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<正法眼蔵/・・・梅華(ばいか) 1
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記 録
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7月 27日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(317) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(224 - 1) 【 梅 華 】 (ばいか) ・・・(1)今は亡き師…天童如浄禅師(てんどう・にょじょう・ぜんじ)は、宋の国/慶元府(けいげんふ)/ 天童山景徳寺(てんどうさん・けいとくじ)第三十代の大和尚。 ある時、法堂(はつとう)に上り、一山の僧達に示して曰く… 「天童山、仲冬(ちゅうとう/陰暦11月の異称・・・冬3カ月の真ん中の意)の第一句・・・ 鋭く角(かど)立つ老梅樹(ろうばいじゅ)、たちまち一華ニ華を開く。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(318) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(225-2) 三華四華五華、無数華を開く。その清らかさを誇ることがなく、香りの高さを誇 ることがない。散っては春風となって草木を吹き、僧達の頭を禿げさせる。突如 として狂風、暴雨となり、また大地に降って雪漫々となる。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(319) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(226-3) 老梅樹の働きには限りがない。寒さ冷たさが鼻にしみる」 ここに述べられる、老梅樹の働きには限りがない。忽(たちま)ち花を開いて実を結ぶ。 あるいは春となり、あるいは冬となる。あるいは狂風となり、あるいは暴雨となる。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(320) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(227-4) あるいは僧の頭となり、諸仏祖の眼となる。あるいは草木となり、清香となる。突然 の不思議な変化のさまは、究め尽くすことができない。大地、高天も、日月も、みな 老梅樹の働きのうちにあり、同じ働きを現す。
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7月 29日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(321) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(228-5) ( ここで言う“老梅樹”とは…全宇宙と自己を 1つと見る、解脱者の広大な境地を言う。全宇宙は自己の内に在り… 全宇宙は自己と重なる。唯一の巨大な全体…唯心世界。)
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(322) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(229-6) 老梅樹が…たちまち開花する時、花の開く世界が起こる。花の開く世界が起こる 時、春が来る。この時、一華が五華を開く。この一華の開く時、よく三華四華五華 があり、百華千華万華億華があり、更には無数華がある。
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7月 31日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(323) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(230-7) これらの開花は皆、老梅樹の一枝、ニ枝、無数枝の働き。優曇華(うどんげ/3000年に一 度咲くという稀有の花)や睡蓮(すいれん)も、同じく老梅樹の一枝、ニ枝。一切の開花は、老 梅樹の恵みによる。人間界、天上界を覆(おお)う老梅樹があり、老梅樹の中に人間 界、天上界を現す。
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8月 3日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(324) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(231-8) 従って…百千の花を、人間、天人の花というのである。万億の花はすべて、諸仏祖 の花である。この様な梅華の開く時を、この様に言う… 「諸仏達が出現して・・・この世にある」 「祖師達磨(そしだるま/禅宗の初祖)が・・・本来この地にある」
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(325) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(232-9) 我が師が示された。 「釈尊の悟りの成(じょう)ずる時、雪の中の梅華はただ一枝。至る処にとげとなり、 春風の乱れ吹くのを笑う」 この諸仏祖の教えを世界の隅々にまで及ぼし、一切の人間・天神が、真実に目覚め る時である。
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8月 4日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(326) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(233-10) 更には、雲雨・風水、及び草木・昆虫に至るまで、真理の恵みを蒙(こうむ)らないもの はない。天地国土も、この教えを受けて活々としている。未だかつて聞いたことのな い教えを聞くとは、この様なことを聞くことである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(327) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(234-11) 未だかつて、ありえなかったことを得るとは、この様なことを得ることてろある。凡(およ) そ信じられないほどの幸せがないならば、これは見聞することのできない教えである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(328) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(235-12) 今現在、大宋国(/道元禅師が留学していた時代の宋の国)百八十州の内外に、山寺があり里 寺があり、その数を数えることはできない。その中に修行者は多い。