大川端芭蕉句選

(2013年6月29日 作成)





名月や池をめぐりて夜もすがら○名月や池をめぐりて夜もすがら
貞享三年吟(一六八六)

この句は、有名ですよね。私ですら聞き覚えがありますので。しかし、下記の通り芭蕉庵に池が有ったり、芭蕉庵あるいは近くの隅田川のほとりからの名月を詠 んだのだとすれば、なおさら身近に感じられる句になります。

→仲秋の名月を眺めながら池の周りを歩いていたらいつの間にか夜が明けてしまったのである。この「池」も、かの「蛙飛びこむ」古池で、芭蕉庵にあったも の。

貞亨3年8月十五夜の作。芭蕉43歳の最も心身充実の時期。 この夜、芭蕉庵にて月見の会を催す。集まったのは其角・仙化・吼雲ら。隅田川に舟を浮かべて名月を十分に楽しんだ。

引用;
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/meigetu1.htm


→名月に誘われ、月影の宿る池の回りをただ忘我の境地で、独り黙然といつま
でも歩き続けている。
 
其角ら数名の門人と芭蕉庵に会して、草庵で月見をした折の作といわれる。
 
孤影、月下の池辺を逍遥する物思う風雅人の趣きが見える。
「夜もすがら」は一晩中の意だが、時の経過を忘れる忘我の心を表している。

引用;
http://www.ict.ne.jp/~sasa-mi/osakakuhi12.htm





あられきくやこの身はもとのふる柏(がしわ)

○あられきくやこの身はもとのふる柏(がしわ)
天和三年吟(一六八三)

子供の頃に住んでいた家は、東京大空襲で丸焼けになった墨東地区に物不足の中急仕立てで立てられたもので、家の中と外は板やトタン1枚で隔てられただけ で、月夜の晩には板の隙間や節穴から光が差し込んでいました。東京とはいえオリンピックまでの時代は、冬は季節風が吹いたりたまに降る雪の晩はほんとうに 寒かった。
きっと、芭蕉も寒さは身にしみたのでしょう。

→こうして再び庵が再建されたが、その住人たる私はそれ以前の私と何も変わっちゃいない。まるで枯れてもなお木にまといついている柏の古葉のように。
 ところで柏の枯葉というのは、枝にそのまま付いていてなかなか木から離れない。そんな枯葉に霰が当って大きな音をたてていたのであろう。

天和3年、芭蕉40歳の作。前年の暮に芭蕉庵が焼失し、甲斐の谷村に流寓していたが、明けて天和3年夏には芭蕉庵も再興されて江戸に戻った。一句はその第 二次芭蕉庵での作。この年9句が記録されている。

引用;
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/arare3.htm






しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉(かな)
○しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉(かな)
延宝八年吟(一六八〇)

東京は季節風が強く吹くと寒さが身にしみます。芭蕉は、冬の暖をどの様に取っていたのでしょか?芭蕉庵には囲炉裏の様なものが有ったのでしょうか?
私の家では、練炭火鉢や炭団のこたつを使っていました。石油ストーブや電気こたつはまだ無い時代でした。手には,あかぎれよりはひび切れで大変でした。
東京オリンピックまでの時代は、寒さしのぎの道具は芭蕉の時代とあまり変わってはいなかったのかも知れません。オリンピックはまだカラーテレビで見られま せんでした。

→芭蕉が伊賀から江戸に出てきてから9年がたっていた。隅田川と小名木川の合流点に近い深川村の草庵は、最初は「泊船堂」と名づけられていた。
「長安の都は昔から、名声と利欲に狂奔している街、お金のない者には住みにくく生きていくのも難しい」と白楽天がいったがもっともなことである。だが、そ う感じてしまうのは私が貧乏なためであろうか。
木枯らしの風が烈しく吹きすさび、落ち葉を庭の片隅に掻き寄せている。その落ち葉を集めて焚き火をし、茶を煮て侘しい草庵ですすっている。

引用;
http://www.intweb.co.jp/basyou/kty/haibun_sibanotoni.htm












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