと理解できな

いことである。なぜならば、すべて思慮によって理解できる語話は、禅の語話ではな

いからである。思慮によって理解できないものこそ、先覚者の語話である」

 従って黄蘗(おうばく)の痛棒や臨済(りんざい)の大喝は、理解することができず、思慮

によってはかり知ることができないから、あらゆる時を越えた大悟であるというので

ある。そして、

「先覚者たちが人を導く手段として、しばしば、はからいを絶つことばを用いたが、そ

れらのことばは理解することができない」という。

  そのようにいうものは、未だかって正しい師に逢わず、学ぶ力を持たない、取るに

足りない者たちである。宋の国には二、三百年このかた、このような悪者たちが多

い。哀しむべきことである。正しい仏道がすたれてしまっているのである。

  かれらの考えは、小乗のものに及ばず、異教徒よりも愚かである。かれらは俗人

でもなく僧侶でもなく、人間でもなく天人でもなく、仏道を学んでいる動物たちよりも

愚かである。

 

                                                                  (1997.8.10)


  彼らが理解できないというのは、彼らばかりが理解できないのであって、諸仏祖

はそうではない。自分たちが理解できないからといって、諸仏祖が理解したところを

見過ごしにしてはならない。もし、理解することができないならば、彼らの

「理解できない」

という理解も正しくはないはずである。

  このようなものたちが宋の国の諸方に多い。私がまのあたりに見聞して来たこと

である。まことに哀れむべきである。彼らは先覚者のことばが思慮あることばである

ことを知らず、そのようなことばの背後にある思慮を越えることを知らない。宋の国

にいたとき、彼らを笑ったところ、彼らは何もいうことができず、一語も答えなかっ

た。今かれらのいう

「理解できない」

という考えは、よこしまな考えに過ぎない。彼らを教える真実の師がなかったとはい

え、それは異端者の考えである。

 

(禅の語話は、理性によって理解できない無意味なものではなく、常識よりもいっそう高い理性に

よって明らかにされるものである。)

 

(1) 傍線部分

   彼らは先覚者のことばが思慮あることばであることを知らず、そのようなことばの

背後にある思慮を越えることを知らない

   ことばの背後にある、思慮を越えるとはどのようなことか、真剣に考えてください。

今、私がここで一語で言えるようなものなら、道元禅師のこのような語話も無かった

はずです。

(2)

 座禅の修業については、ここでは触れません。そちらの方は、別の書物を参考に

してください。

(3)

 道元禅師の経歴について、簡単に触れておきます。道元禅師は最初、比叡山で

天台教学を学びました。それから、建仁寺の栄西“/臨済宗”の弟子となります。

  1223年、道元が24才の春、当時の中国の宋に渡り、“臨済禅”を学びます。し

かし、それに満足できなかった道元は、1225年、如浄(にょじょう)との運命的な出会

いを体験します。道元は、ここで、まさに正師を得たのです。この如浄は、曹洞宗開

祖の洞山(とうざん)より数えて十三代目といわれます。この時、道元を開眼させたのは、

   

    「・・・参禅はすべからく、身心脱落なるべし・・・」

 

という、如浄の一語だったと言われます。以後、道元は如浄に師事し、三年間を過

ごします。帰国は1227年の秋。以後、道元によって、日本の曹洞宗が始まります。

(4)

 正法眼蔵は、むろん仏教書であり、禅門の書であり、さらに言えば座禅の書で

す。しかし、私はこの書を哲学書のように読んできました。この書を独学するとなれ

ば、このような立場しかなかったからです。

  永平寺に参拝するにも、越前ははるかに遠く、ただ書籍の写真を眺めるばかり

でした。したがって、私にとっての正法眼蔵は、宗門や只管打坐は無色透明で、道

元禅師の心の方に関心が集中しています。

(5)

 < このあたりが、独学の限界であり、また自由なところなのでしょうか。いずれ

にせよ、ここは“正法眼蔵・草枕”の場です。俗世間の未熟者の視界です。しかし、

恐いお人ながらも、道元禅師はすぐそこにおられます。釈尊も、そのはるか向こう

に、確かにおられます。>

 

                                                                    (1997.9.1)


  この 「東山が水上を行く」 ということばが、諸仏祖の悟った真実であることを知る

べきである。諸水が東山の麓に現れるから諸山が雲に乗り、天を歩むのである。諸

水の上にあるのは諸山であり、登りも下りも、ともに水上を行くのである。諸山のつ

まさきは、諸水を歩み、諸水を躍らせるから、その歩みは自由自在に修行・悟りを実

現しているのである。

 

