イエス語録55新約略解44新約聖書成立史表Q資料

新約聖書とは


1、下記27文書が、正典として確定したのは、4世紀中頃とされている(新約聖書成立史表)。

2、新約聖書は、当時のギリシャ語日常語(口語)で書かれている(旧約聖書は、ギリシャ語、ラテン語があるが、正典はヘブライ語)。
これは、明らかに読者として正統的ユダヤ人よりも、ギリシャ語を話す在外ユダヤ人(ディアスポラなど)と、外国人を想定している。

、著者に12使徒の名前(ヨハネ、ペトロ、ヤコブ、ユダ、マタイ)を用いているが、何れもその名の権威による本に書かれたということで、真の著作者とはいえない。パウロ書簡も、全てがパウロの真作ではない。

4、新約聖書、27文書の構成は次のようになっている。

1、福音書4
共観福音書
  マタイによる福音書
  マルコによる福音書
  ルカによる福音書
ヨハネによる福音書
(第四福音書)

2、使徒言行録 (ルカ福音書の下巻とすることもある)

3、パウロの手紙13(うち、パウロ真正書簡は7通とされる)
第一書簡
(パウロ真正のもの)
 テサロニケの信徒への手紙T
 ガラテヤの信徒への手紙
 フィリピの信徒への手紙
 フィレモンへの手紙
 コリントの信徒への手紙T
 コリントの信徒への手紙U
 ローマの信徒への手紙
第二書簡
(パウロの弟子・第二世代によるもの)
 コロサイの信徒への手紙
 エフェソの信徒への手紙
 テサロニケの信徒への手紙U
牧会書簡3
(第三書簡ともいう。パウロの弟子・第三世代のもの)
 テモテへの手紙T
 テモテへの手紙U
 テトスへの手紙

4、ヘブライ人への手紙 (パウロの著作ではないが、パウロ書簡に含めることがある)

5、公同書簡7通(全ユダヤ人への手紙ともいう)
ヤコブの手紙
ペトロの手紙T
ペトロの手紙U
ヨハネの手紙T
ヨハネの手紙U
ヨハネの手紙V
ユダの手紙

6、ヨハネの黙示録(ヨハネの手紙に含めることがある)

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共観福音書――マタイ・マルコ・ルカの三福音書をいう
マタイ・マルコ・ルカの三福音書を、共観福音書と呼ぶ。これら三書はヨハネ福音書と比較すると共通の記事が多い。つまりこれら三書は共通の資料によっており、またその叙述観点もほぼ共通しているからである。 しかし、かってイエスと共に生活した弟子達がその個人的記憶に基づいて著述したものでなく、イエスの死後も各派教会に伝えられた伝承を資料とし、それぞれの教会員のために、各記者が編集したのである。
 最近の研究では、マタイとルカ福音書は、それぞれマルコ福音書と、Q資料といわれる未発見の文書を、基に作成されたと考えられる。一見、共観的叙述に思われるが、各記者の思想的立場はかなり鮮明に異なり、それぞれが相互に批判的である。むしろ批判的であるからこそ、3つの福音書が存在するといってよい。

 

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マルコによる福音書イエスとは何者か
ローマの圧制と支配層の腐敗、パレスチナの飢餓と不安の危機状況、終末的世相の中で、差別のない神の国がもうすぐ来ると、イエスは「神の国運動」をする。そのイエスが死亡した後、様々なイエス像(呪術師か、神の子,メシヤか、復活は?など)が流布した。
その中でQ資料の一部とイエス伝承により、人の子イエスとしての神性を明らかにして、被差別者が解放される「神の国」運動をイエスの福音として説き、当時の使徒たち(エルサレム原始教会)のファリサイ派(の律法主義)的傾向を批判したのがマルコ福音書。最古の、ユダヤ人の律法被差別者のための福音書。
伝統的には使徒1537ほかに出てくるマルコが著者とされるが、ペテロの弟子というのは、福音書の中身を読む限り、とてもその可能性はない。著者は、民衆ギリシャ語(コイーネ)が下手なこと、内容等々からして、パレスチナ出身のユダヤ人キリスト教徒とされる(改宗異邦人という説もあるが)。執筆場所は、パレスチナ北部かシリヤ南部らしいが、ガリラヤ近辺かも。年代はエルサレム崩壊を知らないのは確実だから、70年以前であり、50年代〜60年代とされる(マルコ黙示録といわれる部分に、戦後の一部手直し程度はあるかもしれないが)。

