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29、あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。(マタイ23・8※1)
―――権威と差別―――
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ここで、イエスは「権威」について教えられています。
その具体的な教えが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはいけないし、「父」「教師」とよんではいけないというイエスの言葉です。
よく「先生と呼ばれる程の馬鹿でなし。」といいます。相手をやや軽んじて、「先生」と呼ぶことがありますが、大方は、尊敬の意味が入っています。教会の中でも時々使われます。イエスはここで、先生と呼ぶな、呼ばれるなと厳しく言われていますが、何故でしょうか。
これは、人間皆兄弟であるという、平等性を強調した表現だと思います。人間に貴賤・尊卑・上下はない、尊崇するのは神のみですといい、人の上下関係と権威を否定しています。すべてその人、それぞれの役割があるだけです。モーゼの十戒の「偶像崇拝」禁止律法(旧約略解13章)の根本精神です。
権力者、権威者・律法学者とパリサイ派を批判し、当時の罪人、貢取り、娼婦など被差別者と兄弟であったイエスとしては、当然の考え方です。
また、イエスは、当時の民族的英雄であったダビテをメシアの下位におき、その栄光に満ちたダビテの権威を否定しています。(マタイ22・45、マル12・37※2、ルカ20・44)
また、神殿の権威も否定しています。これも崩壊する神殿として、全部の記者が記録しています(マタイ24・2、マルコ13・2※2、ルカ21・6)。
これ等は、イスラエル民族の集団深層心理に挑戦した、実に無謀で重大な発言だったと思います。このことが、当時の権力者と権威者、民衆の怒りを招きイエスに死をもたらしました。
何故これほど、神以外の権威を嫌うのでしょうか。それは、一つは上を尊崇するということは、必ず下を卑しく見ることになるからです。上への権威に弱くペコペコと頭を下げる権威主義の人ほど、下を見下すという差別意識をもっています。
また、人を奴隷の状態に落とすからです。権力は物理的に、権威は精神的にその人の自由を奪い、抑圧します。イエスの当時の権威は、大祭司と律法学者でした。立派な服装をして重々しい権威の律法で、人を精神的に支配していました。パリサイ派はその権威の奴隷であることには気がつきません。被差別者がいることも気にしません。
被支配者(奴隷)になりたい私たち
私たちは、権力や権威に依存する(支配される)のが好きな面があります。責任をそちら任せ、甘えられて楽です。自立を奪われていることに気がつきません。
上の言った通り、司祭の言うとおりやっていた方が楽です。ある権威者のいうことを信じ切っていたほうが無難です。教会でも、典礼、オルガニストなど、権威者がいる所ほど意見を言いにくく、改善が難しい。
権力・権威者――人を支配する快感
一方権威者も、人を支配する(人に依存される)のは、自尊心を満足させます。人を思いのままに動かすということは、非常な快感です。避けがたい誘惑です。ですから、人を思う通りに出来ないと機嫌が悪い。医者が患者から質問されて嫌がるのはこの気持ちですし、司祭が敬虔で従順な信徒を好むのもこのためです。
ですから、私たちが権力や権威の奴隷の状態から脱出することは容易ではありません。私たちが権力・権威の奴隷である限り、必ず私たちの下に奴隷を作ります。人を差別する構造から抜け出せません。私たちが福音化され、解放され自立しなければ、差別はなくなりません。
イエスは、このことに鋭く気付いていました。ですから、権威・権力を否定したのです。じつに、イエスは人権擁護、被差別者問題の先駆者であったわけです。この福音書も、何者にも犯されない人権の尊厳を主張する人権問題の書として読めます。
貴は賎の、権威は差別の裏返し
我が国の部落民の問題は、権力側の民衆支配に必要な手段として、部落階級が出来て来たという歴史的事実があります。そして、私たちの側にもそれを受入れ、私たちが下を見下すことにより「彼らより俺たちの方が未だましだ」と私たちが安心するという心理があります。
