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禅の伝来・・・ 1粒の麦
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2013年 | 上から ・・・下へ |
7月/10日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(1) 菩提達磨(ボダイダルマ)は不思議な人物である。不確かなことも多い。しかし実在した 人物と見られる。インドから、海路で中国に渡り、禅宗の開祖/初祖となった。1粒 の麦が、インド文明から中国文明に渡り、花開いた。
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7月/11日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(2) れた子であった。高僧/般若多羅(ハンニャタラ)に師事して出家、菩提達磨(ボダイダルマ) という名を授かる。やがて、達磨(ダルマ/正式には菩提達磨大師/摩訶迦葉(まかかしょう)を第1祖 とし、第28祖)の声望は全インドに響き、多くの弟子を得る。達磨は40余年、般若多羅 のもとにいたが、その師も没した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(3) 師(/ハンニャタラ)が没する時、達磨(ダルマ)に言った。 「わしが没し、67年後、東方の支那(しな/中国の古称)へ行くがよい。文化の低い 南方に留らず、必ず北方へ行け。そこに、お前を待つ者がおるであろう・・・」 やがて達磨も、支那(しな)へ渡る準備を始めた。そこで仏教の真髄、解脱(げだつ)の 心を広める決心をする。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(4) た。時は梁(りょう: 当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた)の武帝/普通元年 /520年9月21日と伝えられる。 時代としては、三蔵法師(さんぞうほうし/仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶。転じて訳経僧 を指すようになった)/鳩摩羅什(くまらじゅう/344年 - 413年/最初の三蔵法師・・・西域僧、後秦の時代 に長安に来て約300巻の仏典を漢訳)が活躍した後秦よりも後、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう/鳩摩 羅什と共に二大訳聖・・・旅行記/大唐西域記を書いた)が活躍した唐よりも前の時代である。
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7月/12日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(5) また陸路では、膨大な経典仏像がもたらされてもいた。 ところが…菩提達磨は身ひとつで…変な事を話す異国の高僧だった。しかし都に 報告が届くと、武帝(/異常なほど仏教に傾倒)が興味を示し、招待した。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(6) 「天竺(てんじく/インドの古称)の仏教とは如何様なものか…仏教信者のわしを、過去・現 在・未来の王として敬うなら、その方の新しい仏教を保護しよう」 達磨は、11月に都/建康(けんこう/南京の古称)に到着、宮中正殿で武帝と対面した。そ して、歴史的問答が開始された。
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7月/13日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(7) 「わしはこれまで、多く寺を建てた。写経(しゃきょう/経文を書写すること)もし、数多(あまた) の僧や僧尼を育成してきた。今後、このわしに、どんな多幸が訪れるのか?」 「帝(みかど/天子・天皇の尊称)、かようなものは功徳(くどく/善行)にはなりません」 「なんと!」 「無功徳と申し上げたのです」
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(8) 「何故じゃ!これだけの事をして、何の功徳もないと申すか?」 「かような事は、人として当然のこと。やらなければ、人としてクズですな」 「では聞こう。真の徳とは何を指すのか?」 「心と智慧が…真に、1つになること」
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(9) 「では…仏法の悟りとは、一言でいえば何か?」 「心に何もないことでしょうな」 「何を申すか!そなたは、悟りを開いた僧と聞いたが、ウソなのか?」 「それは、私の知らぬこと…」 武帝と達磨の会見はこれで終了した。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(10) 閣と思われた。 武帝も、会見が理解できなかった。席を外していた大臣/誌公(しこう)に、後で尋ね た。誌公は 「仏が陛下の御心を試したのです」 と答えた。武帝は、生涯この会見を 悔いた。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(11) /魏(ぎ)の国に入った。都は洛陽(らくよう)、後魏(こうぎ/三国時代の曹魏のことを前魏。拓跋氏の 魏はその漢風姓である元氏からとって元魏、そして後魏と呼ぶ)の孝明帝/正光元年/520年であっ た。 達磨は嵩山(中国河南省登封市にある山岳群)の少林寺(少林武術の中心地として世界的に有名)に留 まり、終日、面壁黙座(めんぺきもくざ/壁に向かっての座禅)した。人々はこの異人を、壁観(へ きかん)バラモンと呼んだという。
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7月/14日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(12) 達磨(ダルマ)は、少林寺において壁に向かって端座して9年(/面壁九年の座禅によって手足 が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具のダルマができた。縁起物として現在も親しまれている)、齢(よわい) 160余歳の長寿を全うし、入寂している。 多くの求道者が、達磨を訪ね道を求めたが、これに応じなかったと言う。梁の武帝 はこうした達磨の評判を聞き及び、不如意な会見を恥じ、生涯の悔恨(碑文が、嵩山少 林寺の大雄寶殿の前庭に今もあるという・・・)とした。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(13) 菩提達磨の支那への渡行は、期待外れであった。真の仏法は、支那では未だ熟し てはいなかった。そこで達磨がとった方法は、面壁9年であったのか… 1粒の麦が…インダス川流域文明から、黄河流域文明に移植され…はたして、新 仏法のタネは芽を出したのか…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(14) 支那では…寺院は信者や布施を獲得し、勢いが増大していた。しかし伽藍(がらん/ 大きな寺、寺院の建物)仏教は眩(まぶ)しくも、内実は腐敗(/宗教としての実態が形骸化)してい た。蓄財や肉食が行われ、兵役逃れや犯罪人が身を寄せていた。しかも仏教の真 髄は、何も伝わっていなかった。達磨が入った洛陽(後魏の都)はこのような所だった。
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7月/15日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(15) 面壁9年…その終わり近い頃か…神光(じんこう)/慧可(えか/ダルマが弟子となることを許し、 この名を与えた)との出会いがある。 禅宗は…初祖/達磨…2祖/慧可(えか)…3祖/僧璨(そうさん)…4祖/道信(どう しん)…5祖/弘忍(こうにん)…6祖が神秀(じんしゅう)と慧能(えのう)… 6祖の神秀と慧能の時代に…禅宗が大発展し、仏教は真に中国文化に溶け込ん で行く。(/数百年をかけ・・・インド文化の体臭を持つ仏教が、中国の大地/中国の文化に根付いて行ったよう です)
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7月/16日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(16) 《無門関‐第41則・達磨安心(だるまあんしん)》 2祖/慧可(えか)との出会い…【無門関(宋代の禅書)‐第41則・達磨安心】 達磨は、終日面壁端座。慧可は長い間、大雪の中に立ち尽くしていた。ついに達磨 が声をかけた。 「汝は、何を求めているのか」 「願わくは、慈悲(じひ)をもって、甘露(かんろ)の法門を開き、衆生(しゅうじょう)を救いたま え」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(17) 達磨が言う。 「諸仏(しょぶつ)の無上の妙道は、果てしない精勤(せいきん: 仕事や学業などに、まじめに励むこ と)である。行(ぎょう)じがたきを行じ、忍びがたきを忍ぶことである。少徳、小智、軽 心、慢心にして…求むるべきものではない…」 慧可は、刀で左肘を断った。その断った片腕を達磨の前に置いて、本気度を示した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(18) 達磨はこの者が法の器と知った。弟子となることを許して、慧可の名を与えた。その 上で、慧可が達磨大師に質問した。 「師よ…私の心は、安らかではありませぬ。どうしたら、安らかになるでしょうか」 「では、慧可よ…その不安な心を持ってくるがよい」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(19) 達磨が与えた課題は、後に言う公案(参禅者に示す、考える対象や手掛かりとなる祖師の言葉や行 動)である。慧可が、再び大師(たいし、だいし/偉大なる師という意味)の前に身を進めて言っ た。 「師よ…不安な心を探し求めても、見つける事が出来ませんでした」 「そうか…これで不安な汝(なんじ)の心を、安心に変じ終えた…」 この言葉で、慧可は開眼(かいげん: 真理を悟ること)し…2祖となる。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(20) (ににゅうしぎょう/達磨が人々に説いた、修行の入り方・行じ方に関する論。『続高僧伝』や『景徳伝灯録』に記載 されている。達磨に関する最も古い語録。達磨伝説の原型となっている)の仏法を説いた。この平易な 仏法こそ、“広大な麦畑 - 大樹” となる素質を備えたものであった。 ちなみに、雪舟(室町時代に活動した水墨画家・禅僧)の画/『慧可断臂図』(えかだんぴず/・・・斉 年寺蔵/重要文化財から国宝へ指定変更)に、達磨と慧可との出会いが描かれている。
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7月/17日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(21) 300年後の『歴代法宝記』(初期禅宗史書のうち、首尾完具でかつ最大の長巻)でも3人で、こん な描写だ。達磨の髄を得たのが慧可…骨を得たのが道育…肉を得たのが尼僧の 総持(そうじ)。唐/代宗皇帝(/玄宗、粛宗と没し、即位。在位期間/756年 ~ 762年)の時代で… 遣唐使/阿倍仲麿(仲麻呂とも・・・あべのなかまろ)が唐土で没した頃の禅書。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(22) 弟子も、托鉢(たくはつ)/乞食(こつじき)をして歩いていたのであろうか。 3祖/僧璨(そうさん)は北周(/中国の南北朝時代の国。紀元前11世紀の周と区別するため、北周と呼 ぶ)の排仏(/廃仏・・・仏教を排斥すること。特に3世紀以降、中国王朝がしばしば行った仏教弾圧)の折、舒 州(じょしゅう/現・安徽省)皖公山(かんこうさん)に慧可と共に身を潜めた。後に慧可は帰山 (僧が自分の寺に帰ること)し、僧璨は残って修行し続けた様だ。
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7月/18日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(23) た。おおよそ、北方仏教は王権に屈し、南方仏教は対等の関係だった様だ。北周 の排仏もその下で起きている。 こうした仏教勢力の立場が、隋王朝(/581~618年・・・高祖/楊堅が、北周の静帝から禅譲を 受けて建設。都は長安(/大興))を生み、300年の絢爛(けんらん)/唐王朝(/618~907年・・・ 高祖/李淵が隋皇帝に禅譲させて建国。首都は長安。 太宗/李世民が中国を再統一)を出現させた様だ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(24) 唐王朝は仏教を御用宗教(仏教を保護し、国家と王室のために祈ることを規定)とした。寺院に絶 大な特権を付与、制度化(僧侶も試験・許可制)し、禅宗も変化する。4祖/道信の時代 である。 楞伽衆(りょうがしゅう/・・・まだ禅宗の名はなく、『楞伽経』を奉ずるところから、こう呼ばれた)の1衣1鉢 (/1枚の衣と1つの鉢)の不定住から、破頭山(はとうざん/黄梅県)寺院での集団生活へ移 行。坐禅/行から入り…生活は悟入(悟りの境地に入ること)のための実践となり…禅 宗が整えられて行く。
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7月/19日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(25) 《道信・・・東山宗の新風・・・》 坐禅は…同じ場所で、姿勢を正し、着衣をゆるめ、気持ちを楽にし、胸中の気をい っぱいに吐き出す。すると、大らかになり、内も外も明るくなる。それだけで、悟れる 者は悟れる。仏典は、その仏性(ぶっしょう/全ての生き物が、生まれながらに持っている、仏となるこ とのできる性質)を引き出すための、方策である…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(26) 4祖/道信は、黄梅(おうばい)破頭山(はとうさん)/双峯山(そうほうざん)に500人余の大 集団を率い、『文殊説般若経』(もんじゅせつはんにゃきょう)の 《一行三昧》 (いちぎょうざんまい /・・・1つの修行方法に専心すること)を説き、30年余住した。『歴代法宝記』によれば、坐禅 に専心し、名君-唐/2代皇帝・太宗に入内(じゅだい/・・・皇后・中宮・女御になる人が、儀礼を整え て正式に内裏に入ること。転じて・・・宮中に入ること)を請われたが、断ったと言う…道信の声望の 高さが知れる…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(27) 5祖/弘忍(ぐにん、こうにん)は…7才から30年間道信に師事した。破頭山の東の憑茂 山(ひょうもさん)に移り、700人を擁した。ここは湖北省一帯になるが、この大人数は 托鉢/乞食では賄(まかな)えず、寄進を受け、作務(さむ)も行われた様だ。面白いの は、6祖/慧能への衣鉢(いはつ/・・・衣と鉢で法嗣(ほうし、はっす)となったことを証明する。禅宗では、 寺宝となる)の伝授の様子(/この様子は・・・小説/『唯心』の方で、詳しく描写しています・・・)である…
