「さあ...もう20世紀もあと2ヶ月足らずです...」響子は、プレゼンテーション・スク
リーンの前に立ち、背筋を伸ばして言った。
彼女は、着替えてきたカーキ色のフラウすを、ゆっくりと肘まで捲り上げた。すっか
り涼しい陽気になっていたが、晴れていると日中はまだいくらか汗ばんだ。
「チーコちゃん、」響子は、ふと、窓の方へ足を運びながら言った。「外はいい天気よ。
窓を全部開けてちょうだい」
「はーい!」チーコちゃんは、独立コマンド系になっている、インフォメーション・スクリ
ーンの方へ跳んで行った。
インフォメーション・スクリーンは、この“ホームページ基地”内部の独立ネット系の
端末になっている。したがって、外部と接続するインターネットや、基地内の主要コン
ピューターからは、物理的に切り離されている。これは、外部からの進入を防ぎ、基
地の安定性を高めるためにとられているシステムの一環だった。
21世紀まで後2ヶ月...この“ホームページ基地”も、内部空間の小説 “Inner
Story”
の器として、独自の進化を開始していた。
チーコちゃんは、スクリーン横のパネルのボタンをポンと押し、音声ガイドで窓の開
放を命じた。まず、シャッターが左右に割れ、それから少し後れて窓も滑らかに左右
に開いていく。すると、陽光の輝く秋の庭園が見えてきた。窓のすぐ傍には、ぶどう
棚があった。棚の下には透通るように熟したマスカットが、たわわに垂れ下がってい
る。
ぶどう棚の向こうは、芝生が開けていた。芝生の中にある白樺とポプラの木が、美
しい黄色に紅葉し、キラキラと微風で揺れている。そのさらに向こうは雑木林の縁に
なっていた。紅葉した雑木林の上は、青空が深く澄みわたっていた。吸い込まれるよ
うなその青空の奥深くに、かすかな巻雲が一筋流れている...
響子は、木々の紅葉と、深く澄みわたった青空を、吸い込まれるように無心に見つ
めていた。心が無心に入る時...永遠の今は“合わせ鏡”のように、無心が無心を
映し出す。響子は、深い青空の中に吸い込まれていき、青空に溶け込み、1人称とし
ての青空を見つめていた...
「ほう...なかなかいい眺めだね...」外山が、窓の方へ歩いて来た。
「...はい...もうすっかり紅葉していますわ...」
「ところで、ここはどこかね?」
「あ、そう...ここは長野県の軽井沢です。その一番はずれになります。私は企画の
担当主任なので、ホームページの基地局の1つを、この軽井沢に作りました。今回
の、“最新・ヒトゲノム解読後の風景”が、ここでの初仕事になります。それで、“大
戦略・DNAの攻防”全体も、こちらの基地局に移しました」
「ふーむ...企画の担当主任というのは、権限があるんだね、」
「はい、」響子は、ニッコリとうなづいた。「でも、高杉塾長の許可が必要です。それ
に、今回のような基地局の設置ですと、ボスの承認も受けておかないと、」
「なるほど。ボスとは、よくコンタクトはとるんですか?」
「いえ。ごく、たまにです」
「私は、まだボスに会ったことがないが...」
「みんなそう。ボスはめったにこちら側には来ませんもの。でも多分、正月には会える
かも知れませんわ」
「うーむ、それは楽しみだ...さてと、休憩も取ったし、そろそろ始めるかね」
「はい」
<ゲノミクス から プロテオミクス へ
>

響子は、レーザー・ポインターを持って、プレゼンテーション・スクリーンの前に立っ
た。外山は、正面テーブルの椅子に掛け、ゆっくりと脚を組み上げた。
「...ええ、20世紀も後わずかです。ヒトゲノムの解読は、今世紀中に完了するので
しょうか...いずれにしても、もはや研究者の関心は、ゲノムを研究するゲノミクスか
ら、タンパク質を研究するプロテオミクスへ移行していると言われます...
