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    < 無 門 関・第19則>   <平常の心が道である・・・>

      平 常 是 道 (へいじょうこれみち )    

                                                          

                         

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆 : 高杉 光一


  
No.13  平常是道( へいじょうこれみち )... <無門関.第十九則>

           <4>..... 無門の評語

2000. 5. 2

2000. 6. 1



  <1> 公案               wpeA.jpg (42909 バイト)    

  趙州(じょうしゅう)がある時、南泉(なんせん)に、

「道とは何ですか?」と問うた。

「平常の心が道だ...」と南泉は答えた。

「それでは、どのように、それに向かうべきでしょうか?」と趙州は尋ねた。

「向おうと努めれば、道から離背してしまう...」と南泉は答えた。

  趙州は更に問うた。

「もし努めなければ、どうして平常心が、道であることが知り得ましょう?」

  南泉は答えた。

「道は知にも属さないし、不知にも属さない。知は妄想であり、不知は空虚である。も

し本当に不疑の道を体得するならば、それはちょうど太虚が廓然として限りのないよ

うなものだ。そのとき、道に是非の分別の沙汰があろうか...」

  この言葉に、趙州は頓悟(とんご)した。

 

  さあ、この公案は...<無門関・第十四則/南泉斬猫>と同じく、再び南泉禅師

趙州禅師の話になります。

  時代はだいぶ遡り...南泉が五十歳ぐらい、趙州の方は、二十歳をやや過ぎた頃

です。したがって、趙州の方は、名前もまだ従諗(じゅうしん)と呼ばれていた修行僧時代

の話になります。しかし、“頓悟(とんご)した”とありますから、彼はここで悟りを開いてい

るわけです。

 

   “頓悟”とは、修行の段階を経ずに、一挙に悟りを開くことを言います。これに対し

“漸悟(ざんご)という言葉があり...これは長い修行の時間をかけて、ゆっくりと悟

りを開いていくものです。

  どちらが、いいというものではありません。五祖/弘忍の門下に慧能(六祖)神秀

(門弟中の最上席)がいて、後に...慧能が頓悟(/南宗禅)神秀が漸悟(/北宗禅)と言われ

るようになりました。

 

