1990年代の後半から2000年にかけて昔懐かしいロックバンドが再結成を行い、全米ツアー、あるバンドは日本公演も行った。

私が一番ロックに夢中になった80年代。この時、「産業ロック」という言葉で象徴されるロックが流行った。わかりやすいメロディと軽快なノリ、ちょっぴりカッコいいギターが入り、シンセサイザーでコテコテに味付けした。こういう音楽である。STYX、BOSTON、Foreigner、TOTO、Journey、Survivor、REO Speedwagonなど。人によってはChicago16や17あたりのChicagoも入れる人がいる。STYX、Journeyなどは長い沈黙を破って再結成し、日本にも来た。

これから何章かにわたって10数年も前にアメリカそして日本の若者を魅了した「産業ロック」について振り返りたいと思う。
 

第一章 STYX

1.結成からメジャーデビューまで

2000年2月、STYXが18年ぶりに日本でコンサートを行った。全盛期でも日本に来たのは1982年の1度切りというからSTYXファンにとってはまさに待ちに待ったというはずだったが、肝心のチケットの売れ行きはさっぱりで新宿厚生年金会館での東京公演も半分程度しか埋まらず、散々だった。18年という時の歳月もだが、やはり中心人物であり、豪快でいて時には繊細なヴォーカルを聴かせてくれるDennis DeYoungが脱退したのが大きい。

産業ロックの中で一番デビューが早かったの実はSTYX。シカゴに住んでいた幼なじみのDennis DeYoung(Key and Vo)、Chuck Panozzo、John Panozzoが集まって1964年に作ったThe Tradewindsというグループがそもそもの始まり。シカゴのクラブで演奏しているうちに別のThe Tradewindsというバンドがあることがわかり、バンド名をTW4と改称。やがてJames Young(JY)とJohn Curulewskiというふたりのギタリストが加入。彼らのデモテープに興味を持ったWooden and Nickelという無名のレーベルからスカウトされ、ここから4枚アルバム(*1)を出したが見向きもされなかった。しかし突然1975年にLadyがヒットするやメジャーレーベルからお声がかかり、A&Mと契約し、Equinoxというアルバムを発表。Light UpやSuite Madame Blueがヒットし、一躍有名に。Equinox発表後、John Curulewskiが脱退するが、即座に背は低いが甘いマスクのTommy Shawが加入。Tommyの加入するやいなや全米のみならず英国でも絶大な人気を誇る。Corner Stone(1979)やParadise Theater(1980)では軟弱なバラード中心になったが、Tommyが加入したての頃はQueenやPink Floydも真っ青のハードロックとプログレがほどよく混じり合った曲ばかりだった。Cristal Ball(1976)を初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。私もCorner StoneやParadise Theaterから入ったクチだからSTYX=Dennisの軟弱路線というイメージが強かったが、1曲目のPut me awayを聴いた時、びっくりした。プログレ調の華麗なシンセからボーカル部分に入るや否やTommyとJYの豪快かつ力強いギタープレイ。ハード-->プログレ--->ハードと目まぐるしく変わり、間髪を置かず次の曲Sweet Madomoiseleへと移る。

この華麗な転調、次の曲への繋ぎは70年代前半のブリティッシュロックで、よく見られたやり方である。だから彼らは英国人にも好かれた。事実英国ツアーは発売後、即座に売り切れだったらしい。

さて、このDennis、Tommy、JY、John & Chuck Panozzoの5人による第二期STYXで一番評価が高いのが、The Pieces Of Eight。アルバム全体の纏まり、力強さ、STYXの長い歴史の中で一番の出来だと個人的にも思うし、ロック評論家の中でも一番人気がある。STYXがチャートを賑わせたのは、この後に発表されるCornerstoneとParadise Theaterであるが、結構ミーハーなポップス好きや女の子、あるいはビルボードのチャートが全てという底の浅い評論家が持てはやしているだけで、私を含むロックファンの多くはこのThe Pieces Of Eightの方が評価が高い。JYの攻撃的なロック、Tommyの軽快にしてしかし力強いロック、DennisのあのQUEENのFreddie Mercuryを思わせるような厚いヴォーカル。まさに圧巻である。このアルバムの中でDennisはシカゴの教会を借りてオルガンの音を入れている(2曲目のI am Okay)。敢えてシンセでなく本物のオルガンの音を入れて重厚なサウンドを作っている。凝っている。Cornerstone以後のやたら芝居がかった懲りようではなく音楽というものに真摯に凝っているのである。このシカゴの教会(Cathedral of St.James)はシカゴの摩天楼街の北側すぐのミシガン通り沿いにあります。ミサの時などにはこのオルガンの音を聴くことが出来るのでお勧めです。
 

2.転機そして活動休止

The Pieces Of Eightで築き上げてきたロックの重鎮の地位もこの次のアルバム、Cornerstone(1979)から崩れ始める。メンバー個々の作品がバラバラに収まるだけの統一感のない作品が続く。The Paradise TheaterやKilroy was hereではあるひとつのストーリーを描いたものらしいが、曲としてはまとまりに欠けている。とにかくこのCornerstoneからはBabeというバンド初めての全米No.1に輝いたバラードが生まれ、アルバムもヒットするが、この時からDennisの暴走が始まる。そうDennisのミュージカル好きが災いし、出来の悪いコンセプトアルバムを2枚も出すハメになる。

