芭蕉記念館

(2013年6月13日 作成、2013年6月29日更新)

松尾芭蕉、奥の細道、俳諧、俳句といった事について思うと、学校の勉強や教科書、あるいは受験勉強といったことが頭に浮かびます。
しかし、それだけであり、いったい松尾芭蕉さんとはどの様な方なのかについて分かっておらず、Webでにわか勉強をしてみました。

江東区民であったことがあり、芭蕉に関する施設を開設した情報が区民報に掲載されたことがあった様に記憶しています。
また、清澄庭園近くには下町博物館が有り、さらにその近くに芭蕉についての施設が有るといったことはなんとなく頭にあったのですが、いつも素通りしていま した。

本サイトでは、隅田川に架かる橋について掲載していますがそれぞれの橋の周辺の話も合わせて書いております。
清洲橋や新大橋に関連して芭蕉関連はハズせませんよね。
この度、あらためて芭蕉にゆかりの場所として、いくつかの場所を訪ね歩いてみました。

「奥の細道」の冒頭部分や教科書で学ぶ俳句からの情報で持つイメージでしかありません。

本ページで引用させていただきました幾つかのサイトの記事を読ませていただくことで、松尾芭蕉さんの人生について多少とも垣間見ることができました。

1600年台後半から1700年台のはじめに生きた方ですから、今から350年前後昔の方なのですが、伊賀上野に下級武士(実質的には農民)の家系に生ま れ、地元の若殿の側で仕事をするのすが、若殿が若死にすることから結局江戸に出て貧乏しながら俳句、俳 諧の道を進むことになるわけです。いろいろなパトロンや支援者に経済的にも生活面でも大きく支えられたおかげで後世に名を残す大きなことを成し遂げた人生 だった様です。
現在の日本の社会とその中で悪戦苦闘する人々と同じ様な人生だった様に感じはじめました。

芭蕉の場合、金の有難味を身にしみて感じつつも、金に執着せず、弟子と各地を旅しながら俳句と読む自由人として生き抜いたのだと思います。自由人なので、 自宅で家族に看取られることはなく、旅先でさびしく死んでいくことはもちろん覚悟していたらしいのです。

といったことから、芭蕉さんの人間としての姿がイメージできた様な気がします。

まさか、自分の記念館などの施設が作られ、350年後の日本人のほとんどが芭蕉の名と作品を知っているなんて思ってはいなかったでしょうね。
芭蕉が聴いたであろう隅田川の水の音や感じたてあろう風の冷たさが存在した同じ其の場所に銅像が立てられいるなんて。
しかし、小名木川が隅田川と交差する角に万年橋があって、上流方向には新大橋、そして下流には清州橋が見えるのですが、いったい、芭蕉の時代には清洲橋は 無理にしても新大橋の第一代は既に有ったはずです。とにかく現場に立って眺めると隅田川の姿は現在でもほんとうに良く、芭蕉は気に入っていたのでしょう。 月が川面に映って、その景色を楽しんだのだと思います。





芭蕉記念館
正式には、江東区芭蕉記念館 ですね。



















芭蕉記念館2
こちらの表示では、「江東区」の3文字は記されていませんが。


















芭蕉記念館の門
記念館の左側の門から入りました。
今回は、記念館には入場せずに庭を通って隅田川の岸に出ました。
















芭蕉記念館の庭
門をくぐると、庭になっています。
このショットは、庭に立って門の方を振り返った方向です。
限られた庭のスペースなのですが、起伏が設定されていて山を登る様に感じます。

庭の奥から隅田川の岸に出られるようになっていて、遊歩道を進むと芭蕉展望公園に至ります。











芭蕉記念館庭の中の祠
登った先に祠(の様な)が置かれて有り、中には芭蕉翁がいらっしゃいます。花が供えられてありました。

















道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり○道のべの 木槿(むくげ)は馬にくはれけり
→芭蕉は馬の上。前方に槿の花が咲いている。芭蕉の目はここに放心したように吸い付けられている。世界はただ一輪の槿の花だけしかない。とそのとき、それ まで彼の視界には全くなかった馬の長い口がひょこっと現れて、瞬間槿の花が消えていた。消え去った槿の鮮やかな白さが残像として前より強烈に瞼に映じてい る。芭蕉、中期の最高傑作の一句。
 ムクゲは、「キハチス」とも言う。朝顔に似た花をつける。朝に咲いて夕方には萎んで落ちる
引用;
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/nozarasi/nozara04.htm
