 

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マタイによる福音書――ユダヤ人キリスト者の福音書
苛烈なユダヤ戦役(70年)後、ユダヤ教の中心であるエルサレム神殿が炎上して、イスラエルのユダヤ教団共同体が崩壊した後、ファリサイ派を中心として再建を計るユダヤ教から、一分派であったユダヤ人キリスト教徒は、異端として締め出されてシナゴークから分離する。
離脱者も出始める危機的な状況の中で、本家のユダヤ教(ファリサイ派)に対抗するために、マタイ教会内のユダヤ人のキリスト教徒の信仰教育のために書かれたのがマタイ福音書。
ユダヤ教がダメになった今、復活したイエスこそ待望されたメシヤ(キリスト)であり、ユダヤ民族を救うのだ。キリスト教こそ、聖書の預言を成就した新しいユダヤ教であることを説き、天の国を目ざして、使徒たちを中心にイエスの教えを守り、律法を貫徹するよう、教会員の団結を求めている。
マルコ福音書と通称Q資料と呼ばれる今日では失われたイエス語録資料、それに独自資料を加えて編集した(アラム語の原マタイ資料があるという説は、古い)。
著者は、伝統的に使徒マタイとされるが、第一言語が、アラム語であるガリラヤ人の使徒マタイであるはずがなく、書いたのは、ギリシャ語を第一言語とする知識人の海外ユダヤ人キリスト教徒(ディアスポラ)であろう。また執筆年代はマルコより後で、エルサレム崩壊を知っているから、80年〜90年ごろ。 執筆場所は、南シリヤあたりらしい。

 

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ルカによる福音書外国人が書いた、外国人のためのイエスの福音
ユダヤ戦役後支配が確立したパックス・ローマノ(ローマの平和)の中で、地中海沿岸の殖民都市のヘレニストや外国人キリスト者が、キリスト教を認知してもらい、その布教を推進するために、イエスキリストの誕生、キリスト教の起源と発展が書かれた、異邦人(ギリシャ人などの非ユダヤ人)向けの物語。
上下2巻のうち、上巻が福音書とされ(下巻は使徒言行録)、神の栄光がイエス・キリストに現れ、神の国がイスラエルに現出し、旧約が成就したこと。しかし、ユダヤ人はそのキリストに背いて、十字架につけたが、キリストは、死から復活して、再び天に上げられとことを物語る。
マタイと同様、マルコ福音書とQ資料、それに独自の資料を組み合わせて書かれた(マタイを知らないという説と、知っているという説あり)。著者は、ヘレニズム都市のギリシャ系外国人でキリスト教徒になった人物(異邦人改宗者であるが、ユダヤ人説もある)で、ギリシャ語を第一言語とする。
伝統的には、パウロが「同労者」と呼んでいるルカ(フィレモン書24節)とされているが、疑問もある。使徒言行録の著者とは同一人物。 執筆年代は、90年代(2世紀初めという説もあるが)。執筆場所は、ローマという説あるが、シリヤか小アジアであろう。

 

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ヨハネによる福音書(第四福音書)―ユダヤ教に対する論争の書
第四福音書とも呼ばれるヨハネ福音書は、上記共観福音書とは全く独自の観点とセクト的立場から、ユダヤ人キリスト者によって書かれている。
戦後、ユダヤ人キリスト者のいるヨハネ教団は、正統(ファリサイ派)ユダヤ教の攻勢にさらされて、脱退する者も現れて、内部対立、分裂の危機に陥る。そのなかで、イエスを神と告白し得ないユダ人にたいして仮現論的立場で、光と闇、霊肉など二元論のグノーシス的発想で決断を迫り、また神は愛であることを説き、主流派教会と協力して、愛の共同体の再建を計るよう提言している。
使徒ヨハネが書いたとされるが、著者、著作の場所など、一切不明(100から110年ごろ、小アジアという説があるが、パレスチナ北部ではないか)。しかし、内容からして、マタイ、ルカとほぼ同時期、90年代と考えるのが妥当とされる。