  当時...禅宗の初祖/菩提達磨(ぼだいだるま/インドより海路で渡来・・・北方中国の魏国/崇山

(すうざん)少林寺に入るに続く...五祖/弘忍(ぐにん、こうにん)は、北方中国は蘄州(きしゅ

う)の黄梅山にあり、そこは常時七百余名の門弟でにぎわっていたと言われます。ま

さに禅宗の黎明期であり、ここから禅宗は無数の枝葉を伸ばして開花し、やがて日本

にも伝わってくることになります。

  さて...激しい情熱だけで、身ひとつで南方/新州から北方/黄梅山にたどりつ

いた慧能(六祖)は、いまだに僧侶の身分さえありませんでした。さらに、貧しく無学で

あり、字も書けなかったと言われます。しかし、ようやくここで米つきの仕事を許され、

約八ヶ月間、毎日米つきをしていました。

  ところが、そうしたある日、五祖/弘忍が全山に布告を出しました。自分の力量を

示すために、各自それぞれ(げ/詩のこと)を作ってみよと言うのです。そして、ここで

慧能は、古参の超エリート集団を追い抜き、まさにその力量を示しました。しかも、字

を書けなかった慧能は、それを童(わらべ/寺に住む小僧で、慧能と同じように雑役をしている)に書

いてもらい、首座の神秀の横に張り出したのです。優劣は一目瞭然でした。

  その後、五祖/弘忍からこっそりと“衣鉢”を受けた慧能は、さっさと南方へ帰って

しまいます。禅宗においてを受け継いだということは、法嗣(ほっす)ということで

あり、この場合は、禅宗世界六祖/慧能の誕生を意味していました。

  さあ、まだ僧侶でさえもない、米つき行者(あんにゃ)の新参者に衣鉢を持っていかれ、

黄梅山は一大事になりました。また、黎明期の禅宗世界にとっても、五祖/弘忍

“衣鉢”は何をもっても代えがたい象徴的な宝だったのです。

  その象徴が、何故それほど大事かといえば...“仏教とは・・・悟り/覚醒という

・・・真理の体験的伝承の大河”...であり、禅宗においては、それが特に強く出て

いたようです。仏教は、他宗教に見られるように、たった一冊の聖典に帰結するもの

ではなく、真理の体験によって伝承されてきました。

  したがって...五祖“衣鉢”はそれほど大事な宝でした。むろん、弘忍もそれを

承知していたからこそ、こっそりと慧能に与え、南方へ逃がしました。“頓悟”慧能

の出現は、新しい時代を予感させるものだったのでしょう。そして、この五祖/弘忍

の行為もまた、禅宗の黎明期における、歴史的なすがすがしい話です...

 

  ...この禅宗史に残る大事件と“頓悟”については、

           <無門関・草枕...第二十三則/不思善悪>

               <特別道場/...ステージ2・まほろば>

                      <小説/唯心>


  ...等で詳しく考察していく予定です。いずれにしても、これが慧能の“頓悟”の威力

であり、このような悟りのあり方は、後の禅宗の展開に大きな影響を及ぼしていきます。

 

  公案の末尾に...若い趙州“頓悟した”...とあるのは、この慧能のような悟

り方をしたということになります。いずれにしても、<無門関・第一則/趙州狗子>

から度々登場する大禅匠/趙州が、悟りを開かれた時の光景です。また、“頓悟の

光景の一例”が示されているわけでもあり...しっかりと学び取ってください。

 

<文化的背景・・・>       wpeA.jpg (42909 バイト)    


  さて、公案の冒頭で、青年・趙州は、
「道とは何ですか?」と問うています。これに

対して師/南泉は、「平常の心が道だ!」と答えているわけです。

  この“道”という語は、古来東洋思想においては、非常に深い重要な役割を担って

来ています。まず、仏教よりも古い道教において、その中心的な教えとなっています。

 話は少しそれますが...そもそも中国文化というのは、歴史を記録する文化と言

われます。誰が、いつ、何処で、何をしたか、ということを克明に記録することを得意

としています。一方、仏教の生まれたインド文化は、こうした傾向とは対照的で、哲学

的な傾向の強い文化です。したがって、仏教においては、涅槃(ねはん)般若(はんにゃ)

(くう)、などの概念が多用されます。

  しかし、もともと中国には、このような概念は発達していませんでした。そこで、

めて実践的な臭いのする・・・道/タオ(Tao)・・・という一語...をこれに当てはめた

と言われます。

  むろん、中国には、この菩提達磨系禅宗以前に、すでに密教が伝わっていて、

大きく花開いていました。またその密教は、学僧/空海(弘法大師)らによって、日本に

も伝来しています。

 

<日本では、これ以前に聖徳太子の時代にも、仏教文化が大きく花開いています。いずれも中国から伝わってきたも

のですが、禅宗はこうした中では、一番最後に日本に伝来した仏教ということになります。

 

  中国における禅宗は、唐時代の末期から宋時代にかけて隆盛してくるわけです

が、日本に伝来するのは宋時代であり、日本では鎌倉時代ということになります。ち

なみに、道元禅師が海を渡ったのも、中国では宋の時代でした。また、道元禅師

日本に帰った直後あたりの時期に、無門禅師『無門関』を編集しているようです。

 

  ところでこの...“実践的な臭いのする道”という概念が...“実践的性格の強

い禅宗と結びついた時...ようやく...“インド伝来の仏教が・・・中国文化の大

地に根付いた”...と言われます。

  つまり、菩提達磨によってもたらされた“禅”という一粒の麦は、“禅宗”となって

国の大地で大きく花開し...それは、“中国独自の仏教文化”して完成して行った

ということです。いずれにしても、この禅宗において、仏教インド臭さが抜けたとい

われます。日本の仏教も、唐・天竺(から・てんじく)から伝わっているわけですが、

唐時代の中国であり、天竺は当時のインドのことです。

 