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7月/20日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(28) 4祖/道信の時代…新しい中国禅宗を形成した第1期…法嗣(ほうし、はっす)となった のは弘忍(ぐにん、こうにん)だが、禅宗史の中に牛頭法融(ごずほうゆう)の名がある。 達磨は 『楞伽経』 (りょうがきょう/・・・インド/楞伽山という険しい山に踏み入るような難しい仏説を説いた 経)を主典としたが、法融は『金剛般若経』(こんごうはんにゃきょう/・・・真理は動かすことのできぬ 金剛石のようなものであることを諭した経・・・金剛石は、釈尊の座した金剛座のある大地の最奥に達する巨岩)に 長じた。経典の学問的講義に優れ、行よりは理/智慧の門を重視したようだ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(29) 法融(ほうゆう)の牛頭山(ごずさん)には…1000人の弟子が集まったという。5祖/弘忍 は…坐禅の行(ぎょう)が主体…大衆的。法融は…智慧(ちえ)の門からの理入(りにゅう) …貴族や知識階級が支持した。《頓悟》(とんご/長期の修行を経ないで、一足とびに悟りを開くこと) と《漸悟》(徐々に究極の悟りに達すること)の萌芽である。明確化するのは、6祖の慧能の頓 悟であり、神秀の漸悟である。
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7月/21日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(30) 5祖/弘忍の、第1の高弟/神秀は…701年に洛陽(らくよう)に入京し、則天武后 (そくてんぶこう=武則天)に謁見している。神秀は大男で眼光鋭く、94歳の時と言われ る。以後、教えは朝廷の保護となり、洛陽(/副都)・長安(ちょうあん/都)で広がり、正 統と目された。官許(かんきょ)の正統派禅宗は、後に 北宗禅 と呼ばれた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(31) 武則天(ぶそくてん)/則天武后は…中国史上唯一の女帝…絶世の美女。14歳にして 唐/太宗皇帝(第2代皇帝 - 李世民/・・・中国史上最高の名君の1人と称えられる)の夫人。26歳で 太宗が没すと、高宗(こうそう/第3代皇帝)に見初められ還俗(げんぞく/僧になった者が俗人に戻 ること)し、皇后となる。勢力争いの中で力を得て、重臣・功臣を暗殺。天子が2人いる 様相となり…ついに、皇帝に就いた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(32) 《余談・・・》 絶世の美女といえば楊貴妃(ようきひ)も… 唐・第9代/玄宗(げんそう)皇帝の寵姫(ちょうひ)。貴妃は皇妃としての順位を表す称 号。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために 〈安史の乱〉(安禄山の乱/安禄山は西域のサマルカン ド出身で、ソグド人と突厥の混血。貿易の業務で唐王朝に仕え、三つの節度使を兼任)を引き起こした傾 国の美女。古代中国の4大美女は…楊貴妃・西施(せいし/紀元前5世紀・・・越王の勾践が、 呉王の夫差に、復讐のための策謀として献上した美女の中の1人。貧しい薪売りの娘として産まれた)・王昭君 (前漢の元帝の後宮にいた悲劇の美女)・貂蝉(ちょうせん)/・・・架空の女性(小説/『三国志演義』に 登場する架空の女性)…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(33) 則天武后は…自らの武周革命(/690~704年/国号を周と改め唐朝を中断、国号を周とした。また、 愛人/怪僧を宮廷に入れ、『大雲経』を作らせ、自らが弥勒仏の生まれ変わりと称した・・・)の正統づけに、 仏教を利用した。 唐王朝は道教を第1国教としていたが、仏教を第1に変えた。全国に官寺・大雲寺 を建立し、高僧や学僧を招き講義させた。仏教の興隆と、自らの出自の周王朝(自分 は周の後裔で、唐よりも名門とした)の正当性を…なんとか認めさせようとした。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(34) 則天武后の仏教興隆の動きを…好機到来としたのが…5祖/弘忍とその門下だっ た。弘忍自身は招きに応じず、慧能と法如も入京していない。慧能は弘忍の衣鉢 (衣と托鉢の際の鉢・・・寺宝で、これを受け継ぐことが法嗣の証明)を受け、生国/韶州(しょうしゅう/広東 省にかつて設置された州。現在の韶関市一帯に相当)に帰っていた。法如の方は嵩山(すうざん)の 少林寺で生活(弘忍の没後、3年間、衆の間で生活)し、やがて住持(/住持職=1寺院を管掌する僧 侶。住持になることを乞われ、少林寺の禅法を開いた)となっている。
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7月/22日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(35) 《 無門関-第23則・不思善悪 (ふしぜんあく)》・・・(1) 6祖/慧能は…南方中国/広東省新州の貧しい家に生まれた。街で薪を売り母を 養っていた。ある時 『金剛般若経』 を耳にし由来を尋ねると、北方/黄梅山の弘 忍禅師だと知った。慧能ははるかな北方の旅に出た。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(36) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(2) 長旅の末、黄梅山にたどり着いた慧能は、小柄な青年であった。弘忍に初めて参謁 (さんえつ)した時、こんな会話があった。 「何処からきたのか」 「嶺南(/中国での五嶺・・・南嶺山脈よりも南の地方・・・)から来ました」 「何を求めているのか」 「仏になりたいと思います」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(37) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(3) すると弘忍が言った。禅問答(禅宗の僧が、悟りをひらくために行う問答)である。 「嶺南の猿には仏性(生きとし生けるものは、生まれながら仏となる素質をもつ)がない。それが、ど うして仏になれようか」 「人には南北の別があります。仏性にどうしてそんな差別があり得ましょうか」 この問答で天分が認められた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(38) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(4)
ての修行を許した。 以来8カ月…慧能は米つきと修行三昧の日々を過ごした。そうした頃、弘忍は黄梅 山の門下僧 700 余人に示した…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(39) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(5)
を作り、正法を嗣(つ)ぐに足る力量を示せ…」 これに応え、まず最上席であり、人望も高い神秀が、1偈を作り僧堂(/禅宗寺院で僧が 座禅修行する根本道場)の壁に張った。
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7月/23日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(40) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(6) ★ 神秀の偈とは…
心は明鏡の台のようである 一刻一刻心して払い清めよ 塵埃(じんあい/チリとホコリ)をとどめてはならない
これを見た慧能は、透徹さを欠くとし、自分も1偈を作って僧堂の壁に張った。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(41) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(7) ★ 慧能の偈 → 慧能は貧しく、文字が書けなかったため、童子(どうじ/一緒に働いている 小僧)に書いてもらった。
明鏡にもまた台はない 本来無一物 どこに塵埃(じんあい/チリとホコリ)がつき得ようか
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7月/24日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(42) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(8) 2つの偈(げ/詩)の優劣は歴然…慧能の偈がはるかに高い透徹性を示している。偈 を比べる限りにおいて、両者の禅的力量は大きな開きがあった。しかし慧能は、嶺 南(れいなん)からフラリとやって来た、米つき行者(あんじゃ/禅寺で種々の雑用をつとめる者・・・ ぎょうじゃ/修行を行う者の意)8カ月の風来坊だった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(43) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(9) 弘忍は慧能の禅境を認めた。しかし、黄梅山700人余の僧が法嗣(ほうし、はっす/師か ら仏の法と印可を継承した、仏法上の弟子)と認めるか?慧能はまだ僧でさえもない。 そこで、闇夜密かに自分の衣鉢(いはつ/衣と鉢・・・禅宗で法を伝える証拠)を慧能に授け、黄 梅山を去らせた。身を潜め境涯を深め、時期を待てと諭(さと)した。
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7月/25日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(44) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(10) 慧能が寺宝(/衣鉢)と共に黄梅山を去ったと知ると、一山は大騒ぎになった。1部の者 は寺宝奪還に走った。その中の偉丈夫(いじょうぶ/体が大きくたくましそうな男)が慧明で、前身 は武将で気性が激しく、純真直情であった。慧明は大庾嶺(だいゆれい/中国を華南と華中に 分ける南嶺山脈の東端にある山・・・江西省と広東省の境)の峠道で慧能に追いついた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(45) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(11) ★ ここから 無門関-第23則 …慧明が言った。 「やい、慧能行者!無学な田舎者に衣鉢を持ち去られては、黄梅山はたまらん!返 してもらう!」 「明上座…衣鉢は正法伝授の信。腕力で争うものではありません」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(46) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(12) 慧能は、傍(かたわら)の石の上に衣鉢を置いて言った。 「持ち去りたければ、そうするがいいでしょう」 理を尽くして言われた慧明は、心地(しんじ/禅宗で、心の本性)に窮してしまった。衣鉢を手 にしたが、持ち上がらず、全身から大汗が噴き出した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(47) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(13) 突然の内的大衝撃は、純真直情の慧明を、大疑の大海に投げ込んだ。ただ大汗を 噴いて立ち尽くし、意味不明の憤怒が自己を打ち砕いた。慧明は、2祖/慧可が達 磨に道を求めた様に、慧能の足元に膝まづいた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(48) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(14) 慧明が言った。 「慧能行者(あんじゃ/禅寺で種々の雑用をつとめる者)よ!私が追い求めて来たのは正法で す。衣鉢ではなかったのです。どうか私に、正法を教示してください!」 「不思善不思悪(ふしぜんふしあく)…正与麼の時(しょうよもの時/まさにその時)、那箇(なこ/ あのもの)か是れ明上座が本来の面目(すべての人がもともと持っている、自然のままの心性)…」
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7月/31日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(49) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(15) 「善を思い、悪を思う事をやめよ。この時、明上座の本来の自己とは、どのよう なものか?」 正与麼の時(しょうよもの時)/まさにその時…この慧能の逆質問こそ公案の核心です。 善も悪もない、無心 に帰った時… 本来の自己 とは…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(50) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(16) 〈 本来の面目・・・本来の自己 〉は説明できず、絵にも描けない。説明の対象では なく、あまりにも近く、自己に重なるもの… 古(いにしえ)の大禅匠(だいぜんしょう)が…痛棒を与え(/無門関 - 第15 則 ・洞山三頓( どうさんさん とん ))、指を立て(/無門関 - 第3 則 ・倶胝竪指(ぐていじゅし)) 、猫を切り(/無門関 - 第14 則 ・南泉 斬猫(なんせんざんびょう))… 必死に、その近さを叫んだ所以(ゆえん)である。
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8月/1日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(51) 《 無門関-第23則・不思善悪 》・・・(17) 慧明は心身脱落(しんしんだつらく)し、全身から玉の汗を噴き出し…感涙した。頓悟(とんご /一足とびに悟りを開くこと)である。慧明は慧能を法の師としたが、慧能は共に弘忍の兄弟 弟子だと言った。この後、慧明は1人で山中に住し、やがて袁州(えんしゅう)の蒙山(もう ざん)で禅を宣揚(せんよう/広く、世の中にはっきりと示すこと)した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(52) 6祖/慧能の時代…仏教はようやくインド文明の体臭が抜け…中国仏教ともいうべ き禅宗が、中国の大地で花開いた。しかし時代の流れは緩やかで、次に慧能が禅宗 史に登場するのは10年後…南方/広州(/広東省の省都)の法性寺であった。→ 《無 門関-第29則・非風非幡》
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8月/2日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(53) 黄梅山 - 弘忍禅師の衣鉢を受けたのは慧能。彼は『金剛経』を聞いて出家を決意。 神秀は達磨以来の『楞伽経』(りょうがきょう)受け継ぎ、正統的な漸悟。が、北宗禅にも、 頓悟的要素はある。 慧能の弟子/神会(じんね)の時代に、南北(/南宗禅と北宗禅)は対立するが、元々は仲 の良い仏弟子たちだった。
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8月/3日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(54) 中国3大悪女(/漢の呂后、唐の則天武后、清の西太后)/則天武后の混乱の後…神会が、 洛陽で北宗禅をくり返し批判していた頃… 慧能の他の弟子たちは…江西省の廬山(ろざん)・江西盆地を中心に、禅を宣揚(せん よう)していた。馬祖(ばそ)、百丈(ひゃくじょう)の系統である。また、湖南省でも潭州(たんしゅ う)を中心に、石頭(せきとう)や薬山(やくざん)が大活躍していた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(55) 慧能の弟子で、禅宗史に残る3つの流れは… 青原行思(せいげんぎょうし)・石頭希遷(せきとうきせん)・薬山惟儼(やくざんいげん)の系統…南岳 懷譲(なんがくえじょう)・馬祖道一(ばそどういつ)・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の系統…そして、 荷沢神会(かたくじんね)、法如(ほうにょ/・・・弘忍の弟子で少林寺禅の法如か?)、圭峯宗密(けいほう しゅうみつ/儒教・仏教・道教の三教統合思想、実践思想)の系統… 江西・湖南は…3祖(僧璨/そうさん)、4祖(道信)、5祖(弘忍)、牛頭法融(ごずほうゆう/道信の 弟子)の活躍した地。南宗禅は禅宗発祥の地に戻った。(・・・初祖/達磨と、2祖/慧可は河南 省の嵩山少林寺)
