ずっと、不思議だった。
 どうしてわたしはここにいるのか
わからないことは不安。
答が欲しい。信じられるような。
 どうしてわたしはここにいるのか
ここには私しかいない。
誰も答えてはくれない。
 どうして、わたしはここにいるのか






私の左手



MOON. 〜鹿沼葉子〜








私の左手に焼き付けられた識別番号。A−9。神の座に、最も近きものの証。 おかあさんが、最期に私に残してくれたもの。
「…おめでとう…」
頭の中で声が響いた。初めてここに来た時、一度だけ聞いたことのある声。
「…おめでとう、鹿沼葉子…」
かぬまようこ。それは私の名前。でも今は呼んでほしくない。誰にも呼んでほしくない。 おかあさんが、私につけてくれた名前だから。ここへ来てからは、一度も呼んでは くれなかったけれど。
「いいえ、私はC−112です。鹿沼葉子という名は今日、捨てました」
「…そうか…しかし残念ながら、君はもうC−112でもないのだよ。君は ClassCの精神レベルを著しく凌駕した。よって君は今日からClassAに配属される」
文字が変わっていた。A−9。ClassAの称号。おかあさんが切望したもの。私を、殺してまで。

私には、おかあさんの気持ちがわからない。
FARGOの教えを全て受け入れた時、きっと理解できる。
FARGOを否定することは、おかあさんを否定すること。
FARGOの教えを拒むことは、おかあさんを拒むこと。
だから、私はFARGOの信者として生きる。
私の左手に刻み込まれた、おかあさんと共に……。



 どうして思い出したのか、考えるまでもない。後悔と消えぬ傷跡を抱えたまま、 二十二歳の鹿沼葉子は宗教団体FARGOの特別隔離施設の廊下を歩いていた。 一日の勤めを終え、夕食を取って自室へ帰る途中だった。
「今日はおかあさんの誕生日。だからお母さんの命日」
秀麗な眉をしかめ、葉子は呟いた。俗世間との関わりを自らの手で断ち切った 彼女だが、唯一暦だけは正確に把握しているのだった。それは、罰。

  不意に物音が聞こえ、葉子は自室の前で鍵を取り出しかけた手を止めた。 斜め向かいの部屋から聞こえたようだが、現在このA棟には自分以外の信者は いないはずだ。彼女が逡巡しているうちに、また聞こえてきた。固いもの同士が ぶつかるような音、壁を叩くような音、そして誰かの苦しげな息づかい。 やはり、誰かいる。彼女はそっと隣の部屋の扉を開けた。

  部屋には、一人の女が床にうずくまるようにして座っていた。
「おかあさん?」
小声で口走ってから、葉子は自分の間違いに気付く。似ているのは年齢くらいで、 他は全く似てなどいない。床に散らばった女の髪は、蒼く澄みきった夜空の色。 彼女自身のそれとよく似た、陽光さながらに輝く金髪ではない。 それに、おかあさんがここにいるはずがないのに。
「あなたは誰? ここで何をしているんです?」
彼女の問いかけに、女はゆっくりと顔を上げた。その瞳が、葉子を射すくめようと するように鈍い金色の光を弾く。だがそれはほんの一瞬で、改めて見た時には 髪と同じ夜空の色にしか見えなかった。恐怖と苦痛に歪んでいた女の顔に、 ゆっくりと本来の優しそうな表情が戻ってくる。
「ごめん、なさい。勝手に、入って」
呼吸を整えながら、彼女は言った。
「私の名前は天沢未夜子。私は逃げてきたの。家に帰るために」

 逃げる。この施設にいる人間なら、その一言で大体の事情は理解できるはずだった。 それでも、葉子は侮蔑を露に柳眉を逆立て、
「安易に力を欲した上、神がお与え下さる試練から逃げるのですか」
と言い捨てた。そんな彼女に、未夜子は曖昧に笑いかける。
「教団の教えは、私に色々なものを与えてくれた。でも不可視の力は、違う。 あれは、人が得てはいけないものだったのよ。……私には、もうあまり時間がない」
「追われるからですか」
「そうではなくて。いいえ、そうとも言えるわね。狩られるか、内側(なか)から喰い破られるかだもの」
怪訝そうな顔をする葉子に、未夜子はなんでもない、と言うように首を軽く左右に振って見せた。
「時間がないの。今の私に必要なのは、教団の教えでも不可視の力でもない。家に残してきた娘の所へ 帰ること、それだけが今の私の望み。すぐに出ていくから、出来れば誰にも言わないで欲しいの」
残してきた娘の元へ。そう聞いた途端、葉子の表情が一変した。
「むすめ、さん?」
声がかすれそうになるのが自分でも分かる。動揺を隠しきれずに聞き返すと、彼女は なんともいえない穏やかで優しい微笑みを浮かべた。
「ええ。今頃はあなたと同じか、もう少し下くらいの年になっているはずよ。 ……自分の都合で放り出して、あの子に何もしてやれなかった。 あの子にはもう、母親である私しかいなかったのに」
その顔は、まぎれもなく母親の顔だった。悔恨がそれに影を落としている。
「だからせめて、残されたわずかな時間だけでも、あの子と一緒にいてあげたいの」

 久しく忘れかけていた感覚が、葉子の中に急速によみがえってくる。 誰かに思われるという、あたたかくやさしい感覚。
 胸の内に沸き上がるのは、嫉妬。見ず知らずの少女に対する、狂おしいほどの羨望。 どうして? おかあさんは帰ってきてくれなかったのに。
 あの時以来、感情を揺さぶられることも無かった。それだけに、自分でも驚くくらいの 衝撃を受け、動揺している自分にさらに戸惑う。それがおもてに出るのを止められなくて、 葉子はくるりと後ろを向いた。それでも、胸に溢れるどす黒い感情に押し流されそうな理性が、 もし自分がその子だったらと訴える。

