数年前、仕事で秋田県内を巡ったことがある。秋田では地元の人が指差して「あそこで昔、菅江真澄が〜」とか、宿でテレビを見るとローカルニュースで「ここは昔、菅江真澄が〜」とか、深浦か岩崎か忘れたが、某古旅館では「この旅館は過去に伊能忠敬や菅江真澄が宿泊」など、ン?。深浦も岩崎も青森県だ(^^;)。。。。。
えー数年前、仕事で秋田県内や五能線沿いの青森県を巡ったことがある。秋田では地元の人が〜〜〜以下略。
たびたび耳に入ってくる人名「菅江真澄」。アシナガバチに刺された楽しい思い出とともに私の脳にインプットされた単語「スガエマスミ」・・・・・・・who?
秋田方面ではかなりメジャーな人のようであるが、私のまわりの人はだれも知らない。調べてみると、江戸時代の有名な紀行家。東北や北海道(蝦夷地)の当時の様子を数多く記録に残した人で、晩年は秋田を拠点としていたらしい。Amazon.co.jpで菅江真澄遊覧記を購入。岩手を旅した部分の日記を読むと、私の故郷、一戸町や現在の住処である紫波町を2度訪れたようで、興味深い記録を残している。
天明5年(1785)、菅江真澄は、浄法寺町から現在の県道一戸浄法寺線沿いの村々をとおり、一戸の北にある末の松山(浪打峠)を見物している。ここは二戸市と一戸町の境の峠で、歌枕の地とされているが、われわれの業界では末の松山層の模式地、あるいは天然記念物「浪打峠の交叉層」の地として有名(でもない?)。真澄はここで土産にするために小貝を掘っている旅人の様子を記述しているが、この小貝とは貝の化石のことである。そこから福岡(二戸市)には向かわず、南に引き返し、白子坂、荷坂、宮口を通って小沢という所で1泊している。翌日は高屋敷、笹目子(ささめこ)、小繋(こつなぎ)、火行(ひぎょう)、中山と現在の地名そのままの村々を通り、盛岡へと向かうのだが、白子坂、荷坂、宮口、一泊した小沢という地名を地図上で見つけることはできない。ある文献によると、白子坂と荷坂という坂が一戸町の関屋付近にあるらしいので、宮口と小沢は、関屋−高屋敷間に絞り込むことができる。この間に実在する地名のうち、宮口を女鹿口(めがぐち)と仮定すると小沢は私の故郷である小鳥谷(こずや)であろう。
小鳥谷の地名、あるいは人名(苗字)を調べてみると、小治屋(こじや?)、小津谷(こづや)、あるいは「こでや」と記録された文献もあるようで、文字から推定される発音が微妙に違っているようである。私も地元の年寄りが「コンジャ」、あるいは「コジャ」に近い発音で呼んでいるのを子供の頃聞いたことがある。古くから「聴き取り難い」地名であったのかもしれない。小鳥谷西側の山を一つ越えたところに女鹿沢(めがさわ)という地名があり、これを地元の人は「メカ゜ジャ」と発音する。真澄は東北の人ではないが、経験的に「〜沢」を「〜ジャ」と発音することに気付き、小鳥谷も小(koコ)沢(~jaンジャ)と記したのではないだろうか?
真澄の宿泊したのは小沢の離れ家。ちょうど天明の飢饉の時代であり、「米が一粒もないので泊めるわけにはいかない」という主婦に「一晩くらいなら食事をしなくてもいいので」といって泊まったはずなのに夕飯・朝食ともご馳走になっている。夕食は「粟飯に塩漬けの桃を添えたもの」、朝食は「稗飯」。とてもヘルシーな食事である(^^;)。岩手県北部は米があまり取れなかった地域のため、米食に頼った食生活はしていなかったようで、明治天皇の東北巡幸に随行した人の記録に「民家の食物稗飯というものをみたるに、少しも米を混ぜず〜」とある。
真澄が小沢を訪れる前に、津軽を巡り、飢饉で馬肉を食い、それが尽きると人を食って生き延びた人々の話を記録している。一戸町の歴史(岩手日報)によると、飢饉の時は竹の実を食べたとある。竹の実ってなんだ?
江戸時代には何度も飢饉を経験し、そのたびにたくさんの犠牲者を出している。数年前、私の母方の叔父がロータス123にはまり、県北のある寺の過去帳データを数値化したことがある(悪趣味^^;)。それによると、死亡者数は、凶作の翌年に多くなり、ある集落では人口の1/3が死亡したようである。
今、私がつまらないホームページを記述できるのはご先祖様がそのような飢饉を生き抜いてくれたおかげである。名もない小作の家のため、私の先祖を江戸期までさかのぼることは不可能であるが、飢饉を生き抜く秘策は先祖から代々受け継いでいる。それは「食えるときに効率よく脂肪を溜め込む体質」だ。だが、このDNAの中にメモリーされた危機管理マニュアルには不備がある。飽食時の対策が示されていないのだ。このマニュアルの不備は視線をほんの少し下に向けることで確認できる(^^;)。