<対話形式> 
1999年11月/ 静岡県御前崎/ 南西約60km沖.....
その太平洋上で、世界最大級の深海掘削リグ
“M.G. ヒューム
Jr.”が掘削作業
を開始しました。これにより、通産省による本格的なハイドレート層の調査が始まり
ました。同省の地質調査所、資源環境技術総合研究所などがこのプロジェクトに取
り組んでいます。
<日本周辺海域の資源状況...>
「さて、まず、このプロジェクトの概要から説明するかね...」堀内は、体を伸ばし、机
に両手を置いた。
「この、深海掘削リグ“M.G.ヒューム
Jr.”と言うのは、日本のものではないのかし
ら?」夏美が、ボールペンでディスプレイを指した。
「名前からすれば、そうらしいな...これは、海上の高さが約75メートル、基準排水
量2万4000トンの構造物だ。要するに、この巨大な海に浮かぶヤグラから、深海底
の地下をボーリングするわけだ。これそのものはユラユラと不安定だが、パイプが海
底に突き刺されば、かなりの安定が得られる...
それにはまず、先端に岩を砕く頑丈な刃をつけた鋼管を、水深約1000mの海底
まで下ろす。それから、海底下を2000メートルまで掘削する...
ちなみに、この辺りの海底疑似反射面は300mほどのようだ。つまり、このすぐ上
がハイドレート層だ。そして、この直下がメタンガス層だが、その更にずっと下の方ま
で調査するようだ。ま、この調査は資源探査と同時に、かなり学術的な調査の色合
いもあるようだ。いずれ、資源として開発するにしても、全体構造がよく分からないの
では困るからな、」
「はい。それというのは、大陸斜面や海底下の、構造上の問題も研究しているという
ことでしょうか?」
「うむ。おそらく、そういうことだろう。いずれにしても、石油や天然ガス資源の乏しい
日本にとっては、200カイリ経済水域圏内に存在する極めて有望な資源だ。量的に
も相当あるようだ」
「どのぐらいあるのでしょうか?」
「うーむ...主な分布は、沖縄方面の“南西諸島海溝”。それから、今回深海掘削リ
グで調査している、静岡県御前崎沖から宮崎県沖にかけての“南海トラフ”。そして、
“房総半島東方”、襟裳岬沖の“千島海溝”、津軽海峡西側の“日本海東縁”、積丹
半島沖の“タタールトラフ”、そして“オホーツク海”といったところか...
この経済水域圏内で資源開発が可能と見られるメタンの総量は、約7兆4000億
㎥...国内の天然ガス消費量にして、およそ140年分相当だ」
「すごい量ですね」
「うむ、」堀内は、顎に手を当た。
「でも、化石燃料ですよね、これって?」
「もちろんだ」堀内は、手を下におろした。「しかし、夏美君、これは単なる概算でしか
ない。それに、かなり危険が伴うことが予想されるのも気がかりだ。さらに、採算が取
れるかどうかも分かっていない。実際に、現在の技術力では困難な課題も多いから
ねえ...それに、何よりも資源開発をした場合の、環境影響評価が重要な課題にな
ってくるだろう」
「大陸斜面が、海底地滑りを起こす可能性ということでしょうか?」
「むろん、それも含めてだ。周辺の漏れたメタンで、海水や大気が変化しても困るし、
それで生態系が変化しても困るわけだ」
「はい」
「1998年のパプアニューギニアを襲った地震と津波は、こうしたハイドレート層の急
激な分解と、それによって引き起こされた海底地滑りの可能性が指摘されている。事
実、こんな証言があるんだ。“津波が襲ってきた時、海に火が見えた”、“火傷をした”
、“変な臭いがして、目が刺激された”というような報告だ。これは、相当量のメタンガ
スが存在したことをうかがわせるものだ」
「ふーん...」
「1993年の奥尻島を襲った地震。これも、ハイドレート層の関与を指摘している学者
もいる。つまり、このハイドレート層のある大陸斜面は、極めて微妙な存在なのだ。下
手をすれば、津波を引き起こして海岸の都市を破壊させてしまう」
「それは困るわね。それじゃ、資源開発はやっぱり困難なのかしら?」
「いや、一方では、そうも言っていられない面もあるんだ。まず、石油資源はすでに枯
渇し始めている。そうなると石油資本は、このメタンハイドレートに向かわざるを得な
いという側面もあるんだ。もっとも、この山が有望ならの話だ。そこで、前にも言った
ように、今の所もっとも熱心なのは日本だ」
「あの...堀内さん、」
「うむ、何かね?」
「その、海底地滑りを、うまくコントロールできないのかしら。そうすれば、地震を防げ
ることにも、」
「ま、そうしたことも含んだ学術調査だろう。例えば、ハイドレートを回収した所に、別
