Menu仏道経典/般若心経

             般 若 心 経  (はんにゃしんぎょう) 

     <パソコン/ワープロによる写経・・・仮名ふり・・・和訳・・・解説/考察>  

            

トップページNew Page WaveHot SpotMenu最新のアップロード   担当: ボス= 岡田 健吉 

  INDEX                  

プロローグ     <般若心経とは・・・> 2014. 7. 5
No.1 【般若心経】 <写経/初回> 2014. 7.24
No.2     仮名ふり 2014. 7.24
No.3     和訳 2014. 7.24
No.4     解説/考察  2014. 8. 8
No.5         ・・・・・①  『仏説・・・摩訶般若波羅蜜多心経』            2014. 8. 8
No.6         ・・・・・② 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 ・・・・・ 2014. 8. 8
No.7         ・・・・・③ 舎利子 色不異空 空不異色 ・・・・・ 2014. 9.25
No.8         ・・・・・④ 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄  ・・・・・ 2014.10.13
No.9         ・・・・・⑤ 無無明亦無無明尽 2014.11.13
No.10         ・・・・・⑥ 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故  (準備中)
No.11    
No.12    

                                                  

プロローグ             

般若心経とは・・・>                                      

サンスクリット語(/古代インドの標準的文章語)で書かれた...」ボス(/岡田)が言った。「最古『般

若心経』経典は、日本に現存いています。609年(推古天皇17年)渡来したものと推定され、

パットラ・ターラという植物の葉に記されたものです。

  『般若心経』原典何種類もあり、サンスクリット語原本は、大別して大本小本2種

ということです。サンスクリット語からの漢訳(漢文への訳)も多く、現存するだけでも7種類ある

ようです。普通、私たちが読むのは、玄奘(/玄奘三蔵・・・唐代の訳経僧。陸路でインドに向かい、経典657部

や仏像などを持って帰還している)です。

 

   『般若心経』とは、『大般若経』に含まれる代表的な経典です。『大般若経』は、仏教経典

中では最も長いもので、一般に通読されることは(まれ)ということです。しかし、その中の『般

若心経』だけは例外であり、『法華経』(ほけきょう)と並んで、最も有名お経と言われています。

   『般若心経』は、わずか262文字お経ですが、顕教(けんきょう/秘密にせず、明らかに説かれた教えの

こと)においても、密教(みっきょう/秘密の教え)においても重んじられています。

  大乗仏教では...“大般若(だいはんにゃ)の萃要(すいよう)・・・真実の智慧の選りすぐって重要な

もの”と言われ...密教では...“般若波羅蜜多菩薩(はんにゃはらみったぼさつ)の内証三昧地(ない

しょうさんまいじ)・・・悟りの境地”...と言われます。

 

  262文字の中でも特に有名なのが...

        “色即是空(しきそくぜくう)・空即是色(くうそくぜしき)

  ...の文字です。意味は...

  “あらゆる迷妄がなくなった空の境地に至れば・・・一切の現象/色が・・・実相/あり

のままの姿で眼前に現れる。

  仮の姿であると思われていた・・・現象/色が・・・仏の世界の真実の存在に他ならな

い”

  ...ということです。

 

   『般若心経』では...煩悩(ぼんのう)を捨て、執着を断った所に...“空の境地”が開け、その

“空の境地”こそこの世の真実であり、一切の苦しみが除かれる道である...とくり返し説いて

います。簡潔かつ深遠『般若心経』が、宗派を超えてはるかな昔から、多くの人々の心を導い

て来ています」



   般若心経         

    <写経/・・・ 初回

 

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
ぶっせつ ま か はんにゃ は ら みつ た しんぎょう

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
かん じ ざい  ぼ さつ  ぎょうじんはんにゃ は ら みっ  た じ   しょうけんご うんかいくう   ど いっさい く やく

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
 しゃ り  し   しきふ  い くう      くう  ふ   い しき   しきそく ぜ くう   くう そく ぜ しき

受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄
じゅうそうぎょうしきやくぶ にょ ぜ   しゃ り し   ぜ  しょほう くう そう   ふ しょうふ めつ  ふ  く  ふ じょう

不増不減 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意
 ふ  ぞう  ふ  げん  ぜ  こ くう ちゅうむ しき  む じゅうそうぎょうしき   む  げん に  び ぜつ しん い

