註:これはArthur MachenのThe Red Handの全訳です。この訳には、現在では放送することのできない種類の、身体的な障害及び疾患についての語が出てきます。相当する語句が原文に出てきており、その趣を損なわないためですので、その種の語に抵抗がある方はお読みにならないことをお勧めします。なにぶん古い作品ですのでご了承ください。
This is a Japanese translation of Arthur Machen's "The Red Hand" by the Creative CAT.
アーサー・マッケン著
The Creative CAT訳
I : 釣針問題
「全く疑いはあり得ないな」フィリップス氏(*1)は言った。「私の説は完全に正しい。これらの石器は先史時代の釣針だ。」
「言わせてもらうが、それは最近ドアの鍵から偽造されたものかもしれないじゃないか。」
「馬鹿な!」フィリップスは言った。「ダイスン(*2)、君の文学的能力に関してはいささか尊敬の念がなくもないのだが、文化人類学的知識はというと、とるに足りない、というより、まるで足りないな。この釣針はすべての基準を満たしている。完璧に純正なものだ。」
「そうなのかもしれないが、さっきも言ったように、君は間違った方面で仕事をしようとしている。折角の機会を無視しているんだ。明らかにそこら中の街角でそれは待ち構えているというのに、君はわざわざ引きこもって、このめくるめく謎めいた都市で原始人に出会う好機を逸しているんだよ。赤獅子広場の快適な隠居所で、ただただつまらない時間を石器のかけらをいじくりまわすことで浪費しているんだ。さっきも言ったようにそんなのはまず粗雑な模造品に決まっている。」
フィリップスは激昂しながら小さな物体を一つ取って持ち上げた。
「この辺縁部に注目してくれ。模造品でこれほどの縁を持ったものを見たことがあるというのか?」
ダイスンは鼻を鳴らし、パイプに火をつけただけだった。二人は座って煙草をくゆらしつつ窓の外を眺め、豊かな沈黙に浸った。開いたままの窓の外では、広場の子供達が夕暮れのランプの灯の中見えかくれしながらあちこちに行き交い、暗い森を飛び惑うコウモリを思わせた。
ついにフィリップスは言った。「さて、この前来てくれてから随分経っているな。以前からの仕事に携わっていたのだろう。」
ダイスンは答えた。「そうだよ。いつも言の葉を綾織っている(*3)のさ。織り続け年老いることとなるだろう。しかし、文体とは何であるか解っている人がこのイングランドでも両手に満たない(*4)という事実を黙想するに、大いに宥められるものがあるよ。」
「その点だが、私はそうは思わないな。文化人類学の研究は広く知られているとはとても言い難い。その困難さときたら! 原始人は遥かな年月という巨大な橋の彼方にぼんやり立っているのだ。」
「ところで」彼は間を置いて続けた。「君がさっき言った戯言は何ごとかね? 引きこもって街角にいる原始人と逢う機会を逸している云々という。確かにこのあたりには脳みその中にひどく原始的な考えしかない連中がいるが。」
「頼むからフィリップス、私の言ったことを合理化して受け取らないでくれ。フレーズを正しく思い出せるなら、私は君が『わざわざ引きこもって、このめくるめく謎めいた都市で原始人に出会う好機を逸しているんだ』と言った。それは字義通りの意味だよ。生存競争の時代が終わったと誰が言えるんだ。穴居人や湖の物(*5)、更に暗黒な種族の代表者ども、恐らくはこういった者達がフロックコートを着て肩を擦りあう我々の内に潜み、優美にまとった人間性の裏側では狼のような心臓が、沼や暗い窖の中での邪悪なる情熱に滾っているに違いないんだ。ホルボーンやフリート街を歩いているとしばしば、忌々しい顔を見かける。だが、心の中に沸き起こってくる厭うべき戦慄の原因を見つけることができないんだよ。」
「親愛なるダイスン、私は君の文学的βテスター(*6)になるのはまっぴらだ。生存競争は確かに続いているが、何ごとにも限界というものはあるのであって、君の憶測は馬鹿げている。私に穴居人の存在を信じさせたいなら実際に捕まえて目の前に連れてくる必要があるぞ。」
「それが一番だな。心底わかった」ダイスンは言った、フィリップスを「引きずり込む」ことができたことにほくそ笑みながら。「さて、散歩にもってこいの夜じゃないか。」そう付け加えながら帽子を手に取った。
「君の言っていることは無意味極まるな、ダイスン!」フィリップスは言った。「しかし、一緒に散歩をすることには異存がない。君の言う通り、気分のよい夜だ。」
ダイスンはにやにやしながら言った。「さあ来いよ。だが話し合ったことを忘れるなよ。」