 

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使徒言行録(使徒行録)異邦人への宣教物語
第一次ユダヤ戦役、イエスの時代を、上巻として書いたルカ福音書の著者が、使徒の時代としてその下巻として書いた。
当時ユダヤ教徒と対立して抗争を繰り返すキリスト教は、公認されているユダヤ教と同じく、決して不穏なカルトではないこと。また本来は、ユダヤ人に示された神の救いの計画が拒否されて、われわれ非ユダヤ人(異邦人)に示されていることを、エルサレムからローマまでの、教勢拡大の歴史のなかで描き、聖霊あふれる理想的な使徒の時代の終焉と教会時代の始まりを告げる。
(歴史的には)、神の栄光がイエス・キリストに現れ、頑迷なユダヤ人を捨てて、いまや異邦人を新たな神の民として選び、(人的には)ペトロをユダヤ人の使徒、パウロを異邦人のための使徒として、宣教し、(空間的には)、エルサレムから世界の中心ローマに広がった、という、野心的な構想の歴史的物語であるが、第一次ユダヤ戦役については、全く沈黙しているのが疑問。
黎明期のキリスト教発展の歴史とされるが、史的資料価値はパウロ自筆の真正書簡に及ばない。執筆年代はルカ福音書の後、ほとんど時が経っていない。

 

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パウロの真正な書簡(第一書簡とよぶ)―パウロが書いた、異邦人向けの手紙

テサロニケの信徒への手紙T―主に再臨に備えて
パウロは、第2回伝道旅行で初めて小アジアからマケドニアに渡る。マケドニアの都市、フィリピ伝道のあと、テサロニケでも外国人の家の教会を作った。しかし、予定より早くその地を離れざるをえなかったので、そののち気になってテモテを派遣してその報告を聞き、すぐに手紙を書いた。多分コリントに滞在中と思われる。 従って執筆年代は5052年で、パウロ書簡の中では最も早い。マルコ福音書より早く、新約聖書中最も古い文書。
ユダヤ戦役前の、迫り来る終末的世相のなかで、神の国とキリスト来臨を待望し、復活を願った異邦人キリスト者の信仰と、宣教師パウロの人間的側面が記録された貴重な証言。また、義認論や原罪論は現れず、初期のパウロの思想が判明する。

 

ガラテヤの信徒への手紙―律法と福音、パウロ主義の原点
第3回伝道旅行の始めに小アジア内陸の地ガラテヤ地方の教会を通過したパウロは、パウロが伝道した、彼ら異邦人が早くも「異なる」キリスト教―ユダヤ主義の影響を受けていることに驚き、叱責の手紙を書いた。キリスト信仰による義認論「信仰によってのみ、義とされる」を展開して、律法を否定し、割礼の無益さを説き、「律法からの自由」を福音とした、パウロ主義の原点が記される。
パウロの神学的テーマ「福音と律法の対立」を、鋭く明らかにして、最もパウロの信仰と、烈しい人柄が表明されている。第3回伝道旅行のエフェソ滞在時、5354年ごろといわれる。

 

フィリピの信徒への手紙―迫害は恵み
第二回伝道旅行でパウロが創設した非常に親しいフィリピの異邦人教会の人々に送った近況報告的な書簡で、獄中で書いている。パウロが投獄されたのは生涯で数回あるが、第三回旅行のエフェソの滞在時(5355年)とされる(60年頃、ローマで書かれたという説もあるが)。
受肉の神秘を称えた「キリスト賛歌」で初期キリスト信仰の状況を証言し、またパウロの出自、義認論、終末論などが現れ、ユダヤ的キリスト者(律法主義者)の攻勢にさらされているパウロ教会の状況が判明する。戦闘的なガラテヤの信徒への手紙とは全く対照的なパウロの側面がうかがえる貴重な手紙です。

