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   <正法眼蔵/・・・山水経 山水が仏の教えを説くこと) 1 ~ 84  

                                        

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  2月 5日





 阿修羅/頭部拡大

    
(国宝)

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(195)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(101-1)

★【山水経/・・・山水が仏の教えを説くこと・・・】・・・(1)

今…ここに見られる山水は…諸仏の方々悟った境地を現されている。

なりきっており、になりきっていて、その他の何者でもない

 

   

奈良/興福寺/国宝館・・・ 乾漆八部衆立像/頭部拡大 (阿修羅をのぞく)    (国宝)  

              

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(196)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(102-2)

それは…

あらゆる時を超えた山水であるから、ここに実現している。あらゆる時を超えた

自己であるから、自己であることを解脱している。

( 自然は真理が実現される所であり・・・自己が自己を発見する所である )

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(197)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(103-3)

の働きは、大きくて限りないから…に乗って空を行くものは、必ず山から出てい

に従って進むものは、必ずから解脱している。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(198)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(104-4)

太陽山道楷和尚(どうかい・おしょう/芙蓉道楷・禅師)が、一山たちに示して言った。

「青山(せいざん)は常に運歩し、石女(うまずめ)は夜(よる)(こ)を生む」

の働きに欠けた所は無いから…常に安住し、常に歩むのである。その事を、

詳しく学ぶべきである。

 

  2月 7日  

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(199)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(105-5)

山の歩みは、人の歩みと同じである。たとえ、表面的にはそのように見えなくても、

それを疑ってはならない。ここで道楷和尚(どうかい・おしょう/芙蓉道楷・禅師)の言っている

ことは、仏道根本問題であるから、真剣に学びなさい

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(200)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(106-6)

青山は、歩むことによって安住している。その歩み風よりも速いが、山になりきっ

ている人は、その事に気がつかない山の中には一切世界が開いているが、山に

なりきっている人は、その事に気がつかない


  2月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(201)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(107-7)

見る眼がない者もまた、そのような道理を知ることがなく、見ること聞くこと

ない。もし、山の歩みを疑うならば、自己の歩みも分かっていない。自己の歩み

だ知らず未だ明らかにしていない。

“山の歩み”とは・・・生滅するものの中に、永遠の相を見ること。それに気づいても、気づかなくても・・・人は永遠

の世界/永遠の現在を生きている)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(202)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(108-8)

自己の歩みを知るように、青山の歩みを知るべきである。我々青山を見る時、

青山自己も、生物でも無生物でもなく、両者の間には何の隔たりもない。そのた

め、青山の歩み疑うことが出来ないのである。

( 我が山を見ることによって・・・我が山と一体となる。それを、山が歩くと言い、山が山を見るとも言う・・・)


  2月 10日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(203)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(109-9)

世界全体という立場から、青山を明らかにすべきことを人は知らない真実を知る

ためには、青山の歩み/自己の歩みを調べてみる必要がある。前へ進むばかりで

なく、後ろへ退き歩むことを、調べてみるべきである。

( 仏道においては・・・という立場はとらず・・・無我の立場を説く。無我となるとき、物事は自ずと明らかになる)


  2月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(204)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(110-10)

その歩み休みがあるならば…諸仏祖(しょぶっそ)たちは現れなかったであろう。

の歩み極まりがあるならば、仏の教えは今日まで伝わらなかったであろう。進歩

も休まず退歩も休まない

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(205)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(111-11)

進歩退歩にそむかず…退歩進歩にそむかない。

このことを <山が流れる> といい、 <流れるのは・・・山である> という。

(ここにいう“山”とは・・・1瞬の滞りもない・・・永遠の万物流転の様相である・・・)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(206)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(112-12)

青山自身歩む事を学び、東山自身水上を行く事を学ぶから…山を学ぶ事は、

山が山を学ぶ事

山の姿のまま、自分の事を学ぶ。それを…

「青山が歩む事はない。東山が水上を行く事はない」

…と誹って(そしって/非難して)はならない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(207)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(113-13)

自己の考え足りないから、青山運歩(せいざん・うんぽ)言葉を怪しむ見聞が浅い

から、 <山が流れる> という言葉に驚く

その者達は <水が流れる> という事の真実さえ分からずに…自己浅はかな見

溺れているのである…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(208)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(114-14)

