Community Space ボスの展望台ボスのTwitter仏道正法眼蔵/画餅

           ボス Twitter =2014年  

        <正法眼蔵/・・・画餅 がびょう/ 画に描いたモチ) 1~38 完
            wpeA5.jpg (38029 バイト)                           

トップページNew Page WaveHot SpotMenu最新のアップロード   担当: ボス= 岡田 健吉 

       ツイート 記 録  house5.114.2.jpg (1340 バイト) 

                 

             上から ・・・下へ   
  7月 11日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(279)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(185-1)

 【 画 餅 】 (がびょう/絵に描いたモチ)        wpeA5.jpg (38029 バイト) 

<諸仏が・・・真理を体験する時・・・万物が真理を体験する・・・>

確かに…覚者万物は表面的に見れば、同一のものではない。しかし、真理

する時、(おのおの)の体験が、互いに妨げあうことなく実現するのである。


  7月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(280)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(186-2)

全く差別なく実現する。これが、仏道明白な教えである。

それを…諸仏万物同一か、異なっているかという、分別で学んではならない。

そのために…<1つのことに通じれば・・・全てのことに通じる>という。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(281)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(187-3)

1つのことを体験することは…1つのことが、本来具えている姿を奪うことではない。

1つのことを、他のことと対立させることでも、対立をなすことでもない。強いて対立

をなくすことは、こだわることである。


  7月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(282)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(188-4)

体験することが・・・体験することにこだわらない時・・・1つの体験は全ての体

験に通ずる。1つのことを体験するということは・・・そのものになり切ること。

そのものになり切るということは・・・全てのものになり切ること!



 













 7月 16日









岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(283)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(189-5)

古仏(いわ)く…

<画餅飢に充(み)たず>

この言葉を学ぶ修行者達は…諸方からやって来る求道者や、仏弟子をはじめとし

て…その名や地位や姿も様々であるが…皆、間に合わせの解答に満足している。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(284)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(190-6)

この言葉に、ある者は…

「経典や解説書を学ぶことが、誠の智慧の道ではない。それを画にかいた餅と

いう」という。

またある者は…

「小乗、大乗の教学が、悟りの道ではない。それをこのように言う」という。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(285)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(191-7)

(およ)そ彼等の言う…

経典による教えが仮のものであり、真実を知るのに役立たないとして、それを

<画餅>と呼ぶと考えるのは…大きな誤りである。その様な者達は、仏道正し

く伝えず覚者の言葉暗い者達である。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(286)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(192-8)

この一言迷うなら…諸仏の言葉も理解していない。

<画餅飢えに充たず>とは…

「諸悪をなさない」

「諸々の善を行う」

「何者かが、ここに現前している」

「常に、そのものを究め尽くしている」

という…解脱の境地を現す。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(287)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(194-9)

しばらく、この様学ぶべきである。<画餅>という言葉を、今迄に見聞した者

少なく、これを知り及んでいる者は全くいない。その様な者達が、どうして、まことの

ことを知っていようか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(288)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(195-10)

今迄(いままで)に、1人2人の愚者に当たって見た所…彼等はそれを疑おうともせず

自ら学ぼうともせず、人の話に耳をそばだてようともせず全く無関心な様子であっ

た。(<画餅>とは…ここでは解脱の境地と解する…)






 
 7月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(289)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(196-11)

<画餅>には生滅の相があるだけでなく、不滅の相があることを知れ。餅米を用い

て作られるは、必ずしも生滅するとも言えず、不滅であるとも言えないが、今はそ

れを<画餅>即ち解脱の境地として悟る時である。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(290)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(197-12)

それが…来たり去ったりするものと考えてはならない…

餅を描く絵具は、山水を描く絵具に等しい。いわゆる山水を描くには、青絵具を用い

る。を描くには、餅米を用いる。それは、共に解脱の境地を現している。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(291)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(198-13)

その用向きは等しく、働きは等しい…

今ここに<画餅>と名づける解脱の有様は、一切のごま餅菜餅乳餅焼餅

び餅などが、悉(ことごと)(え)によって実現する。も、一切の存在も、異なるも

のではない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(292)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(199-14)

従って…

現実の餅はみな<画餅>である。この外に<画餅>を求めるならば、未だに

<画餅>にあわず、<画餅>のことを悟らないのである。<画餅>はある時に

実現し、ある時には実現しない

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(293)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(200-15)

しかし…

そうではありながら、それは古今の姿を超えている。生滅の相を超えている。その

様な所に、<画餅>国土が現れ、成立するのである。

( 我の解脱が…山水の解脱世界の解脱を実現している… )


  7月 18日
 




岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(294)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(201-16)

<飢えを充たさない>という<飢え>は、世間一般にいう飢えではない。腹の中

に一物もない解脱の境地をいう。その様な境地は、<画餅>解脱の境地とは

しない。従って、<画餅>を食べても<飢え>はやまない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(295)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(202-17)

<飢え>対立する<餅>はなく…<餅>対立する<飢え>は無いのである

から…<飢え>をやめる道理がない。

<飢え><飢え>一切世界究め尽くしており、<餅><餅>一切世

究め尽くしている。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(296)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(203-18)

<画餅飢に充たず>は、<解脱の境地においては・・・対立はない>と解するのである。対立ということが全く問題

にならないのであるから・・・ “対立を無くす = 飢えをやめる” という、必要が無いのである・・・ )

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(297)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(204-19)