二人の男は外に出て広場の中に入り、北東に向かう出口の細い通りの一つを辿った。けばけばしい舗装道路を行くと、断続的に子供があげる大声や、オルガン(*7)が奏でる栄えあるグローリアが聞こえ、その背景には絶えまなくホルボーンを行く車馬の、低くゴロゴロと唸る音が聞こえた。その音は永遠に回り続ける車輪のように、いつまでも谺を返していたのである。ダイスンは通りの右左を注意深く見渡した。急に彼等はより平和な町並みに出ていた。人気のない四ツ辻を、草木も眠る丑三つ時でもあるかのように暗く静まった街路を通り過ぎた。フィリップスにはもう方角が解らなくなってしまった。周りは次第に見窄らしくなっていき、ごみごみした汚らしい化粧漆喰が彼の審美眼を妨げるようになっていった。彼はただただ、これ以上不愉快で退屈な界隈は見たことがないと漏らすだけだった。
ダイスンは言った。「これ以上不思議な、と言ったかな。気をつけた方がいいよ、フィリップス、私達は鼻が利くようになっているからな。」(*8)
彼等は煉瓦造りの迷路の更なる深みへと潜入していった。東西に抜ける騒がしい往来を渡り、暫くすると何やら不定形な、はっきりした性格のつかめない町に来た。立派な庭付きの家があるかと思えば、寂れた四ツ辻があり、また高くのっぺらした壁に囲まれ、袋小路や暗い角のある工場の一群があった。しかしどこもかしこも照明は暗く、人通りは少なく、どんよりと静まり返っていた。
二階建ての家が並ぶさびれた街角で歩みを遅めた時、ダイスンは突然とある暗くてはっきりしない曲り角に目をとめた。
「見てみたいな。面白そうじゃないか。」 点っている街灯は入り口の一つだけで、遠い側にあるもう一つはちらちらするだけだった。その街灯の下、舗装の上で、街頭芸術家が明らかに日中に作品を仕上げたのだろう、石材の上にどぎつい色が何色も入り交じっているのがぼんやり見えた。壁の下の方には色チョークの破片が小さく積み重なっていた。
「ここは結構人通りがあるのだね。」 ダイスンが言った。街頭絵描きの作業の遺物を指しながら、「とてもじゃないが、思いもよらなかったな。試しに二人で入ってみよう。」
この横道の一方は大きな材木置き場になっていた。ごちゃごちゃと積み上げられた木材がぼんやりと周囲の壁の上に見えた。反対側は更に高い壁になっており、木々の影のようなものが見えることや静寂を破る葉ずれが聞こえることからして、囲いの向こうには庭になっているようであった。月がなく、日没後に雲が出てきた暗い夜だった。弱々しい街灯の間の中間地点は真っ暗で、物の形も見分けられなかった。足をとめ耳をそばだてると、殷々と響く足音が消えていった後に、丘の向こう、はるか遠くから低く幽かに唸るロンドンの騒音が聞こえた。フィリップスが勇気を奮い起こして、もう遠足はたくさんだ、と言おうとしたまさにその時、その考えはダイスンの大きな叫び声に遮られた。
「止まれ、止まれ、後生だから。踏む所だぞ、君の足下だ!」
フィリップスは下を見た。形のはっきりしない黒い影が奇妙に舗装の上に転がっているのが、周囲の暗がりの中に見えた。ダイスンがマッチを点けると白いカフがちらりと見えたが、すぐに暗くなってしまった。
「飲み過ぎているんだな。」フィリップスが実に冷たく言った。
「殺されているんだよ。」ダイスンは言って、大急ぎで警官を呼びに行った。しばらくすると、遠くから走ってくる足音が響き、次第に大きくなり叫び声が轟いた。
まず巡査が近付いて来た。
「どうしたのかね。」 息を切らしながら立ち止まって訊いた。「ここで何かおかしな事があったのかね。」 まだ舗装道路の上にあるものを見ていないのである。
「見て下さい!」 暗闇でダイスンは言った。「そこを見て! 私は友人とここを三分前に通りかかったのですが、こんなものがあったんです。」
その暗い形に明かりを向けると、巡査は叫んだ。
「なんてこった、殺しじゃないか。ホトケの周りは血だらけだ。そこの側溝の中にも流れ込んで血溜りになっている。ともかく、死んでからそんなに経っていない。うわっ、頸に傷があるぞっ!」
ダイスンはそこに横たわっているものの上に身を乗り出した。裕福で身なりの良い紳士だった。いかしたな口ひげには白いものが混じりはじめていた。一時間前には45才位であったろう。見事な金時計がベストのポケットから半ば滑り落ちていた。顎と耳の間の所には大きな傷口が開いていた。切り口は鋭かったが、血糊がこびりついており、青白い頬がランプの明かりのように赤いものの上で光っていた。
ダイスンは振り返り、周りを興味深く見回した。死人は小路を横切るように倒れていて、頭を壁にもたれかけていた。傷口から出た血は小路を横切って反対側に流れ、警官が言う通り、側溝の中に暗い血溜りを作っていた。応援の警官が二人駆け付けてきた。そこら中から住民が集まって来たので、警官は必死で野次馬を遠ざけなければならなかった。三基のランタンが焚かれ、あちらこちらが捜索された。その一基のちらちらする光の中、路上にある、ある物の姿がダイスンの目を捉えた。ダイスンはそのことを一番近くにいた警官に伝え、注目を促した。
警官がそれに気付き、拾い上げると、ダイスンは言った。「フィリップス、見てくれ。これは君の領分だと思うぞ。」