このように…山の働きの全て真理を現している。

には歩みがあり、山の流れがあり、生む時がある。

を学んで、諸仏となることにより…諸仏祖がこの様に、実現しているのであ

る。


  2月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(209)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(115-15)

たとえ…

山は…草木、土石、土塀によって成り立っている

…という見方があっても、それは取り立てて疑ったり迷ったりすべきことではなく…

またそれによって、山の全てが分かるわけではない。


  2月 14日




奈良/興福寺

  東金堂と五重塔





現在の東金堂には薬師三

尊像を中心とする諸仏を安

置する。


岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(210)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(116-16)

また…

<山は宝玉の輝く所である>

…と見る時があっても、そればかりが真実ではない。

また…

<山は諸物が修行する所である>

…という考えがあっても、そのような考えに、執着してはならない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(211)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(117-17)

また…

 <山は・・・仏の不思議な働きを現している>

…という、最も適切な考え方が現れても、真実はそれだけではない。各の考えは、

その立場にもとずくのであって…諸仏祖悟った事とは異なる、狭い考えである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(212)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(118-18)

このように…

 <物> <心> を分けて考えるのは、釈尊戒められた所である。

<心> <本質> 分けて説く事は、諸仏祖求めなかった所である。

<心> <本質> 表面的に見ようとするのは、異教徒の所業である。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(213)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(119-19)

また…

 <言句> にこだわることも、悟りの道ではない。

さて…このような立場超える事がある。それが今ここに言う…

青山が常に歩む <東山が水上を行く>

…ということである。このことを、詳しく学ぶべきである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(214)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(120-20)

<石女(うまずめ)が夜(よる)(こ)を生む>

…とは、石の女子を生む時は、ちょうど全てを一体化してしまう様に、全て

の対立から自由ということ…

には…男石女石非男女石があって…天地の欠けた所を補っているという。


  2月 18日




奈良/興福寺/五重塔

730年/天平2年に、

光明天皇が創建



岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(215)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(121-21)

また…天石地石があるという。これは、俗世間の人の言うことであるが、知る人

(まれ)である。

我々は、この <生児(せいじ/・・・生まれたばかりの子) という言葉真意を、学ぶべき

である。 <生児の・・・時> には、が別々にあるのではない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(216)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(122-22)

を生んで、となることも <生児> であり…となる時にも <生児>

実現することを、学ぶべきである。

(/真実の自分を悟ってみれば・・・それは元からの自分と別のものではない。親も子も1つだと知ることを、“石女が

子を生む ”・・・という。)


  2月 19日





 
    道元禅師

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(217)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(123-23)

雲門匡真大師(うんもん・きょうしん・だいし/雲門文偃(うんもん・ぶんえん)禅師のこと)が言っている。

「東山は水上を行く」

この意味は…全ての山が東山であり、全ての山が水上を行く…ということである。

それにより、九山(きゅうざん/・・・九山八海(くせん・はっかい)とは・・・仏教の世界観でいう、須弥山を順

に取り囲む九つの山と八つの海)スメール山(/須弥山(しゅみせん)・・・古代インドの伝説で、世界の中

心にあったとされる山々)など、全ての山々が実現し、修行し、悟っているのである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(218)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(124-24)

しかし…雲門自身がはたして、東山について、そのような理解から解脱しているか

どうかは分からない。

今…宋の国には、浅はかな者達多く群をなしており、少数の真実者によって、

退することができない。

(/道元が入宋した頃...中国の仏教界全体が沈滞期に入っていた。禅宗のみは、隋・唐の黎明期・隆盛期から、

“五家七宗”といった流派に分かれ繁栄していた。しかし世俗化の波は、道元が訪れた天童山にも浸透していた。

道元は、日本から同行した師/明全とも別れ、天童山を去って諸山遊歴に出る。

そして、それにも失望した頃・・・天童山に新しい住持として如浄が就任したうわさを耳にし、帰山する。以後、如浄

のもとで坐禅弁道に励み、大悟した・・・)


  2月 20日





       黄檗希運

      (おうばく けうん)






    臨済義玄

  
(りんざいぎげん)

       臨済宗の開祖

宗風は馬祖道一に始まる

禅風を究極まで推し進め、

中国禅宗史の頂点を極め

た。

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(219)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(125-25)