しかし我が師、 如浄禅師(にょじょう・ぜんじ/天童山景徳寺(浙江省寧波地区)の第31世住職)を見なかった者は多い であろう。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(329) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(236-13) まして、我が師の教えを見聞した者は少ないであろうし、我が師にまみえて御挨拶(ご あいさつ)することのできた者は、多かろうはずがない。僧堂の奥に仕えることを許され た者は、何人もにない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(330) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(237-14) まして、我が師の人格を全て拝することを、どうして許されようか。 我が師は、僧達が僧堂に籠(こも)ることを願ってもたやすく許されなかった。 「世の常に曰く・・・ <求道心を持たぬ者は寺に居てはならぬ> 」 …と。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(331) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(238-15) 追い出し終ってから言われた。 「誠の修行者でない者に、何をしてやる必要があろう。かような者達は人を騒が せるばかりだ。寺に置くことはできない」 私は正しくこれを見、まのあたりにこれを聞いたのである。 |
8月 8日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(332) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(239-16) 密かに思うには…彼等はどの様な罪業によって、この国の人でありながら、共に住 むことを許されなかったのか。私はどの様な幸運で、遠い異国の者でありながら、寺 に留まることを許されたのか。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(333) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(240-17) そればかりでなく、欲するままに僧堂の奥に出入りし、我が師の尊い日常をまのあ たりにし、道を開くことができたのか。誠に私は愚かで、学に乏しい者でありながら、 我が師とは、空しくない良縁を結んだのである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(334) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(241-18) 我が師が、宋の人々を教化しておられた時でさえ…真実に目覚めた者もいるし、そ うでなかった者もいる。我が師はすでに亡く、宋の国は暗夜よりも暗い。後にも先に も、師の様に勝れた覚者はいないからである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(335) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(242-19) 今…この教えを見聞しようとする後進の者達は、このことを思うべきである。あなた 方のほかの諸方の人間、天神達も、この様な教えを見聞し、学ぶべきである、と思っ てはならない。
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8月 10日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(336) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(243-20) ここに示された<雪の中の梅華>とは、奇しくも現れた稀有(けう)の花である。我々 は日頃、釈尊の正しい悟りの様をくり返し目のあたりにしながら…徒にそれを見過ご しにするばかりで、理解することができない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(337) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(244-21) 今こそ我が師は… <雪の中の梅華>こそ…仏の悟りを示しているものであることを、正しく伝え、身を もって明らかにされている。これが悟りの智慧であり、智慧の中の智慧である…とさ れるのである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(338) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(245-22) 更に、我々が梅華を学び梅華を究めるところ、疑うべき理由はどこにもない。 <雪の中の梅華は…ただ1枝>ということが、<天上天下唯我独尊(てんじょうてん げ・ゆいがどくそん)>ということであり…<一切世界において我は至尊(しそん/この上なく とうといこと)>ということである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(339) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(246-23) 従って、一切の花… “天上界の花、人間界の花、雨を降らせる曼荼羅華(まんだらげ)、大曼荼羅華、曼 珠沙華(まんじゅしゃげ)、大曼珠沙華、および諸方の無限世界の花” …はみな、<ただ1枝の・・・雪の中の梅華・・・の一族>である。
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8月 11日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(340) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(247-24) それらが皆、<雪の中の梅華>の恵みを受けて開花するからである。百億の花は <梅華の一族>であり、小梅華と呼ぶべきである。更には虚空の花、地の花、静 寂の花なども、ともに梅華の大小様々の親族、群花である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(341) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(248-25) <1華の内>に百億の国を現し、各の国土に様々の花か開くのは、みな梅華の恵 みによる。梅華の恵みの外には、僅かの恵みもありえない。絶えることのない仏道 の命脈は、みな梅華によって成り立っているのである。
