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15、出エジプト記W(荒れ野への準備)―――――――――――移動神殿と偶像の誘惑
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さて、前章の十戒授与(20・1〜21)に引き続き、「契約の書」と呼ばれる、十戒の具体的実施細目が示されます。この出エジプト記、20章22から23章33は、契約法典とも言われヤハウェ・エロヒム(J・E)資料が記され、後述のレビ記の神聖法典(レビ17〜26章、祭司文書、P資料)や、申命記法(申命記12〜26章、D資料)より古いと言われており、相互補完関係にあります。
契約法典(20・22〜23章)――社会正義の実現
内容として、祭儀・奴隷・死罪・障害・損害補償など多岐にわたっていますが、際立って特徴的なのは、他の法典と同様、人道主義的な配慮――奴隷・寄留者・未亡人・孤児・負債者・貧者など、弱者への配慮に満ちていることです。
寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。 (出エジプト22・20)
預言者達が声を大にして叫んだのが、偶像拒否とこの社会正義の実施でした。この理想が、ヤーウェの神の大きな特徴です。憐れみと熱情の神、ヤーウェの特質といってよいでしょう。アモス(アモス5・24)、ホセヤなどの北イスラエルの契約神学(申命記10・12〜19)の基本倫理で、南ユダ王国のミカ、イザヤ(イザ1・15〜17)、エレミヤなどの預言者に引き継がれています。勿論、イエスも、この実現の為(ルカ4・18〜21)に来られたといって良いでしょう。
寄留者・寡婦と孤児・貧民へは無利子で、隣人の上着の質入れは、日没までに返す法律(出22・20〜26、※1)があります。 奴隷について(出21・2〜11)は、ヘブライ人の奴隷の7年目の解放を求め、娘の売買を制限しています。
安息日も(23・12)牛やロバが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためとされ、しかも、土地までも安息年として(23・10、11)7年目に休閑地にして、休ませる法律があります。
また、面白い規定として、東洋の「豆がらで、豆を煎る」ような、骨肉相食むことを禁止しています。
「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。」出23・19、があります。
お腹の中で肉と乳が一緒に煮えたら律法違反なので、イスラエルのホテルでは、肉料理のデザートに、アイスクリームは出てきませんし(出ても、牛乳を使わないアイスクリーム)、牛乳を飲んで、肉を食べる事は出来ません。牛乳の代わりに、美味しくない豆乳が出ます。
また、死罪について、故意の殺人は死刑ですが、誤って死なせた場合は、駆け込み寺「逃れの町」に逃げ込めば助かるという面白い救済措置(出21・12〜17)があります。
「目には目、歯には歯」で知られている、同害報復規定(21・23〜25)は
21:23
もし、その他の損傷があるならば、命には命、21:24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、21:25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
とありますが、本来の意味は、過剰な報復(創4・24カインの復讐のやうな)を禁止することなのです。
迷信について
また、呪いや迷信を禁止して、「女呪術師を生かして置いてはならない。」22・17という、厳しい法律があります。レビ19・26b,31 にも「占いや呪術」と「霊媒と口寄せ」禁止令があります。違反は死刑という厳しい規定です(レビ20・27) 。
しかし、バビロン補囚期以前の記録では(サム上28・7、列下22・14)サウロ王もヨシヤ王も、巫女(女預言者)に頼った記事がありますが、捕囚期間後、祭司の権威が確立した時代から、だんだん厳しくなったようです。
契約の血(24章)―契約の締結
モーセは主の十戒とその契約法典を民に告げ終わると、長老たちを連れて再びシナイ山の麓に登り、契約の締結儀式を行います(24章)。
