墨堤植桜之碑 (追記;2014年4月30日)

隅田川の堤を「墨堤」と呼ぶが、とくに白鬚橋から吾妻橋の東岸の向島エリアには通りの名前にも墨堤と付けられている。
向島の花見は江戸時代には定番となり、明治以降現在に至るまで桜の名所となっている。誰が桜を植え、手入れをしてきたのであろうか。

以下に掲載した通り、”墨堤植桜の碑”によれば、
始まりは、四代将軍家綱の命によるものであり、その後八代将軍吉宗も推進したとされている。さらに、江戸時代、明治時代を経て現在に至るまで、有志の寄付や地元の人々の協力が有って、おかげ様で毎年向島、隅田公園の花見を楽しませていただいているわけですね。


墨堤植之碑と桜勧進解説板墨堤植桜之碑と桜勧進

墨田区の「隅田公園 散策解説板8」より引用

墨堤植桜之碑と桜勧進
住民が育てた墨堤の桜
 江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
 墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけでなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
 墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。





墨堤植桜の碑墨堤植桜の碑

逆光で済みません。右側の黒いのが石碑です。
(次の機会に、鮮明な写真を撮る予定です。)




















墨堤桜植の碑(全体)墨堤植桜の碑(全体)

前回の撮影は逆光になっていましたので、次の機会には鮮明に撮影した写真を掲載することとしましたが、今回は石碑の全体イメージと冒頭部分のみですが、碑文を読み取り可能にしたイメージを撮影しました。

(追記;2014年4月30日)














墨堤桜植の碑(碑文の冒頭部分)墨堤植桜の碑(碑文の冒頭部分)

下記の案内板の文言と同様の碑文が刻まれていると思われます。ただし、全て漢字ですが。

(追記;2014年4月30日)













墨堤桜植の碑(碑文の上部)墨堤植桜の碑(碑文の上部)

これは石碑のタイトルだと思われます。

(追記;2014年4月30日)















墨堤植之碑墨堤植桜之碑


















墨堤植桜の碑

        所在  墨田区向島五丁目一番 隅田公園

 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額(てんがく)、濱邨大澥(はまむらたいかい)の撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保ニ年(一七一七)に八代将軍吉宗が百本の桜を、同十一年には桜、桃、柳各百 五十本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原?塢(きくう)、朝川黙翁、中山ト?が百五十本、天保ニ年(一八 三一)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。弘化三年(一八四六)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村 人が百五十本、安政元年(一八五四)に阪田三七郎が二百株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志 半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治二十年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
             平成ニ年三月
                     墨田区

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