プロローグ
「ええ...白石夏美です...ここは、“高杉・海洋研究所”です...」
夏美は、ギンガムのワンピースの裾をなびかせ、インターネット・カメラの中に入っ
た。海洋研究所の開け放たれた窓から、涼しい風が吹き込んでくる。入江には小さな 漁港が見える。入江の出口の方では、サーフィンをしている姿がある。そのさらに外 洋の方では、白いヨットの帆が、かたまって水平線上に見える...
夏美は、髪を押えながら、メモを見た。
「現在...
“原発・関連”のミッションが動いていて、非常に多忙なのですが、“海洋の酸性化問
題”をやるということで、急遽、召集されました...“高杉・海洋研究所”にやって来
たのは、私と堀内秀雄です。向こうには、マチコが残り、“高速増殖炉”の資料の整理
に当っています...
ええ...“海洋問題”は、以前と同様に、私たちが担当することになります。また、
“高杉・海洋研究所”におられた、“所長”の高杉・塾長と...研究所に魚を釣りに
来ていたポンちゃんにも、急遽、参加していただきます...
今回も、よろしくお願いします...」
夏美は、ていねいに頭を下げ、背筋を伸ばし
た。
〔1〕
乱獲による漁業資源の激減
夏美は、作業テーブルへ戻り、椅子を引いて席についた。いつもよりは手狭な部屋
だったが、窓全体が海へ向かって開き、解放感は十分だった。ポン助が、奥の壁面スク
リーンの横に立ち、補助作業のためにスタンバイしている。
「さっそくですが、高杉・塾長...」夏美がノースリーブの腕を、テーブルの上でそろえ
た。
「うむ、」高杉か、椅子の背に肩を引いた。
「世界の海で、“漁業資源が激減”しているというのは、本当なのでしょうか?」
「本当です...」高杉は、前髪に風を受けながら答えた。「私たちも、海の変化につい
ては、以前から気付いていたわけですが、相当に深刻な状況になっています...原
因は、ズバリ...“乱獲”です...
我たちは、海洋生物の減少は、海洋の汚染が原因だろうと、漠然と思ってきまし
た。しかし、漁業資源の乱獲が、まさに最大の原因だと分って来ました... 世界の人口増加...アジア地域の経済成長...栄養価の高い魚介類に対する
需要...漁業技術の進歩...要因は様々あります。しかし、その数値データによる
全体像というのは、これまで正確なものが見えてこなかったのです...港での水揚
げそのものが、おおよその数値の域を出なかったわけです」
「それは、改善されてきているのでしょうか?」
「まあ、国際的にも利害の絡むところですが、当然その方向にあるのでしょう...
いずれにしても...最新鋭の大型船による乱獲というものは、我々の想像をはる
かに越えています。海洋生物の減少は、まさに最新技術による、商業ベースの乱獲
が原因だと分って来ました。こんなことを続けていたら、海洋の生態系が激変してし
まいます...“食物連鎖”が、ズタズタになり、回復不能になるからです... 一方、“鯨”は捕鯨禁止が続き、相当に回復しているようです...しかし、大型の魚 である“鯨”(/鯨は哺乳類)が、保護によって増え、これも“食物連鎖”にアンバランスを作 り出しているようです...鯨も、プランクトンを食べているだけではないからです」 「はい...」 「いずれにしても...陸上動物である人間が、海洋生物を食べ尽くしてしまうような事 態は、あってはならないことです...“人類文明の風景”は、きわめて異常な状態に あることを、しっかり認識すべきです」
「うーん、そんなに、すごいのでしょうか...」
夏美は、奥の壁面スクリーンを見た。そこに、モザイク表示されたデータを眺めた。
モザイクの1つを、手元のコントローラーでクリックすると、画像データが拡大して、詳
細表示になった。
「問題は...“海洋の汚染”ばかりではないということですね...」
「その通りです...
まあ、漁業資源の乱獲は、直接的な大問題です...少なくとも、漁業資源の激減
に関しては、こちらの方が大きいでしょう...そういうことです...」
「ええと...」夏美が髪をおさえ、スクリーンのデータを読んだ。「1982年に、国連海
洋法条約が成立...これによって、沿岸国は、海岸線から200海里(約370km)の、
“排他的経済水域/(EEZ)”を、主張できるようになったわけですね...ええ、これ
によって、これまでの世界の漁業が、大きく変化したと言われています...どのよう
に変化したのでしょうか?」
「まあ、資源保護も可能になったのでしょうが...そもそも、海岸線をもたない国もあ
るわけです。一概に、良くなったとは言えないでしょう...
日本は、四方を海に囲まれた島国ですから、非常に有利な条約だと言えます。最南
端の“沖ノ鳥島”などは...単なる“岩”とも揶揄(やゆ)されていますが...その周囲
にも、200海里を主張しています...」 「笑い話ですよね、」 「しかし...」高杉は、苦笑した。「“島”の周りに頑丈な防波堤を作ったり、横に観測 所を海上に建設したり、すでに数百億円を投入しているとも聞いています...」 「じゃあ...“札束の体積”の方が、“島の体積”よりも大きいのではないでしょうか、」 「うーむ...しかし、“排他的経済水域/(EEZ)”を設定すれば、それ以上の価値が あるでしょう...ともかくここは、中国にも、韓国にも、ロシアにも接していないわけで す...
まあ、私の意見としては...“反・グローバル化”の観点から...そんなことにこ だわる“競争社会/権利社会”は、急速に過ぎ去っていくと言うことです...韓国と争 っている“竹島/独島”もそうですし、中国と争っている“尖閣諸島/魚釣島”もそうで す...ロシアが第2次大戦以後、ずっと占領を続けている北方4島も、そうです。や がて“地球政府”が創設され...単なる地球上の1風景に還元されて行くと思いま す...」 「はい!」 〔2〕
地質年代的な変遷
「さて...」高杉は、言った。「一方で、“海洋の酸性化”は、非常にゆっくりと、しかし
確実に、海の生態系を激変させつつあります...海洋の激変は、やがて陸上生物の
風景をも、激変させるかも知れません...それは、200〜300年後の、大変動の予
兆かも知れないのです」
「うーん...それは、どのようなものなのでしょうか?」
「そうですねえ...
極端な例を上げれば...すでに、地球生命圏では数度経験している、地質年代
的な“種の大量絶滅”です。何かのきっかけで、生態系を形成してきた“種の80%以
上が絶滅”し、生態系がほとんどカラッポになってしまいます...