それは暗い色をした石器のような石で、黒曜石のように輝き、幅広い縁をもった手斧のような形になっていた。一方の側は粗くなっていて、容易く手で握ることができた。全長は約12cm弱。刃先には厚く血がこびり着いていた。
「何だろう、フィリップス」 ダイスンはいい、フィリップスは詳しくそれを見た。
「原始的な石のナイフだな。一万年位昔のものだ。ヴィルトシャーのエイバリー(*9)のそばでこれと極似したものが発見されている。その石器の年代は約一万年程度遡るいうのが専門家の一致した見解だ。」
警官は事件のかくなる展開に驚いて目を見開いていた。フィリップスも自分自身の言葉に仰天していた。しかし、ダイスン氏はフィリップスに構わなかった。到着したばかりの警部補(*10)がランタンを死者の頭の上にかかげて、事件の概要を聞いていた。ダイスンはダイスンで、好奇心を白く光らせながら壁に見つけた何かを凝視していた。男が倒れているすぐ上の所に、荒っぽい記号がいくたりか赤いチョークで書いてあるのだ。
「凶悪な事件だな。」 警部補はついに言った。「これが誰か知っている者は?」
群集の中から一人の男が歩み出てきた。「おまわりさん、おらが知ってます。偉いお医者さんで、名前をサー・トーマス・ヴィヴァン(*11)とゆうですよ。おら、六月くれえ前に病院にへえってただけんど、いつも回診で回ってただ。えらい親切な先生でしただよ。」
「なんていうことだ」 警部補は声を上げた。「確かにこれは酷いな。トーマス・ヴィヴァン卿といえば王室御用達だぞ。ポケットの時計は500ギニーはするな。ということはモノ盗りではない。」
ダイスンとフィリップスは後を当局に任せてそこを立ち退いた。野次馬がさらにどんどん集まってきており、通り抜けるのが大変だった。もの寂れた小路は今ではじろじろ睨む蒼白な顔やぶつぶつ流れる恐怖と流言、巡査の命令などでごった返していた。ようやく物見高い人いきれから逃れた二人は、20分間というもの一言も口をきかなかった。
「フィリップス」狭いが快活な街に来た時ダイスンは言った。「フィリップス、君には謝らないと。今晩のような話をしたのは失敗だった。」熱っぽく続けて「まるで地獄の冗談、楽しい笑いの種など一切含まないような酷い冗談だった。私が悪い魂を呼び起こしたかのように思えてしまうよ。」
「頼むからもう何も言わないでくれないか。」フィリップスは言った。恐怖でのどを詰まらせているのが、はた目にも見える程であった。「部屋で君が言った事は真実だったな。穴居人が今だに地上を闊歩しており、私らの周囲の街に潜んで、血に飢えて殺しまくる、という話だ。」
赤獅子広場に辿り着いた時、ダイスンは言った。「すぐに上がるよ。君にお願いしたいことがある。二人の間ではどんなことでも隠さないでおくべきだ。」
フィリップは暗く頷いて、二人は階段を上り部屋に入った。外部からの微光に全てがうすぼんやりと見えた。
ロウソクを点すと二人は向き合って座った。ダイスンは言った。
「壁の、頭があった所の真上の部分を注目していたのに、多分君は気付いていなかったね。警部補のランタンがそこをよく照らしたんだ。そこに大変奇妙なものが見えた。近くからよく見てみたよ。誰かが壁に赤チョークで手--人間の手--のラフなアウトラインを書いたんだな。
しかし指の仕種が妙でね、それで気になったんだよ。こんな風だった」 鉛筆と紙切れをとってきて素早く描き、フィリップスに描いたものを渡した。握った手を手背から見たラフスケッチで、親指の先が握った人さし指と中指の間から突き出し、下を向いていた。あたかも下にある何かを指すように。ダイスンは言った。「こんな感じだった」 フィリップスの顔は見る間に更に青白くなって行った。「親指が下の方、まるで胴体を指しているようだった。本当の生きた手がお化けのような仕種をしているようだったよ。その真下には小さな印があって、その上にチョークの粉がかかっていた--描きはじめようとした所で、手の中のチョークをへし折ってしまったかのように。地面の上にもチョークのかけらがあった。これは一体どういうことだろう?」
フィリップスは言った。「恐しい古の印だ--最悪の印の一つで、邪眼の説と関連がある。イタリアでは今でも使われているが、疑いもなく何世代も受け継がれてきたものだ。その起源を辿ると、人類が生まれた頃の沼地まで達する。その頃から生き残ったものの一つだ。」
ダイスンは帽子を取って帰ろうとした。
「冗談はさておき、私は自分の約束を守ったよ。二人とも鼻を利かせてきたし、これからもそうだ。結局君に本当に原始人と彼の手工芸品を見せてしまったようなものだったね。」
広い範囲からの尊敬を得ていた高名な心臓病の専門医、トーマス・ヴィヴィアン卿の異常で神秘的な殺人事件が起きて一月程過ぎた時、ダイスン氏は友人のフィリップス氏を再び訪ねた。フィリップス氏はいつものように困難な研究に沈潜しているのではなく、安楽椅子をリクライニングさせてのんびりしていた。彼はダイスンを心から迎えた。
