偏愛的書物 #1

嵐が丘 (エミリー・ブロンテ著 : 新潮文庫・他)

読むとどっと疲れる小説である。おまけに登場人物の言葉にはいちいち腹が立つ。エミリー・ブロンテはこんなイヤな人間しか出てこない小説をよくもまぁ書いたものだと感心してしまう。
精神衛生上よくないので滅多に読まないようにしているのだが、怖ろしい魅力に溢れた作品でもあるのだ。読む度に新しい発見がある。

まず気になるのが主人公に与えらた名前だ。「ヒースクリフ」これだけである。苗字としても名前としても使われる。
欧米はキリスト教社会だから普通聖書や聖人に因んだものが子供に命名され、教会で祝福される。親族に因んだ命名もあるし、現にヒースクリフというのは彼が引き取られたアーンショー家の夭折した息子の名前である。だが親が好んで息子にこういう名前をつけるだろうか。heathは荒野を紫色に埋め尽くす野性の植物である。-enを語尾につけると「異教徒、野蛮人」という意味になる。全く神に祝福されていないではないか。姓がはっきりしていない、ということは彼が家に属していないという象徴だろう。ヒースクリフは神の加護も受けていない、全く何処にも属さない孤立した存在なのだ。

この物語は「悲劇」にみえて、実はハッピーエンドだ。破壊と同時に浄化、再生の物語である。
「嵐が丘」はキャサリンの死まで描いた前半に比べて後半はまとまりが悪いという評価がされているようだ。だが「悲劇」として、すっきりと読める前半に比べて、怒涛のハッピーエンドに突入する居心地の悪さからそう言われているのではないだろうか。おまけにキリスト教的道徳観念から著しくずれている。
後半、ヒースクリフとアーンショー、リントン両家の「負の遺産」ともいえる、ヒースクリフの息子が登場する。彼はエゴの固まりといってよいほど歪んだ性格の虚弱な少年である。悪しき血が凝縮された怪物といってよいだろう。彼が消滅することによって、嵐が丘に嘘のように平安が訪れる。捩れていた関係が修復され、今度はキャサリンの甥と娘が新しいヒースクリフとキャサリンとなって現世を生きるのだ。
一方オリジナルのヒースクリフとキャサリンは天国に行くことは勿論無理だが、地獄に落ちることもよしとしない。聖書の教えに従えば恋は成就しないのだ。だから純粋に恋を謳歌したヒースの荒野を幽霊となって二人で彷徨うことを選び取ってしまう。羊飼いの少年を脅えさせようが、「悪霊」といわれようが自分たちが満足すればそれでいいのだ。
ここにエミリー・ブロンテが夢想した「究極の恋愛」がある。

「嵐が丘」は全体が負のパワーに覆われている。この奇妙で歪んだ魅力に溢れた小説を書いたのが、牧師館に住むいわゆるオールドミスだったということに改めて驚きを感じる。

英国の19世紀を描いた小説や文献を読むと、オールドミスの花盛りだ。一つの文化といっていいほどだ。当時いわゆるホワイトカラーの娘は結婚して家庭に入るのが一番と考えられていた。家長である父親にとっては地位も収入も安定した「英国人」の年上の男が「理想の婿」に映っていた節があるが男女の出会いの機会はそれほどなかっただろうし、「理想の婿」の実態はやもめが多い。所属する教会が違ったり、家同士の釣り合いにこだわったりしているうちに母親が亡くなったりして家族の世話をしなくてはならない立場になる。ブロンテ姉妹も同じような環境にあった。そしてエミリーは、若い頃ヨーロッパ大陸に赴いて見聞を広めたはずなのに、全く影響されず閉じた世界に入ってしまった。

ブロンテ姉妹の故郷、ヨークシャーの荒野を一面紫に覆い尽くすヒースのありさまは、美しいというより異様な光景だ。荒々しく狂気じみた情熱を呼び覚ます魔力を持っているようにも思える。エミリー・ブロンテは荒野にヒースクリフが彷徨う姿を見たに違いない。何処にも属することはなく、ただキャサリンにだけ囚われている彼は理想の男であり、理想の自分そのものでもあるだろう。だが日常では決してありえない、というより、エミリーは現実ではヒースクリフのような男をを拒否するだろう。想像の世界で好きなように遊ぶことができるから「理想」なのだ。反面、すぐれた観察者として男達の負の部分を描いているエミリーがいる。彼女は同じ階級の男性との接触は滅多になかったが、父と兄に英国男の典型を見て作中人物に投影しているようだ。ヒースクリフを含む作中の男達の狭量で傲慢な面は父、尊大で脆弱な面は兄ではないかと思う。「旦那様」と呼ばれる連中の実際は支配的なのは勿論のこと、かなり暴力的でもある。

