梅若伝説/木母寺/梅若塚
(2014年1月5日更新)

隅田川旧跡 梅若塚 入口
東白鬚公園側の入口。門の向こうに梅若山王大権現の建物をスッポリ収容するガラス張りの建物が見える。
(東側からの写真)
隅田川旧跡 梅若塚 入口の石碑
入口に、石碑が立てられている。
「隅田川旧跡 梅若塚」とある。

梅若山王大権現

伝説というのは、そのまま全てが事実ではないにしても、当時の何らかの事実が含まれてひとつのストーリーとして創作も織り込まれてきた のでしょう。

梅若伝説では、当時の上位層の権力闘争、都とその周辺の社会構造や治安状況を踏まえた上での、母子や一族の愛、また都から遠く離れた東 国の人々の心 の優しさといったものを描き、亡くなった者を供養しつつ、その時代時代の教えとされてきたのでしょう。



梅若山王大権現 正面
南側が正面。近寄ると美しく高貴な像が三体いらっしゃる。
梅若山王大権現 全体
梅若山王大権現の建屋の全体。左側に塚が存する。
[梅若山王大権現]
梅若塚
塚を正面から見せていただいた。
左側に植えられているのは柳であろうか。
梅若塚 ネットを検索しますと、隅田川の西岸が本来の場所だろうとの情報が有りますが、伝説の本質を考えますと、東岸、西岸のどちらでもOKと し、隅田川の 「ほとり」とすればよいのでしょう。

梅若伝説ゆかりの地域・スポットを訪れて、供養の気持ちをあらたにするのもよいと思います。
[梅若塚]


梅若塚の沿革 梅若塚の沿革
 「たずね来て問はばこたえよ都鳥
すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で
名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」
の文学的旧跡、また江戸時代には
梅若山王権現の霊地として尊信されました。

 明治の世となり木母寺が廃寺の後は
梅若神社と称されましたが同寺再興の
翌年(同二十二年)仏式に復帰しました。

 現在地に遷座したのは昭和五十一年で
旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面
梅若公園内に存置、石標が立っています。
[梅若塚の沿革] (注;一部旧漢字は新漢字としています。)



◎参考情報

1.梅若丸伝説
 そして、もう一つは、梅若丸伝説です。
 京の都から、拐かされて連れ回され、衰弱して倒れた12歳の子ども梅若丸と、拐かされた梅若丸を捜し尋ねて狂女となった、母、花御前の悲しくも切ないお 話てす。
 12歳の梅若丸がいまわの際に「たづね来て とはゞこたへよ都鳥 すみだの河原の露ときへぬと」母が、自分を探して尋ねて来たら、隅田川の辺で息絶えました…と教えて欲しいと詠い、梅若丸を看取ったすみだの人々によって 塚が築かれ、印に柳の木が植えられました。
(引用;再 発見!梅若伝説と木母寺
http://sumida-avenue.com/NewFiles/html/honshi/saihakken/umewaka/umewaka.html


2.梅若丸の悲話と木母寺

平安時代の中頃、吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘・花御前の間には梅若丸という男の子がありました。   
若くして吉田少将がこの世を去った後、梅若丸は比叡山月林寺で修行に励むようになります。   
しかし、同輩との諍いが原因し、月林寺を下山した梅若丸は、琵琶湖のほとり大津の浜(現・滋賀県)で人買いの信夫藤太と出合います。    
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州(現・福島県)へと旅を始めます。   
    
長い旅を続けて二人が 武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸 関屋の里までやって来た時です。   
梅若丸は幼い身での長旅の疲れから重い病気にかかり、動くことができなくなってしまいました。   
     
信夫藤太はそんな梅若丸を置き去りにしたのです。   
    
関屋の里人たちに見まもられ、いまわの際に   

   『尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 
          隅田川原の 露と消えぬと』   
    
という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳の生涯を閉じてしまうのです。
 (引用;梅若丸の悲話と木母寺
http://umebachiya.com/edokaiwai/umewaka/umewaka.htm) 

3.梅若丸の塚
下記の”江戸名所図会”に詳しく記されている。文庫本なので入手容易な文献でしょう。今風にいえばイラストもあるので魅力的だ。
ただし、文章は、高校の科目「古文」で勉強した様な文である。この度、引用箇所を読み解くにあたり、「古文」を勉強しておいてよかったなと思ったものである。昔の伝説であるから、現代文で読むより古文で読むのがよりいっそう味わい深い。
それにしても、琵琶湖のほとりから陸奥に子供をさらっていく話というのが当時説得力が有ったのであろうか。当然新幹線などなく、徒歩であろうから、いかに過酷な道のりであったことか。

引用;
新訂江戸名所図会 巻之七 揺光之部(一九九七年ニ月十日 第一刷発行)
市古夏生・鈴木健一 校訂
新訂 江戸名所図会6(全六冊)
ちくま学芸文庫

なお、巻之七 とあるが、巻之五、巻之六は江戸名所図会5に収容されているため、
本書は、江戸名所図会6で正しい。

P233〜237 梅若丸(うめわかまる)の塚
木母寺(もくぼじ)の境内にあり。塚上(ちょうじょう)に小祠(こみや)あり。梅若丸の霊を祀(まつ)りて山王権現(さんのうごんげん)とす(縁起に、 「梅若丸は山王権現の化現(けげん)なり」という)。後に柳を殖(う)ゑて、これを印(しるし)の柳と号(なづ)く(昔の柳は枯れていま若木を殖ゑそえた り)。例年三月十五日忌日(きにち)たるゆゑに、大念仏興行あり。この日都下(とか)の貴賎(きせん)群参せり。
(『回国雑記(かいこくざつき)』[道興、一四八七頃]