このプロテオミクスとは、もう少し詳しく言うと、遺伝子が“いつ”、“何処で”、“どの
ように”
発現するか。また、その遺伝子が作り出すタンパク質の構造や、タンパク質
の機能や、種々のタンパク質の特性は、どのようなものかを研究するものです...」
「ええ...」外山は、インターネット正面カメラの中に入り、眼鏡に手をやった。「そうで
すねえ...ヒトゲノムの解読が最終局面を迎え、次にすべき戦略的課題は、約10万
ともいわれる遺伝子の解明です。それは具体的には、mRNA(
メッセンジャーRMA)と、そ
れによって作り出される100万種を超えると推定されるヒトのタンパク質の解明で
す。
何度も繰り返しますが...ヒトゲノムは染色体地図で表示され、それはDNAの二
重ラセン暗号コードで書き込まれています。これは別な言い方をすれば、その個体の
全ての設計図を収めた、30億塩基対のデータベースです。
これは全ての細胞の核の中にあります。そして、このDNAは、細胞の核から外へ
出ることはありません。DNAを部分的に転写し、スプライシングで遺伝子を整え、外へ
出て行くのはmRNAの仕事です。そして、このmRNAを人為的に逆転写して作った
のが、cDNAです。では、何故cDNAなどという遺伝子のコピーが必要なのかという
と、研究を進めていく上で非常に有力な道具であり、便利な素材だということです。
さあ、そういうわけで...ええ...染色体の詰まった核から出たmRNAは、“リボ
ソーム”という細胞内のタンパク質製造工場へ行き、そこで設計図を示し、タンパク質
の製造に取り掛かります。
このリボソームという小さな粒は、細胞質の中に浮遊していたり、小胞体表面に付
着したりしています。まあ、いわゆる巨大な製造工場とは、少しイメージが違います
ね。これについては、いずれ別の機会に、詳しく考察していくことにします...」
<遺伝子チップ >
「さて、“トランスクリプトーム”と“プロテオーム”という言葉があります」外山は、チラリ
と窓の外に目を投げて言った。「“トランスクリプトーム”とは、ある時点に、ある細胞が
作っている、mRNAの全ての集合体のことをいいます。一方、“プロテオーム”とは、
それらのmRNAから作られる、タンパク質すべてのことをいいます。
何故、このような概念を紹介するかというと、ここから...ええ、具体的に、遺伝子
とタンパク質を特定する作業が開始されるからです。
また、
トランスクリプトームは トランスクリプトミクス(mRNAの全ての集合体の研究
)に対応
し、プロテオームはプロテオミクス(mRNAから作られるタンパク質の研究
)に対応しています。つ
まり、ゲノミクス(ゲノムの研究
)は、
トランスクリプトミクスとプロテオミクスという次の研究
段階に入ったというわけです。それでは、響子さん、“遺伝子チップ”の説明をお願い
します」
「はい。ええ、まず...米カリフォルニア州のサンタクララに、アフィメトリックス社とい
うベンチャー企業があります。この会社は、遺伝子チップを商業化した最初の会社と
して知られています。そして、この遺伝子チップ技術は、トランスクリプトミクス、つまり
mRNAの全ての集合体を研究する上で、非常に重要な地位を占めています。
さあ、具体的な話に入りましょうか...遺伝子チップ(商品名:
GeneChip)は、
“親指の爪サイズのガラス上に、ある特定の種類の細胞が作る、全てのmRNAと
結合する“cDNA”
が、ずらりと貼り付けてある”
といいます。cDNA(相補的DNA)は、先ほども説明していますが、いわゆるmRNAから
DNAに逆に読み直して(逆転写)、人工的に作ったものです。mRNAは、一度スプライ
シング(編集)され、意味を持たないイントロンが取り除かれ、エクソンのみになっていま
す。したがって、これを逆転写したcDNAも、当然イントロンの部分は削除されていま
す」
「そうですねえ...」外山は、腕組みをしながら言った。「また、繰り返しになります