「よく来てくれた。こちらから訪ねようかと思っていた所だったのだよ。例の件には最早疑惑の影はない。」
「トーマス・ヴィヴィアン卿の事件のことかい?」
「おお、それは違う。釣針の問題を言っているのだ。前回君がここに来た時は、私は若干自信を持ち過ぎていた。あれ以降、新たな事実がいくつか判明したのだが、つい昨日、私は英国学士会員でもある大家から手紙を受けとり、その手紙によって問題は完全に解決したのだよ。そこで、次は何に手をつけようかと考えていた所だ。解読不能な碑文と言われる方面に追求の余地が残されているのではないかと思うようになってきた。」
「君の研究方針は喜ばしいな、」 ダイスンは言った 「いつか役にたつことを示してもらえると思う。しかし一方で、トーマス・ヴィヴィアン卿の事件には間違いなく何か極めて神秘的なものがあるよ。」
「そうとは思えんが。あの夜自分が驚愕したことはやむを得なかったと思う。しかし、忍耐強く考えれば、比較的ありふれた説明が付くことに疑いはない(*1)。」
「本当か? どんな説だい?」
「そうだな、私が想像するに、ヴィヴィアンは人生のある時代に、確実には記述し難い冒険をしたのではないか。その時に不正を働いた相手のイタリア人が報復として彼を殺害したのではないかな。」
「どうしてイタリア人と?」「例の手のためだ。あれはイチジクの手(*2)の印といって、現在ではイタリア人にしか用いられていない。こう考えれば隠された何かと思われたものも白日の下に晒されるだろう。」
「確かに。では石器のナイフは?」
「極めて単純だ。犯人の男はそれをイタリアで見つけたのだ。またはもっとあり得ることだが、どこかの博物館から盗み出したのだろう。論理の最小抵抗線に沿ってみたまえ、そうすれば君にも丘に埋もれた秘密の墓から立ち上がった原始人を持ち出す必要などないことが判るだろう。」
「幾分正しい点はあるね」 ダイスンは言った。「すると、君のイタリア人はヴィヴィアンを殺した後で、御親切にもチョークで印をつけてスコットランド・ヤードを招待したというのかい?」
「それで何の問題がある? 殺人者は全て気狂いだ。彼は十の内九までは将棋さしや純粋数学者の正確さと把握力で計画し実行できるかもしれない。しかしどこかしらの点で、彼は判断力を失って、愚者のようにふるまうものだ。君は犯罪者の自尊心ないし虚栄心というものを考慮に入れるべきだぞ。彼は自分の手斧の上に手を記したい手合いなのだ。
「うん、それは大変頭のよい解釈だな。しかし、君は死亡審問の報告書を読んだかな?」
「一言も読んでいない。自分の証言をして終わりだった。法廷を去ってからは頭から消えていたな。」
「確かにそのようだ。君に異論がなければ、この事件を解説しよう。かなり突っ込んで調べたからね。正直に言って、非常に興味を掻き立てられたよ。」
「大変結構。だが、神秘の話はもういいから、事実についての話を聞きたいと警告しておく。」
「いいよ。これから差し出そうと思うものはまさに事実そのものだ。第一の事実。警察がトーマス・ヴィヴィアン卿の身体を移動させた時、身体の下にナイフが開いたままで落ちているのが見つかった。船乗りが持っているような凶悪そうな奴で、歯を開く時だけ力が要るものだ(*3)。歯は準備ができていてむき出しでギラギラしていた。しかし血痕はなかったんだ。またそのナイフは非常に新しいものだった。一度も使われたことがなかった。一見、君の仮想的なイタリア人はこれを持つような男だということで済みそうだ。だがちょっと考えてみなよ。彼は人殺しをするために新しいナイフを急いで買うか? それに、そんなナイフを持っていたのにどうして使わず、妙な石器を使ったのだ?
「次にこれだ。君は『メロドラマに出てくるイタリアの暗殺者がつける』ように犯人が殺害後チョークで手の形を書いたと考えている。実際の犯罪者がそんなことをするものかどうかは取りあえず脇においておくが、この点は指摘したい。検死の結果、トーマス・ヴィヴィアン卿の死は一時間以内に起きたものだったと判明した。その結果犯行時刻は九時四十五分頃と考えられる。君も知っての通り、私達が出かけた九時半にはもう真っ暗になっていた。また、例の通路は大変暗く、照明も不十分だった。確かに例の手はラフに描かれていたが、正確なもので、書き損じはなかった。暗い所や眼を閉じた状態で描いてみれば、これは不可能だとわかる。君のイタリア人を信じろという前に、まず紙を見ずに、例えば四角のような簡単な図形を描いてみるといいよ。首にロープがかかりそうな状況で、小路の暗さの中で、彼が壁にあんなにはっきり正確に手を描けたんだという前に。そんなの馬鹿げている。結局、手を描いたのはもっと早い夕方の内で、犯行のずっと前だということになる。あるいは--いいかい、フィリップス--それを描いたのは暗闇に慣れ親しんだ何者か、誰でも知っている絞首刑の恐怖を知らない何者かだということだ!