無色声香味触法 無限界 乃至無意識界 無無明亦無無明尽
 む   しきしょうこう み そく ほう   む げんかい  ない し む  い  しき かい  む  むみょうやく  む  む みょうじん

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
ない し む ろう し   やく む ろう し じん   む  く しゅうめつどう   む  ち やく む とく   い む しょ とく こ

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故
 ぼ だいさつ  た   え はんにゃ は ら みつ た  こ   しん む けい げ   む けい げ  こ

無有恐怖遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏
 む  う  く  ふ おん り いっさいてんどう む そう   く きょう ね はん  さん ぜ しょ ぶつ

依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
 え はんにゃ は  ら みつ た こ    とく あ のく た  ら さんみゃくさん ぼ だい  こ  ち はんにゃ は ら みつ た

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦
 ぜ だいじんしゅ   ぜ だいみょうしゅ  ぜ む じょうしゅ  ぜ  む とう どう しゅ  のう じょ いっさい く

真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 掲諦 掲諦
しん じつ ふ  こ    こ せつはんにゃ は ら みつ た しゅ  そく せつしゅ わつ  ぎゃ てい  ぎゃ てい

波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提僧莎訶
はら ら ぎゃてい   は ら そうぎゃ てい   ぼ  じ  そ  わ か


 

< 和 訳 >       

 

観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊はみな、空なりと照見して、一切の

苦厄を度したまう。

舎利子よ・・・色は空に異ならず、空は色に異ならず、色はすなわち、これ空にして、空す

なわち、これ色なり。受・想・行・識とも、またかくの如し。

舎利子よ・・・この諸法は空の相にして生ぜず、滅せず、垢ならず、浄ならず、増さず、

減らざるものなり。

このゆえに、空の中には色もなく、受・想・行・識もなく、眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、

色・声・香・味・触・法もなく、限界もなく、ないし、意識界もない。

無明もなく、また無明の尽きることもなく、ないし、老死もなく、また老死が尽きることも

なく、苦・集・滅・道もない。智もなく、また得もない。無所得なるをもってのゆえなり。

悟りをめざす者は、般若波羅蜜多に依るゆえに、心に罣礙がなし。罣礙がなきゆえに、

恐怖あることなく、一切の顚倒せる夢想を遠離して、究竟し涅槃に入る。

三世の諸仏は般若波羅蜜多によるがゆえに、得阿耨多羅三藐三菩提を得たまへり。ゆ

えに知る。般若波羅蜜多が、これ大神呪なり、これ大明呪なり、これ無上呪なり。

これ無等等呪なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざる。ゆえに般若波羅蜜多

の呪を説く。すなわち呪を説いて曰く。

掲諦掲諦波羅掲諦、波羅僧掲諦、

菩提、僧莎訶なりと・・・



               

<般若心経・・・ 解説/考察 > 

 

「ええ...

  この“解説/考察”の項は、簡単に考えていたのですが、そうもいかないようです。仏教

本的ステージにも触れ、についても触れなければなりません。当初計画を変更し、腰を据え

考察することにします

  しかし、そうは言っても...せっかく、『大般若経』エキスを抽出した『般若心経』です。簡潔

に、そして少しづつ仏教世界に入って行くことにします。ともかく、歩き出してみます。

  あ、断って置きますが...私は僧侶でもなく、俗人風来坊です。一緒に写経し、考察し、

んで行くというスタンスになります。さあ、『般若心経』の世界に、踏み込んでみましょう...」

 

  

『 仏説・・・摩訶般若波羅蜜多心経 』 ・・・・・ ①  

     ぶっせつ     ま か はんにゃ は ら みつ た しんぎょう

 

「先頭にある“仏説“というのは、“お釈迦様がおっしゃった”、という意味です。

  したがって、以下の“摩訶般若波羅蜜多心経”がこの経典名前/題号になります。“摩

訶般若波羅蜜多”までは梵語(ぼんご/サンスクリット語のこと。古代インドの標準的文章語)で、“心経”とつ

きます。

  “摩訶”とは...“マハー”という梵語が、漢文音写された字です。“偉大な、大きな”