その後、その巨大な“空きニッチ(空になった生態系的地位)”に、別の生物種が、ドッと爆発
的に拡大繁殖します...つまり、生態系の風景が、ガラリと変わってしまうほどの激
変です。その大変化は、地層の中に明確な地質年代の差として記録されています。
“先カンブリア時代”、“古生代”、“中生代”、“新生代”というように...」
「はい、」
「まあ...
その“古生代”という分類も、さらに細かく石炭紀、ペルム紀と時代をのぼって来る
わけですが...ペルム紀の終わりに、最大の絶滅...“大量絶滅の母”が起こって
います...その、膨大な生態系の絶滅と新たな生態系の誕生を、愛情を込めてそう
呼んでいるのだそうです...この時は、
海生生物属の絶滅比率/(確認値) : 82%
海生生物種の絶滅比率/(推定値) : 95%
...にも及んでいます...そこから、新たな生態系が、再び爆発的に広がったわ
けです...“生物”というものの、そして“生態系”、“生命圏”というものの、恐るべき
凶暴性の一面を垣間見る思いです...」
「現在、地球で起こっている“海洋の酸性化”は...こんな大変動の、きっかけかも知
れないわけですね...原因は何かしら?」
「“小惑星・彗星の衝突”は別として...
“活発な火山活動”、“地球の温暖化/寒冷化”、“海水準変動”、“海洋の無酸素
化”などが考えられますが...よく分らないようです...」
「“地球の温暖化”や、“海洋の無酸素化”などもあるわけですか...」
「正確なところは、まだ分らないようです...
“6500万年前
/ 中生代・白亜紀の末期”に起こった大量絶滅では、恐竜時代に
終止符が打たれたわけですが、最近そのことで論争が起こっているようです。確かに
その時代に、メキシコのユカタン半島近くに小惑星が落下した痕跡があるのですが、
それが決定的ではないという見解がでているのです」
「あ、はい!聞いたことがあります!」
「まあ...さらに研究も進んでいくでしょう...
ともかく、100万年単位の地質学的な大変動も...実は、“個人的エネルギーの
浪費”、“文明によるCO2の大量放出”、“海洋の酸性化”...というように、小さなバ
ランスの揺らぎが...大変動を呼び込むのかも知れないのです...この揺らぎは、
いずれにしても、人類が止めなければ、消える方向にはないわけです...」
「うーん...小さなバランスの崩れが...それほど、大きく影響するものなのでしょう
か?」
「影響する可能性があるということです...“カオス(/こんとん)”や“生命現象”では、し
ばしば観測されることです...
“大量絶滅の母”と言われる“古生代/ペルム紀”における終末も、激動の始まり
は、このような静かなものだったのでしょう...そうした、“かすかなバランスの揺ら
ぎ”から、何かが始まるわけです」
「うーん...ドラマチックですね」
「ドラマチック...そうかも知れません...そのドラマチックを体験するために、私た
ちは存在しているのかも知れません...」
「はい、」
「恐竜時代が、突然終わり...その後、一気に我々哺乳類が陸上世界を席巻した
大変化も...ほんの小さな偶然の思いつきのようなことから、壮大な進化がスタート
したのでしょう...
“生命潮流”の“進化のベクトル上”で、ほんのかすかな遺伝子の揺らぎで、この生
態系に君臨できたのかも知れません。ともかく、結果として、最高モードの知能を持
つホモ・サピエンスが出現し、文明を開花させ、“歴史”を刻み始めたわけです...」
「はい...」
............. <詳しくは、こちらへ>
「人類に関しては、およそ400万年前...例の、アフリカの大地溝帯(エチオピアからタン
ザニア、モザンビークに至る南北4000km、幅数十km、深さ1km以上の、大きな溝。マントル対流によって、両側に引き裂
かれて形成された)あたりに、“猿人/アウストラロピテクス”が出現したようですね...
(正確には、エチオピアのアワシュ川中流域。このあたりから、約450万年前のアルディピテクス・ラミダス/約420万年前
のアウストラロピテクス・アナメンシス/約360万年前のアウストラロピテクス・アファレンシスの化石が発見されている...)
それから、色々あり...ずっと下って、20万年前頃に、ネアンデルタール人から現
代人のクロマニョン人/ホモ・サピエンスへと、ガラリと一変するようです...」
「ネアンデルタール人は、突然いなくなったと聞きまますが、本当なのでしょうか?」
「うーむ...そうらしいですねえ...
まあ、人類に関しては...比較的新しいわけで...骨などの遺物も多く...新し
い学説も続々と出るのだと思います...それに、現在、生態系に君臨しているホモ・
サピエンスも、数百年後にはネアンデルタール人のように姿を消し...それに代わる
新・人類が...ちょうどクロマニョン人のように、出現しているのかも知れません」
「うーん...」
「このままでは、そんなことになるという、“漠然とした不安”を...私たちは何となく、
感じているのではないでしょうか...ともかく、相変わらず“欲望の支配する世界”で
あり、“便利/豊か/儲(もう)かった”という目先の“物欲的価値観”で、将来展望の視
界がまるで効かなくなっています」
「そうですね...
中世ヨーロッパは、神が支配する抑圧的な世界でしたけど...現在は経済原理
が支配し、地球環境を破壊し...その結果、滅びていくのでしょうか、」
「生態系の激変で...」高杉は、窓から水平線を眺めながら言った。「...恐竜の絶
滅に続き...哺乳類である人類も絶滅し...新たな地質年代風景の中で、」
「新たな、」夏美が、高杉の言った言葉を繰り返した。「地質年代風景の中で?」
「うむ...」高杉が、うなづいた。「想像を絶した“新しい種”が...生態系に君臨し
始めているかも知れません...人類とは、およそかけ離れた...
生態系とは、そうしたものです...“生命潮流”と“進化のベクトル”はきわめて強
力です...それはごく自然の流れとして、ありうることです...
シーラカンスやカブトガニのように、“生きた化石”として残存するものもありますが、
“種”というものも、新陳代謝しているのです...これは、生物体では、“呼吸”に当り
ます。外部からエネルギー/物質や、情報を取り入れ、エントロピーを排泄することに
より、生物体の“構造化/進化”を、維持しています...