「もう一つ。風変わりなメモがトーマス・ヴィヴィアン卿のポケットの中で見つかった。封筒と紙はその辺で売っているもので、切手に西中央郵便局の消印がある。中身のことは後回しにして、それを書いた手書き文字が変わっていて問題になるんだよ。外側の住所は小さく明瞭な文字でスマートに書いてあるんだが、手紙そのものはまるで英語のアルファベットを勉強したペルシャ人が書いたみたいだった。直立した文字で、見せ掛けの筆勢や逆ぞりを見ると、本当の所東洋の書が頭に浮かんだよ。だが、文法的な誤りは一切なかった。ところが--ここからが難問なんだが--死人のコートのポケットを探った所、小さな備忘録が見つかった。細かなメモが鉛筆で所狭しと書いてあった。その備忘録は主にプライベートな内容で、専門的なものではなかった。友人と会う約束、劇場の初日の感想、トゥール(*4)にある高級ホテルの住所、新刊小説の題名--特に個人的に問題となるようなものは全くなかった。これらのメモの筆跡は、コートのポケットから見つかったメモとほとんど同じだったんだ! 専門家の目でやっと同一人物が書いたものではないと断言できる程度の違いでしかなかった。ヴィヴィアン夫人の証言の中で、筆跡に関係するところを読んでやろう。印刷した紙を持っているのでね。ほら、こう言っている: 『わたくしは七年前に今は亡き夫と結婚いたしました。夫宛の手紙の中で、その封筒にありますような筆で書かれたものを見たことはございません。似たものすらございませんでした。また、私の前でそのようなものを書いたこともございません。亡き夫が備忘録を使う場面を見こそいたしませんでしたが、何でもかんでもそれに書いていたのは確かに存じております。それは確実ですわ。と申しますのも、私どもは先の五月にトゥールを旅行いたしまして、リュ・ロワイヤルのオテル・デュ・フェザン(*5)に泊まったからでございます。ホテルの住所はそのメモの通りで間違いございません。夫は六週間程前に、番兵(*6)という小説を購入いたしました。これも覚えております。トーマス・ヴィヴィアン卿は決して劇場公演の初日を逃そうとはいたしませんでした。彼の日常の筆跡は備忘録のものとは完全に異なっておりました。』
「まだあるぞ、最後に、メモそれ自体に戻ろう。ここに複写がある。クリーヴ警部補のおかげでこれが手に入ったんだ。警部補は私が素人横好きに鼻を突っ込むのを快諾してくれた。読みたまえ、フィリップス。君は謎の碑文に興味があるとか宣うたな。さあこれを解読してみないか。」
フィリップス氏は我にもなくダイスンが関わってきた奇妙な状況に吸収されてしまった。紙片を受け取り、間近にみながら綿密に検査した。手書きの文字は確かに奇怪で風変わりで、全体としてダイスンが言ったようにペルシャの文字に似ていなくもなかった。だが、文法的には問題がなかったのだ。
「大きな声で読んでみろ。」 ダイスンがいい、フィリップスは従った。
「手は空しく指すことがなかった。星々の意味は今や隠されてはいない。実に奇妙なことだが、黒き天は昨日消失した、ないしは盗まれた。が、それはいささかも問題ではない。私は天球図を所持しているからである。我等の古き軌道は不変である。よもやと思うが貴君は我が印の数字を忘れたかね? あるいは他の家にて落ち合うかね? 私は月の裏側に行ってきたので、貴君に見せるべきものを持って行けよう。」(*7)
「さて、これをどう思う?」 ダイスンが言った。
「ちんぷんかんぷんだな。一体意味があるとでも思っているのかね?」
「おお、間違いなく。それは殺人の三日前に投函され、被害者のポケットに入っていたものだ。幻想的な文字で書かれ、それは被害者もまた個人的な備忘録に使っていた。これら全ての底を流れる何かの目的があるはずなんだよ。私は、トーマス・ヴィヴィアン卿の事件を巡って何か酷く不気味なものが隠れている気がしてならないんだよ。」
「だが、どういう説を立てているのかね?」
「おお、まだ説をたてるには早すぎるよ。結論に飛びつくのはまだ無理だ。けれども、君のイタリア人は粉砕できたな。フィリップス、くり返すけれども、私の目にはこの物事全体が無気味な体裁をしているように見える。私には君のようなやりかたができないんだ。定理だの公式だのといった鋳鉄製の鎧で自分自身をがんじがらめに守って、あれも起きないこれも起きない、それどころか起きたこともありえないなどと結論付けるやりかたが。手紙の最初の単語が『手』であることに注目してほしい。壁に描かれた手について知っている事柄や君自身がそのシンボルの持つ意味と来歴について教えてくれたことを考えあわせると、これは十分に重要なことだと思う。そのシンボルは世界中で昔行われた信念や 遠い昔のかぐろい信仰と関連があって、とにかく私はそこに悪意を感じる。いや、例の夜、私達が出かける前に半ば冗談でいったことを、やはりきっぱり主張したい。私達には善と同じように悪の霊体(*8)があって、私達の生きている世界は私が信じてるような未知の世界、窖と影があり、黄昏の住民がいる、そんな世界に近付いているんだ。人間が時として進化を逆行することはあるのではないか。思うに、恐るべき昔語りはまだ息絶えていないのではないか。」
「とてもではないが付いて行けない。」 フィリップスは言った。「やけに興味があるようだが、目的はなにかね?」
「親愛なるフィリップスよ、」 ダイスンは調子を明るくして応えた。「私はすこしばかり世界の中に下降することになるのではないかと危惧しているよ。質屋を何軒か回ってみようと思う。パブの親爺も無視し難い。エール(*9)の聞き味を鍛えねばならないな。強い刻み煙草についてはもう心からの敬愛を払っているからね。」