フィレモンへの手紙―解放奴隷の扱い
フィレモンは、恐らくコロサイの教会の信者(コロサイ49、かなり裕福)。獄中のパウロがフィレモンの逃亡奴隷オネシモスの世話になったので、フィレモンにオネシモスの解放を依頼する手紙。パウロはフィレモンの善意を期待して非常に慎重で、決して命令的ではない。
主人にも奴隷にも等しく愛情を注ぐパウロの人間性が読みとれます。預言者として激情的に見えるパウロが実は慎重に人のハートに訴え、しかも問題解決の実務的能力があったことが判ります。獄中からなのでフィリピ書簡と同様、エフェソと考えられる。5355年。

コリントの信徒への手紙T―愛と自律の共同体
第三回伝道旅行のエフェソ滞在中に書かれた。5455年。かって伝道したコリントの教会でパウロに対する反対の意見が強くなったことに対し、介入しようとして書いた手紙。
律法からの自由を謳歌する異邦人キリスト者に対して、パウロは、自由の自己抑制を説きます。しかし、パウロはこの節制を掟として決して強制することなく、実践はあくまで個人の自由意志として尊重すると、再三にわたって述べて、キリスト者の自由と自律を説きます。
当時のギリシャでのローマ的大商業都市の、異邦人キリスト教会内の紛争に苦慮するパウロの姿を通して、パウロの人格像と当時の新興宗教(カルト)的な多様な教会内部事情が判明する貴重な文書。

 

コリントの信徒への手紙U―「和解の手紙」、附「涙の手紙」
「コリントの信徒への第一の手紙」を送り、コリント教会の秩序の回復を願ったパウロの期待は、大きく裏切られます。状況は予想以上に悪化していたのです。手紙Tが、かえって事態を悪化させたのです。
イエスの直弟子でないパウロが、使徒としての資格に疑問がもたれ、その権威が失われていたのです。パウロは悲しみのうちに、敵対者との対決を決意して弁明と怒りの手紙、いわゆる「
涙の手紙10章から13章を書き、権威の回復を訴えます。
この、「涙の手紙」といわれるこのコリント教会にたいする熱情と、共労者テトスの仲介の努力が実り、相互の誤解が解けます。その和解を喜んでパウロが書いたのが、「コリント教会の信徒への第二の手紙」の本文「
和解の手紙」、1章から9章と考えられます(編集部分にはいろいろ説があるが)。
コリント信徒への手紙1では、パウロは使徒的権威に頼らない、愛と自律の共同体を提案したが、トラブルに陥り、結局はキリストの権威を継承したパウロ自身の権威を主張して、信徒に従順を命じざるを得なかった事情が判明します。

ローマの信徒への手紙(通称ロマ書)―ユダヤ人と異邦人キリスト者の理解と和解のために
49年、クラウディウス皇帝により、ローマのユダヤ人はキリスト者を含めて全員追放された。この時、ローマに残された非ユダヤ人キリスト者のために、パウロは第三回伝道旅行の終わりの時期、コリント滞在中(5556年)に書いた。当時、ローマでは、両者の間に対立があったのでその調停のために、パウロは訪問を希望した、といわれています。
今まで、もっぱら異邦人の使徒として、異邦人相手に、律法から自由な福音を説いてきたパウロが、初めて未知のユダヤ人をも対象に、律法と福音との関係を明らかにして、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との理解と和解を求めています。パウロの思想(パウロ神学)が最も良く集大成されているといわれますが、非常に論旨が慎重で難解なのが特徴。
パウロは、ローマ書で、従来の信仰/義認論を更に発展させますが、ガラティヤ書のように、律法放棄は言いません。律法がもたらす「死と罪の法則」から解放された私たちは、新しく生まれかわり、聖霊の自由に生かされる恵みを明らかにします。もはや律法の奴隷ではないのです。
そして、あれほどユダヤ人を攻撃して止まなかったパウロが、異邦人とユダヤ人、両者の和解を望んでいるが判明します。異邦人とユダヤ人、両者の和解を切望し、異邦人とユダヤ人の伝統も習慣も違うもの者どうしが、お互いの違いを尊重し、愛による寛容/赦しにより、ローマ・混交共同体として、キリストの信仰において和解することを勧告します。