“私が私であり続けられる”のも、“アイデンティティー(/自己同一性)を感じ続けられ
る”のも、その“構造”が、維持されているからです。この新陳代謝という方式だけが、
この宇宙でエントロピー増大(熱力学の第2法則)に拮抗し、“構造化/進化”を進めるてい
るシステムなのです。
これが、この宇宙における、“生命潮流”の巨大な流れなのです。宇宙も、“構造化
/進化”しているわけですが...それは“生命潮流”の一環なのかも知れません。宇
宙が、“構造化/進化”しなければ、生命体も“構造化/進化”ができないわけですか
ら...」
「それ以外に...“呼吸/新陳代謝”以外に...“構造”を維持し、“進化”させる方
法はないのでしょうか?」
「人類文明が観測しているのは、唯一、この方法だけです...もし、他に見つかった
ら、大発見でしょう...
したがって、国家や社会形態でもそうですし...今、問題になっている、立法府や
行政府や、マスメディアという“組織の行き詰まり”でも、同じです...外部からエネル
ギー/物質や情報を取り入れ、エントロピーを排泄するという事をしなければ...つ
まり、“呼吸”をしなければ...組織は壊疽(えそ)を起こし、やがて崩壊します...」
「日本の政治は、空中分解していますが...まさに、“呼吸”をしていないと言うことで
しょうか?」
「そうだと思います...
“国家・社会”を考えるべき立場の人が、それをしなくなっては、おしまいです。小
泉・首相も、“首相の立場”ではなく、“単なる個人”として動いていますから、民主主
義国家から浮き上がってしまっているわけです...」
「うーん...“ポスト・小泉”候補の福田さんは、記者の質問で、“脈がない”と言って
ましたが、そうなのかしら...“呼吸”をしていないから、“ダメ”だと、」
「うーむ...そんな話があるわけですか...
ま、日本の政治の話はともかく...“海洋の酸性化”は、確実に進んでいます。こ
れは、珊瑚を保護するだけではダメなのです。“海洋の酸性化”をくい止めなければ、
本質的な解決にはなりません...」
「うーん...怖い話ですね...生態系の激変は、起こるのでしょうか?」
「このままでは、確実に起こるのでしょう...
今までにも、この生命圏で、生態系の激変は数回おこっているわけですから...た
だそれが、大自然の摂理のままに起こるのなら...それはかまわないし、生態系と
共に、受け入れれば良いのです...人類は、“36億年の彼”の記憶の中に、織り込
まれ、溶け込んで行くでしょう...
しかし、その原因が、人類文明の化石燃料の大量消費にあるのだとしたら...つ
まり、“車社会”や“グローバル経済”や“冷暖房の多用”にあるのだとしたら...まさ
に、人類文明が、“海洋の酸性化”を促し、“海洋環境/地球環境”を激変させている
という事になるのです...」
「そうですね、」
「これは、当然ながら...“文明種族”の“誇り”にかけて...この生命圏の“DNA最
高モード・生命体”の“存在意味”にかけて...“絶対に承服できない事態”です。ま
た、“絶対に許されざる行為”です...“神以前の神々/生態系の上位システム”
も、当然、承服しないでしょう...」
「はい...人類の行為を、“絶対に許しておかない!”と言うことですね...」夏美
は、深くうなづいた。「ええ...それでは、本題の方に移ろうと思います...」
〔3〕
人間活動が及ぼす海洋への影響
「堀内さん、」夏美が言った。「人間活動が及ぼす海洋への影響というのは、何時頃か ら問題になったのでしょうか...かっては、“海洋資源は無尽蔵だ”と言った学者もい ましたが、」 「はは...そうですねえ...
あの頃は、地球は相対的にはるかに広く...海というものも計測不能なほど巨大 であり、生物相もカウントできないほど濃密だったのでしょう...そうした時代に、ま さに濃密で広大な生態系が、初めて科学の俎上にのってきたのだと思います...」 「はい」 「私たちは現在、地球を相対的に広くするために...“反・グローバル化”と、“脱・車 社会/脱・航空機社会”を提唱しています...航空機輸送網を、クリーンでスローな 船舶にシフトすれば、世界は相対的に広くなります。ゆったりとした時間が流れ、落ち 着いた社会になります...」 「はい」 「さて...夏美さんの質問の件です...
“人間活動が及ぼす海洋への影響は、何時頃から問題になったか”と言うことです が...影響は“産業革命”以降です...」 「やはり、そうですか、」
夏美は、片手でノースリーブの腕を掴んだ。強い風が、サーッ、と部屋の奥まで吹き 込み、ポン助の下げている徳利が揺れた... 「この問題を提唱したのは...」窓の方を見ながら、堀内が言った。「1959年...ス クリプス海洋研究所(カリフォルニア)の地球科学者ルベールと、スースです。彼等は、
“今後50年間で...産業活動によって、大量のCO2(二酸化炭素)が放出される結果 生じると見られる、気候への影響を、よりはっきりと理解するために、”
...ということで...大気と海洋中のCO2(二酸化炭素)濃度を測定する必要があ る、と指摘したのです...
彼等は、50年後(/ちょうど21世紀初頭の今頃...)、どのような状況になってるのかを探ろ うとし、プロジェクトを立ち上げたわけです。当時は、文明が吐き出す大量の“CO2” が、大気中と海洋中で、どのような化学サイクルに入るのかも、明確には分っていな かったのです。
キーリングは...私も名前をよく知る研究者ですが、若くしてこのプロジェクトに参 加しています(/参考文献では、故人となっています/ご冥福を祈ります/)...彼は、CO2濃度を測定 する観測機器は、CO2の放出・吸収源からは遠く離れた場所に置くべきだとし... “南極”と...それから、ハワイに新設した“マウナロア山頂・気象観測所”に設置し ました」 「文明が吐き出すCO2が、地球・大気圏に及ぼす影響...ということで、文明から離 れた場所に設置したわけですね、」 「そうです...CO2を吸収する森林や、植物性プランクトンの多い海洋では、正確な 数値は測定できないと気付いていたわけです」 「うーん...それで、“南極”と、“ハワイのマウナロア山頂”になったわけですか、」 「そうです...“ハワイのマウナロア山頂”の気象観測所では、1958年から今日まで (/わずかな中断あり/)続いています...」 「半世紀に及ぶ、最高クラスの記録、と言うわけですね、」 「そうだと思います...」堀内は、高杉の方に顔を向けた。「ハワイは、南極よりも人間 活動や植生の影響を受けやすいですね、」 「そうですねえ...」高杉が、慎重にうなづいた。 「面白いことに、」堀内が言った。「ここの観測記録は...