( 「山が水上を行く」 ということは、我が解脱しているということにほかならない。このことがわかれば、

先覚者の境地が自由自在に理解される。)

 

( 解脱者の、別天地、別次元世界の香りがします。)

 

  水はもともと、強弱、湿乾、動静、冷暖、有無といった差別を超えている。固まれ

ば金剛石よりも堅く、誰もそれを破ることはできない。融ければ乳水よりも柔らかく、

誰もそれを破ることはできない。従って、水が具え現わしている性質を疑うことはで

きない。

  われわれはしばらく、諸方の水をありのままに見ることを学ぶべきである。人間

や天人が水を学ぶときばかりが、学ぶときではない。水が水を見て、水を学ぶこと

がある。水が水を悟るのであるから、水が水のことを説いているのである。われわ

れはそのようにして、自己が自己にあう道を実現すべきである。他者が他者を学

び究め、それを超えていくことを学ぶべきである。

 

( ここにいう 「水」 とは、解脱の境地を言うのである。)

 

(1) 傍線部分。

  水が水を見て、水を学ぶことがある。・・・・・とは、どのようなことでしょうか。そ

れにはまず、自分が水になってみることです。自分が、水と一体になってみることで

す。そこから、水が水を見て、水を学ぶことが始まります。

(2)

  以下の傍線部分で、道元禅師はさらに懇切丁寧に、足下の道を指し示していま

す。

 

                                                                  ( 1997.9.9)


  およそ山水の見方は、見るものの種類によってさまざまに異なる。ある経典によ

れば、われわれが水と呼んでいるものが、天人たちには玉飾りに見えるという。そ

れでは天人たちは、われわれが何と思っているものを水とするのであろうか。とにか

くわれわれは、彼らが玉飾りと思っているものを水と考えているのである。また天人

たちは、水を麗しい花とみるというが、それを水として用いているわけではない。餓

鬼は水を猛火と見、濃血とみる。竜魚は水を宮殿、楼閣、宝玉とみる。あるものは

水を樹林、土塀とみる。あるいは悟りの本質とみる、真実の人体とみる。あるいは

心、姿とみる。人間はそれを水とみる。水はこのように、それぞれの立場によって、

生かしたり殺したりされるのである。

  このように諸類によって見方が同じでないことを、しばらく考えてみるべきである。

一つのものを見るに、その見方が様々にあるのであろうか。それとも様々にあるも

のを、われわれが一つのものと見誤っているのであろうか。このことを繰り返し考え

てみるべきである。このように、修行悟りの道も、一つや二つではないのである。学

び究めるべきところが、様々にあることを理解しなさい。

 

( 同じものでも、見る立場が異なれば、別のものに見えることを知って、広い視野で学ぶべきである。 )

 

  更にこのことを考えてみると、たとえ諸類によって水が様々に見られるとしても、

水そのものというものはなく、また、諸類共通の水というものはないようである。しか

し水はわれわれの身心によって勝手に生じたものでもなく、行いによって生じたもの

でもなく、自己や他者によって生じたものでもない。

  水はただ水でありながら、水であることを解脱しているのである。従って水は物質

的要素、色彩的要素、感覚的要素を解脱しながら、しかも物質として実現しているの

である。

 従って、今のこの世界が、何によって成り立っているかを明らかにすることはむず

しい。世界が円盤状の物質の上に乗っていると考えるのは、主観的にも客観的に

真実ではなく、あさはかな論にすぎない。何ものかに頼らなければ安住することが

できないと思うから、そのように考えるのである。

 

( 解脱の立場から世界を見るならば、世界のすべての物事がなにものにもとらわれず、ありのまま

の姿で実現していることを知るのである。)

 

(1) 傍線部分・・・・・

  水はただ水でありながら、水であることを解脱していのである。

  水の真実とは何か。水は身心の反映なのか、相互主体性世界の反映なのか、

言語的意味空間の反映なのか。それとも、不可分であるリアリティーの1スペクトル

なのか。このことを、他人の概念を呑み込むのではなく、自分自身でお考えくださ

い。

(2) 傍線部分・・・・・

  今のこの世界が、何によって成り立っているかを明らかにすることはむずか

しい。

 道元禅師はこのように言われていますが、禅師のお心がしのばれます。また、そ

の昔の、世界観といったものも感じられます。

 