<思えば、菩提達磨は、その後の中国及び日本の文化に、計り知れないほどの影響を

及ぼしているわけです...そしてまさに今、原稿を書いている私自身も、その影響下に

あるわけです。むろん、私としては、そのことを誇らしく思っています...> 高杉 光一

    <2> 公案の分析                               


  青年・趙州が、

「道とは何ですか?」

  ...と尋ねていますが、ここで言う“道”とは、“禅の真髄”というほどの意味です。

  これに対して南泉は、

「平常の心が道だ!」

  ...と答えているわけです。しかし、そう言われても、青年・趙州には私たちと同様

に、理解できませんでした。それで、更に問います。

「それでは、どのように、それに向かうべきでしょうか?」

  これは、“平常是道”の境地に心眼を開くには、どの方向を向き、どのような努力

や工夫をしたらよいのか、という意味です。まさにこれは、私たちの知りたい疑問

のものではないでしょうか。後の大禅匠/趙州でさえも、私たちと同じように、右も左

も分からない時代があったのです。そして、この問いに対し、南泉はこう言います。

「向おうと努めれば、道から離背してしまう...」

  この真意は、どのようなものでしょうか...一生懸命に何かに向かおうとしている

その心...それそのものが、即ち“分別心”であるということです。どの方向、どのよ

うな努力、どのような工夫...それらの全ての“分別心”二元的概念であり、仏の

教えとは、まずそうした“はからい”を捨てよということなのです。

  阿頼耶識(あらやしき/唯識説で説く、八識の第八)にある、あれこれと考える“自我”を捨て、

“無心になれ”とは、まさにこのことなのです。道元禅師も『正法眼蔵』の中でこう言っ

ておられます。

 

  仏道を学ぶということは、自己を学ぶことである。自己を学ぶということ

は、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、総てのものごと

が自然に明らかになることである。

  総てのものごとが自然に明らかになるということは、自分をも他人をも

解脱させることである。悟りのあとかたさえ残さないのである。そのことを

いつまでも行いあらわしていくのである。

                              『正法眼蔵』/現成公案より /再度、記しておきます      

 

   さあ、こう言われても、青年・趙州はまだ分かりません。もともと彼は、仏教の学

問的研究を断念し、北方中国の故郷を捨て、南方の南泉禅師の門を叩いたほどの

人物です。

  したがって、単に分からないと一言でいっても、私たちのように軽い気分のもので

はなかったのです。時代は前後しますが、あの“洞山三頓”洞山禅師のように、

故郷を捨て、まさに悶々と求道の修行を重ねてきていたわけです。そこで、もう一度、

血の出るような問いを発します。

 

「もし努めなければ、どうして平常心が、道であることが知り得ましょう?」

 

  この意味は、努力や工夫もせずに、どうして“平常是道”の境地に、心眼を開くこ

とが出来るのでしょうか、ということです。うーむ...もっとも質問です。また、自分自

身がそのために、壮絶な努力や工夫を重ねてきた者の言葉です。これに対し、南泉

禅師の答えは懇切丁寧です。

 

「道は知にも属さないし、不知にも属さない。知は妄想であり、不知は空虚である。も

し本当に不疑の道を体得するならば、それはちょうど太虚が廓然として限りのないよ

うなものだ。そのとき道に是非の分別の沙汰があろうか...」

 

  “道”は、知にも属さないし、不知にも属さないと南泉は言います。さらに、知は妄

想であり、不知は空虚であると...

  さあ、この説明を聞いて、スッ、と理解できるでしょうか。れはやはり、多少なりと

も禅修業の体験をしたことのない者には、なかなか難しい所だと思います。しかし、

分からなければ、このときの青年・趙州のように、更にもう一度重ねて質問すること

です。しかし、それでも分からなければ、再び修行の場に戻ればいいのです...