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8月 12日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(342) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(249-26) ここに示されている<雪漫々>という言葉を… 一概に、嵩山少林寺(すうざん・しょうりなんじ/中国の河南省鄭州市登封にある中岳嵩山の中の少室山の 北麓にある寺院である。インドから中国に渡来した達磨による禅の発祥の地と伝えられ、中国禅の名刹である。また 少林武術の中心地としても世界的に有名)において達磨大師が面壁座禅をしていた時に…二 祖慧可(にそ・えか)が教えを求めて、深雪の中に立ち尽くしていた雪とばかり、学んで はならない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(343) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(250-27) 雪そのものが、仏の<悟りの眼>なのであって、頭上を照らし足元を照らす。これ をただ、釈尊が前世において修行されたと伝えられる、ヒマラヤの雪とばかり学ん ではならない。雪そのものが釈尊の<悟りの眼>なのである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(344) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(251-28) 悟りの<五つの眼>がここに究め尽くされ、<千の眼>がここに完成されている。 誠に釈尊の身心の光は、一切存在の真実の姿を、一片として極め尽くさずにはお かない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(345) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(252-29) 人間と天神ではものの見方が違い、凡人と聖人では心に隔たりがあるが、<雪漫 々の境地>に変わりはない。凡(すべ)ての大地に<雪が漫々>としており、<雪 が漫々>としていなければ、一切世界に大地はない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(346) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(253-30) この<雪漫々>になりきることが、釈尊の<悟りの眼>なのである。
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8月 13日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(347) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(254-31) 花も大地も、悉く生死を超えていることを知るべきである。花が生死の差別を超え ているのである。そのため、大地も生死を超えている。花も大地も悉く生死を超え ているから、<悟りの眼>も生死を超えている。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(348) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(255-32) 生死を超えるとは、無上の智慧を得ることである。それを知るものは、<雪の中の 梅華>ただ1枝である。そのことを現しているのが、<雪の中の梅華>ただ1枝 である。大地も花も、生を超えた生である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(349) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(256-33) それを更に<雪漫々>というのは、大地の表も裏も悉くが<雪漫々>ということで ある。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(350) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(257-34) 一切世界は自己の心であり、一切世界は花の心である。一切世界が花の心である から、一切世界は<梅華>である。一切世界が<梅華>であるから、一切世界は <釈尊の眼>である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(351) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(258-35) いま<梅華>は山河大地を覆(おお)っている。あらゆる処、あらゆる時は皆、達磨 大師の…
<我は本来この地にあり・・・教えを伝えて迷情を救う。1華は5葉を開き、自然 に果実を結ぶ>
…という、1華の現れである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(352) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(259-36) 仏法が西から東へ進むとはいえ、今は<梅華>があらゆる処において実現してい る<悟りの時>が、このようにあらゆる処に実現していることを、<至る処にとげ となる>と言うのである。
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8月 14日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(353) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(260-37) 老梅樹の大枝には、古い枝、新しい枝がある。小枝にも古い枝、新しい枝がある。 それがあらゆる処を究め尽くすことを、学ぶべきである。三、四、五、六華の中は無 数華である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(354) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(261-38) 花には花の働きが、深く広く具わっていて、世界の高さ広さを現している。従って、 花の内も外も、一華の開花である。 (/あらゆる時間、あらゆる存在が、一人の人間の内に、深く広く具わっている。)
