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<正法眼蔵/・・・画餅
(がびょう/ 画に描いたモチ)
1~38 完 > |
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ツイート の
記 録
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7月 11日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(279) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(185-1)
<諸仏が・・・真理を体験する時・・・万物が真理を体験する・・・> 確かに…覚者と万物は表面的に見れば、同一のものではない。しかし、真理を体 験する時、各(おのおの)の体験が、互いに妨げあうことなく実現するのである。
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7月 12日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(280) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(186-2) 全く差別なく実現する。これが、仏道の明白な教えである。 それを…諸仏と万物が同一か、異なっているかという、分別で学んではならない。 そのために…<1つのことに通じれば・・・全てのことに通じる>という。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(281) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(187-3) 1つのことを体験することは…1つのことが、本来具えている姿を奪うことではない。 1つのことを、他のことと対立させることでも、対立をなすことでもない。強いて対立 をなくすことは、こだわることである。
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7月 13日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(282) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(188-4) 体験することが・・・体験することにこだわらない時・・・1つの体験は全ての体 験に通ずる。1つのことを体験するということは・・・そのものになり切ること。 そのものになり切るということは・・・全てのものになり切ること!
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7月 16日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(283) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(189-5) 古仏曰(いわ)く… <画餅飢に充(み)たず>… この言葉を学ぶ修行者達は…諸方からやって来る求道者や、仏弟子をはじめとし て…その名や地位や姿も様々であるが…皆、間に合わせの解答に満足している。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(284) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(190-6) この言葉に、ある者は… 「経典や解説書を学ぶことが、誠の智慧の道ではない。それを画にかいた餅と いう」という。 またある者は… 「小乗、大乗の教学が、悟りの道ではない。それをこのように言う」という。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(285) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(191-7) 凡(およ)そ彼等の言う… 経典による教えが仮のものであり、真実を知るのに役立たないとして、それを <画餅>と呼ぶと考えるのは…大きな誤りである。その様な者達は、仏道を正し く伝えず、覚者の言葉に暗い者達である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(286) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(192-8) この一言に迷うなら…諸仏の言葉も理解していない。 <画餅飢えに充たず>とは… 「諸悪をなさない」 「諸々の善を行う」 「何者かが、ここに現前している」 「常に、そのものを究め尽くしている」 という…解脱の境地を現す。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(287) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(194-9) しばらく、この様に学ぶべきである。<画餅>という言葉を、今迄に見聞した者は 少なく、これを知り及んでいる者は全くいない。その様な者達が、どうして、まことの ことを知っていようか。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(288) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(195-10) 今迄(いままで)に、1人2人の愚者に当たって見た所…彼等はそれを疑おうともせず、 自ら学ぼうともせず、人の話に耳をそばだてようともせず、全く無関心な様子であっ た。(<画餅>とは…ここでは解脱の境地と解する…)
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7月 17日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(289) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(196-11) <画餅>には生滅の相があるだけでなく、不滅の相があることを知れ。餅米を用い て作られる餅は、必ずしも生滅するとも言えず、不滅であるとも言えないが、今はそ れを<画餅>即ち解脱の境地として悟る時である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(290) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(197-12) それが…来たり去ったりするものと考えてはならない… 餅を描く絵具は、山水を描く絵具に等しい。いわゆる山水を描くには、青絵具を用い る。餅を描くには、餅米を用いる。それは、共に解脱の境地を現している。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(291) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(198-13) その用向きは等しく、働きは等しい… 今ここに<画餅>と名づける解脱の有様は、一切のごま餅、菜餅、乳餅、焼餅、き び餅などが、悉(ことごと)く画(え)によって実現する。画も餅も、一切の存在も、異なるも のではない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(292) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(199-14) 従って… 現実の餅はみな<画餅>である。この外に<画餅>を求めるならば、未だに <画餅>にあわず、<画餅>のことを悟らないのである。<画餅>はある時に は実現し、ある時には実現しない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(293) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(200-15) しかし… そうではありながら、それは古今の姿を超えている。生滅の相を超えている。その 様な所に、<画餅>の国土が現れ、成立するのである。 ( 我の解脱が…山水の解脱、世界の解脱を実現している… )
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7月 18日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(294) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(201-16) <飢えを充たさない>という<飢え>は、世間一般にいう飢えではない。腹の中 に一物もない解脱の境地をいう。その様な境地は、<画餅>の解脱の境地とは対 立しない。従って、<画餅>を食べても<飢え>はやまない。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(295) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(202-17) <飢え>に対立する<餅>はなく…<餅>に対立する<飢え>は無いのである から…<飢え>をやめる道理がない。 <飢え>は<飢え>で一切世界を究め尽くしており、<餅>は<餅>で一切世 界を究め尽くしている。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(296) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(203-18) ( <画餅飢に充たず>は、<解脱の境地においては・・・対立はない>と解するのである。対立ということが全く問題 にならないのであるから・・・ “対立を無くす = 飢えをやめる” という、必要が無いのである・・・ )
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(297) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(204-19) 今… 山水を描くには、青絵具を用い、あるいは奇岩怪石、七宝、四宝を用いる。餅を描く にもそれを用いる。人を描くには四大元素を用い、万物を用いる。 仏を描くには、金泥、泥絵具を用いるばかりでなく…