します。“摩訶・不思議”などと言いますが、大・不思議ということですね。

  “般若”“智慧”和訳します。これも、“智慧”を意味する“パンニャー”という音写から来て

います。般若般若面(嫉妬や恨みのこもる女の顔)を連想するわけですが、これは般若坊という僧侶

が作ったお面だそうです。

  ついでに、もう1つの説を紹介すると...『源氏物語』葵の上(あおいのうえ)六条御息所(ろ

くじょうのみやすんどころ、ろくじょうみやすどころ/光源氏の最も早い恋人の1人)嫉妬心に悩まされ、その生怨霊

(いきおんりょう)にとりつかれた時、『般若経』を読んで御修法(みずほう)を行い、怨霊を退治したこと

から...嫉妬や恨みのこもる女の顔を表した鬼女の面般若面になった、とも言われます。

  “波羅”も同じく...“あちらの岸・・・彼岸”という音写から来ています。“蜜多”“到る”とい

う意味の音写です。“波羅蜜多”で...“到彼岸/彼岸に到る”和訳します。

 

  本文/漢文が...梵語(ぼんご)/サンスクリット語音写をし...その漢文をさらに和訳して

いることになります。パソコンのある現代とは違い、莫大な労苦の集積です。そればかりでなく、

そもそも、“命を賭(と)した求法(ぐほう)の大冒険の・・・歴史的大水脈”、があるわけですね。

  “紀元前5世紀頃・・・天竺(インドの古い呼び名)に釈尊が生まれ・・・その教えがインド文化圏/イ

ンド大陸を席巻し・・・砂漠の民を介して・・・中国文化圏/中国大陸にし伝来してくる姿は・・・

人類文明史の本流の1つ”、です。

  そして、“シルクロードの終着点/日本において・・・大乗仏教は大切に護持”、されてきまし

た。“それが今・・・私たちの時代になり・・・こうして学んでいる”、ということになるわけです。

 

  さて、摩訶=偉大なは...ここでの意味するところは、“畢竟(ひっきょう/究極、つまるところ、)

いうことです。

  “般若=智慧”は...仏教的には、“一切を・・・否定して行く力”です。これは、序々に説明し

て行くしかありませんが、“一切を否定”するといっても、世間一般小理知の否定ではありま

せん。大智慧による否定なのてす。つまり、こうなります...

 

摩訶般若・・・畢竟、空(くう)の智慧で・・・一切のものを空にして行こう...というもので

す。

“徹底的に・・・一切のものを畢竟空にし・・・その大智慧の力を持って・・・向こう岸/彼岸

に渡ろう”...という題号の趣旨(しゅし/事を行うにあたっての、もとにある考えや主なねらい)になります。

 

  ここに出てくる“空”は、仏教中心的な概念になります。これも、序々に説明して行きます。

 ここでは...“畢竟空(ひっきょうくう)の力で、“彼岸(ひがん)に渡ろうというわけですが、“彼岸”

とは“涅槃(ねはん)のことです。

  この“彼岸”に対し...現世/こちら側を、此の岸(このきし)/此岸(しがん)と言います。つまり、

迷いの現世から、悟りの涅槃の岸辺渡ろうということです。

  仏教全体は、此岸から彼岸へ渡ろうという往生思想(おうじょうしそう)です。しかし、んで涅槃

の世界へ行くというだけではなく...現世迷いの私達が、悟りの世界に生まれ変わろう、

してゆこう、という意味もあるのです。

  仏教は...如何にして、“この私が生まれ変わって行く”か...という、“内観的(ないかんてき)

宗教です。自己を内観し、自己を改造し、深く修行して行くところに...仏教の基本的な潮流

があるようです。この基本スタンスを見ても...一神教的な、他を排撃する宗教でないことが分

かります」

 

「ええと、まだ“心経”の説明が残っていました...

  ここでの“心”は、いわゆる心の内のことではなく、“心髄”という意味になります。『大般若経』

という600巻に及ぶお経から、262文字のエキスを抜粋(ばっすい)した“心髄”ということです。

  “経”とは、“常”という意味であり、いつまでも変わらないことですね。いわゆる、釈迦牟尼仏

(しゃかむに・ぶっだ)/釈尊(しゃくそん)の説かれたことは、全てお経であり、記されたものは経典

す。したがって、“心経”意味は、 『大般若経』心髄を示した...千古不磨大典というこ

とです...」

 

“観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時    ・・・・・②      

  かん じ ざい  ぼ さつ  ぎょうじんはんにゃ は ら みっ  た じ   

              照見五蘊皆空 度一切苦厄”
                          しょうけんご うんかいくう   ど いっさい く やく


観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊はみな、空なりと照見して、

一切の苦厄を度したまう。

 

「ここからが本文です...

