白鬚東公園と隅田宿跡

隅田川の東岸、白髭橋と水神大橋の間のエリアは防災エリアとして再開発された場所で、高層団地が屏風の様に建設されていて、隅田川と団地建物の間が白鬚東 公園となっている。
この場所は、下記の墨田区教育委員会の案内板によれば、その昔、源頼朝ゆかりの所であり、隅田川を渡るに適した場所として、また舟運の要衝でもあったらし い。


白鬚東公園&隅田宿跡_銀杏の紅葉白鬚東公園&隅田宿跡_銀 杏の紅葉

白鬚公園は、団地と首都高に挟まれていて、趣きの無い公園かと思っていたが、訪れてみると車の音は聞こえるがよく世話されていて(都立公園なので?)、相 反して良い公園であった。





















白鬚東公園&隅田宿跡_銀杏の紅葉2白鬚東公園&隅田宿跡_銀 杏の紅葉2

銀杏は神社に植えられている樹木であるが、確か、防火機能が有るので昔から植えられて来たと聞かされたことがある。こちらは、防災エリアなので銀杏が多く 植えられているのか?















白鬚東公園&隅田宿跡_纏(まとい)のモニュメント白鬚東公園&隅田宿跡_纏 (まとい)のモニュメント


















隅田宿跡案内板(墨田区教育委員会)隅田宿跡案内板(墨田区教 育委員会)















以下、案内板の内容
(墨田区教育委員会、案内板 より 全文引用)

隅田宿(すだのしゅく)跡あと

現在地 墨田区堤通二丁目二番 都立白鬚公園

 当地は古東海道の渡河(とか)地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
 隅田宿は、治承(じしょう)四年(一一八〇)に源頼朝が布陣したと伝わる宿(しゅく)で(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)、元来は江戸氏など中世武士団の 軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊(ふじわらみつとし)が詠んだ という十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています。(『夫木和歌抄』(ふぼくわかしょう))。
 また、室町時代成立の『義経記(ぎけいき)』には、「墨田の渡り両所」と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえ ます。

 対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考に なります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。

 なお、人買にさらわれた梅若丸(うめわかまる)とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業(ざいごう)深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家 伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。

  平成二十五年三月

             墨田区教育委員会



白鬚東公園&隅田宿跡、落葉した桜白鬚東公園&隅田宿跡、落 葉した桜

左側には、隅田川神社があり、さらにその向こうは首都高向島線の高架が見える。
そして、さらには隅田川が静かに流れている。左に下れば白鬚橋、右に上れば水神大橋である。
隅田宿の時代は、隅田の岸はコンクリートで護岸などされておらず、自然の岸辺であったろう。

残念ながら晩秋の桜の木々達の姿なので、桜の葉は紅く染まっていが、半年後の春には是非桜花をまとった姿を観に再訪したい。












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