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トランスパーソナルな風景         

                                         < 超 個 的 風 景 > 

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 トップページHot SpotMenu                            執筆 : 高杉 光一    <1998.1.26 /開始>

 

                                                                                                                        (1998. 1.26)

                    

  トランスパーソナルとは、

         個人の中にあって個人を越えている領域、

                         あるいはそのプロセスを指します。

 

(1) トランスパーソナル     

 

  超心理学で言う ESP が、トランスパーソナルの最も単純かつ分かりやすい例か

と思います。つまり、テレパシー、透視、予知、さらにあらゆるレベルの超個的体験

があります。また、最も近い例では、男女の性別があるでしょうか。私は男性です

が、これは私の個体を超えたレベルの問題です。そうした雌雄という対の概念の一

方を、私という個人が内包しているということです。つまり、これも私の超個性なので

す。私という独立した個人は、このようなあらゆるレベルの超個性で、社会や種や生

態系の中に織り込まれているのです。

 

  では、ESP などの超常現象は、一体どう説明したらよいのでしょうか。ケン・ウィ

ルバーによれば、こうした現象すべてに共通しているのは、自己/非自己の境界が

有機体の皮膚の境界を越えて拡大していることだといいます。それでは、自己が肉

体を越えて拡大しているとは、どのようなことでしょうか。また、自己がさらに拡大

し、宇宙と同一化するとは、どのようなことでしょうか。

 

( 自我の拡大は、無我に反転します。無我とは、我を消滅すること。)

 

  さて.....この宇宙には、“部分”というものは存在しないといわれます。もう少

し詳しくいいますと、この宇宙には、完全に独立した“部分”という独立系は、存立し

得ないということです。つまり、通常いわれる部分というものは、何らかの形で、常

に全体の影響を受けているということです。それを数学的に証明したのが “ベルの

定理” です。この定理は私たちに、光速を超える情報交換の可能性をも示唆してい

ます。

 

  リアリティーは、

          切れ目の無い連続体.....

                          分断は不可能.....

 

  私たちの目に映る周囲のものに、写真のような切れ目があるでしょうか?また、

大地と空、大地と海の間に切れ目があるでしょうか?さらに、リンゴとミカンの間に、

切り裂いた空間が存在するでしょうか?たとえ、それらの境界を顕微鏡で覗いたと

しても、そこにはいわゆる“切れ目”などは存在しません。物と物との境界も、独立し

た名称としての区切りはありますが、事実上の境界などは存在しないのです。それ

らを背景の中から切り取り、完全に独立したものとして、ポンと横に置くことなどは、

本来不可能なことです。

 ところが私たちは、言葉によってこの“リアリティー”を際限なく分断しています。ま

ず、物に名前を付ける。あるいは人に名前を付ける。そして、リアリティーの中の部

分を特定します。まさにそれらは、限りなく細部にまでわたって分断されていきま

す。

  つまり、物はその詳しい性質が分析されます。人は住所、生年月日、経歴が書き

加えられていきます。私たちは、この限りない分断によって、関係性を再構成し、よ

り深い真理を探究し、この現在の科学技術文明を作り上げてきたのです。しかし、こ

の分断主義、還元主義、還元主義的機械論の徹底した追求は、しだいに人類の科

学技術文明に、大きな歪みをも作り出してきたのです。この歪みは、今では地球生

命圏の巨大な危機にまで拡大しています。

 私たちの限りない分断化の作業とは裏腹に、実際にはそうした部分や個別化され

たものなどは一切存在していません。今、私たちは、分断主義、還元主義というパ

ラダイムに、非常な慎重さを要求される時代に来ているのです。すでに、科学技術

の巨大な爪痕は、地球表面を究めて単調で無感動のものに変貌させてしまってい

ます。このまま進んでいけば、地球生命圏は急速に沈没してしまいます。

 

(2) 透視            

 

  そもそも、私たち無数の各個人というものは、完全に独立した存在ではありえま

せん。例えば、まず、種としてのホモサピエンスの流れがあります。また、国家とし

てのホモサピエンスの流れもあります。あるいは、エリアとしてのホモサピエンスの

流れや、集団や家族としてのホモサピエンスの流れもあるのです。それは、人体に

たとえれば、個人とは何処かの臓器の中の1細胞とでもいったらいいでしょうか。

 このような立場にある私たち個人にとって、テレパシー、透視、予知というような

ESP はどのように解釈したらよいのでしょうか。しかし一方、部分という独立系の

成立し得ないリアリティーの中では、テレパシーや透視という情報系の超越は、きわ

めて当然とも思えます。電子の速度を超え、光子の速度を超え、トンネル効果で透

過する程の概念は、すでに昔からあったものです。したがって、“唯心的空間”で

は、光速度を超えることも、いとも当然のようにも思えるのですが.....