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(298) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(205-20) …仏の三十二相、一茎の草、永遠の修行を用いる。そのようにして、一枚の仏を描 くのであるから、一切の仏は、みな画仏である。その様な仏と<画餅>について、 身をもって学ぶべきである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(299) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(206-21) どちらが、形の無いもの有るものかを…どちらが、物か心かを、身をもって学べ。 この様に学ぶ時…生死の移り変わりは、ことごとく画(え)である。仏の無上の悟り は、画である。存在世界も虚空も画でないものはない。
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7月 19日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(300) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(207-22) 古仏曰く… < 道は成じて白雪が多い・・・画(か)くことのできた山水、数枚が現れる > これは解脱の境地を詠った言葉である。修行の完成を表す言葉である。解脱の境 地を、数枚の青山白雪と名づけて描いている。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(301) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(208-23) 一動一静・・・画でないものはない! 今の理解も画(え)から得られる。仏の十の尊称も三つの力も、一枚の画である。修 行の道も一枚の画である。画が真実でないなら全てが真実でなく…仏法が真実な ら<画餅>も真実である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(302) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(209-24) 雲門匡真大師(うんもん・きょうしん・だいし/雲門文偃(ぶんえん)のこと。雲門宗の開祖)に、ある僧が 訪ねた。 「仏に捉われず、祖師に捉われないとは、どういうことですか?」 師が答えた。 「ごま餅」 この言葉の真意を、静かに思い巡らすべきである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(303) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(210-25) この様な問答が現れるからには…超仏超祖を説く師があり、それを聞かなくても理 解する禅者があり、それを聞いて理解する修行者があるはずである。だからこそ、 この様な勝(すぐ)れた問答がなされるのである。
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7月 21日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(304) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(211-26) ごま餅の問答において、問う者も答える者も、共に<画餅>の境地を現している。 それによって…<仏に捉われない・・・祖師にも捉われない>という言葉があり… <仏にも魔物にも捉われない>という境地が実現する。
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7月 22日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(305) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(212-27) 我が師(/道元禅師の師である、中国・宋時代の天童如浄禅師)が言われている。 「脩竹(しゅうちく)、芭蕉(ばしょう)が画図(がと/画面)に入る」 この言葉の真意は、長いものも短いものも、共に画を学ぶということである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(306) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(213-28) 脩竹とは、長い竹のことである。竹は世界の動きに従って成長するが、同時に、竹 の年月が世界を動かす。その年月の長さを、量り知ることはできない。それが世界 そのものであり、思慮分別することができないのだ。
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7月 23日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(307) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(214-29) 世界の動きは…一切の事物そのものであり、思慮分別そのものであり、解脱の道そ のものであるから…俗世間や小乗の者達の考えとは異なっている。それはいわば、 長い竹の動き、長い竹の年月、長い竹の世界である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(308) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(215-30) 長い竹の一族として諸仏達が存在する。天地宇宙が、長い竹の根・茎・枝・葉である ことを知れ。長い竹が天地宇宙を長く久しいものとし、大海、大山が一切世界を堅牢 にし、禅者の持つ杖や竹片を永遠のものとする。
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7月 24日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(309) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(216-31) 芭蕉は… 万物を、自己の根・茎・枝・葉・花・果・実・色艶としているから、秋風を帯びて、秋風 を解脱している。一片の汚れもなく、清浄そのものである。何ものにも捉(とら)われる ことなく、それぞれに解脱している。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(310) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(217-32) 悟りに至る、時の長短にこだわらないから、時の短さを論ずるには及ばない。解脱 の力によって、万物を自由に働かせているから、春夏秋冬を自己の時としている。 この様な、長い竹や芭蕉の凡(すべ)てが<画>である。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(311) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(218-33) 竹の音を聞いて大悟する者(/『無門関・第5則』の香厳(きょうげん)禅師のこと・・・掃除したゴミを竹藪 に捨て、小石が“カチ”と竹に当たった音で、大悟している。)は<画>である。 それに凡人、聖人の違いがあると疑ってはならない。長い竹あれば短い竹あり、短 い竹あれば長い竹ある。これらがみな<画>であるから、長短の竹が必ず画図に 納まる。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(312) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(219-34) 長い<画>があれば、短い<画>のないはずがない。この道理を学び究めるべ きである。 (★ 解脱の時は、長い修行の者も短い修行の者も、何の隔てもない。長い修行のまま、短い修行のまま・・・その ままに仏である。)
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(313) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(220-35) 一切世界、一切事物は全て<画餅>である。真理は<画>から現れ、仏祖は <画>から生まれる。<画に描いた餅>でなければ、飢えを充す薬はない。 <画に描いた飢え>でなければ、誠の自己に逢(あ)うことはでいない。
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7月 25日 |
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(314) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(221-36) <画>に描いて充すことでなければ、悟りに至る力はない。飢えを充し、飢えを充 さず、飢えないことを充さないということは…<画>に描いた飢えでなければ得る ことはできず、言うことができない、ということである。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(315) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(222-37) 暫(しばら)く、この境地が<画餅>であることを、身をもって学ぶべきである。この教 えを学ぶ時、解脱によって万物を我が物とし、我が万物に従って行く働きができる。 この働きの現前なくば、道を学ぶ力はいまだ現れず。
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(316) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(223-38) その働きを表す悟りの<画>が、今、ここに実現しているのである。
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