北半球の植物が生長する季節に合わせて...はっきりとCO2濃度が、上昇と下 降を示します...そして、毎年末には...前年度の濃度よりも、“必ず高い数値”を記 録しているのです...“文明の吐き出すCO2”が、地球大気圏にどのような影響を及 ぼしているかは明確です...」 「なるほど...」高杉は、下唇を指でつまんだ。「確かな数値のようですね」 「はい...
この観測の結果...“文明の吐き出すCO2”のほとんどは、大気中に留まってい ることが分りました...そして、最終的には、かなりの量が、海洋中に取り込まれるだ ろうことも分りました...
プロジェクトを提唱したルベールの見通しや計算が、いずれも“正しかった”ことが 再認識されたようです」 「うーむ、」高杉は、奥の大型スクリーンに表示されている、大気中のCO2濃度の折 線グラフを眺めた。 「...キーリングによる、半世紀にわたる観測記録は、」堀内が言った。「非常に価値 あるものです。しかし、より全体的な状況を把握するには、半世紀というのはいかにも 短すぎるわけです...
そこで、今日では、厚い万年氷の“ボーリング・コアの氷柱”を使う方法が、開発さ れています。そこに閉じ込められた“気泡”を分析することにより、非常に長期の変動 を調べることが可能になっています。
いわば“氷柱”は、大自然が記録した“天然の古文書”なのです。様々な種類の、 膨大なデータが、精密な時間系列で、降り積もった雪と共に圧縮されています。CO2 などの入った“気泡”ばかりでなく...バクテリアや、火山灰や、黄砂のような砂塵な ど...微量な大気中のチリも、営々と降り積もっているわけです」 「確か...」夏美が、風に髪をなびかせながら言った。「南極のボストーク湖の上の氷 の厚さは、4kmもあると言われてますね...ロシアの南極観測基地/ボストーク基 地の真下にある湖ですが、」 「そうです...ボストーク湖は、厚さ約4km氷床で、“密封された湖”です。“その氷 柱”には、約42万年の地球の歴史が記録されています」 「はい」 「いずれにしろ、“氷柱”の分析から、“大気中のCO2濃度”は、“過去数千年間/ほぼ 一定”であったことが分っています...そして、18世紀にイギリスで始まった“産業 革命”が、19世紀に欧州諸国に波及した頃...“CO2濃度”が急速に上昇し始めて いたのが観測されています」 「うーむ...」
高杉は、壁面スクリーンの“氷柱”の写真を眺めた。“氷柱”は縦に2つに切断され、 ケースの中に納められてある。非常に貴重なものであり、溶けてしまわないように、冷 凍庫に保管されてある。 「現在、」堀内が、言った。「“産業革命”以前に比べて、“大気中のCO2濃度”は...
ええと...30%増加していますね...今世紀の末には、“産業革命”以前の大気 の状態の...2倍〜3倍になると推定されています」 「すると、どうなるのかしら、」 「まず...すでに顕在化しているのは、“地球温暖化”でしょう...
それによる、“海水面の上昇”...“気候変動の予兆”...それから不気味に、緩 やかに進行しているのが、“海洋の酸性化”です...これについては、後で詳しく検討 ます」 「はい...」
「あの、高杉さん...」夏美が言った。「火山が大噴火したりして、人類文明以外の要 素でも、CO2は大量に大気中に拡散していますね、」 「はい、」 「そうした中で、“人類文明が放出したCO2”というのは、どのように区別することが出 来るのでしょうか、」 「いい質問です」高杉が言った。「“化石燃料(石油・石炭・天然ガス等)の組成”には、“生物 の組成”とは異なり...“放射性炭素/原子量14の炭素同位体/C14”は、全く含 まれていないか...あったとしても、ごくわずかなのです...」 「ええと...“C14”と言うのは...原子核に8個の中性子を持つ炭素ですね... 通常の原子量12の炭素では、中性子は6個ですね、」 「そうです。そして、“C14”は放射能を有し、放射線を出しています...
したがって...大量の化石燃料を燃焼させると...大気中の“炭素同位体比” が、変化するわけです...つまり、大気中に増加しつつある炭素が、何処から来てい るのかが分ると言うことです」 「ついでに言うと...」堀内が言った。「化石燃料は、“C12”と“C13”という、“炭素 の安定同位体”で構成されます。つまり、これらの炭素は、“C14”のように“放射性 /不安定”ではないわけです。安定しています。そして、これらの炭素は“特有の比 率”で存在しいます...」 「うーん...非常に、複雑なものなんですね、」 「その通りです」堀内が言った。「他にも...夏美さんが言ったように、世界中の火山 から発生する大量のCO2があり...湖沼から発生する“メタン/CH4”なども、全て 大気中に吸収され、かき混ぜられます。
それと、本来の空気の成分が混ざり、紫外線などを受けて化学変化し...単純な 構造ではありません...解放系システムの、巨大な世界です...」 「うーん...大変な作業ですね」夏美が言った。「ともかく...簡単に言えば...生 物である植物や動物などの有機物を燃やせば、“C14”が増えることになるわけです ね、」 「そうです」堀内が、うなづいた。 「ところが...石炭や石油という化石燃料では、“C14”は増えないわけですね、」 「そういうことです...
この、“C14”という“放射性・炭素同位体”は、化石や骨などの年代測定などに使 われるわけです」 「はい、」夏美が、うなづいた。「よく聞きますね、」 「さて...」堀内は、作業テーブルの自分用のモニターを眺めた。「話を進めましょう。
化石燃料を燃やしたCO2の、“約40%は大気中に残存”していると考えられます。 あとの60%は...“ほぼ半々づつ...陸と海”に向かったと推定されてます...」 「陸上の植物のや、海洋の植物性プランクトンが、炭酸同化作用(光合成)に使い、結果 として炭素を固定して炭水化物を生産し、一方で私たちに酸素を供給しているわけで す...」 「はい、」 「海/海洋には...もともと莫大な量の炭素が存在します...
海洋生物の生態系にも、海水の成分としても存在し...また、海底のメタンハイド レートや深海底にも、大量の炭素が眠っています...大量のプランクトンの死骸は、 マリンスノーとなって深海底に厚く堆積します...詳しくは、“海洋表層・海の森”を ご覧下さい...