フィリップスとの討論の後、何日もして、ダイスン氏は自らを探偵役として抜擢し、探索の線を手繰ってみることを断固決意した。燃え上がる好奇心と、隠されたものを好む生来の性向がそれを強力に推進していたのだが、トーマス・ヴィヴィアン卿の死(ダイスンは「殺人」などというぎょっとする言葉に馴染めないものを感じ始めていた)については特別に、好奇心をそそるだけではない何かの要素があるようだった。壁に描かれた赤い手、兇器として用いられた石器、メモの字体と備忘録でつまらない記述に用いられた幻想的な字体との著しい類似性。その字体は医師が何らかの宗教的な理由で守っていたかに見えた。これらの、見た目も方向性もばらばらな糸を一つに織り成すと、奇妙で影の多い図式が見えてきた。まだ不定形ではあるが、酷く化け物じみた形をしている何か、古代の壁掛けに織り込まれた巨大な姿に似た何かに。彼はメモの意味を解読する手がかりを持っていると考えており、消失した「黒き天」を何が何でも探し出だそうと、猛烈な勢いでロンドン中心部の隠れた通りや小路を探しまくった。おかげで、質屋やもっといかがわしい阿片窟の顔なじみになってしまった。
不首尾のうちに時は流れ、もしかすると「黒き天」はぺッカム(*1)の静かな隠居所にでも隠されているのかもしれない、あるいは潜み棲む偶然の力によりて天ざかるヴィレスデン(*2)にも持っていかれちまったのかという戦慄すべき考えさえ起った。しかし、ついに、彼が信奉する偶発性(*3)が救いの手を差し伸べてくれたのだ。それは暗い雨の夜、何か不穏な、風の吹き巻く夜、冬の到来を予感させる夜であった。ダイスンはグレイズ・イン・ロードからさ程遠からぬ狭い街を嗅ぎまわっていたのだが、あるおそろしく汚い「パブ」で雨宿りをすることにした。ビールを注文し、いっ時懸案事項を忘れて、軒を吹きすさぶ風と暗くて酷い空から路上を叩き付ける雨音のことばかり考えた。カウンター(*4)にいるのは、ごく平凡な集まりだった。だらしない女どもと黒光りした男どもがひっそりと仲間内でぼそぼそ喋っているようだった。結論のでようのない口論に励んでいる者ら。それらから離れて一人で飲んでいる恥ずかしがりやが何人か。誰もがうまそうに荒っぽく噛み付くような安酒やその臭いを味わっていた。ダイスンがどうしてこの連中はこんなに楽しめるんだろうと不思議に思っていた時、急に鋭い口調で話す声が聞こえた。折戸がばたんと開き、カウンターに向かって中年女がよろめき出てきた。波に揉まれるデッキに立ってでもいるかのようにしろめ製の縁を掴んだ。ダイスンは、その女をその階級に属する人物の格好のサンプルとしてちらちらと見遣った。きちんとした黒のドレスをまとい、いささか色の褪めた黒い革製のバッグを持っていた。明らかなアルコール依存症であり、それも重度のものだった。カウンターでふらふらしていたが、どうみても直立するのがやっとだったのだ。バーテン(*5)は嫌な顔で彼女を見、もう一杯飲ませろという要求にも首を横に振った。女は彼を睨み付け、一瞬後炸裂した。目を血走らせ、激流のような呪の言葉を浴びせかけた。古代英語の語彙を交えて冒涜的な呪詛を奔流のように放ったのだ。
「ここから出ていけ。」 バーテンは言った。「黙って失せろ。さもないと警察を呼ぶぞ。」
「警察だって、あんた----」 女は叫んだ 「----ああそうかい、ポリ公にこれでも食らわしやがれってんだよ!」 バッグから素早く何かを取り出して、男の頭めがけて思いきり投げ付けた。
男は首を竦め避けたが、投射体は背後の酒瓶に命中し、瓶は粉々になった。女は身も竦むような笑い声をたてると、戸口から飛び出した。湿った石畳を早足で遠ざかっていく靴音が聞こえた。
カウンターの男は酷い目にあったと言いながら、
「あんな女追わないほうがいい。こんなもん残されてもウイスキー一本分にもならないじゃないか。」 ガラスの破片の中を探って、何か黒くて四角い石のようなものを取り出し、高く掲げた。
「奇天烈なお宝だ(*6)。競る奴ぁいないか?」
この派手な騒ぎの間も、振り向く客はほとんどいず、皆自分のジョッキ(*7)やグラスに向き合っていた。瓶が割れた時は魚のような目を一瞬向けたが、それきりであった。ぼそぼそした相談事が、果てしない口論が再開され、恥ずかしがりやはまた安酒をすすり楽しみ始めた。
ダイスンはカウンターの男がかざしているものを素早く見て取った。
「宜しければ、私に見せていただけないでしょうか。変わった古物ですねえ。」
小さな黒いタブレットで、みるからに石でできていた。10×5cmくらいで厚さが2cm程だった。それを手に取った時ダイスンは見るというより感じた。自分の肉なる部分に触れているように。ある種の彫刻が表面になされていた。一番はっきり見える印を見て、心臓が止まりそうになった。
静かに言った。「私が受け取っても良いのですが。二シリングでは足りませんかね。」
「半ドルと言えや。」 男は言って、それで交渉は成立した。ダイスンはジョッキのビールを一気に空けた。旨かった。パイプに火をつけ、晴れがましい顔ですぐに店をでた。自分の部屋に帰ると、ドアに鍵をかけ、タブレットを机においた。椅子に腰をおちつけ、敵に制圧された都市に向かって塹壕から突撃せんとする軍隊のように心を決めた。ダイスンはセードのついた蝋燭でタブレットを満遍なく照らし、精査した。ダイスンが最初に見たのは指の間から親指を突き出した手の印だった。それは鈍い黒色をした石の表面に精細にかつ深く刻まれ、親指が指す下の方にも別のものがあった。
