三の門

三の門の写真
これが「三の門」です


三の門


現在は、「寄せ棟造り」の二層の城門。明治中頃(20年頃)までは、「入母屋造り」で、
屋根はこけら葺き(*1)だった。仙石秀久時代の、大手門建築時期に建設されたよう
である。1742年「寛保の川流れ」で流出(*2)、明和年間(*3)に再建される。
堀に「矢狭間(ヤザマ)」、「鉄砲狭間(テッポウザマ)」がある、戦闘形式の城門。仙石末期の城郭様式
初期の  大手門  と、様式ができあがった後の江戸中期の三の門とは、好対照的な建築物であり、
両者が一緒に重要文化財に指定されたのは大きな意味があるといえる。

門と石垣が一体化しているか(三の門は一体化している)、石垣に組まれた石の様子がどんなか
(三の門は、気って組み合わせている)、「ちょうな」の使用があるか(三の門は使用せず)、
城郭様式にそった作り方をしているか(三の門はしている)、全体の雰囲気はどうか(相対的に見て、
三の門はの方が繊細均整)等、対照してみるとおもしろい。


「懐古園」の額は16代徳川家達(イエサト)の筆による。
  明治5年に、小諸城の入札で、三の門は北御牧の「小山氏」が引き取るが、大きすぎて「千曲川」
を渡せず、明治13年に出来た士族会へ寄贈したため、かつても姿のまま残った。

(*1):ひのき、まき等の薄皮で屋根を葺くこと。 (*2):門番が慌てて門を閉じたためと言う言い伝えもある。 (*3):1764年〜1771年まで。尚、再建は、「明和1,2,3年」と言う説がある。


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