これらと対比すると...文明の吐き出す、化石燃料由来の炭素が、海洋に吸収さ れる量というのは、相対的に小さな値と言えます。そのために、海洋における炭素循 環の観測は、非常に微妙で精密なものが要求されます...吸収量の検出や定量化 には、高い精度が求められるわけです...」 「巨大な海洋に吸収されるので、」夏美が言った。「これまでは、ほとんど気にしなかっ たわけですね...でも、文明による化石燃料の消費が、“海洋を酸性化”するほどま でに、深刻な事態になっている...と言うことですね、」 「まさに、その通りです...」堀内が、悩ましげにうなづいた。「海洋は、沈黙の臓器 のように、全く文句を言いません...ストレスを吸収していくだけです...しかし、必 ず臨界点が来て、激変し、相が変わりますます...
それが、“海洋の酸性化”です...もし、その酸性化が、肉眼でも観測できるように なったら、すでに手遅れだと思います。海洋は巨大であるがゆえに、急激なターンで 復元させることは出来ません...」 「はい...」 「海水は本来、“わずかにアルカリ性”ですが...それが“酸性”に傾くと...海洋生 物が形成する“炭酸カルシウム/CaCO3”が溶け始めてしまいます。まず、一番柔ら かい、珊瑚(さんご)の“アラゴナイト(あられ石/天然の炭酸カルシウム)”が危ないと言われます」 「それで、珊瑚が騒がれているわけですね」 「はい...
“海洋の酸性化”は、壮大なスケールで進んでいます...それが、目に見える段階 に到達したら、すでに取り返しのつかない、“海洋の相転移”が始まっているというこ とだと思います。
珊瑚の“アラゴナイト”次は、“カルサイト(方解石/天然の炭酸カルシウム/安定な結晶)”でしょ う。どちらも海洋生物の殻を形成する炭酸カルシウムですが、“カルサイト”の方が安 定結晶なだけ、溶けにくいと言えるます。ただし、マグネシウムの混在した“マグネシ ウム・カルサイト”は、溶けやすいと言います」 「“カルサイト”は、どんな生物の殻にあるのでしょうか、」 「植物プランクトンや、動物プランクトンの“カルサイト”の殻が、問題になっています。 プランクトンが消えてしまうと、食物連鎖の底辺を支えているだけに、海洋の激変の 要素になります...その後は、陸上の生態系も、激変の可能性があります...」 「はい...現在なら、まだ、海洋を救える可能性があるわけですね、」
「そう、信じています...
今すぐ、適切で、強力な手を打てば...海洋の生態系はかろうじて回復できるか
も知れません...」 「はい!」
〔4〕
海洋のCO2吸収と、酸性化
「ええ...」夏美が、髪を手で押えながら、壁面スクリーンを眺めた。「少し、くり返しま
す...
文明が放出する二酸化炭素/CO2の約半分は、大気圏にそのまま残ります。もう
少し正確に言うと、40%は大気圏に残ると言われます。後の60%は、ほぼ半分づ
つ陸上の植生と海洋に吸収されます。
ここでは、海洋に吸収された、全体の約3分の1のCO2について考察します... 海洋では、植物プランクトンに吸収される分もありますが、海水に直接溶け込んでい るCO2もあるわけですね?」 「そうです...」堀内が言った。「まず、地球表面には、膨大な大気と接している広大 な海があるわけです。その接触している所で、文明が放出したCO2の30%は海水に 溶け込むことが分ってきました。その海水に溶け込んだCO2が、植物プランクトンなど に取り込まれて行きます...順を追って話しましょう」 「はい。海水に吸収されたCO2は...まず炭酸/H2CO3を形成するわけですね。 これは、炭酸飲料に入っているものと同じで、弱酸性を示すと考えて、いいのでしょう か?」 「そうです...
先ほども言ったように、海水は本来、“わずかにアルカリ性”です...この海水に 溶け込んだCO2は、夏美さんが今言ったように、炭酸/H2CO3を形成します。炭酸 は、その名前が示す通り、弱酸性です」 「はい」 「さて、この炭酸ですが...水溶液中では、水素イオンと重炭酸イオンに分解されて いるのです。そして、水素イオンが、酸性化する原因です。つまり、水素イオンの濃度 がそれだけ上がることになり、海水のpH(ペーハー/水素イオン指数)レベルが低下します。 pHは、下がるほど、酸性が強くなります...」 「それは、単純な化学変化なのでしょうか?」 「それそのものは、単純な化学変化です。しかし、フィールド(野外)では、試験管やビー カーの中の様なわけには行きません...海水というものも、相当に複雑ですし、そ れは別の総合的な判断での話です...まず、簡単な構成の話をしましょう」 「はい、」 「ともかく...炭酸/H2CO3が海水に溶けて、水素イオンと重炭酸イオンに分解さ れる時点で...わずかですが炭酸イオンそのものもできます。また、CO2も、一部は CO2のままで海水に溶けています。まあ、ここらあたりも、実際には複雑になっている わけです...
しかし、あまり細かなものにこだわっても、全体の風景が見えなくなりますので、ま ず、大雑把な風景を描きます」 「しかし...」高杉が、口をはさんだ。「そうかといって...繊細な部分を無視すると、 カオスの揺らぎの起点を見逃すことにもなります...肝心の、“海洋酸性化”の“相 転移”の、シグナルを見落とすことになります」 「そですね...そこが、非常に難しい所です。しかし、今は、ともかく全体の風景を説 明しましょう」 「はい!」夏美がうなづいた。「ええと...その前に、ポンちゃんの方から、“ワンポイ ント解説”の提案があります...こちらを先に済ませてしまいましょう。ポンちゃん、 どうぞ...」 「おう!」
**********************************************************
≪ポン助のワンポイント解説・・・No.4≫
pH (ペーハー: 水素イオン指数)
「“pH”について解説するぞ...
これは、水素イオン指数のことだよな。“水素イオン”はよう、水素原子が
“電子1個を失った1価の陽イオン”だぞ。これが、酸性の原因になるぞ。
純水(/純度の高い水)はよう、中性でpHは7だよな...この7より数字が下 がるほど、酸性が強くなるぞ。7より上は、アルカリ性だよな。海水は、pH が8〜8.3で、ややアルカリ性だぞ。
pHが1減少するということはよう...水素イオン濃度が10倍に増える ことだぞ。逆に、pHが1増加すれば、水素イオン濃度が1/10に減少し、 アルカリ化するということだよな...
海水は、ややアルカリ性だから、珊瑚(さんご)や有孔虫(ゆうこうちゅう)や翼足 類(よくそくるい)は、炭酸カルシウム/CaCO3の殻を形成できるんだぞ。それ が、海洋が“酸性化/アルカリ性が後退”に傾くと、殻を形成できなくなる ぞ...もっと酸性化が進むと、チョーク(炭酸カルシウム)が酢に溶けるように、殻 が溶けてしまうぞ...」 **********************************************************
「はい...ポンちゃん、ありがとうございました。
ええ...堀内さん、ポンちゃんからも、重要な指摘がありました...今後、海洋酸 性化では、どのようなことが予測されるのでしょうか?」 「そうですねえ...
