芭蕉庵

(2013年6月13日 作成)

芭蕉庵といっても、何箇所かに引っ越した経過が有るらしい。
こちらの芭蕉稲荷は、芭蕉遺跡保存会さんの由来文によれば、大正六年の津波いよって被害を受けた後に発見された芭蕉翁が愛好されたと想像される石造りの蛙 がきっかけで祀られたという。

芭蕉庵跡芭蕉稲荷の敷地の中にいくつかの記念碑が置か れています。なぜ、芭蕉さんがお稲荷さんになったのでしょうか?お稲荷さんが好きだったのでしょうか?あるいは、お稲荷さんを詠んだ句が遺されているので しょうか?
















芭蕉庵由来





























深川芭蕉庵旧地の由来

 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川
芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没す
るまでここを根拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」
等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出
て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷と
なり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
 たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好した
といわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等
地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同
十年東京府は常磐一丁目を旧跡に指定した。
 昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉
遺跡保存会が昭和三十年復旧に尽くした。
 しかし、当所が狭隘であるので常磐北方の地に旧
跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。

昭和五十六年三月吉日

芭蕉遺跡保存会

(改行は、原文通りとしました)




芭蕉庵石碑1記念碑には、下記の通り刻まれています。

俳聖芭蕉翁生誕参百五十年祭記念

平成六年十月吉日
芭蕉遺跡保存会
会長 堀内 一雄


















芭蕉庵石碑2
史跡
芭蕉庵跡























芭蕉庵石碑3記念碑には、下記の通り刻まれています。

奥の細道旅立参百年記念碑

平成元年五月吉日
芭蕉遺跡保存会
会長 堀内 一雄




















さまざまのことおもいだす桜かな

当然、芭蕉さんの句ですよね。

芭蕉記念館の庭の木々にも、同じ様にさまざまな句が記されていました。



















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