彼らは言う…

「【東山水上行(とうざん・すいじょうこう)の公案】や、南泉(/南泉普願・・・馬祖道一に師事)

【鎌の公案(/『葛藤集』にある公案・・・江戸時代に妙心寺によってまとめられた公案集/二八二則)】は、

もともと理解できない。

何故なら、全て思慮によって理解できる語話は、禅の語話ではない。思慮に

よって理解できないものこそ、先覚者の語話である」…と。

 

【鎌の公案】

  ある僧が、南泉の名声をたより、南泉の住む庵を訪ねて来たが、山の中で迷ってしまった。

すると、丁度その時、南泉自身が鎌で草を刈っていた。僧は南泉とは気づかず、彼に南泉の

庵への道を聞いた。

「南泉さんへの道は、どっちに向かって行けばいいのでしょうか?」

  すると、当の南泉が、鎌をひねるように持ち上げて、答えた。

「この私の鎌は、三十銭で買ったものです」

「私は、鎌のことを聞いているのではありません。南泉への道は、どっちに向かったらよいか、

訊ねているのです」

  南泉が言った。

「私が使って見て、ずいぶん使いやすく、気持ちよく切れますよ」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(220)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(126-26)

従って…

黄檗(/黄檗希運(おうばく けうん)・・・臨斉義玄の師)痛棒(/痛烈な打撃。また、座禅のときに、師が心の

定まらない者を打ちこらすのに用いる棒)臨済(/黄檗希運に師事し、いわゆる黄檗三打の機縁で大悟)

(/(怒鳴ること)・・・を多用する峻烈な禅風)は、理解することができず…思慮によってはかり

知ることができないから…あらゆる時を超えた大悟である…というのである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(221)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(127-27)

そして…

「先覚者が人を導く手段として、はからいを絶つ言葉を用いたが、それらの言

葉は理解できない」…と言う。

そのように言う者は…(いま)だ正しい師に逢わず学ぶ力を持たない取るに足

りない者達である。


  2月 21日




    妙心寺

京都市/右京区花園にあ

る臨済宗妙心寺派大本山

の寺院。


【鎌の公案】は、

江戸時代に妙心寺によって

まとめられた公案集/『葛

藤集』にあるという。


岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(222)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(128-28)

宋の国には…二、三百年このかた、この様な悪者達が多い。哀しむべきことである。

正しい仏道が、すたれてしまっているのである。彼等の考えは、小乗の者に及ばず、

異教徒よりも愚かである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(223)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(129-29)

彼等俗人でもなく僧侶でもなく、人間でもなく天人でもなく、仏道を学んでいる動

たちよりも愚かである。

彼等理解できないというのは、彼等ばかりが理解できないのであって、諸仏祖

そうではない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(224)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(130-30)

自分達理解できないからといって、諸仏祖理解した所を、見過ごしにしてはな

らない。もし、理解することができないならば、彼等の…

「理解できない」

…という理解も、正しくないはずである。


  2月 22日




  道元禅師/永平道元

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(225)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(131-31)

そのような者達が、宋の国の諸方に多い。が直に見聞きしてきたことで、哀れむ

べきである。彼等は、先覚者の言葉思慮ある言葉であることを知らず、そのよう

言葉の背後にある、思慮を超えることを知らない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(226)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(132-32)

宋の国にいた時…彼等笑ったが、彼等何も言えず1語も答えなかった。彼等

の言う…

「理解ができない」

…という考えは、(よこしま)な考えに過ぎない。真実の師が無かったとはいえ、そ

れは異端者の考えである。


  2月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(227)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(133-33)

<東山が水上を行く> という言葉が…

諸仏悟った真実であるという事を、知るべきである。

諸水東山の麓に現れるから、諸山雲に乗り天を歩む諸水の上にあるのは

諸山であり、登りも下りも、共に水上を行く


  5月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(228)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(134-34)

諸山の爪先は諸水を歩み、諸水を躍らせるから、その歩みは自由自在修行

を実現する。

<山が水上を行く>とは…我が解脱していると言うこと。そのことが分かれば、

先覚者の境地に到達する…)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(229)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(135-35)

強弱湿乾動静冷暖有無といった差別を超えている。固まれば金剛石

りも硬く、融ければ乳水よりも柔らかく、誰も破ることができない。従って、が具え

現している性質を、疑うことはできない


  5月 27日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(230)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(136-36)