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8月/4日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(56) く… 慧能の頓悟が、時代の波に乗り、禅宗を明るく開かれた宗派にした様である。当時は 悟りのために師を転々と渡り歩き、悟りを得れば法嗣(ほうし、はっす)ともなった。まさに、 真理の体験的伝承の風景…
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8月/5日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(57) 《 五家七宗 》 6祖/慧能のもとで…南岳懐譲(なんがくえじょう) ・青原行思(せいげんぎょうし)の2大弟子が 出現。数代をへて中国禅宗は… ★ 臨済宗(りんざいしゅう)…☆楊岐派(ようぎは) ☆黄龍派(おうりゅうは)の2派に分かれる… ★ 潙仰宗(いぎょうしゅう) ★ 曹洞宗(そうとうしゅう) ★ 雲門宗(うんもんしゅう) ★ 法眼宗(ほうげんしゅう) …となり…総称して五家七宗と呼ぶ。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(58) 慧能の弟子/南岳懷譲は、江西省/廬山(ろざん)を中心に大衆と接し始めた。馬祖 道一・百丈懐海の系統である。馬祖の講義には1000人が集まった。常時修行者は 139人。門下では智蔵・普願・百丈懐海が優れたが、3人は人目につくほど、仲が悪 かったと言う。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(59) 馬祖の弟子と信者は、自然と智蔵・普願・百丈懐海の3つに分かれ…普願は山を下っ て南泉山に寺を持つ。 この馬祖系統の信者は、大衆の他に、宰相などの高級官僚もいた。門閥や貴族の旧 官僚たち。彼等は老荘思想も信じていたので、道教的な臭いの禅となる。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(60) 馬祖の禅風は <無住の法> と呼ばれた。 ★ 森羅万象…全ての自然は空(くう)に帰す… これを知るには、一心/集中する純粋な心…現世の利益追求は意味が無い とし た。無為自然/自然の力に処して身をまかす…中国古来の老荘思想も取り入れ 融合したようだ。
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8月/6日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(61) 洛陽で北宗禅を批判する神会に対し、慧能系の馬祖・百丈は我感知せずの立場であ った。この頃まで禅宗の名も寺院も確立していない。慧能の僧侶たちの多くは、教義 の近い律宗(りっしゅう/戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派)の寺で生活していた。百丈は、自 分の寺/百丈山に寺院生活の清規(しんぎ/教団の機構や日常生活について規定したもの。清浄大衆 の規式の意)を確立する。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(62) 《百丈清規》(ひゃくじょうしんぎ、はじょうしんぎ) (中国唐代の百丈懐海が定めた最古の禅宗の制度・規則書。8巻/・・・早くに散逸し、現存のものは残存していた資 料を、元代の東陽徳輝が勅命によって編集改修したもの。勅修百丈清規/ちょくしゅうはじょうしんぎ ) 百丈の…信者や保守系官僚は…清規(しんぎ)の立居振舞の清楚、法要の席の荘厳を、 宮中以上と絶賛。上は王侯君主から、下は儒者・道教・百姓万民までなびくべし、と言 い出したほど。百丈清規の原典は失われたが、『禅苑清規』(ぜんねんしんぎ)の中に散見 されると言う。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(63) 慧能の弟子/青原行思の系統は…石頭・薬山の法系… 石頭は広東省の人で、慧能に師事するも遷化(せんげ/高僧や隠者などが死ぬこと)。江西省に いた青原のもとに移り、法嗣となる。その後、湖南省の南岳衡山(なんがくこうざん/衡山は道 教の5岳の1つ)の石上に庵(いおり)を結んだので石頭と称された。馬祖門下との往来は頻 繁であったという。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(64) 石頭の法嗣は薬山惟儼(やくさん・いげん)…薬山は雲巌曇晟(うんがん・どんじょう)の師である。 その雲巌の法嗣は、曹洞宗の高祖/洞山良价(とうざん・りょうかい)となる。 洞山の高弟に曹山本寂(そうざん・ほんじゃく)がいる。洞山と曹山の1字をとり…当初は <洞曹宗>だったというのが、通説の1つ。これは日本曹洞宗/永平寺へ続いて行 く。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(65) ある日…薬山が坐禅していると石頭が問う…
「汝、ここに在って何をか作(な)す」 「一切、為さず」 「それは閑坐(かんざ/心のどかに座して欲が漂っていない・・・ヒマつぶし)であろう」 「閑坐ならば、すなわち為す(なす/・・・行為)なり」 「汝は為さずと言う・・・為さざるものはこれ何物ぞ」 「千聖(せんしょう/・・・古仏たち)もまた知らず」 石頭は讃歎(さんたん/深く感心してほめること)した。
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8月/7日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(66) 薬山を讃歎する石頭の偈(げ/詩)…
従来、共に住すれども名を知らず 縁(えん)に任せ相連れだってただ行くのみ 古よりの上賢(じょうけん/・・・先輩の賢人たち)もなお知らず 凡人(ぼんじん/・・・いまだ悟りを得ていない人々)のみがあえて明らめんとす
山(しゃくやくやま/・・・山中に芍薬が多かった)とも呼ぶ。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(67) 百丈懐海の弟子には、潙山霊祐(いさん・れいゆう)・黄檗希運(おうばく・きうん)がいる。法嗣は 潙山であり、黄檗の黄檗宗も栄えた。 百丈は『百丈清規(しんぎ)』の他に、<1日作(な)さざれば、1日食らわず>という言葉 も有名。よく作務(さむ/禅寺で行う作業・・・修行の1つ)に励んだという。また 《無門関-第2則・ 百丈野狐(やこ)》 にも登場している。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(68) 《無門関-第2則・百丈野狐(ひやくじょうやこ)》…(1) 難透(なんとう/難透難徹・・・やり遂げることが困難であること。難しく透過しがたいこと)の1則…難しい公案 と言われる。本来、公案には難しい簡単はないのだが、使い分ける事もあるという。ま た悟りの上に、さらに悟るという事もあるわけである。この公案は、そういう意味におい て、難透だという。
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8月/8日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(69) 《無門関-第2則・百丈野狐》…(2) 法話(仏法に関する話)の後、居残った老人が百丈和尚(おしょう/寺の住職)に言った。 「大昔/迦葉仏の時(/釈尊の伝法の事実とは異なり・・・仏教伝説には過去7仏を立てる伝燈系譜がある。 迦葉仏は6番目で、釈迦牟尼仏は7番目の仏)…私はこの寺の住職でした。 1人の僧が私に問いました。<大悟した人は因果(/因果応報・転生輪廻)に落ちますか、 落ちませんか>と。私は<因果に落ちず>と言いました」
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(70) 《無門関-第2則・百丈野狐》…(3) 老人が言った。 「この答えのために、私は500回も、狐に転生(/・・・無限の転生輪廻)しました。和尚、私の ために1転語(いちてんご/注意が瞬間的に正反対に転じ、自らの本質を認識・・・そんな逆転をもたらす言葉 )を 発し、野狐身(やこしん/狐の身体/低級な妖狐/・・・生禅(なまぜん))から救って下さい」 「不昧因果!(ふまいいんが/・・・因果をくらまさず)」百丈が声を発した。 老人は言下に領悟(りょうご/了解して悟ること)…百丈和尚を礼拝した。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(71) 《無門関-第2則・百丈野狐》…(4) 老人が言った。 「私の遺骸は山の後ろです。どうか亡僧として埋葬して下さい」 百丈は木砧(もくちん)を打たせ、昼食後に亡僧の葬儀がある事を一山(百丈山)に告げた。 そして山の後ろの岩へ行き、杖で1匹の死野狐を引き出し火葬した。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(72) 《無門関-第2則・百丈野狐》・・・(5) 公案の第2段階・・・その夕、百丈は一部始終を語り、弟子たちの力量を試した。黄 檗(おうばく)が問う。 「1転語がなく、500回野狐に転生。その度(たび)ごとに正語(しょうご)なら、何者になった でしょうか」 (/黄檗の鋭い質問である・・・ 老人の<因果に落ちず>の何が間違いで500生家孤になったのか・・・正語とは何なのか。問いの答えは、正・誤 の選択にあるのではない。それゆえ、500回も間違うのである。野孤の転生を離脱するには、正・誤の選択を離れ、 別次元の覚醒に到達することである・・・) 「近くへ来るがよい」百丈が言った。
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8月/9日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(73) 《無門関-第2則・百丈野狐》・・・(6) 黄檗は百丈の前に進み1掌。百丈は手を打ち大笑 して言う… 「まさに思えり胡鬚赤(こしゅしゃく)…さらに赤鬚胡( しゃくしゅこ)あり!」 師に譲らぬ黄檗に、百丈が喜色満面で頷(うなず)く。胡人(こじん/古代・・・中国北方・西方の異 民族人)の鬚(ひげ)は赤いと思っていたら、赤鬚の胡人がおったわい…と。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(74) 《無門関-第2則・百丈野狐》・・・(7) 野狐が野狐になりきり、分別心を交えぬ時、彼は正に前・百丈である。老人が老人に なりきらず、2元的雑念に迷う時、これを野狐という。野狐はそのままで、風流の生を 享受している。本来、野狐身と亡僧の区別は無い。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(75) 《無門関-第14則・南泉斬猫(なんせんざんびょう)》・・・(1) 南泉普願(なんせん・ふがん)は…馬祖の門下で、百丈とは兄弟弟子。『楞伽経』(りょうがきょ う)『華厳経』(けごんきょう)を学ぶも、馬祖のもとで教学を捨てた。 安徽省(あんきしょう)南泉山に禅院を構え、三十数年間下山せず…僧堂には常に数百 人の雲水がいたと言う。そこでの話。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(76) 《無門関-第14則・南泉斬猫》・・・(2) 東西僧堂の僧達が、1匹の猫で言い争っていた。南泉が猫を提示した。 「僧達よ、禅の1語を言い得るなら、猫は助けよう! 言い得ぬなら、切り捨てよう!」 誰1人答える者はなかった。南泉はついに猫を斬った。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(77) 《無門関-第14則・南泉斬猫》・・・(3) 公案の第2段階・・・夕方、趙州(じょうしゅう/《無門関-第1則・趙州狗子》の趙州従諗(じょうしゅう・ じゅうしん)・・・120歳まで生きた人で、師/南泉が遷化した時、彼は57歳。)が外出先から帰った。南泉 は猫を切った1件を話した。趙州は履(くつ)を脱ぎ、それを自分の頭の上に載せ、出て 行った。南泉が言った。 「もし、お前があの時おったなら・・・猫は救えたものを…」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(78) 《無門関-第14則・南泉斬猫》・・・(4) 倫理的・常識的視野はこの禅問答から外す。猫への虐待は<この公案>と<量子力 学の…シュレーディンガーの猫>が代表格も、いわれなき誤解である。ここも雲水の 思弁的(しべんてき/経験によらず、思考や論理にのみ基づいているさま)な戯論(けろん/無意味で、役に立た ない議論)を打ち砕き、心眼伝授の慈悲心である。
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8月/10日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(79) 《無門関-第14則・南泉斬猫》・・・(5) 南泉の禅的要求とは何か…猫児/子猫の命を救える1句とは何か…命がけで答えて みよ!1瞬のためらいも許さない緊張! そして…南泉、ついに猫を斬る!残念至極! 南泉のこの 一刀両断 も、どう解釈すべきなのか?
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(80) 《無門関-第14則・南泉斬猫》・・・(6) 涙をのんで…南泉が子猫を両断! 子猫を救い得たのは、子猫両断の真意を頷きうる人のみと言う… 南泉が斬ったのは、子猫ばかりではない。仏を斬り、祖師を斬り、自己の阿頼耶識(あ らやしき/唯識説で説く、8識の第8・・・眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識・・・人間存在の根本 にある識と考えられている)までも斬り…清風凛々(せいふうりんりん)という… ウーム …
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(81) 《無門関-第14則・南泉斬猫》・・・(7) 『碧巌錄』(へきがんろく/臨済宗において尊重される代表的な公案集。全10巻)の中である禅師(/・・・ 雪竇重顕(せっちょう・ じゅうけん))が言っている。 「幸いに南泉は正しい行為をした。一刀両断。勝手に評するがいい!」 と突き放している。 永平寺/道元禅師は… 一刀両断 を 一刀一断 と評し、斬れない<這箇>(しゃこ/ ・・・これ・この・これら・即今・・・禅的な覚醒)を指摘する。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(82) 《無門関-第14則・南泉斬猫》・・・(8) 師の2の矢 → 子猫の死骸は何処にある!この時 一瞬でも迷ったり、思弁的な答 えでは<真の1句>を得ていない証拠。 子猫を斬り、仏を斬り、祖師を斬り、宇宙をも一刀両断!その自在な 即今 を真に体 得してこそ…と…
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8月/11日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(83) 第2段階 → 高弟/趙州が帰る。南泉から顛末(てんまつ)を聞く。趙州は無言で草履 (ぞうり)を脱ぎ、頭の上に載せて部屋を出て行く。南泉が頷く。 さて真意は何か?再び思弁的に頭を巡らす。が滑稽なら、ただ腹を抱えて大笑ある のみ!