今…

山水を描くには、青絵具を用い、あるいは奇岩怪石七宝四宝を用いる。を描く

にもそれを用いる。を描くには四大元素を用い、万物を用いる。

を描くには、金泥泥絵具を用いるばかりでなく…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(298)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(205-20)

三十二相一茎の草永遠の修行を用いる。そのようにして、一枚の仏を描

くのであるから、一切の仏は、みな画仏である。その様な仏<画餅>について、

身をもって学ぶべきである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(299)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(206-21)

どちらが、無いもの有るものかを…どちらが、かを、身をもって学べ。

この様に学ぶ時生死の移り変わりは、ことごとく(え)である。無上の悟り

は、である。存在世界虚空でないものはない。


  7月 19日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(300)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(207-22)

古仏曰く…

< 道は成じて白雪が多い・・・画(か)くことのできた山水、数枚が現れる >

これは解脱の境地を詠った言葉である。修行の完成を表す言葉である。解脱の境

を、数枚青山白雪と名づけて描いている。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(301)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(208-23)

一動一静・・・画でないものはない!

今の理解(え)から得られる。十の尊称三つの力も、一枚の画である。

行の道一枚の画である。真実でないなら全てが真実でなく…仏法真実

<画餅>真実である。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(302)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(209-24)

雲門匡真大師(うんもん・きょうしん・だいし/雲門文偃(ぶんえん)のこと。雲門宗の開祖)に、ある

訪ねた。

「仏に捉われず、祖師に捉われないとは、どういうことですか?」

師が答えた。

「ごま餅」

この言葉の真意を、静かに思い巡らすべきである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(303)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(210-25)

この様な問答が現れるからには…超仏超祖を説くがあり、それを聞かなくても

する禅者があり、それを聞いて理解する修行者があるはずである。だからこそ、

この様な(すぐ)れた問答がなされるのである。


  7月 21日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(304)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(211-26)

ごま餅の問答において、問う者答える者も、共に<画餅>境地を現している。

それによって…<仏に捉われない・・・祖師にも捉われない>という言葉があり…

<仏にも魔物にも捉われない>という境地が実現する。


  7月 22日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(305)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(212-27)

我が師(/道元禅師の師である、中国・宋時代の天童如浄禅師)が言われている。

「脩竹(しゅうちく)、芭蕉(ばしょう)が画図(がと/画面)に入る」

この言葉の真意は、長いもの短いものも、共に画を学ぶということである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(306)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(213-28)

脩竹とは、長い竹のことである。世界の動きに従って成長するが、同時に、

の年月世界を動かす。その年月の長さを、量り知ることはできない。それが世界

そのものであり、思慮分別することができないのだ。


  7月 23日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(307)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(214-29)

世界の動きは…一切の事物そのものであり、思慮分別そのものであり、解脱の道そ

のものであるから…俗世間小乗の者達の考えとは異なっている。それはいわば、

長い竹の動き長い竹の年月長い竹の世界である。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(308)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(215-30)

長い竹の一族として諸仏達が存在する。天地宇宙が、長い竹の根・茎・枝・葉である

ことを知れ。長い竹天地宇宙を長く久しいものとし、大海大山一切世界を堅牢

にし、禅者の持つ竹片永遠のものとする。


  7月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(309)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(216-31)

芭蕉は…

万物を、自己根・茎・枝・葉・花・果・実・色艶としているから、秋風を帯びて、秋風

解脱している。一片の汚れもなく、清浄そのものである。何ものにも(とら)われる

ことなく、それぞれに解脱している。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(310)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(217-32)

悟りに至る、時の長短にこだわらないから、時の短さを論ずるには及ばない。解脱

の力によって、万物を自由に働かせているから、春夏秋冬自己の時としている。

この様な、長い竹芭蕉の凡(すべ)てが<画>である。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(311)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(218-33)

竹の音を聞いて大悟する者(/『無門関・第5則』の香厳(きょうげん)禅師のこと・・・掃除したゴミを竹藪

に捨て、小石が“カチ”と竹に当たった音で、大悟している。)<画>である。

それに凡人聖人の違いがあると疑ってはならない。長い竹あれば短い竹あり、

い竹あれば長い竹ある。これらがみな<画>であるから、長短の竹が必ず画図

納まる。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(312)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(219-34)

長い<画>があれば、短い<画>のないはずがない。この道理を学び究めるべ

きである。

(★ 解脱の時は、長い修行の者も短い修行の者も、何の隔てもない。長い修行のまま、短い修行のまま・・・その

ままに仏である。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(313)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(220-35)

一切世界一切事物は全て<画餅>である。真理<画>から現れ、仏祖

<画>から生まれる。<画に描いた餅>でなければ、飢えを充す薬はない。

<画に描いた飢え>でなければ、誠の自己に逢(あ)うことはでいない。


  7月 25日





岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(314)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(221-36)

<画>描いて充すことでなければ、悟りに至る力はない。飢えを充し、飢えを充

さず、飢えないことを充さないということは…<画>描いた飢えでなければ得る

ことはできず、言うことができない、ということである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(315)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(222-37)

(しばら)く、この境地<画餅>であることを、身をもって学ぶべきである。この教

えを学ぶ時解脱によって万物我が物とし、万物に従って行く働きができる。

この働き現前なくば道を学ぶ力はいまだ現れず。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(316)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(223-38)

その働きを表す悟り<画>が、今、ここに実現しているのである。

( 解脱によって、全ての対立から自由になり・・・対立を対立として、生かして行くことができる。)

     画 餅・・・完