おそらく、21紀中には...南極海の表層水は、相当に酸性化が進み、ポン助君 の指摘した翼足類(よくそくるい)は、殻を溶かされるほどになると推測されています。
この翼足類は、羽のような翼足で海中を浮遊する軟体動物ですが、豊かな南極海 の食物連鎖で、重要な生態系的地位にあります。これらがもし絶滅すると、生産性の 高い南極海の様相は、激変するかも知れません...」 「うーん...現在は、どのような状況にあるのでしょうか?」 「概算でしょうが...
海洋表層水のpHは産業革命以前に比べ、0.1低下しています。また、このままの 化石燃料の消費を持続すれば、今世紀末には、さらに0.3低下すると推定されてい ます。これは、21世紀の100年間で、これまでの3倍の酸性化が進行すると言うこと です」 「一気に酸性化が進んでしまうと言うことですね...これまでの蓄積で、そうなると言 うことでしょうか?」 「さあ、その方面の研究者ではないので、詳しいことは分りませんがね、」 「うーん...一体どうすればいいのでしょうか?」 「ここでも、“文明の大転換”が必要なのでしょう...ともかく、自然のサイクルはしょう がないですが、文明の側は“脱・化石燃料”が急務です...
海洋学者のカルデイラ(/ワシントン・カーネギー研究所)は...海洋のpHは、今後数百年 内に、“過去3億年でも経験したことのない低い値”...になると予測しているようで す。過去3億年といえば、“最大の大量絶滅/2億4800万年前/古生代・ペルム紀 の末期”を越えているわけです。
この、“古生代・ペルム紀末期の大量絶滅”の原因は...気候変動、海水準変 動、小惑星・彗星の衝突、活発な火山活動...など様々に推測されています。した がって、海水のpHが、直接的な原因ではないかも知れません...
しかし、今後、数百年間で、そうした地質年代的スケールの大変化が、文明の暴 走によって、引き起こされるという事かも知れません...」 「うーん...」夏美が、立ち上がり、奥の壁面スクリーンの方へ歩いた。ギンガムのワ ンピースが、パタパタと風に打たれた。「でも...人類は、それほどの存在かしら? それほどの事が、できる存在かしら?」 「そうです!」高杉が、言った。「“文明種族の偉大さ”というものを、軽く考えてはいけ ない...ホモ・サピエンス(現生人類)というものを...そして、“文明”というものを、客観 的に見ることも必要です。
地球の歴史、36億年の生命体の進化の歴史の中で、初めて“文明を築き上げた 種”というのは、まさに特筆すべきことなのです...」 「そうですね...」堀内が言った。「“文明の発祥の衝撃”に比べれば、“大量絶滅”さ え、大した事ではないかも知れません。すでに、5回も経験しているわけですからね え...“文明の発祥”とは、それほど“衝撃的なイベント”なのは間違いありません。
しかし、だからと言って、全生態系を破壊していいと言うものではありません。生態 系は、自らが存立する棲家(すみか)であり、まさに自殺行為です...“文明の発祥”に も増して、“愚か者/ケダモノ以下の知能”ということになるでしょう...」 「でも...」夏美が言った。「本当に、その“愚か者”かも知れませんね?」 「その可能性はあるということでしょう...」高杉が言った。「それが...代々、“後の 文明種族”によって...我々の文明の痕跡から、それが記述されていくでしょう... 地質年代が変わり、出直した後...そうですね、数千万年後か、数億年後のことか も知れません...
また、もし、大量絶滅がなければ...生命進化が加速し、数万年後にはその“文明 的な空きニッチ”の中に、新人類が展開しているかも知れません。そして、大いに批判 され、けなされ、“馬鹿な種族だった”と笑われているかも知れませんねえ...」 「このまま...」夏美が言った。「私達、ホモ・サピエンスが、持続するということはな いのでしょうか?」 「もちろん、」堀内が言った。「私たちは、そのために努力しているのです。“愚か者”に ならないために...“文明の折り返し”を成し遂げようと...」 「でも、まだ、車を大量生産しようという人達も、いるわけですね」 「だから、人類全体で、それを抑止する方向へもっていく事が大事なのです...」 「はい」夏美が、うなづいた。 ≪酸性化の影響≫
「ええ、堀内さん...
海洋の酸性化は、珊瑚の殻の炭酸カルシウム/CaCO3を溶かしてしまうという
話は、すでに触れましたが、もう少し詳しく説明していただけないでしょうか」
「はい...ええと、何処から話しますかね...」
「まず、CO2が海に溶け込み...炭酸/H2CO3になり...また、CO2の一部が炭
酸イオンに解離しますね...?」
「そうです、」
「それなら...海水の炭酸イオンは、より豊富になるのではないでしょうか...それ
が、何故、炭酸カルシウムの形成が、ピンチなんでしょうか?」
「ああ、そうですね...
一見、そう見えるわけです...しかし、実際には、そうはならないのです...同時
に発生する水素イオンが炭酸イオンと結合し、重炭酸イオンを形成してしまうからで
す。つまり、最終的には、炭酸イオン濃度は減少することになるのです。これが、現実
に起こっている化学反応です」
「はい...重炭酸イオンになってしまうわけですね、」
「そうです...
pHの低下と、それによる炭酸イオン濃度の減少は、明らかに珊瑚などの炭酸カ
ルシウムを形成する生物の、生長を妨げます。珊瑚に限らず、そうした生物種は数多
くあります。円石藻類(植物プランクトン)、それに有孔虫や翼足類(動物プランクトン)などです」
「珊瑚の“白化現象”が、しばしばマスコミなどでも問題になっていますが、これも酸
性化の影響なのでしょうか?」
「そうですね...そう考えている科学者もいます...
まあ、この現象は、“環境ストレス”が加わることにより、“共生藻”が宿主の珊瑚か
らいなくなる事で起こります。珊瑚の炭酸カルシウムの白い骨格だけになってしまう
ので、白くなってしまうわけです。珊瑚が死んでしまったわけではありませんが、“共
生藻”がいなくなるということは、相当な“ストレス”だということでしょう」
「はい」
「この“白化”は、極端な“海水の高温化”によって起こるそうです...それと、“酸性
化”ですね。まあ、“酸性化”というよりは、正確には“アルカリ度のわずかな低下”で、
起こっているわけですがね...」
「うーん...“酸性化”と“温暖化”の、両方が関係しているのでしょうか?」
「まあ、そうですねえ...
