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追悼:黒澤明
AK News -黒澤監督:追悼版-<その1>

●1943年『姿三四郎』でデビュー以来『酔いどれ天使』『羅生門』『七人の侍』『用心棒』『影武者』など数々の名画全30作を世に送り出し、1951年ベネチア国際映画祭で『羅生門』がグランプリを受賞し、以後も『生きる』でベルリン映画祭銀熊賞、『影武者』でカンヌ映画祭グランプリ受賞、1990年には米アカデミー賞で史上3人目の特別名誉賞受賞するなど、文字通り“世界のクロサワ”と言われた映画監督、黒澤明(くろさわあきら)さんが9月6日午後0時45分、東京都世田谷区成城の自宅で死去した。享年88歳。

●黒澤監督の略歴については、当サイトの「プロフィール」のコーナーをご覧下さい。

●黒澤監督が残した作品については、当サイトの「フィルモグラフィー」のコーナーをご覧下さい。

●黒澤監督が亡くなった6日夜、横浜市緑区の黒澤フィルムスタジオにおいて黒澤監督の長男で黒澤プロダクション代表取締役の黒澤久雄さん(52歳)が会見を行った。
その中で久雄さんは「父はやりたいことの大半はやったと思う。子どもから見て悔しい死に方はしておらず、残念とは思わない」と語った。また久雄さんによると、黒澤監督は1995年3月、脚本執筆中の京都の旅館で転倒し腰、腕などを骨折。その後リハビリを続けていたが、体調を崩し自宅で寝ていることが多かったという。2週間ほど前、具合が悪くなったことを、最近は黒澤映画の衣装も担当している長女の和子さんから聞いたが、そう気には留めていなかったのだが、この日、久雄さんが黒澤記念館設立準備のために正午前、九州へ出掛けるため羽田空港に向かう途中、容体が悪化。連絡を受けて、すぐに黒澤監督の自宅に向かったが、着いたときには既に息を引き取っていた。また最期をみとった和子さんから聞いたところでは、眠るように息を引き取ったという。
久雄さんは「ひつぎの中にはゴルフクラブを入れます。映画はもう、おなかいっぱいでしょう」と笑顔も見せ、監督との最期の会話については、日本で映画撮影を計画している米国のスティーブン・スピルバーグ監督に、「日本で映画を撮るらしいけど日本語で映画を撮ったらどうか」とファクスで直接連絡を送ったことなどを語った。
また、2本の脚本を残しており、その映画化にも意欲を燃やしていたという。
久雄さんは監督の遺言について質問され、「遺言は(すべての黒澤)映画です」と述べた。

●東京都世田谷区成城の黒澤監督の自宅マンションには6日夕から、俳優や映画監督らが次々に弔問に訪れた。『どですかでん』に出演後、遺作となった『まあだだよ』に主演した俳優の松村達雄さんは「とてもきれいな死に顔で、握手をしてきました。握手したら、手は冷たかったけど、肩はまだ温かかった。なんだか小さくなっちゃって…。寂しいねえ。もう怒ってくれる人がいなくなっちゃった。ずいぶん怒られたよ」としんみり語った。
同じく『まあだだよ』に出演したタレントの所ジョージさんは車の中でニュースを聞いて、ポロシャツ姿で駆け付け、「近所に住んでいるので一度遊びに来いと言われていて、最近も久雄さんから遊びに行ってやってくれと言われていたが、私なんかが何を話したらいいか分からず(敷居が高く)行けずじまいだった。撮影中は監督の顔を、恐れ多くてなかなか見ることができなかった。しかし、弔問に訪れ初めてゆっくりお顔を見ることができました。監督は静かな顔をしていて全然違う人のようでした。(最後の作品の)『まあだだよ』に出たことが自分の自信になった。だから(足を運ばなかったことが)よけい申し訳なくて」と話した。
戦前から黒澤組に携わり『七人の侍』で助監督を務めた映画監督の堀川弘通さん(81歳)は「穏やかな死に顔でした。おれの狙いが分からないのか、と何度も怒られた。映画作りにはとことん厳しいが、仕事を離れると、穏やかな、やさしい人。それが黒澤さんの魅力だった。だから、みんなついていったんでしょう」と話した。
『影武者』以来、黒澤映画のほとんどのネガ編集に携わった南とめさん(88歳)は「先生は私と同い年で、私を大変大事にしてくれた。2週間ぐらい前には、人づてにお元気だと聞いていたのに…。先生の顔にほおを付けたら、まだ温かかったんですよ」とまだ信じられないといった様子。
夜に入ってから、『天国と地獄』『影武者』に出演した俳優の山崎努さんや、『乱』の池畑慎之助(ピーター)さんも姿を見せた。山崎さんはショックだったのか何も語らず、表情も硬かった。また池畑さんも黒澤監督宅に入ってから2時間も出てこず、「抱きついてきました。なんか、コラッていわれそうで」と悲しみを抑えた表情で語った。
午後8時前、黒澤監督が平成3年に手がけた映画『八月の狂詩曲』に出演した女優の茅島成美さんが訪れた。茅島さんは「2日前に家族の方と電話でお話ししたときは、とてもお元気だということで、お会いすることを楽しみにしていました。本当に急なことで…」と涙ながらに語り、言葉を詰まらせた。茅島さんによると、親族や弔問客らは、和やかな雰囲気で生前の監督の思い出話をしながら、別れを惜しんでいるという。
『乱』などに出演した俳優の加藤武さんは午後11時半ごろ駆けつけ、「『でこすけ』と、親しみをこめて怒られたのが忘れられない。黒澤監督と仕事をしているときは、常に背中に緊張を感じ、背筋が伸びた。今は力が抜けてしまったようだ。20世紀の終わりに世界の巨星が落ちたが、21世紀の映画作りに貴重な遺産を残してくれたと思う」と語った。
マンションの住人によると、黒澤監督は生前、時折車いすで外出していたという。

●『ゴジラ』等の音楽を担当し、黒澤作品では『静かなる決闘』の音楽を担当した作曲家伊福部昭さんは「誠実で控えめ、非常に紳士でした」と人柄をしのんだ。そして「私が谷口千吉監督の映画の音楽をやっていたとき、谷口さんと意見が合わず録音が止まってしまったんです。彼と仲の良かった黒澤さんが仲裁に入って説得してくれました。論理で冷静に処理するタイプ、知性人という印象を受けました」と語った。
『七人の侍』に出演した女優の津島恵子さんは「普段は穏やかですてきな先生でした。確かに仕事には厳しく妥協を許さないところがありました。日本映画の人気が回復してきたので、先生の出番があると思っていただけに…。残念です」と途切れ途切れに話した。
「七人の侍」の内、最後に一人残った俳優の千秋実さんは「元気だと思っていたが、まったく寝耳に水のような知らせを聞いて、今はぼーっとして何も考えられない」と語り、「かっこつけ屋で、少しでも具合が悪いと外に出ない人。黒澤さんのことではたくさんの思い出があり、とにかく心の整理をしたい」とも付け加えた。
俳優の三国連太郎さんは「もう一本映画を撮られると伺っていたのでびっくりしています。日本の映画人はこれから監督の遺志を継いで、頑張ってほしい。それが、亡き監督への手向けになると信じています」としんみり言葉を続けた。



 
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