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パウロの名前で書かれた書簡(第二書簡)
敬虔な律法主義的ユダヤ人キリスト者から見ると、自由で解放的な異邦人キリスト者の振る舞いは問題でした。パウロ亡き後、パウロ教会・第二世代の指導者は非難に応え、教会の秩序維持と倫理の適正化をはかり、異邦人信徒の品位を高めようと、教会の回読用として、再三書簡を送ります。
また、恥ずかしくない模範的なクリスチャンの生活を、市民の前に示すことが、何よりの福音宣教手段であり、パウロの権威を用いて、パウロの名によって書かれたのが、コロサイ書や、エフェソ書などの第二書簡。
この中の家庭訓が、クリスチャン像を決定して、現在に生きている。
なお、エフェソス書もコロサイ書も獄中で書かれたという体裁を取っている(恐らくフィリピ書かフィレモン書を真似た)。従って、伝統的にはその四つの書簡を獄中書簡と名づけている。

コロサイの信徒への手紙―信徒の家庭訓
パウロの弟子の一人(改宗者/異邦人キリスト者)が、パウロ亡き後そのカリスマ喪失の危機感から、師パウロの名によって書いたのがコロサイの信徒への手紙。80年代の作とされる。
パウロとテモテの両名の
挨拶から始まりますが、大きく分けて、キリスト教理とパウロの使命の前半と、真の福音に従う教会と信徒の家庭訓を教える後半からなり、最後は結びの言葉で終る。

 

エフェソスの信徒への手紙―模範的なくりスチャン像
エフェソ書は、コロサイ書と同じように、教義的な前半と倫理的な後半に分かれ、敬虔な信仰生活を異邦人信徒に対して呼びかけています。
ユダヤ人キリスト者が90年代、コロサイ書を参考にして書いたといわれ、より完成されたキリスト教の標準的な要理書として、各異邦人教会で読まれたようです。

 

テサロニケの信徒への第二の手紙―終末の遅延について
この手紙は、パウロの真筆「テサロニケ人への第一の手紙」で書き送った、さし迫っている「主の日」について、テサロニケ教会の中に「主の日は既に来た」という誤解が生じたことに対して、それを戒める内容になっています(戦前パウロの時代には、「終末」は今にも来ると期待されていたのです)。
いわば、最初の手紙の補足という形でこの手紙は書かれていますが、実はパウロの真正書簡ではなく、ほぼ4050年後(90年代後半)、パウロの弟子によって書かれたものとされています。
終末の日は遅れて、再臨と復活の希望は遠のいたが、やがて来るべき真のキリスト再臨のしるしが述べられ、必ず救われるという神の選びを感謝して、救いに選ばれた者の生き方が示されます。ユダヤ戦役後の終末問題にたいする回答の一つです。

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パウロの名前で書かれた牧会書簡(第三書簡)
以下の三つの書簡は、異邦人教会の指導者(牧者)がどう教会を指導するかについて書かれたテキストという意味で牧会書簡と呼ぶ。パウロの第三世代の弟子が、2世紀初めから中ごろにかけて、パウロの権威を用いて、監督に指示した手紙集。
パウロが弟子テモテやテトスに、良き牧者として、信徒の背教を防ぎ、神の教会を管理するための注意事項を教える体裁を用いている。

テモテへの第一の手紙−司牧マニアル
若い監督である愛弟子テモテに、教会の秩序維持のために、異なる教えを警告して、公共の祈りと婦人について注意を与えます。
そして、監督や教会の奉仕者には、評判の良い家庭人を選び、誤った禁欲主義に陥らぬよう、立派な奉仕者として修行することを命じ、寡婦、長老、奴隷、富者など教会の人々の扱い方を教えます。

