『あずきちゃん』感想 第43話「いじっぱり! ジダマv.s.おばあちゃん」

最終更新日: 2002/11/30


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 「いつもオーバー・オール姿のジダマの絵を見たとき、彼女が大泣きする話と、スカートをはく話を絶対に書こうと思い、両方とも実現した。」 (WEBアニメスタイル) と書かれているとおり、この話は雪室氏が強く書きたいと思って書いた話なのです。 しかし、この一文を読んだとき、ボクはちょっと不思議な感じがしました。

 確かに、これら2つのの話は感動的なラストシーンに向かって登場人物の気持ちが収束されていく、すばらしい作品なのです。 おそらく、雪室氏は書きたいと思ったラストシーンから糸をたぐるように、このストーリーを後から組み立てていったのではないでしょうか。 こういう帰納的な方法で脚本家は話を作るのかと、ボクはまず不思議に思ったのです。 そして、同時にもうひとつ不思議に思ったことは、ラストシーンそのものが書きたかった対象であるということです。 この2つの話は特に、ジダマの人間関係がテーマになった話だと思っていたのに、実は立脚するところは単に感動的なラストシーンだっとということにです。

 よく考えてみると、確かに雪室氏の脚本はテーマ主導型ではないのです。 イデオロギーとか、思想とか、説教とか、そういうものとは別な視点から作品を書いているということがよくわかります。 「幸せになりなさい」「仲良くしなさい」「差別はいけない」「人を憎んではいけません」「愛がすべてさ」など、現代日本のマスメディア作品は人間賛美の説教にあふれている。 そんな現代日本文化(?)がボクは実は大キライである。 雪室氏の作品はこういった思想やテーマとは一線を画しているのに、一切説教くさくなることなく、見る人の心にこういった同じような感情を呼び起こします。 それはきっと、「テーマ」が主体ではないからこそ、できることなのではないかと思うのです。 ひとつのラストシーンに向かって、最もあるべきストーリーを構築するというシンプルな思想から作られた作品だからこそ、ボクのようなひねくれものの心を動かしてしまうのではないかと思うのです。



 さて、この第43話のストーリーも、非常に込み入っている。 ジダマのおばあちゃんの家出というひとつのテーマではありながら、ジダマ、ジダマのおばあちゃん、あずき達という三者の行動が独立して進行していく。 しかも、ジダマは最後まで自分の気持ちを隠しながら動き回り、勇之助はジダマのおばあちゃんの口止めがあり真実を話せない。 ジダマのおばあちゃんにいたっては、画面に出てくることさえない。(笑)

 こうしてみんなの気持ちと行動が、見ている側には途切れ途切れに、平行して進行しているのである。 そして、この別々に描かれた平行線の間を結ぶのが、全く関係のなさそうな、満塁軒のチャーシューワンタンメンであり、自動車教習所であったりするのです。 これを25分番組に収めちゃうってのは、まさにウルトラC級のテクニックと言えるのではないかと思うのですよ。

 こんな気合の入った脚本って、自分は雪室氏のものしか知らないのです。アニメでも、ドラマでも、映画でも。 正直言って、雪室氏の脚本でも、ここまで込み入ったストーリー構成は『あずきちゃん』以外ではなかなか見られないと思います。 『あずきちゃん』はやはり特別なのです。


 そして、ジダマの大泣きするラストシーンもジダマの声だけが、おばあちゃんの隠れ家の中から聞こえてくるという演出です。 これは自分の気持ちを押し殺してきたジダマの大泣きするシーンを、直接描いてしまうと、作品そのものが安っぽくなってしまうという判断であるのではないでしょうか。 おそらく、脚本の段階からジダマの姿を出さないことは決まっていたと思います。 ジダマのおばあちゃんの姿が出せないという制約もあったとは思うけど、決して作画枚数を減らそうなんていう演出でないことは、明らかだと思います。 でも、結局、当初雪室氏が書きたかったジダマの大泣きシーンそのものは映像にならなかったのですね。(^^;

 それと、このシーンって声優さんを相当信頼していないとできない演出ですよね。最も重要なシーンを作画抜きで見せなければならないのですからね。 ジダマ役の松本梨香さんが、みごとに期待に応えているのは間違いないでしょう。 あずきちゃんが思わずもらい泣きをしてしまっていますが、しかたないと思います。ボクも毎回もらっちゃいますし。(^^;

 そして、この話もビデオ化では抜かれてしまった話なんですよね。くやしいです!

★これは名作★



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