  『般若心経』 は、釈迦牟尼仏陀/釈尊が、高弟である舎利弗(しゃりほつ)に説いたものです。

本文に出てくる舎利子がそうです。舎利弗知恵第一といわれ、目連の方は神通第一と言わ

れました。この2人釈迦仏教教団最初期の弟子で、釈迦10大弟子筆頭格になります。

 

  この...“観自在菩薩”(かんじざい・ぼさつ)という...菩薩(ぼさつ/梵名でボーディ・サットヴァ の音写・・・

菩薩は仏教において、一般的には成仏を求める修行者を指します。菩提薩埵とも音写され・・・本文/漢文にも出てきます。弥勒・

観世音・地蔵などの高位の菩薩仏に次ぐ存在として信仰されています。)は、“観世音菩薩(かんぜおん・ぼさつ)/観

音菩薩(かんのん・ぼさつ)/観音さま”のことです。

  “観世音菩薩”は...鳩摩羅什(くまらじゆう/344~413年/中国の南北朝時代の初期に仏教経典を訳した僧。

インドの貴族の血を引く父と、亀茲(キジ)国の王族の母との間に生れたと言われます。)旧訳

   『般若心経』/本文にある“観自在菩薩”は...玄奘三蔵(げんじよう・さんぞう/602~664年/唐の

時代の僧。陸路でインドへ行き、帰還している。鳩摩羅什と共に二大訳聖と言われます。の、新訳ということです。つま

り、呼名の違いです。

 

  この“観自在菩薩”は...一切万有の上に、実相を見ておられると言います。本当の相

空相/空の相だと言います。私たちの自我というのは畢竟空の相です。その一切万法の上

に、本当の相観達し、観達明慧(かんたつみょうえ)の自在を得ておられる菩薩様だということで

す。つまり...一切のものに、観達自在の力をもっておられる、菩薩様ということです。

 

“行深般若波羅蜜多時 ・・・深く般若波羅蜜多を行ずる時・・・

 

  “般若”“智慧”ですね。“波羅蜜多”“到彼岸/彼岸に到る/悟りの世界に至る”という

ことです。つまり、“智慧によって悟りの世界に至る”という意味です。この“般若波羅蜜多”を、

“深く行ずる時”...となります。字の如くですね。

 

“照見五蘊皆空 度一切苦厄 ・・・五蘊(ごうん)はみな、空なりと照見して、一切の苦厄を度

たまう。

 

  “照見”とは...“分かった、了解した”という意味です。五蘊(ごうん)は...まずとは

“集まり”のことです。したがって、五蘊というのは...“五つのものが寄り集まっている”とい

うことですが...これは、“色・受・想・行・識”のことです。

  人間肉体精神を、五つの集まりに分けて示したものになります。“色・受・想・行・識”

言葉も、本文にも出てきますので、その時に説明します。

  “苦厄”の...まず“苦”ですが...代表が“生・老・病・死”四苦と言われます。“生まれる

こと・・・老いること・・・病になること・・・死ぬこと”...の4つです。

  そもそも、“生まれること”苦しみになっているということです。人生は、“思い通りにならな

いことの最たるもの、という意味では、“根源的な苦”ですね。“厄”災難災いのことです。

厄年などともいいますから、馴染みのある言葉です。 

 

  “一切の苦厄(くやく)を度(ど)したもう”...とは、“どんなことも苦と思わなくなった”、ということ

です。“度”というのは“渡す”いう意味で、全ての苦しみ災いを、彼の岸/彼岸に、渡して

まって、“安らかな気持”になった、ということを表しています」 

 

 

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空  ・・・・・③ 

 しゃ り  し   しきふ  い くう      くう  ふ   い しき   しきそく ぜ くう  

               空即是色 受想行識亦復如是   

                           くう そく ぜ しき  じゅうそうぎょうしきやくぶ にょ ぜ

 

舎利子よ・・・色は空に異ならず、空は色に異ならず、色はすなわち、これ空にして、

空すなわち、これ色なり。受・想・行・識とも、またかくの如し・・・


『般若心経』は、釈尊が呼びかけ、舎利子が聞き手ですが、舎利子という語は経典の中に

出てきます。

  前にも言いましたが、舎利子とは釈迦10大弟子筆頭である、舎利弗(しゃりほつ/サーリプッタ)