1枚目のコンセプトアルバム、The Paradise Theater(1980)。1928年に開場し、1958年に閉鎖された実在したシカゴの同名の劇場の追憶をテーマにしたものだったが、コンセプトの流れに沿っていたのはDennisの曲ばかりでJYやTommyはそういったコンセプトにはお構いなしの曲。Dennisの作品である1曲目のA.D.1928 (Paradise Theater Opens)、2曲目のRocking The Paradise、5曲目のThe Best Of Times、そして最後のA.D.1958 (Paradise Theater Closed)だけがテーマに沿っていて後の作品は全く流れにお構いなし。というよりはそのアルバムに入る必然性すら感じられない。不幸にもこのアルバムからTommyのペンによるToo Much Time On My Handがヒットし、Dennisの目論んでいたコンセプト性の価値は半減した。しかしツアーでは劇場をモチーフしたセットを使い、オープニングには劇場の掃除のおじさんが出てステージを見回したところで、Dennisがピアノを弾き始め、A.D.1928を歌い始めるという凝ったショーを行っている。この奇抜さがうけてアルバムも10位以内に入る健闘ぶりだった。

これに気をよくして、よせばいいのにまたDennisはコンセプトアルバムを作った。1983年のKilroy was here (日本ではMr.Robottoと呼ばれる)。今度はアルバムのリーフレットにわざわざLPジャケットサイズいっぱいに長々とストーリーまでつけたのである。ロボット社会と対決するKilroyという青年のストーリーだが、この説明書きの意味を疑いたくなるくらい、アルバムはまとまりがなかった。1曲目のMr.Robotto、緊張感のあるこのオープニングの後、聞こえたのは「コールドゥ・ウォー」と気のない声で歌うTommyの声。曲も全く緊張の糸が切れて「どこがCold Warか」と言いたくなるようなやる気のなさ。Tommyはこの頃から芝居好きのDennisに呆れ果て、バンドへの熱意をなくしていたという。「ドモ・アリガット・ミスター・ロバット」という人をなめたような下手な日本語の歌詞で日本での人気もガタ落ちした。

このKilroy was hereでは全米ツアーを行っており、その模様はライブアルバム、「Caught In The Act」でアナログレコード(後にアメリカのみCD化)とビデオで発売された。

私はビデオの方は見ていない。「Caught In The Act」のCDを聴いただけである。1曲目は「Mr. Robotto」であるが、出だしを聴いて驚いた。アルバムバージョンのテープかレコードからリードヴォーカル部分を除いたものをバックで流し、それに併せてDennisが歌っているだけである。CDの中の写真を見るとDennisがキーボードから離れステージ狭しと動き回っている写真があるところから恐らくマイクを持ってステージを大げさな振りをつけて踊り、歌ったに違いない。後は楽器、コーラスともアルバムのままである。他のメンバーはこの時どうしていたのだろう? 口パクに演奏のフリをしていたのだろうか? これではかわいそうである。さすがに他の曲ではライブ演奏を行っていたが、Dennisの暴走ぶりは酷いものだった。

このツアー後、DennisとTommyは不仲となり、結果的にSTYXは6年もの間活動休止となる。

Kilroy Was Hereツアー後、活動を休止したSTYX。Dennisはソロアルバム「Desert Moon」を1984年に発表、アメリカでもそこそこの評価を受け、日本でも谷山浩子のカバーがドラマで採用され有名となった。Tommyもソロアルバム「Girls With Guns」を1985年に発表。実は日本ではこちらの方が人気が出た。CMでの使われ、歌謡番組「夜のヒットスタジオ」にも出演したりと結構引っ張りだこだった。やはりルックスの良さが得をしたのだろう。Dennisもそれなりにカッコイイとは思うが、ちょっとおじさん臭くあまり女性が夢中になるようなタイプではないと思う。その後、TommyはNight RangerのJack BradesとDamn Yankeesを結成し、2枚のアルバムを出す。
 

3.再結成後

STYXは何の前触れもなく1990年秋に6年ぶりのオリジナルアルバム「Edge Of The Century」を発表する。再結成のメンバーにはTommyの姿はなく、かわりにニュージャージー出身のギタリストGlen Burtnikが参加する。Tommyより2歳若く、男の私でも憧れるルックスの良さだった。ヴォーカルもギターも渋く、個人的にはTommyより好きである。
アルバム自体もGlenやJYのハードロック、Dennisのメロディアスな曲が見事に融合し、アルバム全体の質も高い。ただしアメリカでも日本でもそんなに売れなかった。シングルもDennisのバラード、Show Me The Wayが20位程度に入っただけだったと記憶している。