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8月/12日 趙州従諗・禅師 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(84) 《無門関-第1則・趙州狗子(じょうしゅうくし)》・・・(1) 趙州従諗(じょうしゅう・じゅうしん)禅師の…禅宗の代名詞のような 《無門関-第1則》。 趙州禅師は、趙州(中国にかつて存在した州/河北省)の観音院に住していた。120歳の長寿 で…師/南泉の遷化(せんげ)は57歳、臨済羲玄(りんざい・ぎげん/臨済宗の宗祖・・・喝!(かつ!) の臨済)の遷化は88歳、仰山慧寂(ぎょうざん・えじゃく/)の遷化は112歳の時である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(85)
《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(2) (ふ)して休息していた。南泉が問う。 「最近どこにいたか」 「瑞像(ずいしょう/・・・瑞祥/瑞象・・・めでたいことが起こるという前兆。瑞像は釈迦瑞像)にいました」 「それでは瑞像を見たか」 「瑞像は見ません。しかし臥如来(がにょらい、ふしにょらい)を見ました」 南泉が起き上がった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(86)
《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(3) 「お前には、既(すで)に師事する師匠はあるか」 「あります」 「それは誰か」 趙州は2、3歩近づきお辞儀をした。 「寒さ厳しい折、ご機嫌麗(うるわ)しく、お慶(よろこ)び申し上げます」 南泉は弟子になる事を許した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(87) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(4) 南泉と趙州/従諗(じゅうしん)の出会いは…南泉50歳頃、従諗20歳を過ぎた頃。この 頃に若い従諗が覚醒に至った2人の問答がある。《無門関-第19則・平常是道》。 が 『無門関』 の公案の順序で、まず 《趙州狗子》 を考察する。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(88) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(5) さて…ある時…1人の僧が趙州に問うた。 「犬(/狗子とは犬のこと)には仏性が有るでしょうか、無いでしょうか」 「無」 趙州が答える。問うた僧は、『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう) の<一切衆生悉有仏 性>(いっさいしゅうじょう・しつうぶっしょう/全ての生きとし生くるものは・仏性を有している)は承知。<有> も<無>も許さない機鋒(ほこ先、きっさき)で迫る。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(89) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(6) <有>も<無>も許さない鋭い問い。趙州は間髪を入れず<無>と答えた。どうい う事か。 趙州の答えた<無>は、質問の<有・無>とは違う別次元の<無>である。<無 心の無・・・自己も世界も無になりきった無>である。
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8月/13日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(90) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(7) 趙州の<無>は正確には質問と違う。別次元へ飛び出した返答である。が、問うた 僧も、その別次元の回答を求めている。禅問答のチンプンカンプンは、通常一般の 感性や次元を打破した所にある。覚醒もまた、そこにある。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(91) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(8) 覚醒/悟りとは… 内外打成一片(ないげ・だじょう・いっぺん) の…超次元の絶対性にある。 内と外が一体 となり、 主体と客体が一片 となる。リンゴの皮の薄さもなく、外と内 が一体 となる。二元論的理屈や数学的処理を超えた、人間的超越の覚醒 である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(92) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(9) 二元論・数学を超えて、人間的超越を要するのは量子力学も同様である。根元の探 求は、主体と客体・知の様式が問題となる。波動関数(量子状態を表す複素数値関数)のシュ レーディンガーが指摘する。主体と客体は1つのもの…意識と外界は同じものと…
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8月/14日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(93) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(10) <這箇>(しゃこ/・・・これ・この・これら・即今・・・禅的な覚醒)… この全身/…全宇宙を結晶化しいる 即今 の感性!自らが存在する奇跡を覚醒す ること!その感動と、全宇宙は表裏一体である。 量子力学/コペンハーゲン解釈 → 波束の収束 (量子力学の状態は、いくつかの異なる状 態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈。観測すると、観測値に対応 する状態に変化すると解釈。これを、波束の収束という)も、人間的覚醒の奇跡である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(94) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(11) 日本の江戸中期/臨済宗中興の祖/白隠禅師(はくいんぜんじ)が…正受老人(/道鏡慧 端)に初めて参謁(さんえつ)した時、正受が問うた。 「趙州の無とは何か」 「宇宙を貫(つらぬ)き、手のつけようもありません」 正受は手を伸ばし、白隠の鼻をひねり上げた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(95) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(12) 正受は呵々大笑(かかたいしょう)した。 「わしは、いくらでも手がつけられるわい」 手を離すや… 「この穴倉(あなぐら)の死禅坊主めが!そんな無で良いと思っているのか!」 白隠は24歳で、鐘声(しょうせい/鐘の音)を聞いて覚醒するも…満足せずにいた…。 (白隠禅師は・・・信濃(長野県)/飯山の正受老人の厳しい指導を受け、悟りを完成させたと言われる)
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8月/15日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(96) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(13) <趙州の無>は初歩の公案と言う。 しかし1公案を透過すれば、全公案を透過す る。特にこの<無>は、本質的な深さと透徹さがあると言われる。実践修行におい て、2元的分別心を打ち砕き、別次元に心眼を開かせる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(97) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(14) 『無門関』を編集した無門禅師が言う… <参禅は須らく祖師の関を透るべし・・・ 妙悟は、心路を窮(きわ)めて絶せんことを要す・・・> 禅は悟をもって則。悟りの体験は絶対。祖師の関とは…公案。妙悟とは覚醒/大解 脱である。
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8月/16日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(98) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(15) <趙州の無>で大悟した無門禅師は、さらに言う。 <透得過(とうとくか)する者は、但(ただ)親しく趙州に見(まみ)ゆるのみにあらず。便 (すなわ)ち歴代の祖師と手を把(と)って共に行き、眉毛(しゅうもう/まゆげ)厮(あい)結ん で、同一眼(げん)に見、同一耳(に)に聞くべし。豈(あに)慶快(けいかい)ならざらんや>
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来…1粒の麦 )・・・(99) 《無門関-第1則・趙州狗子》・・・(16) …つまり… 一度…<無の関門>を透過すれば、親しく趙州にまみえる。また歴代の祖師とも同 じ境涯に住し、同じ眼で見、同じ耳聞くことができる。なんと、壮快なことか… 無門禅師は、覚醒後の生の姿を賞賛する。
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8月/17日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(100) さらに、無門禅師は言う… <箇(こ)の熱鉄丸(ねつてつがん)を呑了(どんりょう)するが如くに相似て、吐(は)けども 又(また)吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽(とうじん/使い尽くすこと)し、久々に純熟 (じゅんじゅく/よくなれ親しむこと)して、自然に内外打成一片(ないげ・だじょう・いっぺん/内と外・主 体と客体が、打ち合されて1つとなること)ならば、啞子(あす/口のきけない人)の夢を得るが如く、 只(ただ)自知することを許す・・・>
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(101) 無門禅師は… 焼けた鉄丸を呑んだように、大疑問の中に突入せよと言う。情尽(つ)き理窮(きわ)まっ て、分別心の入る隙(すき)も作るな。熱い時はただ熱く、全宇宙がただ熱く…見る時は ひたすら見、余念なく、ひたすら突き進めと…。 |
8月/18日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(102) ここに言う悪知悪覚とは2元的分別心。これを蕩尽(とうじん)し内外も自他もなく1片とな り、その1片さえ消える。これを臨済(/臨済儀元・・・臨済宗の宗祖)は<大地黒漫々地(だいち ・くろまんまんち)>、白隠は<万里の氷層裡(り)に坐するが如し>と言う…<心路を窮 (きわ)めて絶する状況>…
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(103) 修行では…この<絶対無の深淵>の時、無が無に目覚めると言う。これが、啞子 (あす)の夢を得るが如く と言い、只(ただ)自知するのみと言う。<有・無>を超える <無>の自覚。<趙州の無>、<無門の関(せき)>を透過する瞬間と言う。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(104) 主体と客体は不可分…どういうことか? 私は音楽を聞きつつ・・・晩夏の青空の中を歩く。不可分とは・・・私は青空。私 は音楽。青空(/主体)が私(/客体)を見、音楽(/主体)が私(/客体)を感じている。逆 もまた然り。 かくして内外打成一片(ないげ・だじょう・いっぺん/・・・内と外・主体と客体が打ち合されて1つとなること) ・・・ 無門関を透過・・・
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8月/19日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(105) 晩夏の青空・・・弾ける音楽・・・樹木にわたる風・・・世界が我・・・我が我を見つめ るている世界の構造。 主体と客体の間に境界は無い。本来1つのもの。これを体得するのが、禅修行。全身 全霊で励め と、無門禅師が叱咤激励(しったげきれい)する。
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8月/21日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(106) 《無門関-第19則・平常是道(へいじょうこれみち)》・・・(1) 鑑真(/中国の高僧で、日本における律宗の開祖)の来日は753年/天平勝宝5年(/聖武天皇が 譲位し、第46代の孝謙天皇の時代)。3年後に第9代玄宗皇帝(/善政で唐の絶頂期を迎えた)が没… 後半生は楊貴妃(古代中国の4大美女)と国を傾けた。玄宗に仕えた阿倍仲麻呂(唐で科挙に 合格し、唐朝諸官を歴任して高官に登った。日本への帰国を果たせなかった )は14年後/ 770年の没。 趙州の誕生は、さらに8年後…これは趙州の20歳過頃の話…
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8月/22日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(107) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(2) 2人が出会った頃…南泉50歳、趙州20歳過ぎの頃で、従諗(じゅうしん)と呼ばれてい た。唐王朝末の時代、従諗が禅的心眼を開く経緯の公案(/本来は役所が発行した文書。こ の意味から派生して、禅宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のこと)である。 従諗がある時、南泉に問うた… 「如何なるか是れ道(いかなるか・これどう)」(道とは、どのようなものでしょうか) 「平常心是れ道(へいじょうしん・これどう)」(平常の心が道である)
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(108) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(3) 従諗(じゅうしん)が尋ねる… 「ではどのように、それに向かうべきでしょうか」 「向かおうと努めれば、道から離れてしまう」 従諗が、さらに問う… 「努めなければ、どうして平常心が、道であることが知り得ましょう」
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8月/23日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(109) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(4) 南泉が答える… 「道は知に属さず、不知にも属さず。知は妄想、不知は空虚である。もし本当 に、不疑の道を体得するならば、それは太虚(たいきょ/古代中国の宇宙観で、宇宙の本体 である気の根源的形態)が廓然(かくぜん/心が広くわだかまりのないさま)として限りの無い様なも のだ。その時、道に是非の分別があろうか…」
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(110) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(5) 従諗(じゅうしん)は…師/南泉の言葉に頓悟(とんご)した… 主題の<道>は…インド哲学の仏教から、ようやく、実践的中国文化の大地に根づ いた仏教の姿。禅宗は、実践的な新しい仏教潮流として、中国文化の中に受け入れ られて行く。
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8月/24日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(111) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(6) 従諗が 「如何なるか是れ道」 と問うた <道> の真意は… <根源的な禅の玄理 /禅の真髄> である。従諗が、仏教の学問的参究を中断し、北方中国から南方中 国の南泉を訪ねたのは、まさにこの命がけの大疑であった。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(112) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(7) 従諗の大疑に 「平常心是れ道」 と南泉が答える。 <道> とは…分別心を交えな い平常心だという。<真の平常心> を得るには、2元的な平常心を越える必要が ある。それは <向かおうと努めれば・・・遠ざかる> と言う。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(113) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(8) 南泉の 「平常心是れ道」 は、<無門関> を透過してうなづき得ること。 古仏は言う。「道は近きにあり・・・かえってこれを遠きに求む」 と。また、「道は瞬 時も離れず・・・もし離れるならば、それは道ではない」 とも。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(114) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(9) いまだ <無門関> を透過し得ない従諗にとって、師/南泉の 平常心 は、やはり遠 くに離れてあった。そこで従諗はこれまでの全知識を総動員し、真剣に問い返す。心 眼を開くには、 どの方向へ向かえばいいのかと。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(115) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(10) それに南泉が答える。それに向おうと計らえば、分別心が働き、かえって道から離反 してしまう、と。 従諗がさらに問う。努めなければ、その 平常心 も知り得ないではないかと。常識的 なスタンスの質問である。
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8月/25日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(116) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(11) そして、南泉が確信を話す。魚は大海にあって水を知らないがごとく、あまりにも 近すぎ、それに気付かせることのできぬはがゆさ。難しさ。 一方、従諗の大疑。禅の覚醒は、知的な理解とは別次元のものと言う。
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8月/26日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(117) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(12) <道・・・禅の真髄> は、知にも不知にも属さず。知は妄想…不知は空虚… <無門関> を透得すれば太虚は廓然(かくぜん)として限りない。そこに <道> の是非の分別などあり様も無い。 禅的な機が到来…従諗(じゅうしん)は言下に頓悟(とんご)した。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(118) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(13) <禅的…平常心>は単なる2元的平常心ではない。覚醒/悟り によって体得され るもの。<真黒な鉄丸が闇夜を走り抜ける> と言ったのは、日本曹洞宗の瑩山禅 師(けいざん・ぜんじ/・・・太祖・瑩山(1268 ~ 1325年)は曹洞宗大本山・總持寺の開祖。高祖・道元(1200 ~ 1253年)の法孫)。「太虚の廓然(かくぜん)として洞豁(どうかつ)なるが如し」の状況と。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(119) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(14) 瑩山(けいざん)の1語に、師/徹通禅師(てっつう・ぜんじ/孤雲懐奘(こうん・えじょう=永平寺第2世) を継ぎ、永平寺第3世)は、さらに言えと迫った。瑩山が答える… 「喉が渇けば茶を飲み、腹が空けば飯を食べます」 ようやく徹通禅師は、瑩山の大悟を認めた。大いに、曹洞禅を興すであろうと言った。
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8月/27日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(120) 《無門関-第19則・平常是道》・・・(15) <真黒な鉄丸が闇夜を走り抜ける・・・喫茶喫飯の平常心 > 無門禅師も… <妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す> と言う。 しかし…現代・情報過多社会においては → 〔極楽浄土のインフラ建設〕(/〔人間の 巣〕を展開し、社会環境から宗教的理想を目指す。信仰の道、儀礼の道、知恵の道...極楽浄土のインフラ建設は、 宗教における、第4の道)から入るから道も!