我々はしばらく、諸方をありのままに見ることを学ぶべきである。人間天人

学ぶ時ばかりが、学ぶ時ではない。を見て、を学ぶことがある。

悟るのであり、のことを説いている。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(231)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(137-37)

我々はそのようにして、自己自己に会う道を実現すべきである。他者他者を学

び究め、それを越えて行くことを学ぶべきである。


  5月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(232)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(138-38)

山水の見方は、見るものの種類によって様々に異なる。ある経典によれば、我々

と呼んでいるものが、天人たちには玉飾りに見えるという。では天人たちは、我々

が何と思っているものを、とするのであろうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(233)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(139-39)

我々は、天人たちが玉飾りと思っているものをと考える。また天人たちは、

しい花と見るというが、として用いるわけではない。餓鬼猛火と見、濃血

見る。竜魚宮殿楼閣宝玉と見る。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(234)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(140-40)

あるものは…樹林土塀と見る。あるいは、悟りの本質と見、真実の人体と見、

姿と見る。そして…人間は、それをと見る。

はこのように、それぞれの立場によって、生かしたり殺したりされる。


  5月 29日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(235)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(141-41)

諸類によって、見方が同じでないことを考えてみるべきである。1つのものを見るに、

見方様々にあるのか。様々にあるものを、我々1つのものと見誤っているのか。

このことを、繰(くり)返し考えてみるべきである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(236)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(142-42)

このように…修行悟りの道も、1つ2つではない。学び究めるべき所が、様々

あることを理解しなさい。

( 同じものでも、見る立場が異なれば別のものに見えることを知り、広い視野で学ぶべきである…)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(237)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(143-43)

例え…諸類様々に見えるとしても、そのものはなく、諸類共通もない

ようだ。しかしは、我々心身により生じたものでなく、行いにより生じたものでも

なく、自己他者により生じたものでもない。


  5月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(238)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(144-44)

でありながら、であることを解脱している。は、物質的要素色彩的要

感覚的要素解脱しつつ、物質として実現している。ゆえに、この世界が何に

よって成立しているか、明らかにするのは難しい。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(239)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(145-45)

世界円盤状の物質の上に乗っていると考えるのは、主観的にも客観的にも真実

でなく、あさはかな論にすぎない。何者かに頼らなけれは、安住することができない

と思うから、そのように考えるのである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(240)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(146-46)

釈尊が言われている。

<全ての物事は・・・ことごとく解脱していて・・・留まるところがない>

解脱していて…束縛されることが無いとはいえ、全ての物事が、それぞれのものに

なりきっていることを知るべきである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(241)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(147-47)

ところが、人間を見て…<水は流れて行くものである>と見るばかりである。

の流れには様々あるのであるから…そのように見るのは、人間部分的な見方

に過ぎない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(242)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(148-48)

は…いわゆるを流れ、を流れ、上に向かって流れ、下に向かって流れる。

ある時には、河の一隅を流れ…ある時には、深い淵(ふち)を流れる。上っては雲

なり、下っては淵となる。


  5月 31日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(243)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(149-49)

(しゅう/紀元前の中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。)文子(もんし)が言っている。

<水の道は・・・天に昇っては雨露となり・・・地に下っては江河となる・・・>

俗世間の人でさえ、この様に言っている。仏の子孫と称す者たちは、俗世間の者

よりも愚かなことを、恥ずべきである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(244)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(150-50)

この言葉の意味は…水の道が知っているかどうかにかかわらず、とし

て働いていると言うこと…

文子<天に昇って雨露となる・・・>と言う様に、はどの様な上空上方へ昇っ

ても、雨露となることを知れ…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(245)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(151-51)

雨露は、行く世界によって様々な形をとる。至らない処があるというのは小乗

(/小乗仏教)の教えである。それとも仏道以外誤った教えである。火焔(かえん)

の内にも至り、思慮分別の内にも至り、仏の本質の内にも至る。


  6月 1日




  玄奘三蔵
の像

  
(げんじょう・さんぞう)


