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追悼:三船敏郎
-三船敏郎・本葬:レポート-

1998年1月24日

 三船敏郎の本葬は、1998年1月24日(土)に東京南青山の青山葬儀所において、三船プロダクション、黒澤プロダクション、東宝の3社による合同葬として営まれた。

 三船自身の「死ぬときは静かに、ひっそりと密葬を済ませてほしい」という生前の遺志から、昨年12月16日に親族と親しい関係者で既に葬儀は営まれてはいたが、多くのファンがいる世界的な名優のため、そのファンに対しても「お別れの会」を設けたいという考えでこの日の合同葬としての開催が決まった。

 当日は青空が広がり晴れはしたものの、かなり冷え込んだ気温の中、三船のデビュー作『銀嶺の果て』の谷口千吉監督や、俳優の千秋実をはじめとする関係者、またファンなど合わせて1800人の参列があった。

青山葬儀所正面

入り口には三十郎に扮した三船敏郎の大きな写真が飾られた

 当日、葬儀の始まる13時の15分前に会場に着いたのであるが、思ったよりファンが少ないのに驚いた。
 3万人以上が訪れた松竹大船撮影所での渥美清の葬儀のイメージがあったため、一時代を築いた世界的な俳優の葬儀だから、かなりの行列になっているかと思っていたが、その時間で50番目ぐらいであった。

 ただ、これはある程度仕方のないことなのかもしれない。ついちょっと前まで大活躍していた現役俳優ならいざ知らず、最後の出演作品の『深い河』が1995年の作品であり、主役級の出演作品となると『千利休−本覺坊遺文』は1989年の作品である。
 しかもいずれも作品としての評価は高いが、残念なことにかつての黒澤作品のような一般観客を多く集めたメジャーヒット作ではない。そのため、こうした10年ちょっとの期間が、引退していないにも関わらず俳優・三船敏郎を過去の存在にしてしまったのであろう。

 しかしながら、ファンの参列が少ないからといって、俳優・三船敏郎の業績が軽んじられているわけでは決してない。
 そうでなければ葬儀の時にフランスの大統領から弔電をもらうような俳優が他にいるだろうか? そこはさすがに「世界のミフネ」である。他にもスティーブン・スピルバーグ、アラン・ドロン、チャールトン・ヘストン、マーロン・ブランドなど世界の映画人から弔電が送られていた。

斎場への通路脇には出演作品のスチル写真が

 この日参列した関係者は、先に挙げた谷口千吉監督と千秋実以外では、映画監督では、『暗黒街の顔役』や『侍』『赤毛』などの三船主演映画を撮った岡本喜八。同じく『黒部の太陽』『お吟さま』『千利休−本覺坊遺文』そして遺作となった『深い河』の熊井啓。かつて黒澤組で助監督を務めた堀川弘通など。俳優では、谷口千吉監督夫人の八千草薫。黒澤映画で共演した香川京子、久我美子、三橋達也。また三船プロダクション出身の秋野暢子、中野良子、竜雷太など。またこの他の映画関係者としては、葬儀委員長を務めた東宝会長の松岡功。東映会長の岡田茂。かつて『黒部の太陽』で「五社協定」に共に挑んだ故・石原裕次郎夫人の石原まき子など。

 なお黒澤明監督は骨折のリハビリのため、12月16日の身内の葬儀に続いて今回も出席できず、代わりに長男の黒澤久雄・黒澤プロダクション代表取締役が黒澤監督の弔辞を、父である黒澤監督の悲しみの気持ちを表すかのように、時折涙で声を詰まらせながら代読した。
 その中で黒澤監督は三船の死について「こんなつらい思いをしたことはない」と述べ、過去の自分の作品は「どれも君がいなかったらできなかった」と、三船がいたからこその黒澤映画であったことを悲しみの気持ちと共に語った。

『蜘蛛巣城』のセットを模した祭壇
また、遺影には『七人の侍』の菊千代の写真(このコーナー最初のページの菊千代の絵と同じもの)

参列者に配られた会葬礼
中の挨拶文とテレホンカードはこちら


(本文中敬称略させていただきました。)

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