のもっと安定したものを充填していけば、ハイドレート層のように一気に潰れる事もな
くなる。そうなれば、海底地滑りの引き金になることも防げるわけだ。しかし、その部
分に手をつけるというのは、実際上かなり危険な作業にもなる」
「ええ」
「今までは、何も知らないで地震や津波の被害を受けてきたが、今度はそれを承知
の上での作業になるわけだ。当然、反対運動も起こるだろうな」
「はい...」
「1998年のパプアニューギニアの地震も、地震の規模に比べて津波の被害が大き
かったと言われている。これは、つまり、海底地滑りによる地震の特徴なのかも知れ
ん」
「でも、プレートの沈み込み領域では、常に地震が多発していたのじゃなかったかし
ら?」
「うむ。ま、いずれにしても、防災上でも重要な研究課題になってきたようだ。これをク
リアできれば、資源開発の方も弾みがつくかも知れん」
<技術開発の展望は...> 
「前にも言ったように、世界の深海底に眠るメタンのハイドレートの総量は、これまで
知られていた化石燃料の2倍以上になる。もっとも、それぞれで形態が違うから、炭
素に換算しての計算になる。これは、この地球生命圏における炭素の分布、炭素
の循環や変遷という意味からも、非常に面白い発見だった」
「うーん...こんな研究は、これまでにあったのかしら?」
「こうした本格的な深海底の調査自体が、技術的に困難だった。それが少しづつ可
能になってきたのは、まさに20世紀文明の最終段階といったところかな」
夏美は、黙ってうなづいた。
「さて、これまでのオサライをかねてまとめてみよう...
このメタンハイドレートは、人類文明から最も遠く離れた場所にある化石燃料だろ
う。深い海の底、そのさらに地下数百メートルの泥に混じる氷の中に眠るメタンだ。
その含有量は、数パーセントから数十パーセント、時には巨大な結晶もある...
この泥に混じった氷は、水が凍ったものだ。そして、その氷の結晶の籠(かご)の中
に、メタン分子が入っている。これがメタンハイドレートだ。したがって、ここには塩分
は含まれないわけだ...
さあ、これを我々人類の住む海上へ引き上げてくるわけだが、水圧は一気に下が
り、逆に水温は一気に上昇する。深海底におけるメタンハイドレートの存在できる条
件は、水深500メートル以上、氷点前後の安定した温度だからな。つまり、そのまま
メタンハイドレートを引き上げてくれば、たちまち氷は解け、メタンはガス化して散逸し
てしまう。
しかし、仮に何とかハイドレートの形で海上施設まで回収できたとしても、それは
大量の泥や岩石の塊なのだ。そこからメタンを精製するのは容易な作業ではない。
また、環境汚染も大きな問題になる」
「他に方法はないのでしょうか」
「ま、「強制回収法」という方法もある。しかし、これもまだ完全に実証されたわけでは
ない。これは、密度と粘性が高い原油を採掘する方法で、ポンプで蒸気や熱水を注
入するものだ。つまり、ハイドレート層に達した掘削孔に、ポンプで蒸気や熱水を送り
込む。ま、簡単に言えば、ハイドレートを解かしてメタンガスにするわけだな。それか
ら、このメタンガスを、別の掘削孔から吸い上げるという方法だ」
「これは、うまく行きそうね」
「しかし、大陸斜面という場所を考えれば、それほど単純な問題でもあるまい。それ
に、海底地滑りで地震や津波が起これば、海上プラットホームにも当然被害は及ぶ。
海底パイプラインも、決して安全ではない。いや、むしろ、極めて危険だといった方が
いい」
「それじゃ、どうすれば?」
「ま、一口で言えば、簡単ではないということだ。海上プラットホームで、メタンガスを
液化して運搬する方法や、海底に生産設備を建設する方法なども研究されている。
が、いずれにしても、大陸斜面でハイドレートを回収すること自体が、巨大な海底地
滑りの引き金になりかねない...うーむ...そこで、防災上からも、十分な研究が
必要になってくるわけだ」
「はい。それでは、堀内さん、今回はこの辺でいいでしょうか?」
「うむ。最後に一言つけ加えておこう。
現在、次世代の深海掘削船“OD21”(Ocean
Drilling in the 21st Century)の建造が進んで
いる。この船は、日本が主導して国際協力で進めているのもで、当面ハイドレート層
の探査が主要な仕事になるだろう。この最新鋭の船なら、これまで出来なかったガス
が噴出しそうな海底でも、安全に掘削することができると言われている。この船の進
水が待ち遠しい所だな」
「はい。ええ...それでは、次の新展開に期待して、今回はここまでとします」