<東京国立博物館  蔵

 鎌倉時代  重文 >


尊称:三蔵法師

宗派:法相宗

寺院:大慈恩寺

著作:
『大唐西域記』ほか、

    仏教典多数



唐代の中国の訳経僧。玄

奘は戒名であり、俗名は陳

(ちんい)。尊称は三蔵法

師。鳩摩羅什
(くまらじゅう)

と共に
二大訳聖。真諦と不

空金剛を含めて
四大訳経

とも呼ばれる。



629年に陸路でインドに向

かい、巡礼や仏教研究を行

って645年に経典657部

や仏像などを持って帰還。



以後、翻訳作業で従来の

誤りを正し、法相宗の開祖

となった。



また、インドへの旅を地誌

『大唐西域記』として著し、

これが後に伝奇小説/
『西

遊記』
の基ともなった。







  
鳩摩羅什 の像

 
 (くまらじゅう・・・

 サンスクリットでは

   ・・・クマーラジーバ)


(新疆ウイグル自治区/キ

ジル石窟の入り口前広場

に、最近建てられた鳩摩羅

什の像)



新疆ウイグル自治区クチャ

県の西域僧。



後秦の時代に長安に来て

約300巻の仏典を漢訳し、

仏教普及に貢献した訳経

僧。



最初の三蔵法師。後に玄

奘など、多くの三蔵が現れ

た。後の玄奘と共に二大訳

聖と言われる。




岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(246)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(152-52)

また文子が…<地に下って江河となる>と言っている様に…に下る時、

江河となり、江河の1滴がよく賢人になることを知るべきである。凡庸(ぼんよう)

もの達は、は必ず、江河海川にあると思っている。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(247)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(153-53)

しかし、そうではない…

の中にも、江河があるのである。従って、江河でない処にもはあるのであって、

に下る時、江河を形づくるに過ぎない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(248)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(154-54)

また…

<水が江河をなしているのであるから・・・水の中に世界のあるはずがなく・・・

仏の国のあるはずがない・・・>

…と考えてはならない。1滴の水の中にも、無限に広い仏国土が実現するのである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(249)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(155-55)

従って、仏の国の中にがあるとも言えず、の中に仏の国があるとも言えない。

時間存在のあり方に関わりなく、としての真実を実現しているのである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(250)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(156-56)

諸仏祖の行く処に、は必ず行き、水の行く処に、諸仏祖が必ず現れるのである。

そのため諸仏祖たちは、必ずを、自己の身心として学んできたのである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(251)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(157-57)

従って<水が上に昇らない>という言葉は、仏道の内外の典籍にない。尤(もっと)

もあるの中に、<火風は上に昇り・・・水火は下にくだる・・・>という1節があ

る。ここにいう<上下>という言葉は、さらに検討する必要がある。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(252)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(158-58)

それは、仏道の上での上下である。いわゆる、行く処を、仮にとするの

である。として初めから定まっている処に、が行くのではない。同じ様にし

て、行く処を仮にとするのである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(253)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(159-59)

存在世界に、初めから、上下四方差別があるのではない。物質の働きを基準と

して、方角のある世界を考えるのである。天界は上地獄は下にあるのではない。

地獄一切世界にあり、天界一切世界にある。


  6月 2日



  龍 樹

(りゅうじゅ/・・・

サンスクリットのナーガール

ジュナの漢訳名)




頭上にナーガ(/インド神話

に起源を持つ、蛇の精霊あ

るいは蛇神)
をいだく龍樹



尊称: 龍樹菩薩、龍樹大士

生地: インド

没地: インド /2世紀に生

まれたインド仏教の僧



大乗仏教中観派の祖であ

り、日本では、八宗の祖師

と称される。

真言宗では、真言八祖の1

人であり、浄土真宗の七高

僧の第一祖とされ龍樹菩

薩、龍樹大士と尊称。

密教系の仏教では、龍猛

(りゅうみょう)と呼ばれるこ

ともある。



南インドのビダルバの出身

のバラモンと伝えられ、幼

い頃から多くの学問に通じ

た。サータヴァーハナ朝の

保護の下でセイロン、カシミ

ール、ガンダーラ、中国など

からの僧侶のために院を設

けた。この地(古都ハイデラ

バードの東 70 km)は後に

ナーガールジュナ・コーンダ

(丘)と呼ばれる。



釈尊が生まれたのは、紀元

前5世紀頃
(/孔子がいた

のもこの頃・・・紀元0年が

キリストの誕生)
だが...