                                         ***

  さて、超心理学でいうところの“透視”ですが、経験があるのかと言われれば、貧

弱な経験ですが、何度かあります。しかしここでは、貧弱であろうと、存在を確かめ

たこと、体験したことが重要かと思います。それは、まさにマンガ等に描かれてい

る、その種の情景とそっくりです。また、書物で読んだり、人から聞く話とも同じで

す。さすがに、超心理学という学問で扱われている公認の現象だけに、よく研究さ

れているようです。

 さて、ここでは私が直接経験したことを前提としていますので、私のささやかな偶

然、ささやかな体験について触れておきます。現象は、フルカラー。時間にして、ほ

とんどが10秒前後でしょうか。声も、はっきりと聞き取れます。また、たいがいは、

それが誰なのか分かります。が、分からないこともあります。あるいはまた、誰とも

分からない声だけの時もあります。ほんの一言だけの時もあります。

 いずれにしても、自分にとって究めて重大な事柄が、突然、選択的に見えて来る

といった状況です。そこには、どのようなメカニズムが働いているのでしょうか。いず

れにしても、それらは何か益のあるものというよりも、情報として重要なものといった

ところでしょうか。しかし、この情報は、極端に気まぐれであり、全く当てにできるも

のではありません。聞く所によれば、ギャンブルなどの欲の絡んだ話では、占いや

予知は働かないといいます。本当なのでしょうか。少なくとも、私はそんな御利益の

ある経験は、一度もしたことがありませんが.....

 

(3) 透視の時空構造解    解釈   

 

  私の貧しい経験から推計しますと、この超空間情報の提供は、私の中の個人を

超えた部分、超個性から流れ込んで来ているということでしょうか。しかし、その超

個性が、どの様な上位情報系とリンクしているかは見えてきません。が、考えられる

のは、ホモサピエンスの雌雄を統括しているあたりの、上位意識体でしょうか。それ

は、種の総合的な防御とバランスを保ち、さらに進化を促進している、種の共同意

識体。あるいは同レベルの、社会の共同意識体。それとも、生態系スポットの、種を

超えた別レベルの上位意識体なのでしょうか。そこから、上意下達的かつきわめて

選択的に、重要な情報が何らかの意図によって提供されているのでしょうか。しか

も、超サイクルの回線で.....

 ところで、私という個人の中だけでも、膨大な情報が渦巻いています。とりあえず、

意識を除いたとしても、視覚系、聴覚系、さらに自律神経に流されている情報のよう

に、隠された生体情報があります。それに加え、DNAの発現による遺伝子情報の

波、タンパク質情報の波、免疫系やアポトーシス(新陳代謝のための細胞の自殺)

情報の波、それらを統括する幾層ものヒエラルキー等々。そして、さらにそれらに加

え、こうした“透視”というような不可思議な超越的情報が加わっていきます。

 しかし、考えてみれば、ESP だけが不可思議というわけではありません。すべて

が不可思議なのです。これらの全情報をコンピューターで計算しようとしたら、スー

パーコンピューターが何百台必要でしょうか。いや、現在のシステムのコンピュータ

ーでは、何千台、何万台あろうとも、たちまち計算時間が吹っ飛んでしまいます。そ

れほどの情報量を、私たちは人体という殻に収め、その身体をもてあまし、日々怠

惰な生活を送っているわけです。

 

( ま、そんなことはどうでもいいですが...)

 

  いずれにしても私たちは、この生態系や社会性の中に、濃密に織り込まれている

存在です。私、あるいはあなたという存在は、この生態系の上に単独で出現してい

るわけではないのです。それはむしろ、織物の一つの布模様といった方がより適切

なのかもしれません。したがって、その様な関係性の中に織り込まれている個人

に、透視やテレパシーという超越的情報が流れたとしても、それは特に驚くには値

しないとも思えます。そして結局、それが真実ならば、私たちはそれを受け入れてい

かなければならないのです。

 

 

(4) 機密・暗号の限界        

 

  さて、このような “唯心的空間” の中で、 “機密”というものはどの様な状況にあ

るのでしようか。また、完全な“機密”、完全な“暗号”機能などといったものが、本質

的に存在し得るのでしょうか。いや、独立した“部分”というものが成立しない空間で

は、完全な機密などはありえないと考えるべきです。 また暗号も、その一向関数や

符牒が完璧であっても、超空間的な透視という超越がある以上、別の視野、別の次

元から見ることができるということです。しかも、“唯心的空間”では、独立した部分

はありえず、機密も成立しないとなれば、すでに答えは出ているように思えます。

 

  では、現状はどうなのでしょうか。一例として、銀行等の電子取り引きを見れば一

目瞭然かと思います。その仕組みを知っている者なら、いとも簡単に不正介入がで

きるわけです。しかし、それでも社会的なパニックが起こらないのは、そこに法的な

網がかけられているからです。ここが、この社会の仕組みとしての、非常に重要な

ポイントだと思います。犯罪はあらゆる場面で、網の目のように可能です。しかし、

そこには法的に、あるいはより本質的な慣習や道徳として、枠で押さえられている

社会システムがあるわけです。また、この社会システムの本質として、“信頼”や

“信用”というものがあります。この信頼や信用が崩壊した時、私たちの社会システ

ムは総崩れとなり、意外なもろさを露呈します。

 

( このあたりは、社会を考察するという意味では、非常に面白い所です。しかし、話

が脱線しますので、別の機会にします。)