モーセは血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振り掛けると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことを全て行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り民に振り掛けて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血(※2)である。」24・6〜8、と。(新約では、最後の晩餐の席上、ぶどう酒を、新しい契約の血として記念するよう、イエスから遺言されます。ぶどう酒は、イエスの十字架上の犠牲血に聖変化するのです。)
そして、その契約締結の儀式を祝って神前会食が行われます。
和解の徴、神と人との共食――ミサの原形
24・11節、「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。−−」とあり、神前で祝宴を行います。聖書では、この様な会食の儀式は、和解のしるしとして重要視されています。
前にも、「アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセの舅と共に神のみ前で食事をした。」(出エジプト18・12)というような記事が、出てきています。このほか、サム上16:5には 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」と、サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。という記事があります。
また反対に、友好関係を拒否する時には、共食を断る記事(列上13・15〜)があります。
日本でも、「同じ釜の飯を食べる」ことが、家族同様となる親愛の印とされていますが、食事を共にすることは、洋の東西を問わず重要な和解と親睦の儀式なのでしょう。
イエスのパンの増殖奇蹟もそうでした。3千人〜5千人の人々が、共食したということは、ただ単に人々が空腹を満たしたのではなく、和解と平和の空間が現出したことを意味します。即ち、キリストの平和、神の国が出現したということです。
この、神前での人との共食がミサの原型ではないでしょうか。パンを共に食べることにより、キリストの霊をいただき、契約更新を決意するミサ聖祭は、司祭から、生け贄となったキリストの体、パンを頂くからあり難いだけはなく、共同体全体で、共に食べて和解する(赦しあう)ということに意義があるのです。
キリストの十字架の贖いで、全人類は「出エジプト」を果たし、私たちの自由への解放は実現しました。自由となり、解放されたわたし達は、初めて契約を結ぶことが出来ます。この契約更新式の結果、新約の民として、愛の共同体に新たに生まれ変わったことを祝って、パンを共に頂くのです。聖体祭儀としての、カトリック・ミサのもう一つの解釈です。
聖体を頂く、恵みを受けるというのは、どうしても聖職者主導で、信徒は受動的な立場になります。形骸化します。わたし達がキリストの死と復活を通して、神との契約更新を行い、お祝いするミサであれば、信徒の行動的な参加を促します。「感謝の祭儀」、「記念の祭儀」とされる、カトリックのミサは、もっと「契約の祭儀」、「会食の祭儀」としての側面を強調して良いと思います。
奴隷からの解放を記念する、シナイ契約の原点を想起すべきでしょう。
また、一家団欒の食事は、私たち日常生活の中では大変、重要な意味をもっているのではないでしょうか。テレビを見ながら、或いは各人勝手な時間に、別々に食べることが当たり前となっている現代は、まことに貧しい食事をしていることになります。食事の大切さを考えさせる個所です。大袈裟に言えば、人間としての文化の出発点は、会食では無いでしょうか。
旅立ちの準備(25章〜31章、P資料)――神と共にカナンの地に
さて、カナンの地をめざして、いよいよ出発の準備が始まります。今までと違って、契約の箱を運ばなければなりません。神と共に砂漠の旅をしますので、神が臨在できる幕屋の新設計と製作が行われます。
そのため、先ずモーセは山に登り、新しい幕屋建設の指示をヤーウエの神より受けます(25章以下、P資料)。モーセは古来の素朴な遊牧民の幕屋から、分解組立て可能な豪華な移動式神殿を建設するよう新設計図を指示され、また祭儀奉仕者(祭司)の服装や聖別法、儀礼用具等の指示も受けます(出25章〜31章11)。
原幕屋と新幕屋の違い――何故、宿営の外から中に?