この小説に比べると、ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」は実に「健全」だ。いわゆる「不倫」を題材にしているし、当時としては大胆な性描写でスキャンダラスな話題が先行したが、内容としては生きる喜びに満ち溢れた小説である。コニーは愛らしいし、メラーズは森番と思えないほど「理想の紳士」だ。
ロレンスは「確信犯」として「チャタレイ」を書いていてプロの小説家として、そして男としての計算が見え隠れする。エミリー・ブロンテはプロではないと思う。自分の「妄想」をストレートに吐き出して、そして拒食症になり、他人を拒否してあっけなく死んでしまった。彼女はキリスト教と一番近い場所にいたのに一番遠かった。

最初に読んだ時、キャサリンは愛に殉じて破滅するなら、ヒースクリフとなぜ駆け落ちしなかったのかと思った。たぶん19世紀の読者たちもそういう展開の方が安心して読めただろう。そういう「道ならぬ恋」の顛末を描いたものは多々あるのだから。
だが英国(というか欧米)における階級社会がどういうものか知るにつれて、わたくしにとってキャサリンの「裏切り」は納得できるものになった。彼女は旧家の娘である。階級としては中流の上、いわゆる貴婦人とまではいかなくてもレディとして扱われるだろう。中産階級以上の人間は、労働者階級の人間がどんなに尊敬に値する人物だとしても「同じ人間」だと認めない。仕事についても厳然たるカースト制度が存在している。
以前、英国の階級制度を扱ったTV番組を見たことがあるが、上流階級のバァさんが労働者階級を指して「(どんなに立派な人間でも)わたしとはぺティグリー(血統)が違うんだよ」と言い放った。あくまでも自分は支配者なのだ。同じ階級としか付き合ってはならない、自分より下の階級の人間は「そのように」扱うように。そのようにに育てられているのである。そういう社会だからキャサリンはヒースクリフをどんなに愛そうとロマの子と一緒になるとは最初から考えていないのだ。彼女は自分の心変わりを「裏切り」とは考えていない。自分の価値を貶めぬように自分より家柄のよい男と結婚し、愛情の対象としてヒースクリフを求める。どちらも手に入れるのは当たり前のことなのだ。

キャサリンは打算と欲望と意地悪の固まりだ。実にイヤな女だが、おそらくは女の誰でもが持ってはいるが、巧妙に隠されている一面を剥き出しにしたキャラクターである。おまけにおそろしく情が強く嫉妬深い。恋愛対象の男はお互いに魂を喰らいつくす存在でないとだめなのだ。そしてヒースクリフも同じぐらいイヤな男だ。倣岸無礼で暴力で人を支配しようとする。小説の中でキャサリンが「ヒースクリフはわたしです」といみじくも言うとおり、彼等は鏡の中に映し出される自身そのものなのだ。彼等にとって恋愛は闘いでもある。力は互角でもある。
ヒースクリフはオールドミスの妄想の産物として片づけることもできる。しかし、キャサリンは娼婦でも庶民の娘でもなく、あくまでも「お嬢様」なのだ。実の世界では「紳士」を望みながら、虚の世界での「理想」はヒースクリフのような男、という女の二面性を暴いてみせた「嵐が丘」は本音と建前に終始し、絶えずキリスト教的モラルを重視する19世紀英国社会を震撼させるものだったろう。

「嵐が丘」、そしてメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」は現代に通じる普遍的な小説だと思う。
19世紀は産業革命が起こるなど大きな変化があった時代だが、道徳的には反って堅苦しいものだった。旧弊な日常に閉じ込められながらも彼女たちは「人間の本質」を鋭くついた作品を世に出した。当時はあまりにもエキセントリックだった為に「キワモノ」扱いされたが、そのテーマは決して色褪せることは無い。

わたくしはこのニ作品は、日本の「源氏物語」と樋口一葉の作品と並んで24年組といわれる少女漫画家達やいわゆるJUNE小説の作家達の先駆であるとも思うのだが、如何なものだろうか。

<2000.9.14>