  「地下通路から来たのでしょう?」
問うと言うよりは確認する口調。未夜子がうなずくのも見ずに言葉を続ける。
「C棟の近くの通気ダクトに、人が一人通れるくらいの穴が開いていました。 ……昔の話です。今は知りません」
そこまで言って、彼女はやっと振り返り未夜子を見た。少しでも触れたら壊れてしまいそうな、 儚い笑顔を浮かべて。
「帰ってあげてください。きっと、寂しがってます」



 もうすぐ、おかあさんの誕生日。ここでは何のお祝いもできないから、 せめてお誕生日プレゼントだけでも、急いで買いに行かなくちゃ。 だから、一度は外へ出ないといけない。たとえ、きょうだんの「きまり」を破ることになっても。
 食事の時に支給されるフォークを服の袖に忍ばせて、少女は今日も施設内の廊下を駆けていく。 この時間、C棟ではたくさんの信者達が昼食のために食堂を出入りしているため、特に巡回員の 目に留まることもない。
 倉庫の中へ入ると、荷物の奥に隠された地下通路へと続く梯子を降りる。降りきる前に、 天井近くを這っている細いパイプへと飛び移り、うんていの要領で伝って通気ダクトへと入り込む。 半ばに空いた赤ん坊の頭くらいの大きさの穴を覗き込み、下に人がいないことを確認すると、彼女は 最近の日課となった作業を始めた。穴の縁にフォークを突き立て、少しずつ削り、徐々に穴を広げていく。
 そう言えば、ここはどこなんだろう。近くにちゃんとお店あるかなあ。それより、何を買おう。 おかあさんの好きなもの、おかあさんが喜んでくれそうなもの。

  そうして買った、可愛い動物の形をした置き時計。それを渡して、二人でささやかなお祝いをする はずだったのに。おかあさんは……。




  「ありがとう。でも、どうして?」
戸惑いを隠さぬ未夜子の声が、彼女を現実へと引き戻した。どうして、か。何を尋ねようというのだろう。 どうして逃げ道を教えるのか? それとも、どうしてこんなことを知っているのか?  しばらく考えて、やがて彼女は目を伏せたまま答えた。
「あなたに罪があるのなら、罰は神が与えてくれるはずですから」
鋼鉄の仮面のようなその表情は、どんな感情もあらわにすることはない。そのまま 部屋を出ようとする彼女に、未夜子は立ち上がって、片手を差し出しながら、
「本当にありがとう。ええと、あなたのお名前は?」
「……鹿沼、葉子」
「ありがとう、ようこさん」
差し出された手に、ためらいがちに手を重ねると、しっかりと握り返された。あたたかくて少し 固い、母親の手。こんなふうに、あたたかく包み込んでくれるはずだった手。頭を撫でてくれるはずの、 優しく抱きしめてくれるはずの手。その手が、きつく喉を締めつける。 ……苦しいよ、おかあさん。どうして? ねえ、どうして……

 思いのほか強く握っていたらしく、気がついた時には手にくっきりと指の跡が残ってしまっていた。 葉子はどこかぎこちなく手を離して、さよならも言わずに部屋を後にする。

 自室に戻り、扉に鍵を掛けると、溢れ出しそうな感情を抑えようとするように、両手を ほてった頬に当てた。しばらくそうしてから、手を離して自分の両手を見比べる。 あの人と握手をした右手と、おかあさんの刻み込まれた私の左手。
 今日の自分は変だ。感傷的になりすぎている。そう考えても、思うことを止められはしない。 あの人はちゃんと施設を出られるのだろうか。多分、大丈夫だろう。根拠はないが、そんな気がする。 あの人は家に帰って、待っている娘と暮らすのだろう。こことは何もかもが違う世界で。
 羨ましくないと言えば嘘になる。でも、私に帰るところなどないのだ。それにもう戻れない。 己の罪を一生背負って生きること、それが私の選んだ道だから。 誰も、自分の罪から逃げ出すことはできない。
 それに、私は許されてはいけないんだ。そうしたら、おかあさんと一緒にいられなくなるから。

 そこで、彼女は考えるのをやめた。それは、彼女が長い間目を逸らし続けていた真実の一部を、 あらわにしてしまいそうだったから。そのことにぼんやりと思い当たってしまっただけで、 もう今まで通りではいられないということにまでは、彼女はまだ気付いていなかった。

 私はまた、罪を犯したのかもしれない。
でも今日は、今夜だけはこの優しいぬくもりに抱かれて眠ろう。
懺悔の時間は、たっぷりとあるのだから。



 「あ、そういえば、名前聞いてなかったよね」
彼女の無邪気な言葉に、葉子は眉をしかめた。かつて呼ばれたことのある名前。呼ばれる度に、 あの時のことを思い出す名前。
「どうしたの?」
「…いえ…。鹿沼葉子。それが私の名」
「葉子さんね」
安心したように繰り返す彼女に苛立ちを隠せず、自然と語調がきつくなる。
「そんな名前で呼ぶ必要はありません」
「どうして?」
「区別のための数字がありますから。だから、私を俗世界の名で呼ぶことは無意味です」
いくらか穏やかにそう告げても、彼女は納得できないといった様子だった。
「……あなたは?」
「私は天沢郁未よ。よろしく、葉子さん」
「…わかりました…」
天沢郁未。良くも悪くも、彼女は私の世界を変えるだろう。 そんな予感がして、彼女はそっと左手で胸元の十字架に触れた。



                             

終         .








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