もともとモーセ時代の従来の幕屋は、神託を受ける場所で、神が常時その場所にいるのではありません。臨在の幕屋と呼ばれ、宿営の外、遠く離れた所にあるものでした(※3、出33・7〜)。「宿営の外」、それは、共同体宿泊地の外で、不浄の民、らい病者が隔離されている所でもあります。レビ13・46bでは、「その人(重い皮膚病にかかっている患者)は独りで宿営の外に住まなければならない。」とあります。神が、宿営の外にある幕屋に臨在したということは、被差別者と共にいたということです。(イエスも宿営の外―村外れでらい者に出会い、癒しています、ルカ17・12。)
しかし、P(祭司)資料の25章8では「わたしのために聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むだろう」と、宿営の中心に位置するよう変化してきています。
しかも、モーセは従来の幕屋の中には入って、神と面談できましたが(33・9、J資料)、新しい幕屋型移動神殿(神殿式幕屋)では、中に入れないことがあります(40・35、P資料)。入ることが出来るのは、祭司のみであることに変化して来ます。何故でしょうか?一つの疑問です。
この、25章以下の幕屋の記事(P資料)は、バビロン補囚中か、若しくは帰還後、祭司により書かれたと言われています。イスラエルの民は、補囚帰還後、祭祀国家として、律法を整備し、神殿(いわゆる第二神殿)を再建するのですが、その神殿は共同体の中心に位置すること、そしてその第二神殿の担い手は、モーセのような預言者でも、また王でも無く、自分たち祭司であるという主張が、これらの記事に込められているのではないか、と思います(旧約略解、56章エゼキエル書V参照)。これは、次の新幕屋の設計にも良くあらわれています。
幕屋型移動神殿―ソロモン神殿の想起
ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、誇るべきソロモンの神殿は破壊されました。補囚の地で、祭司たちは、在りし日の豪華なソロモンの神殿を想起し、荒れ野を旅する幕屋はかくあるべきと願ったものなのでしょう。二重構造の天幕の中にミニ幕屋型神殿(大きさは、ソロモンの神殿-―列王上6・2の、間口20アンマ、9m、奥行きは、内陣20アンマと外陣40アンマで、計60アンマ、27m――の丁度半分)があり、金銀をふんだんに使った、かなり豪勢な造りで、神殿(幕屋)もそれを覆う天幕も分解して運ぶ事が出来るように設計されています(26章)。また契約の箱は、棒を通して担いで持ち運ぶことが出来るようになっています。全て、豪華な可搬式なのです。
幕屋を囲む庭、即ち幔幕を張った神域は、間口50アンマ(22、5m)奥行100アンマ(45m)ですから(出27・9〜17)、一寸した体育館なみの広さでこれはもう明らかに、モーセ時代の遊牧民の簡素な天幕ではありません。バビロン補囚からの帰還を、第二の出エジプト(※4、エズラ1・2〜4)と考えた祭司たちが、あるいはこの様な立派な移動神殿と共に祖国に帰還したいとの願望が秘められているのかもしれません。
神が指示された、この豪華な「移動神殿」と共に、イスラエル共同体は文字どおり「旅する教会」として、荒野に旅立つべく準備を進めます。
金の子牛事件(32章〜34章、E資料)――偶像信仰の弱さ
ところが、モーセが山に登り留守の間に、大変なことが起きます。ヤーウェの神のみを信仰すると契約したばかりの民が、偶像「金の子牛」※5を造って拝み、祝宴を張ったのです、32章。怒ったモーセは、契約を記した石板を、粉々に砕いて破棄してしまいます。
偉大なカリスマ的指導者、モーセが不在で不安に陥った民に祭司アロンは、見えない神ヤーウェへの信仰を確かにするため、目に見える信仰の対象として金の子牛を造り、「主の祭りを行う」出32・5、と宣言して、焼け尽くす犠牲を供えました。
これが、十戒の第二の戒めに違反したとして、ヤーウェの神は激怒します。主の祭りを行う、ヤーウェ信仰の手段としても、偶像崇拝は決して許されないのです。(ということは、カトリックのマリヤ像や、聖人像も信仰のためとは言いながら、尊崇するのは果たしてどうなのでしょうか。)
また、神父が代わると駄目になる私たちは、モーセが留守をすると、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』32・23と、たちまち不安に陥る民と全く同じです。モーセを偶像視した旧約の民とそう変わりません。
この段階では、各人の信仰はまだまだ未成熟で、荒れ野で40年(民数記)の自立訓練が必要なことが分かります。
「金の子牛」崇拝に陥った民に怒った神は、荒れ野の旅には同行しない。代わりに主の使いを出す(33・2節)、と仰せられます。民は嘆き悲しみ、身につける飾りを取り外して、謹慎します。 モーセも「どうかこのわたしをあなたが書き記した書の中から消し去ってください」(32・32)と、身命を賭してお願いする。そして、臨在の幕屋を、宿営の外につくり、その中に入りヤーウェの神と、「主は人がその友に語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」。
そして、やっと「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」という神の同行の保証を得ることが出来ました(33・7〜17)。
この様な事件のために、契約のやり直し・再締結があり、締結の宣言、再授与(34章)が行われ、石の板が作り直されます。申命記資料(申5・22)では、神が記したとありますが、このJ資料(出34・28)では、40日断食したモーセが自分で書き記したとあります。
移動式神殿の製作完了(35章〜39章、P資料)――祭祀装置の完成