 

 釈尊がいわれている。

「・・・すべての物事は悉(ことごと)く解脱していて、留まるところがない・・・」

 解脱していて、束縛されることがないとはいえ、すべての物事が、それぞれのもの

になりきっていることを知るべきである。ところが人間は水を見て、

「水は流れ行くものである」

と見るばかりである。水の流れには様々あるのであるから、そのように見るのは、人

間の部分的な見方に過ぎない。水はいわゆる地を流れ、空を流れ、上に向かって流

れ、下に向かって流れる。あるときは河の一隅を流れ、あるときは深い淵を流れる。

のぼっては雲となり、下っては淵となる。

 

 周の文子(もんし)がいっている。

「水の道は、天にのぼっては雨露となり、地に下っては江河となる」

 俗世間の人でさえ、このようにいっているのである。仏の子孫であると称している

ものたちは、俗世間のものたちよりも愚かであることを恥ずべきである。このことば

の意味は、水の道を水が知っているかどうかにかかわらず、水は水として働いてい

るということである。

 文子が

「天にのぼって雨露となる」

といっているように、水はどのような上空、上方へのぼっても雨露となることを知るべ

きである。雨露は、行く世界によって様々な形をとる。水の至らない処があるという

のは、小乗の教えである。それとも仏の道以外の誤った教えである。水は火焔のう

ちにも至り、心、思慮分別のうちにも至り、仏の本質のうちにも至るのである。

 

( 「水は火焔のうちにも至る」 という自然的事実によって象徴される、人間救済の原理は何かとい

 うことを考えなければならない。)

 

(1) 傍線部分・・・・・

  「・・・すべての物事は悉く解脱していて、留まるところがない・・・」

 釈尊のお言葉です。しっかりと心に留めておいてください。そして、しばしばこのこ

とを考えてみてください。水は水になりきり、山は山になりきり、花は花になりきって

います。この風景は、一体どういうことなのか。

 

< この“山水経”の冒頭部分を、もう一度お読みください。こうした概念は、いっぺん

には理解できなくても、しだいに体得されてくるものです。>

 

                                                                 (1997.10.28)


  また文子が「地に下って江河となる」といっているように、水が地に下るとき、江河

となり、江河の一滴がよく賢人となることを知るべきである。凡庸のものたちは、水

は必ず江河海川にあると思っている。しかし、そうではない。水の中にも江河がある

のである。従って江河でない処にも水はあるのであって、水が地に下るとき、江河を

形づくるに過ぎない。また、

「水が江河をなしているのであるから、水の中に世界のあるはずがなく、仏の国の

あるはずがない」

と考えてはならない。一滴の水の中にも、無限に広い仏の国が実現するのである。

従って、仏の国の中に水があるともいえず、水の中に仏の国があるともいえない。

水は時間や存在のあり方に関わりなく、水としての真実を実現しているのである。

諸仏祖の行くところに、水は必ず行き、水の行く処に、諸仏祖が必ず現れるので

ある。そのため諸仏祖たちは、必ず水を自己の身心として学んできたのである。

 

( 仏という特殊な存在の中に解脱があるのではなく、解脱した人すべてが仏なのである。)

 

  従って、

「水が上にのぼらない」

ということばは、仏道の内外の典籍にない。尤も、ある経のなかに

「火風は上にのぼり、水火は下にくだる」

という一節があるが、ここにいう「上下」ということばは、さらに検討する必要がある。

それは仏道のうえでの上下である。いわゆる地や水の行くところを、仮に下とするの

である。下として初めから定まっている処に、地や水が行くのではない。同じように

して、火や風の行くところを仮に上とするのである。

  存在世界に初めから上下四方の差別があるのではなく、物質の働きを基準とし

て、仮に、方角のある世界を考えるのである。天界は上、地獄は下にあるのではな

い。地獄も一切世界にあり、天界も一切世界にあるのである。

 

(仏と衆生という差別が、初めからあるのではない。真実に目覚めたものが仏であり、いつまでも

迷っているものが衆生なのである。)

 

                                                                  (1997.11.4)