が、DNAはよく言われるように、二重ラセン構造になっています。したがって、その片
方があれば、コピーはいくらでも作れます。また、生殖細胞などでは、男性側の半分と
女性側の半分が結合し、子供にはその両方の形質の一部づつが受け継がれます。
それから、mRNAからDNAに逆転写されたcDNAですが...うーん...RNAとD
NAは構成要素が多少違いますし、口で言うよりもはるかに複雑なのかもしれません
ねえ...」
「あ、それでも...cDNAは、人工的に作られたといっても、遺伝子としては本物で
す」響子が、レーザー・ポインターを、プレゼンテーション・スクリーンの図上に当てなが
ら言った。「だからこそ、遺伝子チップの上に並べ、mRNAと結合させて、そのmRNA
を特定できるというわけです...はい、それでは、ミミちゃん、ガイドの方をお願いし
ます」
響子は、パソコンで編集しているミミちゃんに小さく手を上げ、レーザー・ポインターを
コトリとコンソールの隅に置いた。
「うん!」ミミちゃんは、長い耳を揺らしてうなづいた。
《
ミミちゃんガイド...No.8 》


《ミミちゃん/談》
遺伝子チップ
<遺伝子チップの使い方>
「mRNAを特定する遺伝子チップは、今後どんどん新しいタイプのものが開
発されていくようです。しかも、商業ベースで行われていますので、使う目的も
場所もそれこそ自由ということでしょうか...
研究者は、まず調べたい細胞資料からmRNAを注出し、化学的な目印を
つけます。そして、それを遺伝子チップの上にたらします。それから、mRNA
がどのcDNAと結合したかを調べれば、資料に含まれていたmRNAの塩基
配列がわかります...」
<遺伝子発現の光景>
「ヒトの全ての細胞に核があります。そして、それぞれの核には、完全なDNA
のデータベースが備わっています。でも、各細胞により、それが使われるの
は、特定のごく一部です。したがって、その細胞の中に、どのようなmRNAが
あるかで、その細胞が何をしているかも分るわけです...
例えば、インスリンを作るmRNAは、すい臓のベータ細胞に大量に存在し
ます。しかし、脳の神経細胞の中には、通常は全く存在しません。つまり、仕
事をする場所に、それぞれのmRNAが集まっているということです。
それから、DNAの活躍の場としては...母親の胎内で受精卵から胎児
に至る一連の遺伝子発現の光景が、最も複雑でダイナミックなものだと思い
ます。でも、その作業が終わると、かなりの数の遺伝子は、もう再びmRNAに
転写されることはありません。彼等は、DNAデータベースの奥深く眠りにつ
き、再び個体が複製される時を待つのです...」
<新しい遺伝子チップの開発>
「このアフィメトリックス社は、今年初め、2つの新しい遺伝子チップの開発に
乗り出したといわれます。いずれもヒト細胞解析用のもので、もうすぐ11月
ですから、相当に進んでいるのでしょうか...」
「1つは、6万種類のmRNAを特定できるものだといいます。そしてもう1つ
は、ガンに関係する1700のmRNAが、細胞に存在するかどうかを調べるも
のだといいます。うーん...」
<ヒト腫瘍遺伝子・目録計画>
アメリカ国立ガン研究所 <連邦政府、学術機関、製薬会社も参加...>
「ええと...これはヒトのガン遺伝子の目録を作るプロジェクトです。
うーん...色々な種類のガン細胞が作る、mRNAを調べ、全てのガン遺伝
子を特定していく仕事です。
すでに、5万ほどのガン遺伝子を特定しています。これらは、1種類のガ
ンや、複数種類のガンで活性化していることが確認されています...」
「この計画から、乳ガンで活性化している遺伝子が、5692個見つかりまし
た。また、この内の277個は、他の組織や臓器では活性化しないことも分っ
ています。つまり、乳ガンのみに関与している可能性が、非常に高いというこ
とです。
したがって、この277個の遺伝子が作り出すタンパク質を標的とした化合