テモテへ第二の手紙−異端者対策
背教者との戦いは、無駄な論争を避け、我慢して善導あるのみと、獄中のパウロの忍耐を見習うよう勧告し、激励します。愛弟子テモテへのパウロの遺言の形で、書かれている。

テトスへの手紙−監督(司教)の任務
パウロが、ギリシャ人キリスト者のテトスに、監督(司教)として各教会の組織化と教導の任務を指示する体裁をとっている。
監督は健全な教えを語り、離反者との無益な議論を避けて、信徒には権威をもって教会に従順を命じるよう厳しく指示します。テトスは伝承では、クレタ島の司教といわれる。

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ヘブライ人への手紙 −真理の知識を
第一次ユダヤ戦役(67年〜70年)の結果、エルサレム神殿は炎上し、イスラエルの祭祀国家は崩壊します。主の兄弟ヤコブを失った、ユダヤ人キリスト教徒も本家ユダヤ教の大打撃の中で、ピンチに陥ります。メシアへの幻滅、神の国遅延など、教義への疑問も生じます。再建を図るパリサイ派の呼びかけに応じ、脱落・復帰するユダヤ人キリスト者にたいし、(異邦人向けのパウロ思想ではなく)ユダヤ教の旧約思想を用いて、キリスト教の真理の知識を教え、信仰の堅持を図ったのが、ヘブライ人(ユダヤ人)への手紙。カルト的な復活信仰など初歩的段階を脱して、より高度な理論武装を勧告している。
パウロか、アポロの著作とされることがあるが、著者は、ギリシャ語を母語とするユダヤ人キリスト教徒。ユダヤ教についての広い素養を持った、キリスト教の第二世代(23)の知識人で、アレキサンドリア辺りではないかといわれる。

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公同書簡(全キリスト者への手紙)
戦後、ユダヤ教から分離を余儀なくされたユダヤ人キリスト教会は、カルト的新興宗教として白眼視され、つねに反社会的存在として迫害される。
対策として主流派教会は、離散ユダヤ人社会の伝統的知恵である、支配者への従順を選び、善良・従順な市民としての行動基準を信徒に示す。
この、各地の離散ユダヤ人キリスト者に出した七つの手紙が公同書簡で、ヤコブ、ペトロの手紙1と2、ヨハネの手紙1,2,3とユダの手紙をいい、全キリスト者への手紙ともいう。
イエスのラジカルな神の国思想は、没後半世紀を経て、早くもこのように変質するが、これが圧倒的に強力な、ローマ帝国の支配の中で、キリスト教として発展した一つの要因であろう。

ヤコブの手紙−信仰より実践を
著者を、教会の伝統では「義人」とよばれる主の兄弟ヤコブか、「使徒」ヤコブとすることもあるが、その可能性はない。信仰によらず、行いによって義とされと、非常にはっきりとパウロのキリスト教を批判している。
ギリシャ語を第一言語とする律法主義的ユダヤ人キリスト教徒の著作で、ユダヤ教キリスト者、義人ヤコブの教会にふさわしい実践的な教えと戒めに満ちていて、律法からの解放を謳うパウロ主義者に冷水を浴びせる。
ルッターが、著書「新約聖書への序言」で「藁の書」(※1)と酷評したのは有名。

ペテロの第一の手紙−正統派教会の標準的要理書
このペトロの使徒的権威を用いている手紙は、ローマ帝国内の善良な寄留民として、権力に従順を誓うよう要請しているので、特に小アジアで激しかった、ドミティアヌス帝晩年の大迫害(96年ごろ)を背景に1世紀末に成立したと思われている(ネロ皇帝の頃、60年代。或いは2世紀初めという説もあるが)。
異邦人向けのパウロの激しさとは打って変わり、穏健で慎重な、キリスト教の正統派としての基本的な教義――三位一体説や贖いにおけるイエスの死と復活の価値などを説き、主流派教会の最も標準的な要理書として広く用いられたらしい。

 