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8月 26日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(355) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(262-39) 梅華が、ただ1枝であるから、この他に枝はなく、この他に種はない。ただ1枝が究 め尽くしている時を、現在と呼ぶのである。ただ1枝であるから、1人から1人へ伝 わる、真直ぐな仏法である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(356) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(263-40) これにより釈尊がカーシャパ(/摩訶迦葉)に… 「私の悟った・・・正しい教えを・・・大カーシャパ(/摩訶迦葉・・・摩訶とは、サンスクリット語でマ ハー/大、偉大)に衣嘱(いしょく)する」 …と言われたのである。 また達磨大師が2祖/慧可(えか)に… 「お前の得たのは・・・私の精髄である」 …と言われたのである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(357) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(264-41) 全てを究め尽くす1華の現れが、何処においても尊く勝れているから、達磨大師が… 「1華は5葉を開く」 …と言われた5葉が開くのです。この5葉もまた、梅華によって開かれるのである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(358) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(265-42) それにより…釈尊までの7仏(過去7仏・・・釈迦仏を含め、7人の仏陀が存在したという)があり… インドの28祖(/釈尊を抜いて、摩訶迦葉尊者が1代目・・・達磨尊者/達磨大師が28代目。インドの祖師 28名。達磨大師は・・・禅門では中国第1祖)があり…中国の6祖(2祖・慧可/えか、3祖・僧璨/そうさん、 4祖・道信/どうしん、5祖・弘忍/ぐにん・こうにん、6祖・慧能/えのう)があり、我が師(/道元禅師の師で ある・・・宋時代の天童如浄禅師)に至る19祖があるのである。 これは皆...ただ1枝の梅華の開く5葉である。5葉であって、しかも1枝なのであ る。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(359) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(266-43) 1枝を学び究め、5葉を学び究めるならば…雪中の梅華によって示される、正しい 仏法に見(まみ)える。ただ1枝という言葉を、心身に捉われることなく学んで行くなら、 全ての覚者が1であり、多であることが理解できる。
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9月 11日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(360) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(267-44) ある時、学ぶ力の無い者が言った… 「五葉というのは・・・中国の初祖(しょそ)達磨(だるま)から五代の祖を一葉とし・・・ これを並べると古今に比べものなく勝(すぐ)れているから・・・五葉というのであ る」 この様な言葉は論難(ろんなん/相手の誤りや欠点などを、論じて非難すること)するに足りない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(361) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(268-45) 彼等は…身をもって仏祖を学び、先覚者を学ぶ者ではない。哀れむべきである。五 葉一華の道を、五代に限ることができようか。6祖より後のことは数えないのか。小 児の話にも及ばない。夢夢見聞してはならない。
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9月 13日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(362) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(269-46) 我が師(/道元禅師の師・・・宋の国の天童如浄禅師)が年初の説法で言われた。 「年の始めはめでたく・・・万物がことごとく新しい。僧たちが伏して思いみれば ・・・梅は早春を開く」 静かに思いみれば…古今の禅者達が、例えこの世の束縛から逃れることができて も、<梅が早春を開く>ということを悟らなければ、道を究めた者と呼ぶことはでき ない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(363) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(270-47) 独(ひと)り我が師ばかりは…仏祖の中の仏祖である。 この教えの真意は… <梅華が開くことに誘われて・・・一切世界が早春となる> …ということである。一切の春は、梅華の1華2華の働きである。
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9月 14日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(364) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(271-48) 一春が、万物を悉(ことごと)く新しくし、万物を年の始めとするのである。 <めでたい>というのは、そのようなことである。 万物は、過去、現在、未来にあるばかりでなく、時を超えた時にもあるのである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(365) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(272-49) 計り知れない無限の時が、悉く新しいのであるから…その新しさは、どのような新し さをも超えている。だから一山の僧達が、伏して思いみるのである。伏して思いみる ことが、万物を開くことだからである。
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9月 22日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(366) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(273-50) 我が師(/宋の国の天童如浄禅師)が一山(/天童山景徳寺・・・中国/浙江省)の僧達に示された… 「1言を悟って、永遠に変わらず! 柳の芽は新条に吹き、梅華が旧枝に満ちている!」
永久不変である。
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12月 26日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(367) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(274-51) 春は柳の新しい枝を茂らせ、新しい芽を開かせる。たとえ柳の枝が新しくても、悟り の目を開かせる。 悟りの目は自己の内にあるが、今はそれが新しい枝にあり。その新しさが、万物悉 (ことごと)くの新しさである事を学べ。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(368) 《 道元・・・