  ところが、竜魚が水を宮殿と見るときには、ちょうど人がこの世の宮殿を見るとき

のように、宮殿が流れるとは思わないであろう。もし傍観者がいて、

「おまえが宮殿と見ているものは実は流水なのだ」

といえば、われわれがいま

「山が流れる」

ということばを聞いて驚くように、竜魚は忽ち驚き疑うであろう。しかし中には、

「宮殿楼閣の欄干や柱がみな流水だということもありうる」

というように理解する竜魚もあろう。この道理について静かに思いをめぐらすべきで

ある。

 われわれはこのようにして、対立した見方を超えることを学ばねばならない。それ

でなければ凡夫の身心を理解することができず、諸仏祖の国土、凡夫の国土、凡

夫の宮殿を正しく理解することができない。

  いま人間は、海の中にあるもの、河の中にあるものが水であることを知っている

が、竜魚やそのほかのものたちが、どのようなものを水として用いているかを知らな

い。自分が水と考えているものを、どの類もみな水として用いているに違いないと、

愚かにひとりぎめしてはならない。

 いま仏道を学ぶものが水について学ぶとき、人間の考えだけに止まっていてはな

らない。進んで仏道の上での水を学ぶべきである。諸仏祖が自由自在に用いてい

る水をどのように見ればよいかを学ぶべきである。先覚者の境地に水があるかない

かを学ぶべきである。

 

( 常識的な考えにとどまらずに、進んで解脱者の境地を学ぶべきである。)

 

                                                                 (1997.11.20)


  山は常に、すぐれた聖人たちの住居である。賢人も聖人も、ともに山を住居とし、

山を身心としている。賢人聖人によって山の真実の姿が現れるのである。およそ山

にはどれほど多くの聖賢が集まっているかと考えられるのであるが、彼らが山に入

ってからこのかた、誰も、その一人にも会ったことがないのである。ただ山の働きが

実現しているばかりであって、彼らが山に入った形跡は残っていないのである。

  世間から山を眺めるときと、山の中で山に会うときでは、山の姿は遥かに異なる。

従って、山が流れないという見方は、水が流れないという竜魚の見方と同じであっ

てはならない。人間や天人は、それぞれの世界に安住しており、それを他類が疑っ

たり疑わなかったりする。

 そこでわれわれは、「山が流れる」 ということばを諸仏祖に学ぶべきである。徒に

驚きや疑いにまかせておいてはならない。同じことについて、一方は流れるといい、

一方は流れないという。あるときは流れるといい、あるときは流れないという。このこ

とを学ばなければ、仏の教えを学んだとはいえない。

  諸仏祖がいっている。

「・・・焦熱地獄へ行きたくないならば、仏の教えをそしってはならない・・・」

 このことばを、身心の全てに銘記しなさい。身心の内外に銘記しなさい。形のな

いところにも、形のあるところにも銘記しなさい。あるいは木にも、石にも、田にも、

里にも銘記しなさい。

 

( 「山に入る」とは、解脱するということである。ひとたび解脱すれば、解脱したあとかたさえ残ら

ないのである。)

 

(1) 傍線部分・・・・・

  同じことについて、一方は流れるといい、一方は流れないという。あるときは流れ

るといい、あるときは流れないという。このことを学ばなければ、仏の教えを学んだ

とはいえない。

 

 では...山は流れるのか、流れないのか、 いったいどっちなのだ...というよう

に、二元論的に考えてはいけないということです。山は山であり、水は水であるとい

うことです。水が水を見て、水を学ぶということをお考えください。

 

 

  もともと山は国家に属しているとはいえ、山を愛する人に属している。山がその主

を愛するとき、聖賢、高徳の人は必ず山に入る。聖賢が山に住むとき、山はかれら

に属するから、樹石は繁茂し、鳥獣はすぐれている。それは聖賢たちがかれらに徳

を及ぼすからである。山が賢人聖人を好むことを知るべきである。

  帝王たちがしばしば山に行幸して、賢人を拝し聖人を拝して教えを乞うたことは、

古今の勝れた事実である。そのようなときには、帝は師礼をもって敬い、世間のしき

たりに従わない。帝の権威が山の賢人に及ぶことは全くないのである。帝たちは山

が俗界から離れていることを知っていたに違いない。

 黄帝がこうどう山に広成を訪ねた昔、帝は師を敬って膝で進み、ぬかづいて道を

問うた。また釈尊は、昔、父王の王宮を出て山に入られた。しかし父王は山を恨ま

ず、山にあって王子釈尊を導いた者達を怪しまなかった。釈尊は、十二年の修行期

間を殆ど山で過ごされ、悟りを開かれたのも山においてである。転輪王(てんりんおう/

インド伝説の理想王) のような力を持った父王ですら、なお山に対して無理強いすることを

しなかったのである。

 山は人間界のものでもなく、天界のものでもないことを知りなさい。人間のおしは

かりによって山を考えてはならない。人間の狭い考えに促われさえしなければ、誰も

山の流れることや、山の流れないことを疑わないであろう。

 