龍樹が生まれた2世紀頃に

は、大乗仏教が勃興してい

て、この運動を体系化した

ともいわれる。

ことに大乗仏教の基盤とな

『般若経』で強調された

「空」を、無自性に基礎を置

いた「空」であると論じて釈

迦の縁起を説明し、後の大

乗系仏教全般に決定的影

響を与える。

このことにより龍樹は大乗

八宗の祖として仰がれてい

る。



彼の教えは、鳩摩羅什によ

って中国に伝えられ、三論

宗が成立。

また、シャーンタラクシタに

よってチベットに伝えられ、

ツォンカパを頂点とするチベ

ット仏教教学の中核とな

る。

8世紀以降のインド密教に

おいても、龍樹作とされる

『五次第』などの多数の文

献が著された。

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(254)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(160-60)

ところが、竜魚宮殿と見る時には、ちょうどがこの世の宮殿を見る時の様

に、宮殿が流れるとは思わないであろう。もし傍観者がいて、<お前が宮殿と見て

いるものは・・・実は流水なのだ・・・>と言えば…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(255)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(161-61)

我々が今<山が流れる>と聞いて驚くように、竜魚は忽(たちま)驚き疑うであ

ろう。しかし中には、<宮殿楼閣の欄干や柱が・・・流水ということもあり得る>

と、理解する竜魚もあろう。この道理を思い巡らすべきである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(256)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(162-62)

我々はこの様にして、対立した見方を超えることを学ばねばならない。それでなけ

れば凡夫身心解脱することができず、諸仏祖国土凡夫国土凡夫

殿を、正しく理解することができない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(257)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(163-63)

人間海の中のもの、河の中のものがとを知っているが、竜魚その他のもの

が、どの様なものをとして用いるかを知らない。自分と考えるものを、どの類

もみなとして用いると、愚かに決めてはならない。

 

 


  6月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(258)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(164-64)

今、仏道を学ぶ者がを学ぶ時…人間の考えだけに止まってはならない。仏道の

でのを学ぶべきである。諸仏祖が自由自在に用いるを、どの様に見れば良

いかを学べ先覚者の境地に、が有るか無いかを学べ


  6月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(259)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(165-65)

は常に聖人達住居(すまい)である。賢人聖人も共に住居とし、身心

とする。賢人聖人によって真実の姿が現れるのである。

には多くの聖賢が集まるが、に入って誰も、その一人にも会ったことがない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(260)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(166-66)

ただ働き実現しているばかり…彼等に入った形跡は残っていない。

世間からを眺める時と、山の中に会う時では、山の姿は遥かに異なる。

が流れるとは、水が流れないという、竜魚と同じではない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(261)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(167-67)

人間天神は、それぞれの世界に安住しており、それを他類が疑ったり疑わなかっ

たりする。

そこで我々は、<山が流れる>という言葉を諸仏祖に学ぶべきである。徒らに、

疑いにまかせておいてはならない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(262)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(168-68)

同じことについて、一方流れると言い、一方流れないと言う。ある時流れる

と言い、ある時流れないと言う。

このコトを学ばなければ…仏の教えを学んだとは言えない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(263)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(169-69)

諸仏祖が言う…

<焦熱地獄へ行きたくなくば、仏の教えを謗(そし/・・・謗る=人を悪くいう。非難する)って

はならない>

この言葉を身心銘記(めいき/しっかりと、心に刻み込んで忘れないこと)しなさい。身心内外

銘記しなさい。形の無い所にも有る所にも銘記しなさい。木・石・田・里にも銘記

なさい。


  6月 29日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(264)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(170-70)

もともと…

国家に属しているとはいえ、愛する人に属している。がその(あるじ)

を愛する時、聖賢高徳の人は必ずに入る。聖賢に住む時、彼等

属するから、樹石繁茂し、鳥獣はすぐれている。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(265)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(171-71)

それは…

聖賢たちが彼等を及ぼすからである。賢人聖人を好むことを、知るべきで

ある。帝王たちが、しばしば行幸(ぎょうこう/天皇が出かけること。行き先が2か所以上の時は

巡幸という〕)して、賢人を拝し、聖人を拝して教えを乞うたことは、古今の誉れた事実

である。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(266)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(172-72)