『正法眼蔵』 》・・・(275-52) 「梅華が旧枝(きゅうし/・・・新しい枝に対する語)に満ちている・・・」 というのは… 梅華は悉(ことごと)く旧枝であり、梅華が旧枝を貫いており、旧枝がそのまま梅華であ るという事である。花と枝が共に学び、共に生じ、共に完成するのである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(369) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(276-53) 花と枝が1つであることによって、釈尊が… 「私の悟った教えを・・・カーシャパ(サンスクリット語で・・・マハー・カーシャパ、パーリ語で・・・マハー カッサパ/大迦葉。 釈迦の10大弟子の1人で、釈迦の死後、その教団を統率)に依嘱(いしょく/他の人に任せ て頼むこと)する・・・」 と言われたのである。 この時、師も弟子も共に、等しい以心伝心の境地(/・・・【無門関・第6則/世尊拈花(せそんね んげ)】・・・釈迦、花をひねる・・・. )にあるのである。
霊鷲山(りょうじゅせん)で説法をされた時、一本の花をひねって、聴衆に見せた。 ただ一人、カーシャパ/迦葉(かしょう)だけは、顔を崩して、ニッコリと微笑んだ。 深く正しい真理を見る眼(/正法眼蔵)、悟りの静かな心(/涅槃妙心)、決まった形 に捉われない本当の姿(/実相無相)という、微妙な真理(/微妙法門)を手に入れた。 外別伝)。 これを今・・・カーシャパ(迦葉)に伝えよう・・・」
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12月 27日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(370) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(277-54) これについて、我が師(/道元禅師の・・・中国大陸/宋時代の師・・・天童如浄)が言われてい る… 「柳は腰帯を装い・・・梅華は腕飾をまとう・・・」 腕飾とは、錦や玉のことではなく、梅華の開くことである。梅華が開くという事は、真 実が伝えられる事である。
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12月 28日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(371) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(278-55) 波斯匿王(はしのくおう/プラセーナジット・・・在位:紀元前6世紀頃、または紀元前5世紀頃の・・・古代インドに 栄えたコーサラ国の王)が…賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ/釈迦の正法を伝える十六羅漢の一人。神通力 が非常に強い人だった様です。その神通力をもてあそんだため、釈迦に叱責を受けたとも )を招いて…食事を さしあげた。 その時、王が尋ねた。 「そなたは、親しく仏にお会いになったとのことだが、それはまことのことか?」
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(372) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(279-56) この問いに対し… 尊者は、手で眉毛を起てて答えた。 我が師(/天童如浄)は…これを讃えて言われた。 「眉毛を立てて問いに答える。親しく仏に見(まみ)えて、たぶらかさない。今は 世界の供養に応え、春は梅の梢にあって、雪を帯びて寒い」
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1月 2日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(373) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(280-57) ことの起りは… 波斯匿王(はしのくおう/プラセーナジット・・・在位:紀元前6世紀頃、または紀元前5世紀頃の・・・古代インドに 栄えたコーサラ国の王)が尊者(びんずるそんじゃ/釈迦の正法を伝える十六羅漢の一人。神通力が非常に強い 人だった様です。その神通力をもてあそんだため、釈迦に叱責を受けたとも )に対し、仏に会ったかを問 うた事にある。 仏に会うとは、眉毛を起て、仏の無言の境地を示す事。例え尊者が全ての修行を終 えた聖者でも、真の聖者でなければ、仏に会ったとは言えない。 (/王の本心は・・・釈尊にお会いしたかと聞いているが・・・禅問答では、仏に合うとは・・・釈尊の悟りの境地を体験 し、その“無門の関”を越えたかと言う事。その境地を体現した者でなければ、釈尊にお会いしても、会ったことにはな らないと言うこと。禅問答は、日常的な会話を超えた所にある。)
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(374) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(281-58) 仏に会わなければ、仏になる事はできない。 仏になる事ができなければ、眉毛を起てて示す事ができない。 釈尊の真の弟子として4段階の修行(/釈尊が在世の頃だが・・・いわゆる、小乗仏教の修行仮定 をさす)を終え、後継者の出現を待つ尊者が、釈尊に会わなかったはずがあろうか。
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1月 4日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(375) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(282-59) ここに言う… 仏に会うとは、単に釈尊に会うことではなく、釈尊の境地に至って釈尊に会うこと。 波斯匿王(はしのくおう/プラセーナジット)がこれを理解したその時、眉毛を起てて答える 良い師に巡り合った。 仏に会うことの真意を、学ぶべきである。
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1月 6日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(376) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(283-60) ここにいう春は… 俗界にあるのでもなく、仏の国にあるのでもなく、梅の梢にあるのである。 どうして、それを知るかと言えば…雪を帯びて寒い梅花の境地を、尊者が眉毛を起 てて示してくれたからである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(377) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(284-61) 我が師(/中国・宋の時代の天童如浄禅師)が言われている。 「もともと、生死というものがあるのではない・・・春は梅花に在りて画図に入 る!」 春を描くのに、柳・梅・桃・李(すもも)を描いてはならない。春そのものを、描くべきであ る。 (“仏に会う”とは・・・自己が仏の境地を覚醒することである。その境地は言葉で表せないので、賓頭盧尊者(びんず るそんじゃ/釈迦の正法を伝える十六羅漢の一人)は、眉毛を立てるという行為によって示された。)