ペテロの第二の手紙−偽パウロ主義者に警戒を
パウロの名声が回復してきた2世紀後半、主流派教会の第三世代の手により、使徒ペトロの権威のもとに、異邦人教会向けに書かれた。新約聖書では、最も遅い文書とされる。
ユダの手紙を敷衍して、異端を罵倒し、より詳しく偽教師との戦いを訴えている
。この偽教師は、パウロの教えを曲解したパウロ主義者(恐らくマルキオン派)であることが判明する。

 

ヨハネの第一の手紙−神は愛
ヨハネ福音書が書かれてからやがて、福音書に見られた仮現論的傾向を持つグループ(分派)と、ペトロ教会・主流派の教義をとるグループ(長老派)とは相容れず、遂にヨハネ共同体は分裂し、袂を分かつ(219)。
ヨハネ教団の長老は、この悲劇的分裂に対処して、分派の異端を明らかにし、主流派の福音から、ヨハネ福音書を再解釈して書いたのが、第一のヨハネの手紙。
分派を反キリストとして激しく糾弾し、残りの者に、愛の掟による団結を訴え、
結晶したのが、「神は愛なり」という、イエス受肉の神秘。
著者は、使徒ヨハネではなく、ヨハネ福音書を最終的に編集した者と同一人物を思われる。
従って一世紀末頃、書かれたらしい。

 

ヨハネの第二の手紙、第三の手紙教会の内紛
長老と自称する人物が、キリストの人性を否定した仮現論者を、反キリストとして拒否するよう教会員に命じた短い手紙がヨハネの第二の手紙で、分派と指導権を争っている教会に出した個人的な手紙が、ヨハネ第三の手紙
同じヨハネ文書の流れの著作だが、第一の手紙とは違う著者だという意見もある。書かれたのは、一世紀末か二世紀もかなりたってかららしい。

 

ユダの手紙−偽教師の正体
イエスの兄弟ヤコブの弟のユダの著作という体裁で書かれている。偽の教師には、聖書に書いてあるような裁きがあると威嚇し、彼ら「夢想家たち」の不品行を非難して、彼らを憐れみ、助け、忌み嫌えと、命じている。
ユダヤ教文献についての知識が豊富なので、恐らく第二世代のユダヤ人キリスト教徒が、1世紀末ごろ書いと思われ、2世紀後半の第二ペトロ書の基になっている。

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ヨハネ黙示録−ローマ帝国の滅亡と再臨預言
第一次ユダヤ戦争(6770年)の結果、独立運動に失敗して、祖国を失った亡命ユダヤ人の間では、根強い反ローマの抵抗運動が行われる。圧倒的な帝国権力下、黙示的にならざるを得ない反ローマ文書(ユダヤ教のバルク書、第四エズラ記)と同じく、キリスト教では、ヨハネの黙示録が書かれた。
ペトロの第一の手紙とほぼ同じ時期(8090年代)、小アジア諸都市のユダヤ人キリスト教徒に、迫り来るキリストの再臨と終末の裁きを怪奇・壮大な宇宙的幻で示し、ローマ帝国の滅亡を黙示的に預言する。
帝国への従順を命じた、パウロやペトロ書簡とは違う、「戦う殉教思想」が見られる抵抗文書とされて、正典化にはかなり問題となった(ルターも認めたくなかった)。
ギリシャ語が不得意なことからして、ギリシャ語を第一言語としないユダヤ人キリスト教徒の作品。

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     1、「藁の書」―マルチン・ルター(「キリスト者の自由、聖書への序言」岩波文庫66頁)
要するに、聖ヨハネの福音書と彼の第一の手紙、聖パウロの手紙、なかんずくローマ人、ガラテヤ人、エペソ人への手紙及び聖ペテロの第一の手紙、これらの書は、たといあなた方がかってその外の書物や教えを見もせず聞きもしなかったとしても、あなたにキリストを示し、あなたにとって知る必要のあるしかも祝福をもたらすに足る全てを教えるのである。
これらと比較すると聖ヤコブの手紙は全く藁の書である。此れは何ら福音的な性質を供えていない。――


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