いずれも、“環境ストレス”として加わっているのでしょうし...原因は人類文明の
吐き出すCO2というわけですね...
もちろん、火山などの自然現象もあるわけです。大量の硫化物や塩化物を吐き出し
ますからねえ...しかし、これは仮に、近くの海を死滅させたとしても、元々自然のサ
イクルの中で存在するものです。文明の吐き出すCO2の様に、年々の排出量が確実
に蓄積していく、というものではあのません...」
「はい...自然界では、全く吐き出さない時期もあるわけですよね」
「そうです...」
「ええと...おさらいになりますが...
珊瑚やその他の海洋生物の殻に含まれる炭酸カルシウムには、2つの異なる結
晶形があると言うことですね...1つがカルサイト(方解石)で、安定した結晶...もう1
つが珊瑚などが形成する、アラゴナイト(あられ石)で、不安定な結晶構造ですね...
珊瑚が形成するアラゴナイトの方が、酸性化の影響を受けやすいと言われていま
すが、実際には、どのように違うのでしょうか?」
「化学成分は同じです。しかし、原子配列が異なるのです。カルサイトの方が、安定な
結晶構造だということでしょう。いわゆる、純粋なカルサイト/方解石は、無色透明で、
ガラスのような光沢がありますね...」
「珊瑚とは、見た目も違うわけですね」
「そうです」
〔5〕
海洋/相転移の恐怖
「ええ、堀内さん...
現在の酸性化の状況は、どうなのでしょうか。すでに、相当深刻な状況なのでしょ うか?」 「まあ、珊瑚などの炭酸カルシウムの溶解度は、基本的には炭酸イオン濃度に依存 します。それは、間接的には、
pH(水素イオン指数)
によるということです。また、水温や、 水圧などによっても影響します」 「はい...」 「海洋の酸性度は、海域によっても異なります...
また、海洋表層よりも海洋深層で酸性度が高いのです...深層は水圧も高く、冷 たい水になっています...多くの海域で、海洋深層は相当に酸性度が高く、すでに 炭酸カルシウムのプランクトンの殻を溶かすほどだと言われます」 「それは、」夏美が言った。「人類文明の排出する、CO2の影響と言うことでしょう か?」 「いえ...
全てが、文明のの吐き出すCO2の影響ではないでしょう。しかし、文明の排出する CO2は、プラス・アルファの要因として、着実にその上に蓄積している、と言うことで しょう...それが、“文明的要因”なのです...
数値としては比較的小さな値ですが、それが大自然の枠外で、年々蓄積していくと いうことが、大問題なのです。陸上の植生も、そうやって何百年とかけて、生態系を “単調な風景”に変えて来たのです。そして、今度は...この莫大な容積の海という わけです...」 「はい...すでに深海底も海岸も、“文明のゴミだらけ”だと聞きますよね、」 「それが、文明による破壊の1つです...さて、話を進めましょう...
そのような...炭酸カルシウムのプランクトンの殻を溶かすほど、酸性度の強い海 水は、“未飽和”と呼ばれます...炭酸カルシウムの溶解度が“未飽和”ということで すね。つまり...“飽和状態にない”から、殻の炭酸カルシウムが溶け出すということ です...あるいは、結晶化しにくいと言うことです...」 「はい、分ります」 「これは、先ほども言いましたように、水温や圧力などにも影響されます...深層水 は、冷たく、水圧も高いわけです...」 「うーん...はい、」 「一方、浅い所の温かい海水...表層水はどうかというと...今のところアラゴナイ トに対しても、カルサイトに対しても、“過飽和”の状態です。つまり、珊瑚などの炭酸 カルシウムが溶け出すことはありません」 「まだ、大丈夫なわけですね、」 「まあ、そうです...今のところは、溶け出していません...」 「つまり、今後が心配されるということですね?」 「そうです...話を進めましょう...
この...“未飽和”と“過飽和”の境界は...“飽和深度”と呼ばれています... この“飽和深度”が、海洋の酸性化によって動くわけです...」 「ああ...そうなんですか...」 「アラゴナイトやカルサイトの“飽和深度”は...1800年代に比べて、50〜200m も浅くなったと言われています」 「それは、つまり...産業革命以後の、文明の排出したCO2の影響によると言うこと でしょうか?」 「まあ...それと合致していますね...
今後、車社会、航空機輸送、冷暖房の普及...大量生産・大量消費で、エネルギ ー需要の増大が続けば、この傾向は一段と加速します。つまり、“過飽和”の表層水 の範囲が、それだけ狭められ、薄っぺらになり、生態系が激変していくと言うことで す...その激変が、何処へ行き着くのか、想像がつきません...」 「陸上でも、“絶滅種”や“絶滅危惧種”が膨大な数にのぼっていますね...両生類 は、特に人類が作り出した環境変化に対し、適応ができないようですね」 「そのようですねえ...
まあ、海洋の酸性化が引き起こす影響についても、当初は多くの科学者が、影響 はそれほど大きくはないと推測していました。と言うのは、カルサイトの方は原子配列 の安定した結晶なので、表面海水は“過飽和”なままで残ると考えていたのです。
ところが、幾つかの実験の結果、CO2の増加は、アラゴナイトにもカルサイトにも、 いずれにも悪影響を与えることが分ったのです。かなり“過飽和”の状態であっても、 “pHの低下”は、炭酸カルシウムの形成を著しく低下させているのが、分って来たの です...」 「それが分ったのは、最近のことでしょうか?」 「つい、最近のことです...これから、本格的な調査が開始される段階といっていい でしょう...」 「そうですか、」 「ともかく、最初に海洋酸性化の影響をけるのは、南北の両極域や、深層域の生態 系です。先ほども言いましたが、“冷たい海水”は、“温かい海水”に比べて、炭酸カ ルシウムの結晶に関しては、もともと“未飽和”に近いのです。
特に...まず注目すべきは、生産性の高い南極海の表層水です。この海域の翼 足類(動物プランクトン)は、豊かな南極海の“食物連鎖”の底辺を支えています。この翼足 類が炭酸カルシウムの殻を形成できなくなると、生態系全体が大きな打撃を受けるこ とになります」 「そこの空きニッチ(/空になった生態系的地位)に、」夏美が、髪をなびかせながら言った。「別 のプランクトンが入り込むというようなことは、ないのでしょうか?」 「うーむ...それは考えられることです...大事な指摘です。しかし、実際に何が起こ るかは、その時になってみないと、なかなか分らないものがあります。生態系の“恒常 性(ホメオスタシス)”が、どのように動くか分りませんからねえ...」 「コントロールはできないのでしょうか?」 「...生態系のカオスをいじくる事には、私は賛成しませんね...メチャメチャニして しまう恐れがあります...」 「はい...」 「さて...珊瑚などを絶滅の縁に追いやる海洋の酸性化ですが、これが有利に働く 生物もいるわけです」 「あ、そうなんですか、」 「はい...これから研究が進むのでしょうが、分っている事を説明しましょう」 「はい」 「まず、くり返しになりますが...