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8月/28日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(121) 趙州従諗は…師/南泉が遷化(せんげ/高僧や隠者などが死ぬこと)して3年後…60歳で悟 後(悟りを得た後)の修行の旅(悟りの上に悟りを重ねるため。黄檗希運(おおばく・けうん/黄檗山黄檗寺を開 創。臨済宗の開祖の臨済義玄の師)などの下で修禅(座禅や観法を修めること))に出る。 その時の、自戒の言葉… <7歳の童子であっても、我に勝れる者には教えを乞おう。 100歳の老翁であっても、我に及ばない者には教えよう>
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(122) 《無門関-第7則・趙州洗鉢(じょうしゅうせんはつ)》・・・(1) 趙州は山東省の出身、南泉の法嗣、後に趙州/河北省の観音院に住す。他の大禅 匠(だいぜんしょう)のように、棒(/徳山の棒。《無門関-第15則・洞山三頓》・・・雲門文偃(うんもん・ぶんえん) ・禅師の痛棒)や一喝(/臨済儀玄(臨済宗の開祖・・・山東省出身)の喝!)を用いる事はなかったが、 <唇皮上に光を放つ> と言われた。《趙州洗鉢》 の公案も、そうした活力に溢れ ている。
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8月/30日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(123) 《無門関-第7則・趙州洗鉢》・・・(2) ある時、1人の僧が趙州に言った。 「私は僧堂の新参者です。師よ、どうか指示をお与えください」 「朝御飯はたべたか」 「はい、食べました」 「では、持鉢を洗っておきなさい」 この言葉で僧は心眼を開いた。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(124) 《無門関-第7則・趙州洗鉢》・・・(3) 僧は僧堂の新参者であるが、相当な修行を積んだ者。また趙州も哲学的なものを 含めず、「朝御飯は食べたか」 と直接・直下の事を尋ねる。<即今(そくいま)/這 箇(しゃこ/これ、これら、この)>の呼吸が、禅的な機の到来している僧に、伝わろうとして いる。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(125) 《無門関-第7則・趙州洗鉢》・・・(4) 趙州の問いに、僧は素直に答える。趙州は 「では、持鉢を洗っておきなさい」 と 再び直接・直下の事を指示する。僧は、ハッ、と<即今/這箇(しゃこ/これ、これら、こ の)>の真理に気づく。<あまりの近さに…見る人もなし>の真理の姿である。
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8月/31日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(126) 《趙州喫茶去》(じょうしゅう・きっさこ)・・・(1) 茶席の禅語で、よく知られる1語。去は意味を強める助辞。去れと言う意味は無い。 「お茶をおあがりなさい」 といった程度の意味。 趙州は日常茶飯の言葉を、豊かに絶妙に用い、禅を説いた巨匠である。さりげな い1腕の茶…
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(127) 《趙州喫茶去》・・・(2) 2人の新到(しんとう/新たに道場にやって来た僧)が謁見(えっけん/貴人、目上の人に会うこと)に参じ た。趙州が問う。 「そなたは以前、この道場に来た事はあるかな」 「来た事はありません」 「喫茶去(きっさこ)」 もう1人の僧に聞う。 「そなたは来た事があるかな」 「前に来た事があります」 「喫茶去(きっさこ)」
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(128) 《趙州喫茶去》・・・(3) 院主(いんじゅ/寺の事務係の僧)が趙州に問う。 「和尚(おしょう/寺の住職)・・・初めて来た僧にお茶を出すのは良いとしても、どうし て、来た事のある僧にもお茶を出すのですか」 「院主…」 「はい」 「喫茶去(きっさこ)」 趙州の爽(さわ)やかな禅境である…真意は修行の末に体得できるもの…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(129) 6祖/慧能(えのう)の…南岳懷譲(なんがく・えじょう)・馬祖道一(ばそ・どういつ)・百丈懐海 (ひゃくじょう・えかい)・南泉と趙州(/南泉は馬祖の門下で、百条とは兄弟弟子)の系統(/江西地方・・・ 廬山(ろざん)、江州の鄱陽湖(しんようこ)を中心に活躍)から… 次に、青原行思(せいげん・ぎょうし)・石頭希遷(せきとう・きせん)・薬山惟儼(やくざん・いげん)の 系統(/湖南省の潭州(たんしゅう)あたりを中心に活躍)の、この時代の人物を眺める。 薬山の法嗣(ほうし、はっす)となるのは雲巌曇晟(うんがん・どんじょう)である。雲巌山に雲巌 寺を開いた。弟子に、曹洞宗の高祖/洞山良价(とうざん・りょうかい)がいる。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(130) 洞山良价(とうざん・りょうかい)は雲巌曇晟(うんがん・どんじょう)の法嗣である。南岳懷譲、青 原行思の系統というが、仲が良く、人の交流も盛んであった。洞山も、南泉の薫陶 (くんとう/徳の力で人を感化し、教育すること)を受け、百丈の法嗣/潙山霊祐(いさん・れいゆう/潙 仰宗(いぎょうしゅう)の祖)にも師事したが、最後に雲巌を師と仰ぐ。禅宗の黎明期(れいめい き/夜明けにあたる時期)は、悟りを求め、自由に師を渡り歩いていた。
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9月/1日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(131) 曹洞宗の高祖/洞山良价(とうざん・りょうかい)と間違えるのが、洞山守初(とうざん・しゅしょ)。 住した場所も違い、生れたのも103年後…師は、雲門文偃(うんもん・ぶんえん/五家七宗の 雲門宗の祖)です。 『無門関-48則』 の中に、2つの公案があり、もう1つは、《無門関-第18則・洞山三 斤》(どうさん・さんきん)。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(132) 洞山守初が初めて雲門に参謁(さんえつ)、大悟した経緯の公案である。守初は長安 (陝西省にある隋、唐の都)の西の鳳翔(ほうしょう/陝西省の西部、鳳翔県・・・)の生れ。伝統的に教 学的な仏教の盛んな土地だった。 守初は、教学に満足できずに…中国大陸を縦断…広東省(中国大陸の最南部)韶州(しょ うしゅう/現在の韶関市一帯)の雲門(/韶州の雲門山を開山し、光泰院(別名・雲門寺)にあって、盛んに禅風 を挙揚していた)に参じた。
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9月/2日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(133) 守初は長い年月をかけ…何千キロ(/地図上の直線距離でも、1500キロはあろうか)もの徒歩の 旅の末…名声の高い雲門禅師に参謁(さんえつ)した。 雲門が問う… 「最近お前は何処に居たのか」 「査渡(さと/湖南省から雲門山に至る、通路にある村の名前)におりました」 「夏(げ/夏安吾(げあんご)/夏籠り(なつごもり)・・・伝統的な90日間の雨期修行)は何処で修行して いたのか」 「湖南の報慈寺です」
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(134) 雲門がさらに問う… 「何時そこを発って来たのか」 「8月25日です」 「お前に60棒を与える」 60棒は60棒打。痛棒(つうぼう)を受け、直下の激痛から、<即今・這箇>(そくいま・ しゃこ)の覚醒に至れ…という雲門禅師の慈悲心。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(135) 守初は何年もの長旅の辛苦を重ね、夢かない雲門に参謁した。そして60棒を賜っ た。1頓は20で3頓は60である。守初はその夜、 <まんじりともせず・・・決死の 思いで・・・参謁の経緯と60棒の意味(/・・・“心路を窮(きわ)めて絶した1夜”・・・)> を考 えた事であろう。
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9月/3日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(136) 守初は<暗黒の大疑問・・・心路を窮(きわ)めて絶した1夜>を明かした。居ても 立ってもいられずに、再び雲門に参謁して問うた。 「昨日和尚に60棒打たれました。何処に咎(とが/罪)があったのか、どうしても 分かりません」
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(137) 守初の問いに雲門が叫んだ。 「この穀潰(ごくつぶ)しめが!江西湖南をそのようにうろつき回っていたのか!」 この言葉で守初は大悟した。 長い年月の、決死の修行の旅であった。その旅の終着点で、まさに大悟を果たした。
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9月/4日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(138) さて問題の60棒である…雲門が痛棒を加えたのか、側近が加えたのか。ともかく 初参謁(はつさんえつ)の出来事である。痛棒を受けて下がった守初。直後から千尋(せ んじん)の谷に落ちた思いであったろう。雲門の狙いも、まさにそこにあった。
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9月/5日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(139) 北方中国を出…再び故郷の土を踏むことの無い…南方への求道の旅。何千キロ もの艱難辛苦の遊行。旅に慣れ様々な風物を見、気候も南国のものに。夢かない 雲門に参謁。そこで…千尋の谷に突き落とされた…真理とは?
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9月/6日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(140) 北方中国から南方中国に至っての…突然の断崖…千尋の谷の絶望…大疑惑…守 初はまんじりともせず、1夜を明かす。 命がけの求道・全体験が、頓悟の機を高めて行く。翌朝…雲門に参謁し、<無門関 >を透過する。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(141) 洞山守初は雲門禅師の法嗣(ほうし、はっす)となる…これはもう1つの公案… 公案の<無門の関>は、本来、1つを透過すれば全てを透過できます。気に入っ た公案を選択するわけですが、悟りの上に悟りを重ねるのにも、用いる様です。
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9月/7日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(142) 洞山和尚に、1人の僧が問う… 「如何なるか是れ仏」 洞山和尚が、手元の麻をサッとすくって言う… 「麻三斤」(まさんきん) これは非常に有名な公案である。《碧巌録・第12則》のほか、多くの公案集に編集 されている。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(143) さて…この… 「如何なるか是れ仏」 という問いの方は…さらによく知られている。 最も代表的な、禅問答の形式である。公案で無数に使われている。<仏>とは、 <buddha(/仏陀) = 悟れる者>という意味の名詞。
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9月/8日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(144) 釈尊の在世中は<仏>とは、釈迦牟尼仏という独占の称号となっていた。入滅後 は<仏>は生身の歴史的な実体から、思想的なシンボルへと立ち帰って行く。後、 <仏陀観>というものは、極めて複雑で膨大なものになる。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(145) さて…公案で僧の問うているのは、<即今>の明快な禅的仏陀観である。つまり 釈尊が明けの明星を見て、覚醒された内容としての<仏>…さらに進めて脈々と 続く禅匠の、禅的自覚体験としての<仏>が問われている。
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9月/9日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(146) 「如何なるか是れ仏」 の問いに対し、多くの禅匠が様々な答話を残している。みな 自覚体験から出たもので、表現の背後にある真実は1つである。 この常套句(じょうとうく/決まり文句)に対し、洞山禅師はサッと麻をすくい 「麻三斤」(まさ んきん) と答えた。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(147) 洞山は麻を撚(よ)る作務(さむ/禅寺で僧が労務。修行の1つ)をしていたようだ。当時は大禅 匠も作務に励んでいた。 (/一山で数百人もの僧堂を維持するには、莫大な費用がかかったと思われる。寄進・寄贈だけでなく、多少の商売 や手内職などもあったのだろうか・・・それが修行生活と一体化し、一山を安定なものにしていたのか...) 百丈(百丈懐海・禅師)も高齢になっても作務をやめず、弟子が道具を隠したほど。する と飯を食わず、「1日作(な)さざれば、1日食(くら)らわず」 と有名な言葉を残した。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(148) 洞山和尚は…仏とは何かと問答され、作務中の麻をすくって示した。その真意とは 何か? <仏>とは何であり<麻三斤>とは何なのか…その知の深淵、迫真/リアリティ ーの…人間的全体性をまず俯瞰(ふかん/高い所から見下ろして眺めること・・・鳥瞰/鳥が空から見 下ろすように見ること)して見ること…
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(149) 麻という物質、三斤という重さは、むろん<仏>と直接関係はない。身近にあった <即今>の呼吸で、サッと麻をすくったもの。洞山は、観念論や思弁的説明は一 切せず、直接・直下の麻を提示した…<仏>であると…
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9月/10日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(150) <仏とは = 麻三斤> → この事を直下にうなづき得るべく、決死で修行せよと言 う。 <麻 = 真実の結晶> → これは自他生死(自分と他人という主体と客体、生と死という二元 的概念)を貫き…思弁(/経験に頼らず、純粋な論理的思考だけで、物事を認識しようとすること)を超えて 眼前するもの。古来 …うなづき得る者は、うなづく… と突き放す。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(151) <麻三斤>は様々な禅匠が評し、1語を残している。それは置くとして、重ねて言 う。麻の特質・重さ・答話自体は、蝉(せみ)の抜殻(ぬけがら)の様なもの。<麻三斤> の本質は、この答話を生み出した、洞山禅師の禅的境涯にある。
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9月/12日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(152) 再び時間を遡り…曹洞宗の祖/洞山良价(とうざん・りょうかい)に戻る。雲巌曇晟(うんがん・ どんじょう)の法嗣となった洞山は ・・・水に映る自分の姿で大悟・・・ したと言う。 洞山は新豊山(しんぽうざん)に住し、後に江西省新昌県の洞山(新豊山と洞山は同一の山という 説もある)に、広福寺(のちに普利院と改名)/洞山寺を開く。法嗣は雲居道膺(うんご・どうよう)や 曹山本寂(そうざん・ほんじゃく)ら、26の名前が『伝灯録』(/景徳伝灯録・・・全30巻/北宋時代に、 道原によって編纂された禅宗を代表する伝灯史・・・)に載る。
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9月/13日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(153) 《無門関-第10則・清税孤貧》(せいぜいこひん)・・・(1) 洞山良价の法嗣の1人/曹山本寂(そうざん・ほんじゃく)の話。曹洞宗の名の由来につ いては前に触れた。曹山禅師は宗旨(しゅうし/宗門の信仰内容の主旨として説くところ)を得て 洞山を辞して後、縁に従い悠然と時を過ごした。やがて、乞われて江西省の曹山 に住し、大いに宗風を挙揚した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(154) 《無門関-第10則・清税孤貧》・・・(2) 曹山和尚に、僧/清税が問答を仕掛ける… 「清税孤貧!師よ、願わくば、私を助けて豊かにして下さい」 「清税よ(/・・・原文は税闍梨と呼びかけている。闍梨とは阿闍梨の略)」 「はい・・・」 「青原白家(せいげんはっか)の美酒を3杯も喫(きっ)し終えて、なお唇を潤(うるお)さず と言うか」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(155) 《無門関-第10則・清税孤貧》・・・(3) 清税という問僧の方も相当の力量である。孤貧は禅問答としての孤貧。2元・物欲 を超えた話。つまり… <迷悟なく・自他なく・清浄無垢の貧者> …この清税を、 曹山禅師はどう救うのかという、鋭い機鋒を含む問答。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(156) 《無門関-第10則・清税孤貧》・・・(4) 問僧は、曹山禅師の対応を試している。しかし、曹山禅師は動じず… 「税闍梨(ぜいじゃり)」と下手に出る。 闍梨(じゃり)は阿闍梨(あじゃり/規範となり、法を教授する師匠や僧侶・・・つまり、先生と呼びかけている) の略。問僧はそう呼ばれて 「はい」と受けてしまった。 ここで、禅問答としての勝負はついてしまっている。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(157) 《無門関-第10則・清税孤貧》・・・(5) 清税は赤貧(きわめて貧しくて、何も持っていないこと)の生活を自負し… <迷悟なく・自他な く・清浄無垢> …と問答を仕掛ける。 が…曹山禅師の1語に引っ掛かる。 大禅匠に一捻りされ…飲んでもいない酒のことで1喝される。勝負あり、曹山の独 壇場である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(158) 《無門関-第10則・清税孤貧》・・・(6) 「青原白家の酒」とは何か…その銘酒を3杯も飲んでいると言う… <孤貧・・・自他もなく、清浄無垢> の税闍梨は、すでに大富豪ではないかと言 う。2元的対立を超え、清浄無垢と成った時…そこに真の自由がある。
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9月/14日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(159) 曹洞宗は…宗祖/洞山良价から曹山本寂以下26人の法嗣へ続きます… 臨済宗は…百丈懐海(ひゃくじょう・えかい)の弟子/黄檗希運(おうばく・きうん)のその弟子 /臨済羲玄(りんざい・ぎげん)が宗祖… 黄檗希運は…幼くして福建省の黄檗山(おうばくさん)で出家。その黄檗山は…6祖/ 慧能の弟子/正幹禅師(しょうかん・ぜんじ)の開山です。