「これはただの飾りだ」ダイスンはひとりごちた。「多分何かを象徴した装飾品だ。だがこの碑文ないし記号列は確かに未知の言葉のものだ。手が指す先には幻想的な図形がいくつも並んでいた。極めて細かくデリケートな線で描かれた螺旋と渦巻きがタブレット上の残った部分をさまざまな間隔で埋めていた。模様のようなものの群れは複雑に入り組んでおり、ガラス板に押された親指の指紋と同じく、意味のありそうなデザインからかけ離れていた。
「この模様のようなものは、自然にできたのかな。」ダイスンは考えた。「人の手の加わっていない石にも、獣や花に似た変わったデザインに見える物があるからな。」 石の上に屈み込み、拡大鏡を使ってみても、やはりこのような線の迷宮は自然にできたはずがないことを確認するだけに終わった。渦巻きは大小さまざまで、小さいものの直径は2mm未満で、大きなものは六ペンス玉より少し小さい程度だった。拡大鏡でみれば、彫りが均一で正確なのが一目瞭然であった。小さな螺旋では、線は0.25mmの間隔で刻まれていた。見るからに驚異的で幻想的な仕上がりだった。手の下にある神話的な渦巻きを見つめていると、遥か長い長い年月をけみしたものという印象が浮かんできた。丘がまだ形作られず、溶岩が固まり切っていない時代に、ある謎めいた生き物がそれに触れたのではないかという。
彼は言った。「『黒き天』は再び見つかった。だが星々の意味は、私がかかわっているだけでは永遠に謎のようだな。」
家の外ではロンドンが静かな眠りについていた。ダイスンが蝋燭の光に暗く輝くタブレットを見つめていると、冷え冷えとした空気が部屋にやってきた。ついに彼は古代の石を机にしまい、トーマス・ヴィヴィアン卿の事件が十倍も不可思議なものになったことに思いを馳せた。手の印の下に謎めいたやりかたで死んでいた身なりのいい富裕な紳士が頭に浮かび、ウェスト・エンドの上流階級の医師と奇怪な螺旋を刻んだタブレットとの間に、想像し難い極秘の繋がりがあるのだという、耐えがたい確信に襲われた。
磁石に吸い付けられるように、何日も机の前に座りタブレットを睨み、それでも彫りつけられた記号の秘密を解く希望を持つことができず、どうしようもない状態だった。ついに、やけをおこした彼はフィリップス氏を訪ねて相談しようと思い、その石を見つけた経緯を手短に説明した。
フィリップスは言った。「やあ、これは実に変わっているな。君もよく探しだしたものだ。うーん、私にはヒッタイトの封印より遥かに古い物に見えるな。その文字は、もし文字だとすれば、全く見かけたことがないものだと白状しよう。実に実に変わった渦巻き模様だ。」「ああそうだ、だがその意味を知りたいんだ。このタブレットがトーマス・ヴィヴィアン卿のポケットから発見された手紙にあった『黒き天』だということを忘れないでくれ。死ぬ間際まで身につけていた手紙だ。」
「おお、そんなはずはない。ナンセンスだ。これは疑いもなく、極めて古い、太古のタブレットだ。どこかのコレクションから盗まれたものだ。確かに手が出てくるのは奇妙な暗合だが、結局それは暗合に過ぎないのだ。」
「親愛なるフィリップスよ、君はまさに、極端な懐疑論は単なる盲信だという公理の歩く実例だな。で、その碑文を解読できるかい?」
フィリップスは言った。「いかなる解読でも請け負おう。私は解決不能なものなどあるとは信じていない。これらの文字は変ではあるが、探索不能だとは夢にも思わない。」
「なら、こいつを持っていって、できるだけのことをしてみてくれ。こいつにとり憑かれそうになっているんだ。スフィンクスの目と睨めっこしたみたいなんだ。」
フィリップスはタブレットを内ポケットに入れて別れた。彼は暗号解読のための三十七の規則を開発しており、成功しないとはあまり思えなかったのだ。ところが、一週間たってダイスンの部屋を訪れた時、その顔には勝利の痕跡すらなかった。ダイスンは友人が大変いらいらしていることに気付いた。激情にかられた男のように部屋中をしきりに行ったり来たりしているのだ。扉が開くなり歩き始めた。
ダイスンは言った。「さあ、判ったかい? それは一体何物だい?」
「親愛なる友よ、極めて遺憾だが、完全な失敗に終わった。既知の手法を全て試みたが無駄だった。差し出がましいとは思ったが、博物館の友人の所に持って行くことまでした。彼はこういったテーマに関する最高の権威なんだが、その彼も全くお手上げだというんだ。ある絶滅した人種が遺した破片なのに違いない。我々のとは別の世界からもたらされた断片とさえ思う程だ。私は迷信的な人間ではないし、高貴な幻影とも関係のない人間なのだが、ダイスン、それでもこんな小さな黒い角石なんて消えてなくなってしまえばいいのにと思っていることを告白する。正直に言って、これのおかげで一週間というもの気分がすぐれなかった。まるで穴居人並みの忌々しさだ。」
フィリップスはタブレットを取り出し、ダイスンの前の机に置いた。
言葉を続けて、「さて、ともかく私はある点についてだけは正しかった。これは何かのコレクションの一部をなしていた物だ。汚れた紙片が裏についているが、それは標識だったに違いない。」
「ああ、それには気付いていたよ。」 酷く落胆しながらダイスンは言った。「間違いなくその紙はラベルだね。ただ、私はタブレットが本来どこにあったかには興味がなくて、碑文の意味を知りたいだけだったから、その紙には注意しなかったんだ。最高に重要なはずなのに、解けない判じ物なんだな。」
程なくフィリップスは去り、ダイスンは気落ちしたままタブレットを手にして無造作に裏返した。ラベルは大変汚れていて、つまらない染みがあるだけに見えたが、徒然に、しかし注意深く見ていると、鉛筆の跡を見つけることができた。これは、と屈み込み、レンズを使ってみた。うんざりすることに、紙は一部破れてしまっていた。やっとのことで読めたのはいくつかの奇妙な単語と、単語の断片だけだった。まず読めたのは「街で(in-road)」のようなもの、次にその下にある「石のような心を持つ継(stony-hearted step)----」というもので、そこから先は破れてなくなっていた。だが、その直後、解決の糸口が浮かび、彼は嬉しそうにほくそ笑んだ。