物を作れば、副作用の少ない、非常に優れた乳ガン治療薬が開発できると
言われます」

「はい、ミミ君!どうもご苦労さま!」外山は、パンパン、と手を叩いた。「さて、少しま
とめておこうかね、」
「はい、」
「ええ...いま、ヒトゲノム及びその周辺の研究は、巨大な河のように流れています。
そして今の所、その標的は全てタンパク質に向かっているように思えます。何故、タン
パク質なのかといえば、DNA遺伝子が作り出すのは、タンパク質だからです。そして
また、ここに有機生命体の大いなる秘密があるからです」
「あの、有機生命体について、少し説明していただけるでしょうか?」
「うむ。この地球に存在している生命体...いや、人類文明がこれまでに出会った
生命体は...まあ、この地球からほとんど出たこともないわけだが...全てタンパ
ク質で構成された生命体だったでしょう。それ以外の型の生命体とは、まだ一度も出
会ってはいないはずです」
「...」
「そこで、このタンパク質というのは、多種類のアミノ酸で構成されています。そして、
このアミノ酸は、炭素原子を土台にして出来ています。こうした形で炭素原子を含ん
だものを、有機化合物と言うわけですね。有機生命体とは、このように炭素原子を土
台とした生命体ということです」
「はい、」
「この地球という惑星には、この様に生命体やその残滓に含まれる有機物系の炭素
があります。また、二酸化炭素(CO2)のように、アミノ酸とは関係のない無機物系の
炭素というものもあり、これらは大きく循環しています。
石油や天然ガスなどは化石燃料と言われるように、有機物が地質年代的な時間
の中で醸成されて出来たものであり、有機物系のものです。しかし一方、地中や海水
中や大気中の無機物系の炭素というのも、実は膨大な量なのです。
また、面白いことに、私たちの呼吸では酸素(O2)を吸い込み、二酸化炭素(CO2)を
吐出しています。では、<O2を取り入れ、CO2を排出するとなると、単純な計算でも、C
は余分に排出しています>...この炭素(C)はどこから来ているのでしょうか。ま
あ、私たちは、食物として大量のタンパク質を食べ、同時に炭素を取り入れているわけ
ですが、このような形で排出もしているのです。言い換えると、炭素は開放系システム
である私たちの体の中を様々な形でグルグル回り、通り抜けているわけですね...」
「面白いですね、」響子は、口元を崩した。
「生命体というものを考察する上では、1個の炭素の流れを追うというのも、面白いで
す。しかし、この話は、ここまでにしておきましょう。話が長くなります」
「はい」
「最近、地球温暖化との関連で、人類の化石燃料の使いすぎが問題になってきていま
す...しかし、それとは別に、化石燃料がすべて生命体の屍骸が堆積して出来たも
のだということは、別の意味ですごいことだと感じます。つまり、この地球という巨大
生命圏では、それほどの生命サイクルがあったということです。それほどのDNA型細
胞が、過去にこの地球表層部で発生し、降り積もって厚い層になっていたということ
です。
そして、21世紀を迎えようとしている人類文明は、ようやくこの爆発的に拡大して
いく生命システムの解明に着手しました。しかし、そこで分ってきた事は、人知をはる
かに超える底知れない複雑さと、無限に増殖し進化していく計り知れない狂暴さ、そ
して、それを統括している意識の謎でした...」
「そして、それは、まさに私たちの姿だということですね、」
「そういうことです。このページではこれまで、ヒトゲノムや遺伝子は、タンパク質を作
り出すシステムとしてのみ眺めてきました。しかしこれらには、もう1つ別の重要な仕
事がありました。それは、子孫を残し、この設計図を正確に伝えていくという仕事で
す。しかもこの過程において、“進化”という、想像を絶するような要素が組み込まれ
ているということです」
「ふーん...“進化”ですかあ...」
「ま、この話は、一応ここまでにしよう」
「はい。どうも、お疲れ様でした」