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9月/15日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(160) 黄檗山(おうばくさん)は正幹禅師により般若堂という1寺が建立されたが、臨済宗の大 道場へと発展、万福寺と改名… 日本の臨済宗は鎌倉時代の栄西禅師が開祖で…建仁寺を建立。江戸時代初期、 万福寺の住職/隠元隆琦(いんげん・りぅうき)が明時代末の混乱を避け来日…黄檗宗を 伝えている。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(161) 臨済宗は黄檗希運の弟子/臨済義玄が宗祖であり、河北の臨済寺(/河北省石家荘市 正定県)を拠点とした。出身は山東省である。<黄檗三打>(黄檗に仏法を問い、三度問うて 三度打たれた)の機縁で大悟しと言う。 宗風は馬祖道一の禅風を極め、「喝!」(/怒鳴ること) を多用する峻烈な禅風という。 その語録は 『臨済録』 として名高い。
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9月/16日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(162) た。雲門宗も法嗣・洞山守初の公案で考察した。次に潙仰宗(いぎょうしゅう)である。 6祖/慧能から…南岳懷譲…馬祖道一…百丈懐海…その法嗣が潙山霊祐(い ざん・れいゆう)。さらに法嗣が仰山慧寂(きょうざん・えじゃく)である。その潙山と仰山から、 潙仰宗と呼ぶ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(163) 《無門関-第5則・香厳上樹》(きょうげん・じょうじゅ)・・・(1) 唐の末期/潙山霊祐の下…仰山慧寂と同門に香厳智閑(きょうげん・ちかん)がいた。 香厳は学識深く聰明怜悧(そうめいれいり)な人物。最初は百丈に師事したが、没する と潙山に師事した。まず香厳が大悟した経緯が <香厳撃竹>(きょうげんげきちく) と して有名なので、考察する。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(164) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(2) 潙山(いざん)は香厳(きょうげん)を法の器と認め、何とか心眼を開いてやろうと、公案を 与えた。<父母未生以前(ふぼみしょういぜん)の1句> である。母の胎内を出る以前、 まだ生まれ出る以前の、その心境を言ってみよという意味。五里霧中の中に放り込 まれた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(165) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(3) 色々と考えを吐露(とろ)するが、思弁的な答えを潙山は許さず。博識ゆえに香厳は 自らの学識が邪魔し、<父母未生以前の一句> を見いだせない。年月は過ぎて 失意と嘆息(たんそく)の極に至る。香厳はついに、教示して欲しいと嘆願する。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(166) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(4) だが潙山は言う… 「今、私がその1句を言ってしまえば、後で必ず、私を恨むことになろう」 香厳は落胆。書物を全て焼き捨て潙山の下を去る。かつて慕った慧忠国師の墓に 草庵を結び、生涯墓守(はかもり)をして過ごす決意をする。
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9月/17日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(167) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(5) 墓守生活のある日…香厳は集めた落ち葉を、いつもの様に竹藪に捨てた。中に 小石があり、竹に当たった。コーン…と音がし、山の静寂と香厳の心に反響した。 香厳は、ハッ…とし、<足下・即今…真理の音> を悟った。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(168) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(6) 百丈に師事して十数年…絶望の果ての…初めて知る覚醒の喜びであった。<父母 未生以前の一句> が氷解したのだ。初めて…潙山が厳しく接し、1語を教示しな かった真意が分かった。香厳は、潙山に向い手を合わせた。 岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(169) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(7) 香厳は1を聞けば10を知るほどの、聰明怜悧(そうめいれいり)の人物。幼い頃より知 解・学解(ちげ・がくげ)に秀(ひい)でた人物であった。ゆえに、より一層の絶望の断崖が あった。その比類なき求道と絶望の体験から、《香厳上樹》の公案が生まれている。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(170) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(8) 香厳和尚が言う… 「それは・・・ 手も足も樹に触れず・・・口で高い枝にぶら下がるようなものだ。 その樹の下に僧が来て、祖師の西来意(/如何なるか是れ祖師西来意・・・《無門関-第37則・ 庭前柏樹》・・・趙州の公案で、《無門関-第1則・趙州狗子》とともに最もよく知られている公案・・・)を問う・・・ さあ・・・答ねば要求に応じない事に・・・答えたら命を失う・・・ どう答えたら良いか?」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(171) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(9) さあ…この公案の矛盾をどう克服するか。 香厳禅師が与える絶体絶命/正恁麼(しょういんも/正に恁麼の時に当たって・・・恁麼は、どのよ う、いかよう、の疑問を表す)の時… 香厳の聰明怜悧(そうめいれいり)は、科学文明が支配的な現代人にも通じる。その香 厳ゆえに、思弁的分別心の鎧(よろい)を、1撃で粉砕する慈悲心がこもる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(172) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(10) 下で問う僧に答えて、枝から落ちて死ぬか…答えず質問者の意に背くか。 絶体絶命/正恁麼の時…心路を窮めて絶する時…それはまさに、香厳の五里霧 中の悶々とした日々。さあ…僧が問う。<祖師の西来意>(祖師/菩提達磨が、インドか らはるばる中国にやって来て、2祖/慧可禅師に仏法の真髄である禅を伝授した意味・・・)とは…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(173) 《無門関-第5則・香厳上樹》・・・(11) さあ…落ちるか、落ちないか? しかし、そんな事はどっちでもいいのである。枝に口でぶら下がったままが、真実の 結晶風景である。また、枝から口が離れた瞬間も、その後の一瞬一瞬も、真実の 結晶風景なのである。
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9月/18日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(174) 《無門関-第3則・倶胝堅指》(ぐてい・じゅし)・・・(1) 倶胝禅師は9世紀の人と言われる。唐王朝(/618年 ~ 690年、<則天武后の時代>、705年 ~ 907年)が滅亡し北宋(趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開 封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼ぶ。首都は開封)が成立するまでの半世紀あま り、五代十国時代(/907年 ~ 960年/黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と・・・華 中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代)が続く。その頃の禅匠であろ うか。 倶胝(/本名は伝わっていない。『倶胝仏母神呪』(ぐていぶつぼじんしゅ)を毎日読誦していたので、倶胝和尚 と呼ばれるようになったという)にも、大悟に至る有名な話が残されている。この公案も、ま ずその話から入る。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(175) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(2) 倶胝は若い頃、1人山中に住み読経と坐禅の日々を送った。ある日、庵に尼僧(にそ う/実際尼という女性の僧だと言う)が立ち寄る。無礼にも、笠を取らず錫杖(僧侶や修験者が持ち 歩く杖)も置かず、倶胝のまわりを3周し前に立った… 「私を満足させる1語を言えば・・・笠を取りましょう・・・」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(176) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(3) 3回まわるのは敬意を示す作法。尼僧は3度問答を仕掛けた。倶胝は答えられな い。尼僧は去る。倶胝が呼びかけた… 「日暮です、今日は庵にお泊り下さい」 「1語を言えば泊りましょう」 倶胝は答えられなかった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(177) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(4) 倶胝は、痛く恥じ窮(きゅう)した。そして大奮起して諸国行脚(/師を求めての修行の旅)を 決意。旅支度を始めた。が、その夜夢を見た。護法神(/仏法を守護する善神・・・護法善神 =梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしやくてん)、四天王、十二神将、十六善神、二十八部衆など)が現れ、近く 師となるべき禅匠が草庵を訪れると告げた。10日ほど待つと、その通りに、1人の 老僧が訪れた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(178) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(5) 老僧は、馬祖門下の大梅法常(だいばい・ほうじょう)の法嗣/天竜禅師(てんりゅう・ぜんじ)。 倶胝は礼を尽くし草庵に迎えた。 尼僧との1件を語り、改めて <禅の根源的な1語> を問うた。天竜は黙って <1指> を立てた。倶胝は忽然(こつぜん/にわかに、突然)と心眼が開け、大悟した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(179) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(6) 天竜禅師が <1指> を立てた時…倶胝の禅的な機は、満潮の様に満ちていた。 尼僧との出会いが、倶胝を <大疑の極限状態/一触即発> に追い込んでい た。 <1指> は <無門の関> への、最後の指差し教示だったろう。 |
9月/19日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(180) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(7) 倶胝和尚は、誰が何を問うてもただ1指を立てた。倶胝に若い有髪の侍者がいた。 訪問者が、「師匠はどんな禅を説かれますか」 と問うと、侍者も1指を立てた。こ れを聞いた倶胝は、刃で侍者の指を断ち切ってしまった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(181) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(8) 侍者が苦痛に号泣し走り去る。倶胝は彼を呼んだ。侍者が頭をめぐらすと、倶胝は 1指を立てた。侍者は忽然と頷悟した。 倶胝は臨終の時に言った… 「<天竜の1指頭の禅> を得て、生涯使ったが・・・使い尽せなかった |
9月/20日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(182) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(9) <倶胝和尚、凡(およ)そ詰問(きつもん)あれば、唯1指を挙(きょ)す・・・> 倶胝は何を聞かれても、どんな公案を持って来ても、ただ1指を立てた。生涯、説法 はしなかったと言う。痛快だが…実際…説きようがない。ただ1指で、説き尽くして いた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(183) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(10) さりながら… <1指> とは何か? 真理/リアリティー・・・仏性・・・人と空気/魚と水・・・ 説明不可能なものであ る。あえて説明に及べば、白雲万里の彼方である。指を切断された侍者のごとく… <1指> に頷(うなず)く者は頷く…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(184) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(11) <1指> に頷(うなず)き得ない者は、精進を重ねるのが公案である。しかし、6祖 /慧能のように…5祖/弘忍(こうにん)の下、米つき行者(あんじゃ)8カ月で…グイ、と 禅の真髄を掴む者もいる。弘忍の衣鉢(/法嗣の証=黄梅山の寺宝)伝授の正しさは、禅 宗史が証明する。 |
9月/21日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(185) 《無門関-第3則・倶胝堅指》・・・(12) くり返すが…若い侍者は <1指> をまね、<偽りの1指> を断ち切られる。大声 で呼ばれて振り向くと、倶胝が <1指> を立てた。 激痛の中で、侍者は <真の1指> に目覚める。<天竜1指頭の禅…の結晶風 景>である。
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9月/22日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(186) 《無門関-第12則・厳喚主人》(がんかんしゅじん)・・・(1) 瑞厳師彦(ずいがん・しげん)は…唐末期の厳頭禅師(がんとう・ぜんじ)の法嗣。瑞巌が初め て巌頭にまみえた時に、問うた… 「永遠の真理とは、何ですか」 「それ、逸(いっ)した」 「逸すると、どうなりますか」 「それは、もはや、永遠の真理ではない」
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9月/23日 秋分の日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(187) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(2) 瑞巌(ずいがん)はこの参究を続け、ついに大悟した。彼は閔越(びんえつ/福建省の福州あ たり)の人と言われ、後に丹丘(/中国で仙人がすむといわれた所)に移り、終日阿呆の様に 岩の上に端坐していた。人々は彼を敬慕し、瑞巌寺の住職に迎えた。禅の指導は 厳格綿密で、人々の尊敬を集めたと言う。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(188) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(3) この公案は奇抜さで、非常に有名である。公案は古禅哲の深い禅体験から出た 言行である。表面的な言行を超えた禅旨が内在する。この公案も、表面の人生論 的教訓を超え、内在する禅旨に頷くのでなければ、意味はない。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(189) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(4) 瑞巌和尚は、毎日自ら 「主人公」 と呼びかけ、自ら 「はい」 と答えた。「はっきり 覚めているか」 と問い、「はい、覚めています」 と答えた。「どんな時でも、他人 に瞞(だま)されるな」と言い、「はい、大丈夫」 と答えた。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(190) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(5) 瑞巌和尚が呼びかける <主人公> とは何者か。普通の主人公ではない。この <主人公> は主体・客体を超えた絶対主体性を指す。一切の対象化・概念化の 不可能な、それ自身が存在の意味を全うする <根本主体> である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(191) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(6) 様々な名前で呼ぶこと自体、対象化・概念化への1歩である。巌頭(がんとう)禅師が、 「それ、逸(いっ)した」 と言ったゆえん。 栄西(えいさい/平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本臨済宗の開祖、建仁寺の開山。『喫茶養生記』)の <歴刧無名の当体> 、倶胝の <1指> 、慧能(/6祖)の<本来の面目> 、臨済 (臨済宗の開祖)の<無位の真人> も同じ意味。
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9月/24日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(192) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(7) 禅とは自己の心身を投げ出し、この様な <根本主体> に活眼を開き、それにな りきること。悟りとはこの体得のこと。『無門関』は、 <参禅は須(すべから)く祖師の関を透(とお)るべし。妙悟は心路を窮(きわ)めて絶せ んことを要す> という。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(193) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(8) 対象化・概念化が不可能な…<絶対主体/根本主体・・・主人公> は…時空間 ・生死の束縛を離れ…個でありながら個を超え、全体と不可分に重なる。何のこと はない。それはこの世に君臨する… <私自身の姿> である。
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9月/25日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(194) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(9) 瑞巌(ずいがん)は <絶対主体> に呼びかけ、<絶対主体> として返答している。 「絶対主体に…覚めている」…と… 京都・妙心寺(/臨済宗妙心寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来)の愚堂国師(/愚堂東寔(ぐどうと うしょく)江戸時代初期の、妙心寺第14世住持/住職)が、この絶対主体を6祖/慧能の言う <本来の面目>と題し、1偈(げ/詩)を詠んでいる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(195) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(10)