みそか月なし千とせの杉を抱あらし○みそか月な し千とせの杉を抱あらし
→外宮の千年杉が、三十日の月の無い漆黒の闇の中に屹立している。その根方に立って見上げると、樹間を通る秋の強い風に黒々とした枝が揺れる。それは、こ の杉がまさに嵐に抱かれているといった威容である。
 古来、抱くのが嵐か、作者芭蕉かで議論になっているが、ここでは嵐と解釈した。
引用;
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/nozarasi/nozara07.htm


















秋風のふけども青し栗のいが○秋風のふ けども青し栗のいが
→秋風はものみな紅色に染めていく風のことである。すでに秋風が立って四囲の植物は皆その葉を紅葉させているというのに栗のイガばかりが真っ青になってい てなんと面白いことだろう。この面白さは必ずしも成功していない。
引用;
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/akikaze.htm



















夜すがらや竹こほらするけさのしも○夜すがらや 竹こほらするけさのしも
→急に寒さがやってきた。夜が更けるにつれて一晩中竹を凍らすような寒さであった。一夜明けてみると一面の霜の朝だ。「夜すがら」は夜もすがら、一晩中の 意。自画賛といわれているが、絵は現存しない。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/take1.htm
→句は「夜すがらや竹こほらするけさのしも」。時分を示す「夜すがら」「けさ」という2つの言葉が詠み込まれ、前夜から今朝にかけての厳しい冷え込みをう かがわせる。
 弟子らがまとめた芭蕉翁真跡集に収録した句。芭蕉は元禄7(1694)年に死去しており、それまでの元禄年間に詠まれたとみられる。
引用;
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130206/mie13020602080000-n1.htm



樫の木の花にかまわぬ姿かな○樫の木の 花にかまわぬ姿かな



















誰(た)が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年誰(た)が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年誰(た)が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年誰(た)が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年○誰(た)が 聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年

















紫陽花(あじさい)や藪(やぶ)を小庭の別座鋪(べつざしき)○紫陽花 (あじさい)や藪(やぶ)を小庭の別座鋪(べつざしき)




















卯花(うのはな)の母なき宿ぞ冷(すさま)じき○卯花(うの はな)の母なき宿ぞ冷(すさま)じき
夏を呼び寄せる卯の花ではあるが、其角の母がみまかって、今日こうして追善の供養に参列し、家の中から垣根の卯の花を見ていると、その白さが厳然として取 りつくしまがない感じさえする。














色付(いろづく)や豆腐に落ちて薄紅葉○色付(い ろづく)や豆腐に落ちて薄紅葉
→真っ白な豆腐に色付けのための葉が一枚添えられると、豆腐の白さでなお一層色付けられて薄紅葉になり、それが紅葉豆腐となる。
延宝5年、芭蕉34歳の時の作。芭蕉は、この年に俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になること)したらしい。この年22句が現存する。この句は、杉風との 両吟の発句。
引用;
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/tohfu.htm

→まさに日本の秋の色だろう。美しい。芭蕉三十五歳の作と推定されている。舞台は江戸の店のようだが、いまの東京で、このように庭で豆腐を食べさせるとこ ろがあるのかどうか。この句を読むたびに、私は京都南禅寺の湯豆腐を思いだす。晴れた日の肌寒い庭で、炭火を使う湯豆腐の味は格別だ。実際に、ほろりと木 の葉が鍋の中に舞い降りてくる。そうなると日頃は日本酒が飲めない私も、つい熱燗を頼んでしまうのだ。たまさか京都に出かける機会を得ると、必ず寄るよう にしてきた。この秋は改築された京都駅舎も評判だし、行ってみたい気持ちはヤマヤマなれど、貧乏暇なしでどうなりますことやら……。(清水哲男)
引用;
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19971006,20001106&tit=%94%96%8Dg%97t&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%94%96%8Dg%97t%82%CC





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