その様な時には…

師礼をもって敬い、世間のしきたりに従わない。帝の権威が、賢人に及ぶ

ことは全く無いのである。たちは、俗界から離れていることを、知っていたに

違いない。


  6月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(267)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(173-73)

黄帝(こうてい/神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる)が、

峒山(こうどうざん)広成(こうせい/広成子は・・・古代の仙人で、崆峒山の石の部屋で暮らしていた。彼が

千二百歳の時に黄帝が至上の道の要旨について尋ねてきた)を訪ねた昔…を敬ってで進

み、づいてを問うた。

また釈尊は…かつて父王(/浄飯王(じょうぼんおう)王宮を出てに入られた。しかし

父王を恨まず、にあって王子釈尊導いた者達を怪しまなかった。


  7月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(268)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(174-74)

釈尊は、12年の修行期間を殆(ほとん)で過され、悟りを開かれたのも、におい

てである。転輪王(てんりんおう/古代インドの伝説上の理想的国王の様な力を持った父王(/浄飯

(じょうぼんおう)ですら、に対して無理強いすることはなかったのである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(269)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(175-75)

人間界のものでなく、天界のものでもないことを知れ。人間の推し量りによって

を考えてはならない。人間の狭い考えに促されさえしなければ、誰もの流れる

ことや、の流れないことを、疑わないであろう。


  7月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(270)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(176-76)

また…賢人聖人達に住むこともある。

を釣ることもあり、を釣ることもあり、を釣ることもある。水中誉た趣

(ほまれたおもむき)である。

さらに…自己を釣り、釣ることを釣り…釣りに釣られ、に釣られることもあろう。


  7月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(271)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(177-77)

昔…徳誠和尚(/急に薬山惟儼禅師の寺を離れて、川の畔に住んだ事跡がある。華亭江という川の畔でそこ

を通りかかる賢人・聖人と会う事を目的としたのである。)が、武宗(ぶそう/唐朝の第18代皇帝。道教に

傾斜するあまり“会昌の廃仏”と称される廃仏令を出している。)弾圧にあう。慌(あわただ)しく薬山(や

くざん/薬山惟儼禅師の住した、湖南省岳州府にある薬山。薬山は芍薬(しゃくやく)山とも呼ばれる。 山中に芍薬

が多かった。)を離れ、華亭江(かていこう)に舟を浮かべ住んでいた時、後に華亭江の賢

と呼ばれた爽山(かつさん)を弟子とした。これこそ、魚を釣ること、人を釣ること、

を釣ることではなかろうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(272)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(178-78)

爽山(かつさん)徳誠に会うことができたのは、自分を捨てて徳誠に学んだから

である。徳誠爽山に接したということは、まことの自己に会ったということで

ある。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(273)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(179-79)

世界の中にがあるばかりでなく、水の中にも世界がある。雲の中にも、自己の世

がある。風の中にも、火の中にも、地の中にも、存在世界の中にも、一茎の草の

にも、一本の杖の中にも、自己の世界がある。


  7月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(274)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(180-80)

そして…

自己の世界がある所には、必ず諸仏祖の世界がある。そのことを、よくよく、学ぶ

べきである。

(★ 解脱者の立場から見れば・・・世界中の全てのものが・・・等しく解脱者の境地にある )

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(275)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(181-81)

従って水は…

真実を悟ったが見た宮殿の様なもので、流れ去るばかりではない。流れる

(ひと)り決めするのは、(そし)ことである。何故ならその様な者は、立場を

変えれば、流れないと決めるからである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(276)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(182-82)

しかし…

は…ありのままの水なのである。水は水なのであって、流れではない…

このようにして…一掬(ひとすく)いの水の、流れることや流れないことを学び究める時

全ての物事究極が、たちまち理解されるのである。

 

  7月 10日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(277)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(183-83)

には…

宝の中に隠れているがあり、沢の中に隠れているがあり、空の中に隠れてい

があり、山の中に隠れているがあり…さらには、隠れることの中に隠れてい

があることを、学びなさい。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(278)

《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(184-84)

古仏曰く・・・

<山は山であり・・・水は水である>

真意は…はただのではなく… 解脱者の見た山!

そのを、身をもって学ぶべきである。学ぶとは自己となって学ぶことであ

り、その山水賢人聖人となる。

   山水経・・・完