『本来の面目』 いまだ、心通う笑みを交わさぬうちは、断腸の想い 西施(せいし/古代中国4大美女の1人)の紅顔も、色を失し
楊貴妃(ようきひ/古代中国4大美女の1人)の優美も、光を失う
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(196) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(11) この偈は、絶対主体/悟りの風景を表現する。<天然の美少年> の光景は、 古代中国の絶世の美女…西施も色を失し…楊貴妃も光を失う…という。故に、 <心通う笑みを交わさぬうちは・・・生涯の痛恨事>という。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(197) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(12) 瑞巌(ずいがん)は <天然の美少年> に毎日呼びかけ、自ら… 「はい」 と答えていた。そして… 「覚めています = キチンと向き合っています」 …と。 瑞巌の禅境は・・・深く澄み渡り・・・不動のもの・・・ 日々、研鑽(けんさん)を重ねて いた。
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9月/26日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(198) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(13) 古禅哲は言う… <瑞巌の禅風は、竜が明珠(めいしゅ)を愛で楽しむがごとし> …と。透徹した自受用三昧(じじゅよう・ざんまい/道元禅師が『正法現蔵』の中で使っている。坐禅が “正身端座”、中身を “自受用三昧”という)の禅境は、思弁的な <内観的自己反省の生 活> というような解釈とは、別次元にある。 <主人公> は今も生き続けている。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(199) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(14) 江戸城を築城した太田道灌(おおた・どうかん)が、この公案を参究した。久しく熱心に修 行。ついに透徹。師/雲岡禅師(うんこう・ぜんじ/龍穏寺住職)が問うた… 「即今、主人公はどこにおるか」 道灌が、夜空を見て答えた… 「月光の中、山は寺の鐘に応える」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(200) 《無門関-第12則・厳喚主人》・・・(15) 師/雲岡禅師は、道灌の禅境を認めた。 <主人公> は時空間・生死・2元的世界観を超え、今も瑞巌と共に、道灌と共に 生きている。命の無い概念ではない。<主人公> は今も、私の一挙手一投足(いっ きょしゅ・いっとうそく)の中に生きている。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(201) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(1) 石霜楚円(せきそう・そえん/986~1039年)は、南方中国は広西(/広西省・・・現在の広西チワン 族自治区)の生まれ。22歳で出家。唐王朝が崩壊(/五代十国時代(907年~960年)は、唐の滅 亡から北宋までの期間。22歳の時、前年に唐が滅亡・・・)した中を広く行脚、汾陽善昭禅師(ふんよ う・ぜんしょう・ぜんじ/臨済下第6世)に師事…臨済の宗風を高揚し、大きな足跡(/『無門関』の 無門禅師は、楚円禅師の遠い法孫に当たる)を残した禅匠… 石霜和尚は言った… 「百尺竿頭(ひゃくしゃく・かんとう)・・・如何(いか)が、歩を進めん」(/・・・100尺=約 30メートル の高さの竿の先から、如何様にして、1歩を進めるか・・・)
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(202) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(2) また、古禅哲(/公案にもう1人登場する禅匠・・・長沙景岑禅師(ちょうしゃ・けいしん・ぜんじ)と言われる。 潙仰宗の仰山禅師と親しい友)は言った… 「百尺竿頭((ひゃくしゃく・かんとう)に坐す人は、<這箇>(しゃこ/これ、これら・・・即今) を得 たとはいえ、未(いま)だ真の大悟に至らず。百尺竿頭に須(すべから)く歩を進め、 十万世界に全身を現すべし」 百尺竿頭は孤峰頂上(こほうちょうじょう)…一念不起(いちねんふき/雑念を起こさず)の絶対境… 霊性(/霊格)の開眼…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(203) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(3) しかし、百尺竿頭の禅境に胡座(こざ/あぐら)してしまうと、そこが一種の巣窟(そうくつ) になってしまうと、古禅哲(/長沙景岑禅師)は言う。 そこから歩を進め、十万世界の混乱に身を投じ、灰頭土面(かいとうどめん/・・・頭は灰だ らけ、顔は泥だらけ。迷いの真只中にいる状況 )の生活をして行くこと。それが、真に力量のある 禅者と説く。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(204) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(4) <百尺竿頭の禅境/ ・・・迷悟なく、生死なく、自他なし> の、純粋そのものの 境地に陶酔したならば… <平等1枚の・・・静的な岩> に堕(だ)してしまう。それ は<死んだ・・・空虚な無> であり、 <真の妙悟> とは離れてしまう。
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9月/27日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(205) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(5) 修行者は、<百尺竿頭/静的一境> に留まってはならない。市井に入り、差別 の万境に身を置き、禅臭・悟臭(/禅のにおい・悟りのにおい)を脱落(/道元禅師の言う心身脱落 の意)…凡人の、<真の一如>(静的な禅境ではなく、生活の中の動的な禅境) を生きねばなら ない。寒山・拾得(2人とも、天台山/国清寺の行者)は風狂の徒(詩作をよくし、特に『寒山詩』は有名) だが、文殊・普賢(/文殊菩薩・普賢菩薩)の再来と呼ばれた。 (寒山寺は...中国江蘇省/蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺院。寒山拾得の故事で名高い。伽藍の創建は8世 紀から9世紀に掛けてのことで。石頭希遷禅師によると伝えられる。全盛期の寒山寺の面積は広大で、“馬に乗って 山門を見る”と言われたほどと言う。寒山寺という寺名は、唐時代に風狂人/寒山がこの地で草庵を結んだという伝 承にちなむ)
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(206) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(6) 公案では、石霜が言ったのは 「百尺竿頭 如何が歩を進めん」 だけである。後 は別の古禅哲の言葉で補っている。この古徳(/原文ではこうなっている)は、長沙景岑禅 師(ちょうしゃ・けいしん・ぜんじ)と言われる。潙仰宗(いぎょうしゅう)の仰山禅師とは親しい友 で、有名な禅問答が残されている。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(207) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(7) 秋の夜、長沙禅師(ちょうしゃ・ぜんじ)と仰山禅師(ぎょうざん・ぜんじ)は明月をめでていた。 仰山が言う… 「一輪の明月・・・皆が持っているが、自由に使い得るものは少ない」 「ほう・・・良ければお目にかけようか」 「それは愉快だ。見せてもらおう」
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9月/28日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(208) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(8) 仰山がそう言うと、長沙は雷鳴の如く襲いかかり、仰山を踏み倒した。仰山は嘆息 し、起き上りながら言った… 「やれ…仰山はまさに大虫/虎だ」 以後、長沙景岑禅師(ちょうしゃ・けいしん・ぜんじ)は“岑大虫(しんおおむし/しん大トラ)”と、あだ 名されるようになった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(209) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(9) <静的禅境> は承知…その上で、< 動的禅境> を行ない現していく。長沙の 提示である。 この禅境が公案で <次の1歩> を的確に示す。百尺竿頭を得たならば、再び市 井に返る。そこで <生活禅> を行い現していく…と言うことである。
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9月/29日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(210) 《無門関-第46則・竿頭進歩》・・・(10) 公案を評する頌(じゅ/・・・偈頌(げじゅ)ほめたたえる詩)で、無門禅師が言う… <頂門の眼/悟りの眼> に陶酔固執するならば、それは迷いの眼に転落する。 石霜の言う、<百尺竿頭> から歩み出せ。長沙の言う、市井の中の <動的禅 境>に、悟りを深めよと。
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10月/1日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(211) 《無門関-第47則・兜率三関》(とそつ・さんかん)・・・(1) この1則は、自由高邁(こうまい/志などが高く、衆に抜きんでていること)な透徹した禅境を確立 すための公案として、古来有名。 三関というも <見性>(けんしょう) の一関に帰す。<見性> とは… <無相の自 己/真我に目覚める内的経験> 。本具(ほんぐ/本来備わっている)の仏性に徹する時 にのみ、体験される。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(212) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(2) 禅修行は <見性>(けんしょう) が最初で最後の一大事。生死解脱 も 主客一如 も、みな <見性> という根本体験に備わるもの。 公案の兜率従悦(とそつじゅうえつ/・・・兜率天は、仏教の世界観に現れる天界の1つ。欲界における六 欲天の、第4の天部)は江西省南部の人と言う。少年の時に出家。経論を学び、後に禅 修行を志して諸方を行脚。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(213) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(3) 兜率は宝峰克文(ほうほう・こくもん)に出会い師事。宝峰は黄龍慧南(おうりょう・えなん)に 師事。黄龍は 《無門関-第46則》 の石霜楚円(せきそう・そえん)により大悟している。 兜率は宝峰の法を嗣ぎ、江西省北部の兜率寺に移り、 教化を始めるに当たり、三 関を設けている。
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10月/2日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(214) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(4) 兜率和尚は、三関(/3つの関門)を設けて修行者に問う… である。 修行僧よ、即今(そくいま)、君の性は何処にあるか。自性(じしょう)に目覚めれば、 生死の束縛を超脱して自由である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(215) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(5) すれば、己の行くべき所を知る。身体の四大元素が分離する時、君は何処へ 行くか・・・
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(216) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(6) 『無門関』冒頭で <無門の関> を提示し、なお三関と言う。 通る者は問わず・・・問う者は通らぬ・・・関中の関 である。鐘声(しょうせい/鐘の音) で覚醒した白隠禅師(はくいん・ぜんじ/江戸中期の禅僧・・・臨済宗中興の祖)も、<隻手(せきしゅ /片手)の音声(おんじょう)を聞け>(公案:隻手音声(せきしゅ・おんじょう)) と関を設けた。褒賞 (ほうしょう/ほうび)を掲げ、勇者を待つ方便と言う。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(217) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(7) 兜率の第一関は… <草を分けて、真理を求めて行脚修行をするのは、ただ見性せんがためであ る。修行僧よ、即今、君の性は何処にあるか・・・>という難関。 <見性/悟り> こそ全修行者に必須の、根本体験である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(218) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(8) そもそも <見性/悟り> とは何か?自己本来の心性を徹見し、真実の自己に 目覚めること。これが成就する時、生死を超えた大安心を得、乾坤(けんこん/天地) に独歩することができる。人間として生を受けた、根本的な課題である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(219) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(9) 兜率の第一関は、<即今、君の性は何処にあるか> と迫る。性とは…自性(じ しょう)/本来の面目/無相の自己/不生不滅の当体。兜率はそれを思弁ではな く、即今、直下に示せという…幾多の禅匠が叫んで来たことである。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(220) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(10) 釈尊が、明けの明星(/金星)を見て覚醒したのも…霊雲(れいうん/霊雲志勤(れいうん・ しごん) 潙山霊祐に参じている時に、桃花を見て開悟)が桃花(とうか)を見て心眼を開いたのも… 無門が太鼓の音で透関したのも…みな心身脱落の体験と言う。『無門関』/48則 も…この心身脱落のための関所… <無門の関> である。
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10月/3日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(221) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(11) 兜率の第二関… <自性(じしょう)に目覚めれば、生死の束縛を超脱して自由である。君が眼を閉 じる時/死に直面する時、いかに生死を超脱するか> …と問う。生死を脱するとは、2元的束縛から絶対自由への解脱である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(222) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(12) 涅槃経(/ 『大般涅槃経』(だいはつ・ねはんぎょう)・・・釈迦の入滅=大般涅槃(だいはつねはん)を叙述し、 その意義を説く経典類の総称。阿含経典類から大乗経典まで数種ある。大乗の涅槃経 は、初期の涅槃経とあ らすじは同じだが、<一切衆生悉有仏性>を説くなど、趣旨が異なる)が説く… <一切衆生は等しく仏性を持ち、本来解脱している。自我の心に執着するた め、迷いに落ち、様々な束縛を受ける。迷いを払い、束縛を超脱して真に帰 るならば、衆生は解脱し諸仏と異なる所はない>
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(223) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(13) 繰り返すが、第一関を透過していれば第二関も透過している。しかし『無門関』に 48則があるように、兜率に三関がある。それぞれ妙用があり禅境を導く。さて、 <死に直面した時> …如何に超脱するかと、問うている。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(224) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(14) 前出の京都妙心寺(/臨済宗・妙心寺派大本山)…開山/恵玄禅師(えげん・ぜんじ/鎌倉・室町 時代の禅僧)は、妙心寺庭園の池のほとりで、2世/授翁禅師と物語つつ立亡(りゅうぼ う/・・・禅門の高僧の死に方に、坐脱立亡(ざだつ・りゅうぼう)があるという。坐脱は坐禅しながら死ぬこと、立亡 は文字通り立ったまま死ぬこと= 立ち往生)したという。 さあ…この直下の死を、思弁ではなく…如何に超脱するか。即今、どのように死 ぬか…と問う。
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10月/4日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(225) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(15) 京都/南禅寺(/臨済宗南禅寺派大本山)の開山/大明国師(だいみん・こくし/無関普門禅師 (むかん・ふもん・ぜんじ) 大明国師は諡号(しごう/死後に贈られた名))は、時の天皇の帰依を得た 大禅匠。臨終に際し、天皇を枕辺に迎え、以下の遺偈(ゆいげ/遺言となる詩)を書して 遷化した。
来るに所住(しょじゅう/住む所)なく 去るに方所(ほうしょ/方向)なし 畢竟如何(ひっきょう・いかん/つまるところ・どうしたらいいか) 当所(とうしょ/この場所)を離れず
1つの姿である…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(226) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(16) 龍潭禅師(りゅうたん・ぜんじ)というから… 臨済の <喝> 、徳山の <棒> と言われ た、あの徳山宣鑑(とくざん・せんがん/常に『金剛経』を講誦していたという)の師/龍潭崇信で あろう。この禅匠は死に臨み、悶え苦しんで叫んだと言う。これを、弟子たちが止 めようとすると、龍潭が言った。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(227) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(17)
「私のこの苦しみの叫びは、楽しみ歌うのと、変わらぬことを知るがよい」