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(378) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(285-62) 柳・梅・桃・李を描くのは…柳・梅・桃・李を描く事であって…春を描く事ではない。春 そのものを、描く事ができないはずはない。 しかし、我が師の他には…インドにも中国にも、春を描いた者はいない。
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1月 8日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(379) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(286-63) 独り我が師(/中国・宋の時代の天童如浄禅師)だけは… 春を描く鋭い筆を具えておられた。 その春とは、画図(/画面)の春である。 春みずから画図に入る。余分な力はいらない。 ただ梅華を使って、春を画図に入れ、春を木に入れる。 鮮(あざや)かな手法である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(380) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(287-64) 我が師は、真理を明らかにすることによって… それを過去、現在、未来の、諸方に集まる先覚者たちに伝えた。 悟りの眼が究め尽くされ…梅華のことが明らかにされたのである。
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1月 9日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(381) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(288-65) 迷いの心が起こって… 梅華は<釈尊の悟りの眼>でないと考えるなら… 他の何ものが<悟りの眼>であるかを考えるべきだ。 梅華の他に悟りを求めるなら、悟りを目前にしつつ、 それを得ることが出来ないであろう。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(382) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(289-66) 既に会っていながら…それに気づいていないからである。 今日は・・・私の今日ではなく・・・仏道の今日である! 今、すぐに…<梅華の悟りの眼>を開きなさい! その他に…<悟りの眼>を求める事は止めよ!
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(383) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(290-67) 我が師(/天童如浄禅師)が言われている… 「歴然として明らかな事には・・・ 梅華の影は何ものをも求めず・・・ 古今より、雨となり雪となる。 古今に寂しく・・・極まりない」 このため、雲となり雨となるのは、梅華の働きである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(384) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(291-68) 雲が流れ、雨が行くのも・・・梅華の姿、梅華の働きである。 古今の時は・・・梅華である。 従って梅華を・・・古今と言うのである。
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1月 10日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(385) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(292-69) 昔…法演禅師(ほうえんぜんじ/ 臨済宗・楊岐派の系統に・・・白雲守端がいて、その門下にいた五祖法演が、法演禅師。5祖/弘忍(/菩提達磨を 初祖とする・・・2祖/慧可、3祖/僧璨(そうさん)、4祖/道信に続く、5祖/弘忍・・・)の開山になる五祖山・真慧 寺(湖北省黄梅県)に住したので、五祖法演の名がある。道元の師/天童如浄が・・・天童山・景徳寺(浙江省寧波 地区)の住職だったので、天童如浄の名がある。ちなみに、道元禅師は永平寺を開山したので永平道元と呼ばれる) が言った。 「北風は雪に和して谿林(けいりん)を振(ふる)う。万物が覆われるとも恨まない。 独り山梅は意気多く、年の末の<寒さに屈しない心>を吐く・・・」 従って、梅華の働きを知らずに、<寒さに屈しない心>を知る事はない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(386) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(293-70) 梅華がその働きによって…<北風に和して・・・雪を降らせる>のである。 私が思うには… <風を引き起こし・・・雪を降らせ・・・歳月に秩序をあらしめ・・・谿林や万物を 在らしめるのは・・・みな梅華の力>…である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(387) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(294-71) 太原(/太原市は山西省の省都。古都の1つで2500年の歴史がある)の孚(ふ)長老が、 <悟りの道>を讃えて、言っている。 「思えば・・・ 悟りを得なかった昔の頃は・・・ 一声の角笛も、一声ながらに悲しかった・・・ 今では、枕に閑夢はなく・・・ 梅華の吹くに、まかせている・・・」
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(388) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(295-72) 孚長老は、もと説教者であったが、夾山(かつさん/潭州夾山霊泉寺)にいた炊事係の僧に 導かれて大悟した。 それは、<梅華が・・・春風を自由自在に・・・吹かせている>…からである。
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