実はこの1990年の再結成の話を持ちかけたのはTommyだったそうである。当時、DennisがあるFM雑誌の電話インタビューに答えていたが、突然TommyからDennisの自宅に電話がかかり、STYXとして再出発しようと言い出したそうである。2000年のツアーもTommy主導で行われたことからもわかるが一番STYXというバンドに思い入れがあったのはTommyのようだ。

しかしTommyの方はDamn Yankeesの活動が忙しくなり、結局Glenを入れての再出発となった。

しかしその再結成も1991年の「Edge Of The Century」ツアーを最後にまたも6年間の沈黙となる。原因はDennisが本腰を入れてミュージカル活動に専念するためだったようだ。

そして1996年、またもSTYXは突如再結成する。今度はTommyも参加してCristal BallからKilroy Was Hereの名アルバムを作った5人が集まって1975年の名曲Ladyの再録音、そして全米ツアーに出る。ツアー名も全盛期のアルバム「Paradise Theater」の再現「Return To The Paradise」と銘打ち、派手な舞台演出のSTYXらしいツアーが始まる。

この「Return To The Paradise」はかなり好評だったようだ。メンバー全員が思い入れのあるアルバム「Paradise Theater」をフューチャリングしたツアーだけあってメンバーのノリも最高だった。このツアーも2枚組のCDとビデオとなって発売される。しかし途中からドラムのJohn Panozzoが、持病の慢性アルコール中毒の悪化により退き、かわりにTodd Suchermanが参加する。Johnの復活が待たれたが残念ながら1996年の夏、Johnは帰らぬ人となった。ツアーのライブアルバムはJohnの死後に演奏されたもので、Johnに哀悼の意を捧げるDennisのMCとJohnに捧げるスタジオ録音曲「Paradise」が収録されている。

「Return To The Paradise」の好評に気をよくしたDennisは1997年には1977年のアルバムGrand Illusionの曲ををフューチャリングしたツアーを行う。しかしDennisの心はだんだんミュージカルの方に傾き、1999年に9年ぶりのオリジナルアルバム「Brave New World 」を最後にバンドを脱退、ついにはChuck Panozzoのバンドを去り、またもSTYXは空中分解の危機に瀕す。
残ったバンドはLawrence Gowan(Key/Vo)、そして「Edge Of The Centuryでも活躍したGlen Burtnikをベースに迎え、2000年2月、18年ぶりの来日公演、続く全米ツアーを敢行する。
 

4.来日公演

私も2000年2月10日の新宿厚生年金会館でのコンサートを見た。心配だったDennisの代役をLawrence Gowanが見事に果たした。いや回転するキーボードを回しながら歌ったり、果てはキーボードの上に立ち上がって熱唱したりとDennis以上のパフォーマーだった。が、バンドの中心はやはりTommyだった。観客に一番話しかけていたのはTommyだったし、演奏された曲もTommyの曲が多かった。バンド一番のヒット曲Babeすら演奏しなかったのだから、如何にTommy主導で行われたかが伺える。

このBabeについてだが、1979年のCornerstoneに収録されているこのバラード、Dennisが自分の妻に宛てて作ったラブソング。バンドのために作ったのではない。これをSTYXの曲にするように進言したのは彼の妻である。Dennisも自分の個人的な曲をバンドの曲にするのはためらいがあった(この時はまだDennisにも協調性というものがあったらしい)が、妻のアドバイスにバンドを説得し、アルバムに入れたという経緯がある。他のメンバーにとってはあまりいい思いがしないのは当然であろう。またBabeのヒットによってバンドの方向性もDennisのバラード中心となったのだからハードな曲を好むTommyやJYからして面白いはずがなかった。

ちなみに私もBabeは嫌いです。
 

さて新宿でのコンサートに話を戻すが、Lawrence Gowan、Tommy、JYそしてGlenのそれぞれの個性がぶつかりあって非常に楽しいコンサートだった。特に大好きなEdge Of The Centuryが演奏されたのは嬉しかった。

だが、やはりDennis不在というのは大きかった。最後はバンドの問題児となっていたとはいえ、STYXはDennisのあの華のあるヴォーカルがあってこそ。目の前のバンドは紛れもないSTYXとはいえ、やはりSTYXの曲を演奏するコピーバンドという印象が拭えなかった。
 

今、DennisはSTYXの名称、作品の帰属を巡ってメンバーと争っている。Dennisとバンドの不仲は修復不可能といえる。2000年の来日時、Tommyは脱退したメンバーについてこう語っている。「Chuckはまだ正式に脱退したわけではないんだ。学校で言えば長期欠席扱い、バンドに戻ろうと思えばいつでも戻れるんだ。でもDennisは.....非常に難しいとしか言いようがない」
このTommyの言葉からしてあの華やかな時代のSTYXは永遠に帰ってこないだろう。

今、残ったメンバーはREO Speedwagonとジョイントコンサートを行い、その模様は日本でもCD化されている。STYXの火を絶やさないTommyやJYの気持ちは嬉しいが、もう私の心の中ではSTYXというバンドは過去のものとなった。DennisのいないSTYXをどうしてもSTYXとは呼べない。

2002年1月23日

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