尊者のことです。智慧第一と評される尊者です。釈尊“舎利子よ”と呼びかけて、説法されて

いるわけです。どのようなことを説いているかというと...“全てのものの・・・本当のありよう”

について、説いています。

 

  形ある物は、様々な条件によって・・・今、そなたの前に眼前している。逆に言えば・・・

色々な条件/縁によって成り立っているものが・・・物である

 

  ...と。釈尊は、物/物質と、それを認識する人の心の働きのことを、話されています。別

の言い方をすれば、“物質的存在と・・・認識作用の光景”です。それらは、“切り離すことはで

きない”、と言います。“物と心は・・・不可分のものだ”、と言います。

  これは、二千数百年後現代物理学哲学においても、まさに直面している課題です。

千数百年前に、すでに、こうしたことの深淵を考えていたわけです。仏教思想と、現代物理学

共通性が言われますが、仏教という思想斬新性が窺(うかが)えると思います。

  さて、一群『般若経典』と呼ばれるもの、がありますが...それらは全て<空>について

説かれている言います。<空>という概念が、仏教において、いかに哲学的・大課題であった

かが、窺(うかが)い知ることができます。それを、一言で言えば、こういうことです...

 

  “真実の在り様は・・・<空>である”

 

 ...と。そして、そのことを見抜くために、“般若=智慧”が必要だと。つまり、<空>悟る

には、智慧が必要だということになります。般若と名のつく経典はみな、この関係性を示してい

るようです...」

         

「さて...

  “色”とは...壊れることを前提にこの世に存在する、起こりうるすべての物質的現象です。

<空>とは何か...簡略化すれば...諸々の存在物因縁によって生じたもの...“固定

的な・・・実体というものが無い”ということです。

  <空>についてもう少し説明しておくと...人間というのは、自分で生まれてこようと思って

まれてきたわけではないです。父・母という因/原因と...生まれることができて、そうして

今まで成長できたという、緑/条件があり...今ここに、私/自己存在しているのです。

  それから...“生まれて来ることになった時”から、今まで...必然・偶然を問わず、があ

ゆるものに対して影響を与え...かつ、影響を受けて来たわけです。すると、自分というもの

の中結果を生じさせる、身にまとった因縁があったからこそ...は、存在し得た、とも言え

るわけです。

  周りにある因縁と、私の存在とは、常に関係しあっている。決して、私だけで孤立て存

在しているのではない、ということです。因緑があり、結果がある。逆に因縁がなかったら、結果

も起こらない。父・母がいなかったら、存在しなかった、ということです。まあ、現代物理学

はるかに超脱した領域にまで、踏み出して考察しています」



(みずか)ら...得たり失ったり、するわけではない...

  得る条件失う条件があったから...そういう結果になったに過ぎない。条件が変われば、

逆らうことのできない無常なもの...決して固有でも、固定でもないもの...それが<空>

あると言います。まあ、もっとも...現代物理学因果律でも、まさにそうであり、当然なので

すが...

 

  ええ、くり返すと...今の私であって、十年後の私である。しかし、今の私とは違う

であり...十年後には、今の私は存在しなくなる。

 いつまでも私だと思いたくなるが、決して同じ私ではない。私/主体/一人称的自己

は...認識とは、そういうものだということです。

  とは、常に変化している存在/流れている存在だということでしょう。しかし、他人

なるわけでもなく...過去・未来の私重い責任を持ち...死ぬまで私なのです。<空>

は、このように実体がないわけではないけれども、固定的な実体無いということですねえ、」

 

                    


「さて...本文だが...

 “色不異空 空不異色 色即是空 空即是色” 並び替えて...

 “色不異空 色即是空 空不異色 空即是色”...と、主語を統一して、素直に解釈する

と...こうなると言います。

 

物質的現象は...固定的な実体ではない、というわけではない。しかし、固定的な実体では

ない。個定的な実体ではないということは...物質的現象ではない、というわけではない。し

かし、物質的現象だ”

 

  鳩摩羅什(くまらじゅう・・・サンスクリット語で、 クマーラジーバ)では、ここは少し違ってきます...