  

  今までの二人の会話を要約してみると、こうなります。

                                          ********************************************

「道とは何ですか?」

「平常の心が道だ!」

「それでは、どのようにそれに向かうべきでしょうか?」

「向おうと努めれば、道から離背してしまう...」

「もし努めなければ、どうして平常心が道であることが知り得ましょう?」

                                         ********************************************

「道は知にも属さないし、不知にも属さない。知は妄想であり、不知は空虚

である。もし本当に不疑の道を体得するならば、それはちょうど太虚が廓

然として限りのないようなものだ。そのとき道に是非の分別の沙汰があろ

うか...」

  この言葉に趙州は頓悟した。

                                         ********************************************

  前にも言いましたように、“道”とは禅の真髄のことです。それは、知にも属さない

し、不知にも属さないといいます。また、それは“平常心”だとも言っています。しか

し、この説明では、一般常識的な解釈では理解できず、どうしても禅的な修業が必

です。

  これは全ての公案に通じることですが、禅の本質は私たちの分別心の根源であ

阿頼耶識を離れることにあるからです。阿頼耶識にある“分別する心”“自我”

を捨てよ、そしてただ“無心となれ”...そうすれば、おのずとそこに、全てが明ら

かになるということです...

 

         自我を捨て...自我を忘れ去り...

       この世の一切の柵(しがらみ)を、両腕と両脚から放下し...

       ただ無心に、眼前の風景を見つめる時...

 

    ...まさに、それが南泉のいう“平常の心”なのではないでしょうか。ここに

は...

       

        主体もなく、客体もなく...

       時間もなく、空間もなく...

       生もなく、死もない...

       すなわち、一切の二元性のない世界...

         

  ...しばらくは、このような“平常心/禅の真髄”というものにじっくりと接し

てみてください。

   <3> 頓悟の風景・・・       

  さあ、この公案のもっとも肝心な部分です。最後に、青年・趙州は何を理解し得て、

“頓悟”に到達したのでしょうか。南泉は、こう言っているわけです。    

 

「道は知にも属さないし、不知にも属さない。知は妄想であり、不知は空虚である。も

し本当に、不疑の道を体得するならば、それはちょうど太虚が廓然として限りのない

ようなものだ。そのとき道に是非の分別の沙汰があろうか...」

 

  この言葉に趙州は頓悟した。ともかく、この一文は難しい文章ではありません。何

度も読み返し、その大意をしっかりと把握してください。それから、一語一語の意味を、

しっかりと自分自身の知恵で検証していってみてください。

  これは、大禅匠/趙州“頓悟”した文節ですから、そうしてみる価値は十分にあ

ります。いずれにせよ、悟りを得るということは、結局は先人の指し示した所を、自分

自身で気付き、それを掴み取る以外にはないのです。

  “道”というものは、知にも属さず、不知にも属さず、また知というものは妄想であ

り、不知は空虚であるといいます...ここには、私があえて言葉をさしはさむ余地は

ありません...つぎに...

 

「もし本当に不疑の道を体得するならば、それはちょうど太虚が廓然として限りのな

いようなものだ...」

 

  ...ここでいう不疑の道とは、疑いや疑問のない道ということであり、これまで述べ

てきた“道”と同じ意味です。つまり、“禅の真髄”“大道”“至道”ということです。

  したがって、これを体得したなら...それはちょうど、太虚が廓然として限りのない

ようなものだ...いうことです。うーむ...では、太虚が廓然として限りのないとは、

どのようなことを言うのでしょうか。これこそまさに、これまでの公案でずっと述べてき

た、趙州の無”であり、倶胝の一指”であり、無門禅師の“内外打成一片”

景なのです。

 