権威の象徴である天皇家を尊崇する気持ちを裏返すと、部落の人々を忌避する気持ち、すなわち差別意識となります。権威を有り難いと思う、権威に寄り掛かる権威意識と、下を軽蔑し支配する差別意識は裏表なのです。天皇の権威に抑圧されていた、日本軍兵士(故郷では温和の人々)が如何に弱者を虐殺できたかは、悲しい歴史が証言しています。
これは、無意識な潜在意識としてあるので、私たちはこの心の働きを充分気付いていません。いわば内なる天皇制(権威意識)です。この意識があるかぎり、兄弟だ、同志だと言葉だけ言っていても駄目です。共産主義国家がそうでした。同志とお互い呼び合いながら、特権階級が出来、凄まじい人権蹂躪があっこことは御存じの通りです。
自分と相手の価値
この権威意識があると、人を等身大にみることができません。その人を過大に評価したり、過少に評価します。その富、家柄、服装、地位、学識などにより偉いか偉くないか、 人の価値・尊卑を判断します。
権威により相手が大きく見えたり小さく見えたりするのですが、そうではなく、相手により本来の自分が大きくなったり、小さくなったりするのです。
自分の価値が、相手によって小さくなったり、大きくなるのです。自分を本当の自分として等身大に保つことが出来ないのです。自分が不安定なのです。自立していないからです。
自分は自分であって、それ以外の何者でもないと気づき、自分自身を何時もそのままの大きさで保つことができる人、本当に自立出来た人が、権威・権力に惑わされずに、相手の大きさを見ることが出来ます。
ですから、差別問題の根っ子は、私たちが、本当に自立出来ているかどうかということに係わります。上の権力・権威に依存せず、下を支配せず、自分を自分で律する、権力を自分に行使することができる時に自立したと言えるわけです。ということは、私たちが、そういう自分自身に気づき、権威意識を克服した時です。すなわち、本当に福音化された時です。
先生族の悲劇
しかし問題は、権力や権威の構造の中に組み込まれている私たちは気付くことができません。批判されずチャホャされ、偉いと思いこんでいる「先生」族(医者、教師、司祭などの権威者)の問題はそこにあります。彼ら、それから私たち権威者は人からの批判を拒否するので、その人は自分に気付かず、人間として成長することができません。
この権威意識を私たちに気づかせてくれるのが、権力・権威構造の外にいる人々です。小さくされ、苦しんでいる人々の叫びです。その人々の率直な声に耳を傾け、そして友達になることによって、如何に私が律法主義で、権威・権力をふりまわして人を抑圧していたか、そのわたし自身の姿に気付かされてきます。被差別者が私たちに教えてくれるのです。
本当の福音の光りが見えてくるのです。光りは権威地エルサレムからではなく、辺境ガリラヤからです。
このように、イエスは、権力※3より、むしろこの権威は人の精神の自由と自立を抑圧し、差別構造の元になると、厳しく批判していると思います。
ですから、権威者よ。あなた方は『先生』『教師』呼ばれるな。また、地上の権威者を『父』と呼ぶな。地上の権威に惑わされることなく、差別なく人と兄弟・友達なりましょう、とイエスは仰っています。
そして、苦難の僕として、十字架の死につきました。権力と権威を、身を持って否定して、弟子たちにお手本を示したのです。
自立/自律者は、自分で自分を支配する 「内なる権威者」
そして、「神の権威」のみに従順であり、地位とか職業で先生と呼ばれる「外の権威者」としてではなく、自分で自分を支配する「内なる権威者」として自立の道を歩むよう求められています。
この章での「兄弟」という言葉は、権威、差別、自立、回心、福音とつながる重要なキーワードだと思います。フランシスコが、仲間を全て「兄弟達」と言った重要な意味が判ります。
※1、マタイ23・7〜12―先生と呼ばれるな
23:7
また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
※2、マルコ12・37、ダビテはメシアの僕 とマルコ13・2、神殿崩壊
12:35
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
マルコ13・2、神殿崩壊
13:1
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
※3、イエスの王権観
ヨハネは時の王ヘロデを弾劾して殺されたが、イエスは自分を殺そうとしたヘロデを「あの狐」(ルカ13・32)と言って黙殺に近い態度をとっています。