 かくてすみだ河の辺(ほとり)にいたりて、皆々歌よみて披講(ひこう)などして、いにしへの塚の姿あはれさ、いまのごとくにおぼえて、
  古塚のかげゆく水のすみだ河ききわたりてもぬるる袖かな 道興准后(どうこうじゅごう)
  中頃、一条[正しくは、二条]関白康道(やすみち)卿関東下向のころ、この地に逍遥あり。
  来てみればうゑし柳のしるしのみ春風渡る隅田河原に 康道公
  うきことを思ひ出でてや古塚に都のたよりまつ風の声 近衛信尹(このえのぶただ)公
 この詠は木母寺に蔵するところの短冊(たんざく)の和歌なり。名書き「山城(やましろ)の住人」とあり。
 しるしにとうゑし柳も朽ちはててあはればかりはのこる古塚 良尚親王
 この和歌は曼殊院宮(まんしゅいんのみや)関東へ下向ありしとき、この地に遊びたまいし頃の詠なりといふ。
真蹟の短冊、いまなほ木母寺に蔵せり。名書き「旅人(たびびと)」とのみあり。
 縁起(えんぎ)に云(いわ)く、梅若丸は洛陽北白川吉田少将惟房(らくようきたしらかわよしだのしょうしょうこれふさ)卿の子なり(同じ縁起に、惟房 卿、嗣(こ)なきを憂(うれ)へ、日吉(ひよし)の御神(おんかみ)に祈願ありて後儲(もう)けられたりし児(ちご)なれば、春待ち得たる梅が枝(え)に 咲き出でたりし一花(ひとはな)のここちすればとて、梅若丸(うめわかまる)とは号(なづ)くるなりとぞ)。五歳にして父に後(おく)れ、七歳の年比叡 (ひえ)の月林寺(がちりんじ)に入りて習学せり。またその頃東門院(ひがしもんいん)といへるにも松若丸(まつわかまる)という児(ちご)ありて、日頃 才(さえ)のほどを挑(いど)み争ひけれども、梅若丸にはおよばざりけり。さるを、かの坊の法師ばら口惜しきことにおもひ、はては闘争(とうしょう)のこ と出で来にければ、梅若丸は潜(ひそ)かに身を遁(のが)れて北白川の家に帰らんとし、吟(さまよ)ふて大津(おおつ)の浦に至る。頃は二月二十日あまり の夜なり。しかるに陸奥(みちのく)の信夫藤太(しのぶのとうた)といへる人商人(ひとあきびと)に出であひ、藤太がために欺かれて、遠き東(あずま)の 方(かた)に下り、からうじてこの隅田川に至る。時に貞元元年丙子[九七六]三月十五日なり。路(みち)のほどより病(やまい)に罹(かか)り、この日つ ひにここにおいて身まかりぬ。いまはの際(きわ)に和歌を詠ず。
  尋ねきてとはばこたえよ都鳥すみだ河原の露と消えぬと
 このとき出羽國羽黒(でわのくにはぐろ)の山に、下総坊忠円阿闍梨(しもうさぼうちゅうえんあじゃり)とて貴(とうと)き聖(ひじり)ありけるが、たま たまここに会し、土人とともに謀(はか)りて、児(ちご)の亡骸(なきがら)を一堆(いったい)の塚に築き、柳一株(ちゅう)殖(う)ゑて印(しるし)と す。翌(あく)る年の弥生(やよい)十五日、里人(さとびと)集まりて仏名(ぶつみょう)を称(とな)へ、児(ちご)のなき跡をとむらひ侍りけるに、その 日梅若丸の母君(同じ縁起(えんぎ)に、花御前(はなごぜん)とす。「美濃国野上(みののくにのがみ)の長者の女(むすめ)なり」とあり。あるいはいふ、 花子(はなこ)とも。後、薙髪(ちはつ)して妙亀尼(みょうきに)と号(なづ)く。第六巻浅茅(あさじ)が原の条下とあはせみるべし)、児(ちご)の行衞 (ゆくえ)を尋ね侘(わ)び、みづから物狂をしき様(さま)して、この隅田川に吟(さまよ)ひ来(きた)り、青柳(あおやぎ)の蔭に人の群れゐて称名 (しょうみょう)さるをあやしみ、舟人(ふなびと)にそのゆゑを問い聞きて、わが子の塚なることをしり、悲歎の涙にくれけるが、その夜は里人とともに称名 してありしに、その塚のかげより梅若丸の姿髣髴(ほうふつ)として、幻の容(かたち)を現し、言葉をかはすかと思へば、春の夜の明けやすく、曙(あけぼ の)の霞(かすみ)とともに消えうせぬ。母君は夜(よ)あけて後、忠円阿闍梨に見(まみ)え、ありしことども告げて、この地に草堂を営み、阿闍梨をここに をらしめ、常行念仏の道場となして、児の亡き跡をぞ弔(とぶら)ひける(以上、木母寺縁起の要を摘む)。

P235から236 図の説明文より
梅若丸七歳のとし比叡(ひえ)の月林寺をのがれ出でて、花洛(みやこ)北白川の家に帰らんと吟(さまよ)ふて大津の浦に至りけるに、奥陸(みちのく)の信 夫の藤太といへる人あきびとのためにすかしあざむかれて、はるばるとこの隅田川に来ぬることは本文に詳らかなり。ちなみにいふ、人買ひ藤太は陸奥南部の産 なりとて、いまも南部の人はその怨霊あることを恐れて木母寺に至らざること、矢口の新田明神へ江戸氏の人はばかりて詣でざるがごとし。






<もどる>