能と楽器 −玄象によせて−

 

 

 

和田 雄志

 

能「玄象」において、琵琶の道を極めるために入唐しようとした藤原師長を思いとどまらせた老翁は、名器玄象の持ち主、村上天皇の化身であった。かつて玄象、青山、獅子丸という三体の琵琶が唐から伝えられる途中に、獅子丸だけが海に沈められたものの、竜神がふたたび持ち出して師長に授けられた。

今日、琵琶という楽器は、ほとんど我々の目にふれることはない。わずかに平家物語の琵琶法師、あるいは正倉院御物を想い起こすくらいである。玄象の頃の琵琶は、現代雅楽において用いられている楽琵琶(がくびわ)にほぼ原型をとどめている。

 

(楽琵琶:浜松楽器博物館蔵)

 

中国でも琵琶といわれていたが、もともとは枇把という字があてられていた。手を前に押すのを枇、手を後に引くのを把といい、つまり手をもって掻き鳴らす楽器のことである。また、当時、琵琶は「ビバ」と発音されていたらしい。現在の蒙古語でもビバと発音する。琵琶をはじくと「ビン」という音がするところから来ているらしい。

琵琶は、梵語では「バルブー」、ペルシャでは「バルバット」、ギリシアでは「バルビトン」と呼ばれる。いずれも似たような呼び方である。琵琶のルーツは、インド(天竺)から西域を経て漢に伝わったものと、ペルシアからインドを経て、中国に伝わったものとに分かれる。

玄象は、海を舞台にした雄大な雰囲気をもった曲であるが、そこに登場する琵琶が、遠くペルシャやインドに発した楽器であると思うと、ことさらに大きな気持ちで謠いたいものである。

前シテの老人は、苫(とま)をとり出して、板屋をたたく雨音の盤渉の調子を、師長の弾く黄鐘調に合わせたという。黄鐘、盤渉はいずれも古代中国の基準音階、十二律に起源する。十二律とは、オクターブを半音ずつ十二分したものであり、奇数の各律は「律」、偶数の各律は「呂」と呼ばれ、合わせて「律呂」と称する。六律は「陽」、六呂は「陰」とした。

雅楽では、唐代の六調子(りくちょうし)と呼ばれる壱越調、平調、双調、黄鐘調、盤渉調、太食調の中から管弦の曲目が選ばれる。これらの調子は、季節とも関連し、春には双調、夏には黄鐘調、秋には平調、冬には盤渉調というように選ばれることもあるという。いずれにせよ、陰陽五行説が背景にあることはまちがいない。謡曲でのお囃子の調子についても、どなたかご教示願えれば幸いである。

玄象に限らず能にはさまざまの楽器が登場する。琵琶が出てくる曲としては、「経正」、「蝉丸」がある。「清経」、「敦盛」は、笛。「富士太鼓」、「籠太鼓」、「天鼓」、「綾鼓」などは鼓あるいは太鼓。「小督」は琴である。

「玄象」では、琵琶の奥義を極めるということが主題のひとつであり、楽器そのものが大きな役割を果たしている。当代の琵琶の名手師長、いにしえの村上天皇、そして唐伝の琵琶の名器が一堂に会するという状況が出現した。

能におけるテーマとしての楽器(囃子方のではない)の役割を考えると、様々の「出会い」を実現する道具(メディア)として取り扱われることが多い。離れた人との出会い、彼岸と此岸との出会い・・・。

玄象の詞にも出てくる謡曲「蝉丸」では、盲目の蝉丸がつまびく琵琶の音を、たまたま通りかかった姉の逆髪が耳にする。琵琶が流浪の二人を結びつけたわけである。「小督」の琴も同じような役割を果たしている。

しかし能では、この世とあの世をつなぐメディアとしての楽器の方が、より大きな主題となっている。

「経正」では、若くして戦死した経正が青山の琵琶の音にひかれ、かつての琵琶の師の前に登場してくる。

「清経」では、戦場で入水自殺した公達が、笛の音とともに別れた妻の夢の中に現れる。小書の恋音取(こひのねとり)は、笛方にとって聞かせ所であるだけでなく、橋掛りから、シテがいずれともなくあらわれてくるときの独特の雰囲気を象徴するものとして使われている。特に高く澄んだ笛の音は、若くして戦場に散った平家の貴公子とその妻の再開を演出するのにふさわしい道具だてであるといえよう。

「天鼓」の場合は、天から降り下った鼓が主題でありながら、鳴らぬ鼓をめぐって死別した親子の出会いか実現する。天鼓の霊をなぐさめるために、皇帝によって発願された管弦講(かげんこう)という行為自体が、あの世とこの世を結びつけるという楽器の役割を形態化したものに他ならない。

このように考えると、楽器ではないが、「葵上」における梓弓も、六条御息所の生霊を呼び出す道具として使われている。弓あるいは弦は、はるかむかし卑弥呼の時代から、巫女(シャーマン)の道具として使われていた。弦を弾く音によってあの世の者をこの世に呼び出そうというものである。

山伏や密教僧の持ついらたかの数珠、さらさらシャーッとこするあの音は、加持祈祷の効果音であり、悪霊を退治する道具にもなっている。巡礼のふる鈴の音、お寺での鐘や木魚、神社の太鼓、山伏の法螺外・・さまざまの形の音が信仰の場で使われている。

ひるがえって現代の音楽状況を考えると、演奏される音楽は、あくまでもその会場に来た人、あるいはCDやラジオで音楽を聞いている人だけに限定されている。能や宗教の世界では、音楽はこの世の人のためだけではなく、あの世とをつなぐものとしてもとらえられてきた。表現手段としての能は、伝統的世界に埋没しているかのようでいて、そこに息づく世界観には、われわれ現代人が失ってしまった大きな広がり、意識世界がひそんでいるような気がしてならない。

(平成4年9月、風姿研究 No.4)

 

 一覧リストに戻る

 トップに戻る