事件後再び、イスラエルの民が総力をあげて、中断されていた幕屋製作に取り組みます(36・5)。「この民は、主がお命じになった仕事のために、必要以上の物を携えて来ます」と言われるように、幕屋部品など、祭儀用具作成のための熱心な献納があり、「主」は「心に知恵のある、持つ者」に「神の霊を満たし、知恵と英知と知識を持たせ」35・31、有能な技術者を任命したとあります。36章から39章までの詳細な記述は、祭司記者たちの神殿への非常な関心と情熱が窺える部分です。
さて、新幕屋が設置されますと、早速神の栄光が現れます(40・34〜35、P資料)。
「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることが出来なかった」と、神の超越性が強調されるに至ります。(J資料―33・11では,モーセは、神と顔と顔とを合わることが出来たが。捕囚後のP資料では、神殿に入れるのは、アロンのような大祭司だけとなる。)
40・38「旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家の全ての人に見えたからである。」
という状況の中で、雲が幕屋を離れると幕屋を解体して出発し、離れて昇らない時は滞在するということで全て神と共に、幕屋即ち、神殿中心に行動できることになりました。
いわば、神と蜜月の荒れ野の旅(※6、申命記2・7、エレミヤ2・2)がここに始まるのです。
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※1、出22・20〜26−契約法典、弱者に
22:20
寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
22:21 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。
22:22 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。
22:23 そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。
22:24 もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。
22:25 もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。
22:26 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。
※2、契約の血―新約では(1コリント11・25、マルコ14・24、マタイ26・28、ルカ22・20)
モーセは、犠牲の雄牛の血を民にふりかけましたが、イエスは、血を葡萄酒に代えて
1コリント、11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
マルコ、14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。この杯から飲みなさい。
マタイ26・28、これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」、とされました。イエスの十字架上で流された血が、旧約の犠牲血に代わったのです。
※ 3、宿営の外に幕屋―出33・7〜11(J資料)
33:7
モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。
33:8 モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。
33:9
モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。
33:10 雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。
33:11 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。
※4、第二の出エジプトとしての補囚帰還―エゼキ1・2〜4
1:2
「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。
1:3 あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。
1:4 すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」
※5、金の子牛(E資料)
これは、北王国のヤロブアム王批判(列王下12・28〜30)と言われています。北イスラエルは間違っている。金の子牛の偶像崇拝をしているから亡んだのだ。これを教訓として、再び有ってはならないこととして、エロヒストが此処に挿入したとされています。
列王下12・28〜30―彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」
12:29 彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。12:30 この事は罪の源となった。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。
※6、荒れ野の旅―神との蜜月時代
申命記2・7 ―2:7 あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。
エレミヤ、2:2 ―行って、エルサレムの人々に呼びかけ/耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心/花嫁のときの愛/種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。