むろん、頷(うなず)く者は頷く。 良寛さん(りょうかん/江戸時代後期の曹洞宗の僧。歌人、漢詩人、書家で、越後(新潟県)の出雲崎の生 まれ)も、こんな言葉と句を残している…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(228) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(18) また、ある老人が盤珪禅師(ばんけい・ぜんじ/江戸時代前期の臨済宗の僧)の所に来て言っ た… 「私も死期が近づいた様だ。どう覚悟したらよいか教えて下さい」 「覚悟はいらぬ」 「どうしてでしょうか」 「死ぬ時は死ねばよい」 良寛の言葉と似ている。
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10月/5日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(229) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(19) 禅匠たちの体験と表現は異なるも、兜率第二関の生死を超脱した風景である。 第三関はさらに迫る… <生死を解脱すれば、己の行くべき所を知る。 身体の四大元素が分離する時、君は何処へ行くか・・・>
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(230) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(20) この第三関も、人々の迷いの根拠となりやすいと言う。科学文明の中の現代人も 同様であろう。身体を構成する元素が分解する時、意識は何処へ去るかという。 生と表裏一体の意識は、己れの死を見ることはできない。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(231) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(21) 同様に…目も己れの目自体を目撃できず、右手も己れの右手自体を掴むことは 不可能。しかして、<生死を解脱する者は、己れの行くべき所を知る> と言う。 さあ君は、上下左右・東西南北の、何処へ行くか、と問う。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(232) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(22) この問いに明確に答えているのは、南禅寺開山の大明国師(だいみん・こくし)の遺偈 (ゆいげ/遺言となる詩)… 再度掲載する。
去るに方所なし 畢竟如何 当所を離れず
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10月/6日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(233) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(23) 実際の禅修行においては…師家(/禅宗で修行僧を指導する力量を具えた者をさす尊称)は概念的 /哲学的冗語(じょうご/むだな言葉、よけいな言葉)には、一切耳を貸さないと言う。 禅的な絶対主体の立場を離れるが…科学的にも…身体が素粒子に分解される 時、結晶化した意識は何処へ行くのか、興味深い。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(234) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(24) 私は…輪廻(りんね/三界・六道に生まれ変わり、死に変わりすること)を離れた意識は…太極/地 球ガイア(/・・・私はこれに、“36億年の彼”という人格を与えている)に回帰すると考える。経学(けい がく/四書・五経など経書を研究する学問)や科学などの学問も、禅修行において、全て排除す るものでもない。市井の中、諸々の差別・芸術・学問の中で、動的禅境を生きて行く… …
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10月/7日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(235) 《無門関-第47則・兜率三関》・・・(25) 兜率三関を見事に透過したなら…何時如何なる場所でも…絶対主体の当体とし て闊歩(かっぽ)して行ける。順逆の境(順境と逆境)にも本来の立場を失わず、縁(/仏 縁)を自由に使いこなして生きて行く。<無門の関> を透過した者への、褒賞(ほう しょう)である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(236) 《法眼宗》・・・(1) 五家七宗に話を戻す。潙仰宗(いぎょうしゅう)、臨済宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗 (ほうげんしゅう)の五家と…臨済宗の系統に黄竜派(おうりょうは)と楊岐派(ようぎは)とが 出て、合わせて七宗。黄竜派と楊岐派は後で触れるとして、法眼宗を眺めてみる。 この宗は、唐の滅亡(907年)後、五代十国時代(ごだいじっこくじだい/907年 ~ 960年)か ら北宋にかけて、栄えた様だ。
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10月/8日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(237) 《法眼宗》・・・(2) 法眼宗(ほうげんしゅう)の名は…開祖/清涼文益(せいりょう・もんえき)が、没後に南唐(五 代十国時代に江南に割拠した国。十国の一つ。首都は金陵(現在の南京))の李璟(りけい/十国南唐の第2 代皇帝(国主))から、大法眼禅師の諡号(しごう/贈り名)を与えられたことに由来。 法眼文益(ほうげん・もんえき)は、浙江省(せっこうしょう)の生まれ、地蔵桂琛(じぞう・けいちん) の法嗣である。7歳で落髪し、律(/仏教において、出家修行者が守らなければならない規則)を学 び、儒学や詩文の世界に遊んだ。ある時、菩提心を発し、錫杖(しゃくじょう/遊行僧が携 帯する杖。比丘18物の1つ)を持った。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(238) 《法眼宗》・・・(3) 文益(もんえき)は南へ向かい、福州(/福建省の省都)の長慶慧稜(ちょうけい・えりょう/雪峰義 存の法嗣)のもとで修行した。さらに、行脚するべく、道友とともに出立。途中で暴雨 に襲われた。洪水をさけ、城西の地蔵院に身を寄せた。 その時の地蔵院住職が、地蔵桂琛(じぞう・けいちん)であった。桂琛は玄沙師備(げんしゃ ・しび)の法嗣、雪峰義存(せっぽう・ぎそん)の孫弟子にあたる。
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10月/9日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(239) 《法眼宗》・・・(4) 地蔵和尚が問うた。 「上座(じょうざ/・・・敬意をこめ下手に出る)、いずこへか行く」 「あてどなく行脚し去る」 「何のために行脚するのか」 「知らず」
「不知、もっとも親切 /<知らざるは最も道にかなう>」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(240) 《法眼宗》・・・(5) 文益は…後に江西省の崇寿院に住し、さらに江蘇省の報恩禅院と清涼寺に住す。 常に千人を超える修行者が集まり、嗣法(しほう/法統を受け継ぐこと)の弟子は六十余 人。文筆を好み多くの著作を残す。病気を国王が見舞う。74歳で遷化する時、沐 浴し別れを告げ、結跏趺坐(けっかふざ)したまま成仏した。
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10月/10日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(241) 臨済宗は…唐末に宗祖/臨済羲玄に始まるが、五代十国時代は基盤の河北が 混乱し、宗勢は衰える。活気を取り戻すのは北宋時代。 石霜楚円(せきそう・そえん)の門下より、黄龍慧南(おうりよう・えなん)と楊岐方会(ようぎ・ほう え)が現れる。臨済宗の主流となる黄龍派(おうりゅうは)と楊岐派(ようぎは)は、中国全 土を席巻して行く。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(242) 黄龍(おうりよう)は、( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(213)で触れているが、《無門 関-第46則》 =石霜楚円の 《竿頭進歩》 で大悟している。 北宋(960年 ~ 1127年)時代は黄龍派が栄え、黄龍山には多くの学僧が集まった。南 宋(1127年 ~ 1279年/北宋が、女真族の金に華北を奪われ南遷、淮河以南の地に再興。首都は臨安(現在の 杭州))時代になると黄龍派が衰え、楊岐派が台頭したようである。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(243) 鎌倉時代初期…栄西(えいさい)が渡ったのは南宋。2度目の渡宋で、日本仏教の 精神性を立て直すべく、臨済宗黄龍派の嗣法(しほう/法統を受け継ぐこと・・・法嗣(ほうし、 はっす)は師から仏法の奥義を受け継いだ者・・・似ているが、ニュアンスが異なる)の印可をうける。帰 国後、京都/建仁寺を建立。その門を、比叡山を下りた若き道元がくぐる。道元 も渡宋、永平寺を開山、日本曹洞宗の開祖となる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(244) 《 宋時代・・・の禅》 五代十国時代の混乱を統一した宋の太祖は、仏教に寛大であった。北宋初期に 世に出たのが… 6祖/慧能 → 青原行思(せいげん・ぎょうし) → 石頭希遷(せきとう・きせん) → 雪峯 義存(せっぽう・ぎそん)の弟子… 雲門文偃 (うんもん・ぶんえん)である。 雪峯の道教的な… 自然・仏教・人間存在 を説いて、名声が上がった。
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10月/11日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(245) 《 宋時代・・・の禅》・・・雲門禅師 雲門宗の祖/雲門文偃(うんもん・ぶんえん)の法嗣は、『伝灯録』には61人の名が連 なる。趙州和尚(じょうしゅう・おしょう)とともに、公案の話種を提供したことでは群を抜く。 ここでも、《無門関-第15則・洞山三頓》 (131) で、洞山守初が何千キロも旅を し参謁(さんえつ)している。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(246) 《 宋時代・・・の禅》・・・雲門禅師 雲門の語録で最も知られているのが、<日々昰好日>(ひび・これ・こうじつ) であろう。 ある時、雲門禅師が修行者たちに言った。 「15日以前は、汝に問わず。15日以後、1句を言い持ち来たれ」 自ら代わって曰く… 「日々是好日」
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(247) 《 宋時代・・・の禅》・・・雲門禅師 1句を持ち来たれ…と言うも、頷(うなず)く 1句が無かったのか。そこで、自らが言う。 「日々…これ…好日」 百人いれば百人の <日々是好日> がある。生きている、<即今> の1瞬1瞬 の中に、<絶対主体…覚醒…悟り> がある。
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10月/12日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(248) 《 宋時代・・・の禅》・・・雲門禅師 語録… 「空しく時光(じこう/時間・光景・・・人生の時)を過ごすことなかれ。 ひとたび人身を失えば万刧(/劫(ごう)とは・・・仏教ではきわめて長い時間)にも復せず。 これ小事にあらず。 古人言えリ。 朝(あした)に道を聞かば夕(ゆう)べに死すとも可なり。(/『論語』-孔子) 日夕(にっせき)、まさに何事をか行なうべき。 大いにすべからく、努力し努力すべし」
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10月/13日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(249) 《 宋時代の禅》・・・ 仏印了元(ぶついん・りょうげん) 了元は儒家に生まれた。儒教から仏教に転身。家業の官吏をやり、官僚や僧侶 との交渉が多かった。 廬山(ろざん/江西省九江市南部にある名山)の臨済宗・黄龍派(石霜楚円の門下、ともに江西省を出自 とする黄龍慧南と楊岐方会が、黄龍派と楊岐派を生む・・・)/東林寺の常総(じょうそう/)と仲が良く …雲門宗の法を嗣ぎながら、東林寺の檀徒総代(だんかそうだい/寺院護持の結社=青松社 の社主)…僧俗2足の草鞋(わらじ)の生活をした。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(250) 《 宋時代の禅》・・・ 仏印了元 雲門宗は知識層(/豪族や官僚などの上流階級)に展開したが、庶民信仰に弱点があっ た。これを補ったのが仏印了元。 廬山の地は、古くは浄土教(/阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え)が広まり、 宋時代に浄土教から禅宗に交代(/帝の詔によって)が進んだ。禅宗が、廬山の地で、 大衆仏教化への第1歩を踏み出した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(251) 《 宋時代の禅》・・・ 仏印了元 了元は蘇軾(そしょく/中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡とも呼ばれる。 この時は官職を離れている)と親しく、廬山の東林寺や西林寺を遊び歩いた。やがて詩人 の黄庭堅(こうていけん/書家、詩人、文学者・・・山谷道人、黄山谷・・・洪州分寧の人)が加わり、酒を 飲み歌を作った。 了元の居士(/出家せず、家にあって修行を重ねる仏教者)の様な生活態度は、多くの学派や 官僚に影響した。臨済宗の寺との関係も、この自由さにあった様だ。
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岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(252) 《 宋時代の禅》・・・ 楊岐方会(ようぎ・ほうえ) 女真族(/女真は、満洲の松花江一帯から外興安嶺以南の外満州)/金に、河北(/河北省・・・現在の 省都は石家荘市)を奪われ南遷(/南へ遷都)…北宋(/首都は開封(かいほう))から南宋(/首都 は臨安(りんあん・・・現在の杭州市))へと時代が進む。禅宗においても、臨済宗/黄龍派 から楊岐派へ主導権が移る。 初め楊岐方会は…石霜楚円(/★ 開祖/臨斉義玄 - 興化存奘 - 宝応慧顒 - 風穴延沼 - 首山省 念 - 汾陽善昭 - 石霜楚円 - 黄龍慧南 - 楊岐方会)の同門/黄龍慧南の門下となる。方会は 師/慧南をこう評している。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(253) 《 宋時代の禅》・・・ 楊岐方会
「慧南は器量厚く、事に左右されず偽(いつわ)りがない。門弟は喜んだ顔も、 怒った顔も見たことがない。全く誠意の人と・・・」(/・・・『禅門宝訓』) 楊岐方会の方の、周囲の評は… 「警敏(けいびん)にして滑稽(こっけい)、劇を談じて味があった・・・」(/・・・『五燈会元』) という。両人の人間性が香る。
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10月/15日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(254) 《 宋時代の禅》 雲門宗/雲門文偃(うんもん・ぶんえん)は…禅と儒教の融合の傾向があった。臨済宗 /黄龍派/黄龍慧南(おうりょう・えなん)は…臨済宗の伝統的傾向で、禅と道教の融 合傾向。同門の楊岐派も同様であろう。この南宋時代に日本僧/栄西(えいさい)が 入宋(にっそう)し、臨済宗・黄龍派の印可を受けた。
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10月/17日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(255) 《 元時代以降の…禅》 南宋は蒙古の王朝/元(げん/1271年 ~ 1368年)によって滅びる。漢民族にとって 国粋主義は禁句となる。元・明・清の約450年間、禅は信仰と化す。つまり… <禅と浄土は双修なり・・・>、<念仏は参禅をさまたげす・・・ 法に2門あり といえども、理同じく・・・> となる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(256) 《 元時代以降の…禅》 仏教内部でも融合が進み…禅・浄の思想から、道教と禅・浄の融合…さらに儒教 も融合させ…仏教・道教・儒教の 3教一致の宗教信仰 へ変貌した様だ… 一方…元の朝廷では仏教の変形であるラマ教(/チベット仏教・・・ラマ教という呼称は、現在は 使用されなくなっている)を信奉したが、信仰の自由は許した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(257) 《 元時代以降の…禅》 元王朝の支配下では…仏教、道教、儒教、回教(イスラム教)、ヤソ教(キリスト教)、マ ニ教(/サーサーン朝ペルシャのマニを開祖とする・・・ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義な どの流れを汲み、かつては北アフリカ・イベリア半島から中国にかけて、ユーラシア大陸で広く信仰された世界宗 教)、シャーマン(/呪術者、巫、巫女、祈祷師)教等が許される。 さらに、道教は正一教、全真教、太乙教と分かれる。仏教も南方仏教と、チベット のラマ教(/チベット仏教)とに分かれ、民間信仰化し、複雑化し融合化する。
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10月/18日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(258) 《 元時代以降の…禅》 元帝室の信を得た宗派は…禅・浄(浄土教)一致や、禅・儒(儒教)一致と変貌。対立 が芽生え、1部は日本に活路を開く。 系統では…楊岐方会 → 白雲守端(はくうん・しゅたん) → 五祖法演(ごそ・ほうえん) → その門下に 圜悟克勤(えんご・こくごん)、仏鑑慧懃(ぶっかん・えごん)、仏眼清遠(ぶっ げん・せいおん)という、3仏と称される禅匠が出る。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(259) 《 元時代以降の…禅》 南宋時代には…圜悟克勤(えんご・こくごん)の門下に大慧宗杲(だいえ・そうこう)と虎丘 紹隆(くきゅう・じょうりゅう)が現れ、大慧派と虎丘派を形成… この世代に南宋が滅び、元王朝の支配となる。ラマ僧(/チベット仏教僧)/パクパを 国師として迎え、仏教を管理。儒教は重視せず、科挙による登用も中断される。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅の伝来・・・1粒の麦 )・・・(260) 《 元時代以降の…禅》 明(みん/1368年 ~ 1644年)時代も…仏教の中では禅宗が盛んであった。天台(/天台 宗)・華厳(/華厳宗)・浄土(/浄土宗)は、禅的融合が進んで行く。そして禅も、仏教・道 教・儒教の3教融合化と、民間信仰化がさらに広がりを見せる。 明末(/1644年に滅亡)の王陽明(おうようめい/儒学者、思想家・・・朱子学を批判的に継承。実践儒学 /陽明学を起こす)は、こうした中で儒学と国粋主義を再構成する。
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