 

舎利弗...色空故無脳壊相 受空故無受相 想空故無知相 行空故無作相 識空故無覚

相 何以故” ...が加えられていて...舎利弗... 非色異空 非空異色 色即是空 空即

是色” ...となっているようです。

 

  前の、挿入された部分(/後に、玄奘・訳で省かれた部分)を訳すと...

 

  “舎利弗よ...物質的現象は空であるため、いづれ変化し滅びる悩(のう/なやみ、こだわり)

無い。感覚作用は空であるため、いづれ変化し滅びる感覚作用は無い。概念化作用は空であ

るため、いづれ変化し滅びる知(ち/知恵)は無い。意志作用は空であるため、いづれ変化し滅

びる行(/行為、活動)は無い。判断作用は空であるため、いづれ変化し滅びる覚(かく/認識するだけ

でなく、認識したものに対して意識を感受する)は無い。どうしてか...”

 

  ...となります。これは、“色・受・想・行・識”“空”であるというのは、どういうことかを説明

しています。そして“受・想・行・識”もまた“空”であることは、次の“受想行識亦復如是”で説か

れています。

  『玄奘三蔵・訳』凝集されたものだとすれは、鳩摩羅什・訳』は、“受想行識亦復如是”

説明を加えていた、と言うことです。そして、『玄奘三蔵・訳』が...

 

  “舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是”

 

であるのに対し、鳩摩羅什・訳』は...“色不異空”が、“非色異空”に...“空不異色”が、

“非空異色”となっています。

 

  ま、ここでは、細かなことはどうでもいいのですが、こういう歴史的エピソードがある、というこ

とを心に留めておいて下さい。

  もちろん、鳩摩羅什344年頃の生まれ...玄奘三蔵602年生れ、唐時代訳経僧

す。そして、今、私達が読んでいる『般若心経』は、『玄奘三蔵・訳』だということです。もちろん、

玄奘三蔵鳩摩羅什が翻訳したものは熟読していたはずです...

 

 

 

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄  ・・・・・④  
 しゃ り し    ぜ しょ ほう くう そう   ふ しょうふ めつ   ふ  く  ふ じょう

不増不減 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意
 ふ  ぞう  ふ  げん  ぜ  こ くう ちゅうむ しき  む じゅうそうぎょうしき   む  げん に  び ぜつ しん い

無色声香味触法 無限界 乃至無意識界 
 む   しきしょうこう み そく ほう   む げんかい  ない し む  い  しき かい
 

 

舎利子よ・・・この諸法は空の相にして生ぜず、滅せず、垢ならず、浄ならず、

増さず、減らざるものなり・・・このゆえに、空の中には色もなく、受・想・行・識もなく、

眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法もなく、限界もなく、ないし、意識界

もない。

 

 

「舎利子よ...」 釈尊が、舎利弗(しゃりほつ)に言われた。「この諸法...つまり五蘊の、物質的

現象と意識の受動・能動作用には...実体が無く、空を本質にしている...」

  さらに、そのまま読み下せば...「生まれない...滅しない...よごれない...きよくな

い...増えない...減らない...」となる。

  現に...この世で起こっていることだが、ここで説いていることはそういうことではなく、やは

りこれも、<空>表現しているわけである。

  もろもろの現象は...因縁、つまり原因条件があって起こるだけなのである。だけでな

く、滅・垢(く/あか・・・けがれのこと)・浄・増・減でも同じように...無常であること...<空>である

ことを説いている。鳩摩羅什の訳では、ここでも一文が入るが、今度は省略する...」

 

 

「さて、こういうわけで...

 

  <空>の中には...(/仏教におけるとは、一般に言う存在のこと)も...受・想・行・識も...眼・

耳・鼻・舌・身・意も...色・声・香・味・触・法も...無いのである。



  眼・耳・鼻・舌・身・意を、“六根”といい...その感覚の先にある、色・声・香・味・触・法を、

“六境”という。とは、事物を思量すること...とは、形・カラー...とは、音・言葉...

とは、事物存在...などである。これらの、“六根”“六境”をたして、“十二入”または“十

二処”という。

 

  さらに...“六根”“六境”を受けて起きる、視覚眼識...聴覚耳識...嗅覚

...味覚舌識...触覚身識...思量のはたらきの意識...を“六識”という。“六

根・六境”“六識”を加えて“十八界”という。



  つまり...眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界...色界・声界・香界・味界・触界・法界...