(ひとたび 「山は流れない」 という観念を打破したならば、「山は流れる」という観念も打破しなければ

ならない。)

 

  また、昔から賢人聖人たちが水に住むこともある。水に住むとき、魚を釣ることも

あり、人を釣ることもあり、道を釣ることもある。いずれも水中の勝れたおもむきであ

る。更に進んでは、自己を釣ることもあろう、釣を釣ることもあろう、釣に釣られること

もあろう、道に釣られることもあろう。

  昔、徳誠和尚が唐の武宗の弾圧にあって、あわただしく薬山を離れ、華亭江の

上に舟を浮かべて住んでいた時に、後に華亭江の賢聖と呼ばれた爽山(かつさん)

弟子とした。これこそ、魚を釣ることではなかろうか、人を釣ることではなかろうか、

水を釣ることではなかろうか。爽山が徳誠に会うことができたのは、彼が自分をすて

て徳誠に学んだからである。徳誠が爽山に接したということは、彼がまことの自己

に会ったということである。

 

(人が人に会うということは、真実の自分に会うということである。よき師に会い、よき後継者に会う

ことによって、自分の価値を生かして行くことである。)

 

  世界の中に水があるばかりでなく、水の中にも世界がある。水中がそうであるば

かりでなく、雲の中にも自己の世界がある。風の中にも、火の中にも、地の中にも、

存在世界の中にも、一茎の草の中にも、一本の杖の中にも、自己の世界がある。

そして自己の世界のあるところには、必ず諸仏祖の世界がある。このことを、よくよく

学ぶべきである。

 

(解脱者の立場から見れば、世界中の全てのものが、等しく解脱者の境地にある。)

 

(1) 傍線部分・・・・・

  風の中にも、火の中にも、地の中にも、存在世界の中にも、一茎の草の中にも、

一本の杖の中にも、自己の世界がある。そして自己の世界のあるところには、必ず

諸仏祖の世界がある。

 

  風の中に、“風の心”を見つめて下さい。火の中に、“火の心”を見つめて下さい。

石コロの中に、“石コロの心”を見つめて下さい。ただ、無心に、その心を見つめて

下さい。風の心とは何か、火の心、石コロの心とは何か・・・それを、形として分析す

るのではなく、ただ、無心に、見つめて下さい・・・

 

 

  従って、水は真実を悟った竜が見た宮殿のようなものであって、流れ去るばかり

ではない。水が流れるばかりであると、ひとりぎめするのは、水をそしることである。

なぜならばそのようなものは、ひとたび立場を代えれば、水は流れないと決めてしま

うからである。しかし、水はありのままの水なのである。水は水なのであって、流れ

ではない。

  このようにして、ひとすくいの水の流れることや流れないことを学び究めるとき、す

べてのものごとの究極が、忽ち理解されるのである。

 

( 表面的事実にとらわれて、その背後にある普遍的事実を見過ごしにしてはならない。一掬いの水

について学ぶことは、とりもなおさず、究極的真理を理解することにほかならないのである。)

 

  山には、宝の中に隠れている山があり、沢の中に隠れている山があり、空の中に

隠れている山があり、山の中に隠れている山があり、更には、隠れることの中に隠

れている山があることを学びなさい。

 これについて先覚者が言っている。

「・・・山は山であり、水は水である・・・」

 この言葉の真意は、山はただ山であるというのではなく、解脱者の見た山である

ということである。従ってわれわれは、そのような山のことを身をもって学ぶべきであ

る。山を学ぶというのは、自己が山となって学ぶのである。そのような山水が、おの

ずから賢人となり、聖人となるのである。

 

(人間の求めている真実は、学ぶ心さえあれば、自然界のどこにでも見出すことができるのである。

それを 「山が仏の教えを説き、水が仏の教えを説く」 というのである。)

   

 

  “山水経” は、ここで終わりです。自分の気に入った文節は、人生の道標と

なります。粗末にせず、大切に保存し、くり返しくり返しお読み下さい。その時

折で、ますます道元禅師の深い御心がしみわたります。

 

         

 

         次は、“有時”です。ご期待ください!