CO2は海水に溶け込むと、炭酸/H2CO3になります。しかし、幾らかは、CO2の まま海水に溶け込んでいます...これを溶存態CO2と言います。これが増える事に なれば...幾つかの植物プランクトンでは、生存に有利になるのです。この力は膨大 なものです」 「具体的には、どんな植物プランクトンでしょうか?」 「まあ...私は、詳しいことは知りませんが...例えば、珊瑚内で共生している藻で すね。溶存態CO2の濃度が上がれば、これらのプランクトンはCO2を体内に取り入 れるのに、貴重なエネルギーを消費しなくてすむようです...それだけ、生存に有利 になります」 「でも、“白化現象”では、それが姿を消してしまうのではなかったかしら?」 「うーむ...そうですね...詳しい事情はわかりません...
いわゆこのる“肥沃(ひよく)化”が、これらの植物プランクトンに、どのような影響を与 えるか、まだよく分ってはいないのでしょう...ただ、生存に有利になるということ は、こうしたプランクトンのレベルでは、風景を一変させるほどの、莫大な力を持って います」 「はい...
もちろん、CO2を体内に取り入れるのは、植物プランクトンですから、光合成(炭酸同 化作用の1形式)をするためですよね?」 「そうです...
実は...海洋性・植物プランクトンの多くは、光合成には溶存態CO2ではなく、炭 酸が解離した重炭酸イオンを取り込んでいます...この方が豊富にあり、生存に有 利ですからね」 「はい」 「そして、この重炭酸イオン濃度の方は、海洋の酸性化では、ほとんど変化していま せん。したがって、植物プランクトン全体では、溶存態CO2の濃度が上昇しても、そ れほど大きな変化はないと考えられています」 「はい...」 「それから...
実は...海藻などの高等植物は、海水中の溶存態CO2を使って、光合成をして いるのです。したがって、海藻などには、非常に有利になるものと思われますね」 「難しいですね...」 「そうです...難しいです...非常に、ややこしくもあります...したがって、こうした 生態系は、一度かき回してしまったら、元に戻すなどは不可能です...だから私は、 あまり人為的なコントロールは、したくないと言ったわけです...」 「ふーん...」 ≪今後の展望・・・≫
「ええ、堀内さん、今後の展望は、どのようになっているのでしょうか?」 「はい...」堀内は、作業テーブルに埋め込まれた自分用のモニター画面を、マウス で操作した。「現在、海洋酸性化による、炭酸カルシウムの影響の研究は...単一 の種を対象にした、短期的な室内実験に限られています...
具体的には...コロンビア大学の、“バイオスフィアU・研究所”の巨大なタンクの 中に作った珊瑚礁で、海水を化学分析したものなどです。この施設は、アメリカのアリ ゾナ砂漠の真中にあり...まあ、海とは完全に隔離された環境にあります」 「うーん...そんな所で実験しているんですか?」 「そうです。海でやればいいわけですが、海洋だと非常に複雑な要素が入ってくるわ けでしょう...いわば、試験管やビーカーの中といった所でしょうかね...」 「不思議な感じがしますね...」 「今後は、一部の海域や珊瑚礁等で、数ヶ月〜数年にわたる実験が必要と言われて います...“人為的にCO2濃度を高める”実験等も、やります...こうした事は、す でに陸上では行われているわけですが、海洋ではまさに、“その方法を模索”してい る段階です。しかし、早急に、実施に移ると思いますね」 「はい...陸上よりは、遅れているわけですね」 「陸上よりも...」高杉が、ベランダから戻りながら言った。「海洋の方が、はるかに複 雑で、難しいのでしょう...
“物の領域/自然科学”と、“心の領域/精神科学”の関係に似ているかも知れま せん...はるかに深い側が、後回しになっている状況です。21世紀には、いよいよ “心の領域”にも、本格的に手がつけられるでしょう...もっとも、まだ見えてきていま せんがね、」 「はい...」
夏美は、目を細め、高杉の肩越しに外海の太平洋を眺めた。ヨットの群れは、ぐんと 岬の方に寄っていたが、はるかに小さくなり、沖の水平線上にあった... 「この広い海が、」夏美が言った。「酸性化して、“相転移”が起こるなんて...本当な のかしら...」 「そうだねえ...」高杉は、自分の椅子に腰を下ろし、海を眺めた。「誰もが、そう思っ ていたでしょう...」 「そうですよね...」 「生理的食塩水は...」高杉が言った。「リンゲル液とも言いますが...私達の体液 に近いものです...それはまた、海水にきわめて近いものだそうですね...このこ とは、我々陸の動物も、海から陸に上がったとことに関係しているのでしょう...
その偉大な海水が...“過去3億年間で経験したことのないほど、酸性化する”と 言いましたが...堀内さん、それは本当でしょうか?」 「カルデイラ(ワシントン・カーネギー研究所)は、そう警告していますね。まあ、数百年のスパン で、と言うことですが、」 「うーむ...」 「この広い海が...」夏美が、髪に手を当てて、頭をかしげた。「それほどの、強酸性 になるものでしょうか?」 「いや、」堀内が言った。「強酸性になると言うのは、少し意味が違います...
これは、いわゆる塩酸の海や、硫酸の海になる、というのではありません。原始地 球のような、激しい造山活動の時代の海とは違います。そうした意味からすれば、わ ずかなpHの変化かも知れません...
しかし、生理的食塩水のpHが、わずかに動くということでも、生物体にとっては大 変な事態だという事は、分ると思います...それが、つまり、“海洋の相転移”になる のです...」 「うーん...はい、」夏美が、大きくうなづいた。
「ええ、夏美です... このページは、ここで終ります。続きは、“文明で加速するCO2の実態”でどうぞ!」
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