多聞寺  (新規;2014年4月30日)

隅田川七福神;毘沙門天(多聞寺) → 寿老神(白鬚神社)

向島、隅田の桜の頃に訪れた際に、立ち寄ることができなかった多聞寺を訪れた。
東武伊勢崎線(現在は、スカイツリーラインと呼ぶ)の鐘ヶ淵駅から徒歩でゆっくり歩いて10分程度のところに所在しているお寺である。鐘ヶ淵駅の西側の改 札口を出ると幾つかの道路というか路地が有って、真ん中の細めの路地を道なりに進むと小学校脇に出るのですが、そのままさらに進むと突き当りに出る。そこ を右に進むと東武線のレールに沿って道が有って、しばらく歩くと多聞寺への案内表示を発見、左に折れて進めば多聞寺の正面に至る。道は細く、区画整理はな されていない。昔からの家が建て込んだ町である。戦前、戦後直後まで遡るまで古くないが、昭和30年代、40年代の雰囲気を感じ、いかにも東京下町、しか も、川向うの墨田区、向島、寺島界隈といったところであろう。
多聞寺の山門は茅で葺かれていて、めずらしいのだそうだ。山門をくぐると、六地蔵や平和観音像が有って、ご本尊は毘沙門天様だそうで、毘沙門天像は弘法大 師作と伝えられているそうだ。鎌倉時代の特徴を示す総高50センチの木立像と説明資料にある。


 多聞寺はその昔、墨田堤の外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作 と伝えられる。
 毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反 面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の 理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。

 引用;多門寺の案内版 より

隅田川七福神のお寺で、毘沙門天が祀られている。

多聞寺山門多聞寺山門(墨田区指定文化財)
多聞寺の山門は江戸中期に造られた区内最古の建造物です。
切妻造の四脚門で、現在では珍しくなった茅葺の屋根をもちます。全体的には簡素な和様の造りで、控柱などに禅宗様の手法も見られます。虹梁・木鼻に刻まれ た線の太さや深さ、素朴な文様は十八世紀を降らない建造を感じさせます。
 慶安二年(一六四九)に建立された山門ですがその後焼失しました。過去帳には「享和三亥年二月西の上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裏、焼失四棟也、表 門ハ不焼」とあり、この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和三年(一八〇三)までに再建されていたことになります。
 墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきました。こうした中で、多聞寺山門が現存することは、貴重であり、周辺の意匠との関連や相違を検討する うえでも重要な建造物といえます。

平成十七年三月
墨田区教育委員会

引用;多聞寺山門の説明版より



多聞寺正面多聞寺本堂。



















多聞寺全景多聞寺全景
 

















六地蔵六地蔵坐像
(墨田区登録文化財)

 この六地蔵像は総高150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、ニ段目は方形の台石、三段目は蓮台、その上に、それぞれ六十セン チの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持物不明の半跏像、合掌して いる坐像の順に並んでいます。
 欠損や修復の跡がみられますが、僧覚誉理慶[そうがくよりけい](利慶[りけい])が領主となり、七年間にわたって墨田村内の地蔵講結衆の二世安楽を 願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます。
 隅田村地蔵講中の数年間にわたる作業行為を知り得る、貴重な資料といえます。
 六地蔵の製作年代は右から、正徳三年(一七一三)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年二月吉祥日、享保元年(一七一六)九月吉祥 日、同三年十月日と刻まれています。
平成四年三月
墨田区

引用;多聞寺境内の墨田区の案内板 より






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