眼識界・耳識界・耳識界・舌識界・身識界・意識界...となる。

 

  これらの全てに...有るものであって、無いものだという...<空>を説き...ではこれ

を省略して...“無眼界 及至 無意識界”...と表現している。

 

  色や形を見る...音や声を聞く...香りを嗅ぐ...舌で味わう...身体に触る...意識で

さまざまなことを考える...私たちの日ごろの欲望満足、そして様々な破綻も、この“六根・

六境・六識”を通して創りだされる幻影であり...<空>である...ということになる」

 

 

無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽・・・・・⑤   
 む  む みょうやく  む む みょうじん  ない し  む ろう し   やく む ろう し じん

           無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
                     む  く しゅうめつどう   む  ち やく む とく   い む しょ とく こ

 

  無明もなく、また無明の尽きることもなく、ないし、老死もなく、また老死が尽きるこ

ともなく・・・

     苦・集・滅・道もない。智もなく、また得もない。無所得なるをもってのゆえなり。

 

 

「引き続いて、<空>の説明になります...

   “無無明”は、無明無いことです。

  (1)無明とは...“12因縁”の中の1つであり...全ての煩悩の根本...真理本質

解できない状態を言います。以下、“11因縁”...

  (2)行とは...体と言葉と心でする行為であり、三業。(3)識とは...五蘊の識と同じ。

(4)名色とは...認識の対象となる六境。(5)六処とは...六根。(6)触とは...接触。(7)

とは...五蘊の受。(8)愛とは...欲求、愛着、執着。(9)取とは...取捨選択する行動。

(10)有とは...存在。(11)生とは...生きること。(12)老死とは...生の後に苦が起こる

こと、一切の苦悩を老・死で表わします。 

  “12因縁”は...無明から老死までの、1つ1つが因果となっています。無明があるから

があり、があるからがある...と老死まで因果することを順観と言います。今度は逆に見

て、無明が無ければは無く...が無ければも無い...と老死まで因果することを逆観

と言います。

  まさに、これは<空>思想なのです。因縁があるから“果”が起こるのであるから、その

がなければ“果”は起きない。固有でなく実体がないもの。だからといって無明などが

しないわけではない...それが<空>である...

  さらに...“苦・集・滅・道も・・・無い”と説く。“苦・集・滅・道”とは、“苦諦”(くたい)“集諦”(じっ

たい)滅諦(めったい)道諦(どうたい)のことであり、“四諦(したい)という。(たい/・・・とは、あきらめる・・・

であるが、仏教では諦観・諦念であり・・・悟り真理の意味を持つ)とは、真理の意味4つの真理をいう。

  “苦諦”とは...人生は苦であるという真理で、生苦老若病苦死苦愛別離苦恕憎会

求不得苦五蘊盛者“八苦”をさす。

  “集諦”(じったい)とは...苦悩の原因人間の欲望愛着執着にあるという真理

  “滅諦”とは...苦悩の原因にある、欲、愛、執着、迷いなどの煩悩が完全に消えた状態

そ、理想境であるという真理

  “道諦”とは...理想境である涅槃に到達するための具体的な実践方法、それは“八正道”

であるという真理

 

その、“八正道”とは...

   (1)正見  ・・・正しく四諦を見ること。

   (2)正思惟 ・・・正しく四諦を考えること。

   (3)正語  ・・・正しい真実の話を言うこと。

   (4)正業  ・・・正しい行動をすること。

   (5)正命  ・・・身・口・意の三業を清浄にして正しい理法にしたがって生活すること。

   (6)正精進 ・・・悟りへの道に努め、励むこと。

   (7)正念  ・・・正しい道理を憶念(/記憶)し、邪念がないこと。

   (8)正定  ・・・迷いのない清浄なる悟りの境地に入ること。

 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故・・・・・⑥  
 ぼ だいさつ  た   え はんにゃ は ら みつ た  こ   しん む けい げ   む けい げ  こ

無有恐怖遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 
 む  う  く  ふ おん り いっさいてんどう む そう   く きょう  ね はん 

 

悟りをめざす者は、般若波羅蜜多に依るゆえに、心に罣礙がなし。罣礙がなきゆえに、

恐怖あることなく、一切の顚倒せる夢想を遠離して、究竟し涅槃に入る。