私たちは、人類文明、人類社会という、ある特殊な亜空間に住んでいるような気が
します。そこは、人間にとっての超偶然の場、人間的な超関係性の場が展開してい
るように思えます。
名前や言語というものは、リアリティーを限りなく分断していきます。そのリアリティ
ーを分断する言語で構成された、意味空間の進化を考察します。そこには、空間の
人間的側面、時間の人間的側面、リアリティーの芸術的側面等が浮かびます。
このページは、かなり主観的なものです。また、当面は、まとまりのない
散文的なものになるかも知れません。しかし、“人間原理空間”を考える上
では、重要な考察になります。さしあたり、どのようなものになるか、周りの 風景を眺めながら歩き始めてみます。
とりあえず、頭に浮かんだ項目を列記してみますが、これは後に変更す
るかも知れません。
言語空間・意味空間の展開と進化
時間・空間の人間的側面
超 偶 然 の 世
界...人間的亜空世界の幻想
共同意識体としての人類...人類の共同意識体”場”
トランス・パーソナル心理学の概略
非物質的遺伝子...文化的遺伝子ミーム
0次元における認識...人間的ストーリイの発現
超関係性の立体模様...宇宙の法則・認識の風景
ストーリイの成立・輪廻転生
宗教...人類救済史ストーリイの波動
人間的意味の結晶化
数学的確率 VS ギャンブルにおける人間原理的確率
人間原理空間の成立と、大極への回帰
<
適当な項目を、際限もなく並べました。これも、“ 人間原理空間
”考
察のための、一つの手段とお考えください。>

言語空間・意味空間の展開と進化
私たちが、朝目を開けると、そこには様々な名前のものが展開していま
す。部屋の中には家具。窓の外には庭や小道や樹木。遠くには山々や
空。そして、かすかな飛行機の音・・・・・樹木の梢を揺らす爽やかな
風・・・・・
それらには全て名前があります。我々人類文明が作り上げた名前です。
私たちは生まれてくると、まずこの人類特有の社会的時空間に参加する
ために、様々な教育を受けます。また、多くの規則というものを学びます。
精巧に組み合わされた名前と名前は、意味を持ち、概念が構成され、か
なり確かな世界を構築しています。むろん、私たちの眼前に出現している
風景は、このような順序で構成されたものではないし、ただそれだけの底
の浅いものでもありません。しかし、とりあえず、リアリティーを分断する言
語で構成された空間、言語の持つ意味で構成された意味空間、時間軸で
経歴する認識空間というものを検証し、この我々の存立する座標系解明
の足がかりにしたいと思います。
(
この認識される座標系は、私たちの認識のあり方と、表裏一体になりま
す。)
私は、人類の構築してきた、ある特殊な人間的亜空世界というものが存
立しているような気がしています。その亜空間とは何か・・・・・そこは、私た
ちがその空間を教育され、構成を学び、成人してようやくその社会に参加
する場・・・・・
(
いや・・・・もう少し、別の角度からアプローチしみます。まず、個人と認
識から・・・・・ )
この言語・意味空間は、あくまでも個人の認識に帰属しています。つま
り、人類レベルでは、数十億の各個人に帰属している空間です。では、こ
れらは全く別々のものかといえば、そうでもありません。これらの数十億
の認識空間は、言語という共通の横軸で織り込まれているからです。しか
も、関係性は時間軸を持ち、“種の共同意識体”というような統一意識場
をもちます。私たちは、個であると同時に、“超個性”をも持っているので
す。
“超個性”とは、個体のレベルを超えた、上位レベルでの連帯です。例
えば、私達に雌雄の別があるのも、個体を超えた上位レベルでの連帯で
す。また、種として生き残るには、どのような戦略を取るべきかといったよ
うな問題にも対処しています。つまり、犬のように群れるのか、猫のように
群れないでいるのか。あるいはまた、イワシやイカのように、食べ尽くされ
ようとも、さらにそれを上回る卵を産み落とすのか。
こうした種としての様々な戦略は、“種の
共同意識体 ”が関与している
と考えられています。もっとも、そのさらに上位システムに、生態系や生命
圏というものがあるわけですが・・・・・
時間・空間の人間的側面
話を戻します。この今私たちが見ている朝の窓辺の風景は、極めて人間
的な風景です。例えば、私たちが日常的に見ている風景は、可視光線の
領域です。それ以外の、赤外線や紫外線やX線などは全く見えていませ
ん。ところが、蛇は、赤外線で物を見ているのです。赤外線では、花は人
間と同じようには見えません。また、トンボは、複眼でこの世界を見ていま
す。複眼で見た風景というのも、相当に違ったものになります。トンボに
とっての花は、人間の見る花と同じではないのです。あるいは、魚のもつ魚
眼レンズなら、どうでしょうか。時々カメラ雑誌などに、魚眼レンズで撮った
写真が掲載されたりしています。しかし、いずれにせよ、人間の見ている世
界の風景とは、かなり異なっています。
したがって、今ここに眼前している風景は、リアリティーの人間的側面だ
ということです。空間の人間的側面、時間の人間的側面、リアリティーの芸
術的側面ということをお考えください。
( 10月23日/追加)
私達が現在目撃している空間・・・・・私達が現在感動している色彩の流れ・・・・・私
達が現在味わっているこの無明世界・・・・・これらは全て、人間における、人間のた
めの、人間的空間だということである。人間にとっての花、人間にとっての蛇、人間
にとっての昆虫、そして人間にとっての魚である。花から見た人間、蛇の赤外線の目
で見た人間、昆虫の複眼で見た青空と山々・・・・・あるいはまた、海中の豊かな楽園
に、突然魚網を差し込んでくる人類の魔手・・・・・これらは魚にとって、神の収奪とで
も映るのでしょうか・・・・・ちょうど、人間社会で言うところの、神隠しの様に・・・・・
超 偶 然 の 世 界...人 間 的
亜 空 世 界 の 幻想
今、私たちは、一体何処にいるのでしょうか?ここは何処なのでしょうか?
しかし、そんなことを言われても、対象になるもの、比較するものが何もあり
ません。あるのはただ、“我”という主体のみです。
そうしてみると、結局ここは、無次元であり、無座標であり、何処とも言え
ないある一点・・・とでも呼べばいいのでしょうか。いずれにしても、ここに認
識が発現し、我という主体があるわけです。しかし、この小さな認識の鏡に
映された世界は、膨大なものです。
私たち人類は、この小さな認識の鏡を集め、組織し、構造化し、人類文明
というものを構築してきました。認識は、こうした有機的統合によって、その
威力を無限に拡大しつつあります。衣食住の束縛を離れた人類文明社会
は、いよいよ本格的にこの宇宙の認識を拡大しています。
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