  つまり、南泉趙州に示した“平常の心”とは、一般的な相対世界におけるもので

はなく、悟りによって体得された絶対主体的な“平常心”だったのです。繰り返します

が、“悟り”とは、阿頼耶識における自我の分別心によって理解するものではなく、そ

自我を捨て去ることによって実現するものなのです。したがって、“慧能の頓悟”

は、この核心を・・・グイと掴み取ったもの”...ったのです。

 

 ちなみに、南泉の師は馬祖であり、その師は南岳であり、更にその師が慧能になり

ます。慧能南宗禅“頓悟”は、このように引き継がれ、趙州に至っていたわけで

す。                                       

                                                   

   <4> 無門の評語            (2000.6.1)

 

  南泉は、趙州の問いにあって、まるで瓦は崩れ、氷は消えるように見苦しい有様

で、何とも言い開きの余地がない。趙州はたとえ悟りを得たとしても、さらに三十年修

行して初めて、本当にうなずき得るであろう。

 

  例によって、ここでも無門禅師は悪口雑言を並べ立てています。しかし、いつもの

ように真意はここにあるわけではなく、実は南泉をほめたたえているのです。そして、

趙州“頓悟”をまだまだと奪い去り、本当にうなづきうるには、さらに30年(長い年月)

の修行が必要であると言っているのです。

  これは、一体どういうことなのでしょうか...察するに、趙州には確かに、“頓悟”

ありましたが、ここではまだ単なる“知解”であるということです。したがって、それ

は観念論であり、“真の実践的な禅心”には至っていないと言うことなのでしょうか。

  また、言うまでもなく、“真の実践的な禅心”などと言うものは、本来言葉で説明で

きるようなものではないのです。したがって、この“頓悟”がスタートであり、さらに長

い年月の修行の中で、真にうなづき得る時が来ると言っているわけです。“頓悟”

いうものの、ひとつの風景を示しているわけです。

 

  さあ、ここにもまた...公案というもの...“悟り”というものの・・・熟成されて

いく姿”...が端的に示されています。そして、まさにこの...“熟成されていく過

程の・・・悟りの真髄”...こそが...“平常是道”と私は理解しています。

  

   <5>無門の頌 (じゅ...口語訳)          wpeA.jpg (42909 バイト)             

 

春に百花あり秋に月あり

夏に涼風あり冬には雪がある

もし心につまらぬ分別の雲がかからぬならば

君にとってまさに好時節である

 

  これは一読して分るように、四季の風情をほめたたえている歌です。そして...

 

       もし心につまらぬ分別の雲がかからぬならば...

 

  ...と言っています。つまらぬ分別の雲とは、無限に拡大していく様々な煩悩の

ことを指しています。例えば、四季にも別の側面があります。春には花の散る寂し

さがあり、秋の月は雲に隠れるむなしさがあります。また、夏には耐えがたい蒸し

暑さがあり、冬には極寒の厳しさがあります。

  しかし、二元的対立を超え、ひとたび“真の実践的な平常心”に至れば、“すなわ

ち是れ・・・人間の好時節”というわけです。したがって、生老病死(人間の持つ4つの基本

的な苦しみ)もその二元性を超え、人間の好時節として生き抜くということです。

 

  花と言えば花になりきり...月と言えば月になりきる...のです。また、ひと

たび、生と言えば生を生き抜き...老といえば老を生き抜き...病といえば

病を生き抜き...死といえば死そのものを生き抜く...のです。

 

  しかして...死そのものを生き抜くとは、どのようなことかといえば、つまり...

花は花であり...月は月である...のと同じことです。本来、二元的対立を超えた

所には...いわゆる...生もなければ死もなく、花もなければ月もない...のです。

  あるのは...“唯心・・・ただ一つの心”...なのです。それは...“部分や切

れ目のない・・・全体が一つのもの”...なのです。これは裏返せば、自分などという

部分系は何処にも存在しないということであり...“無心”ということなのです。

 

          < 無 門 関・第 十九 則 > は、これで終わります。

                                      担当: 高杉 光一  wpeA.jpg (42909 バイト)