彼は大声で言った。「うん、確かにここはロンドンの中でも最高に魅力的なだけじゃなく、最高に便利な交差点だな。横丁で事件が起きることを考慮しても、私はここにいて、物見の塔から見張としゃれこめる。」
彼は勝利の眼差しで窓から大英博物館に至る街路を一瞥した。この気持ちのよい施設の壁に守られる形で、街頭絵描き、あるいはチョーク芸術家が街路上に自分の冴えた絵心を披露し、賞賛の声と嬉しそうな人真面目そうな人からの投げ銭を乞うていた。
「これは愉快以上じゃないか! 芸術家は私への授かり物だ。」
フィリップス氏は、自分でいくら否定していても--自分を制限する、自慢したくもない分別の壁にもかかわらず--トーマス・ヴィヴィアン卿の事件に関して内心では大変な好奇心を抱いていた。友人の前では果敢にも素知らぬ顔を維持していたのだが、ダイスンが明言した結論、つまり、事件全体が醜悪かつ謎めているという結論に理性の力によってきちんと抵抗していくのが不可能になっていたのだ。消えた種族の兇器があり、太い動脈を切り裂いていた。隠れたる信仰の象徴である赤い手が描かれ、惨殺された男を指していた。そこにダイスンが探していたと言うタブレットが言った通りに見つかり、太古に遡るそれには呪の手の印象があり、その下の説明文を記述している文字たるや、最古の楔形文字すらほんの昨日のものに思われるのであった。これらを全て考慮からはずしてもなお、まるで頭を拷問にかけられる程困惑する点がいくつかあった。死体の下に落ちていた血痕のない裸のナイフをどう説明するか。壁の赤い手は闇に生活する者が描いたのではないかという思い付きは暗く限りない恐怖を示唆するもので、彼は震え上がった。そのため、彼がこっそり「神秘男(*1)」と呼んでいる友人をタブレットを返した十日程後に訪ねた際、どんな結果になっているのか、実際には少なからぬ好奇心があった。
グレート・ラッセル街にある重厚で風通しのよい(*2)部屋につくと、謹厳実直な空気はがらりと変容していた。ダイスンの苛立ちは消え、その眉間の皺も自己満足の内に滑らかになっており、残忍かつ愉しそうに、窓際のテーブルから視線を街に向けていた。本と新聞が一山、目の前で放置プレイにあっていた。
「やあフィリップス、よく来てくれた。願わくは我が引っ越しを許したまえ。テーブルの方に椅子を持ってきて、この賞賛すべき強い煙草をやってみてくれ。」
フィリップスは言った。「ありがとう。煙の香りからすると、いささかきついと思わざるを得ないな。だが、一体全体こりゃ何の真似だ? 君は何を見ているのかね。」
「我は我が監視塔におる。この褒むべき街にて大英博物館の柱廊式玄関に見る栄光ある古典美を熟考するに、時も矢と過ぎ行くばかりだよ君。」
フィリップスいらえり。「君の愚行についての許容量には目を丸くするものがあるな。しかし、あのタブレットは解読できたのかね、興味がある。」
「このところあのタブレットにはあまり注意していないんだ。待っていれば螺旋文字がやってくるはずだ。」
「本当か! ヴィヴィアン殺人事件はどうなった?」
「ああ、なんと君があの事件に興味をもったのか? そう、結局あれが奇妙な事件だということは否定できないだろう。だが、『殺人』というのも雑な表現じゃないか? どことなく警察のポスターじみている。多分私はちょっぴり退廃派なんだろうが、『殺人』よりも優れたこの驚くべき言葉の存在を信じているよ。例えば『生贄』だ。」
フィリップスは言った。「私は暗中模索状態だな。この迷宮で君がどのような道を辿るつもりか、想像することもできん。」
「話せばかなり長いことになるだろう。君にも事件全体をはっきり判ってもらうにはね。はたして君はそれまで話を聞いてくれるだろうか。」
ダイスンはパイプに火をつけ、背筋を伸ばした。しかし、気を抜くことなく街を見張り続けていたのだ。しばらく経って、緊張を解くかのように深呼吸をしてフィリップスを驚かせた。窓際の椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き回り始めた。彼は言った。「今日はここまでだ。些か疲れたな。」
フィリップスは不審そうに街を見下ろした。夕闇が迫り、ランプが大英博物館のパイルをぼんやりと照らし出していたが、歩道は忙しそうな人々でごった返していた。道の向こうのチョーク芸術家は商売道具をまとめながら、自らの冴えたデザイン画を全て消しているところだった。少し下った所では、シャッターが次々に音をたてて降り始めていた。フィリップスにはダイスンが突然監視体制を放棄したまっとうな理由というのがわからず、こういった謎の群れに些か焦燥感をつのらせた。
「判るかい、フィリップス」 安心した様子で部屋を往復しながらダイスンは言った。「私がどう働いているのか話すよ。偶発性の法則に従っているんだ。そんな法則知らないって? 説明しよう。セントポール寺院の階段に立って、左足が跛な盲が目の前を通り過ぎるのを待つとする。明らかに、一時間待つだけではそういう人物を見かけることはまずあり得ない。二時間待てば<あり得なさ>は減少するが、それでもまだまだだ。一日中見張っているなら、僅かな期待が持てるだろう。ところが毎日毎日、何週間もそこにいたらどうなる? <あり得なさ>が一様に減少することは論を俟たない--日を重ねる程に減少していくんだ。判らないかな、平行でない二本の直線は互いに接近していって、どんどん間隔が狭くなり、最終的にどこかで交差する。その時点で<あり得なさ>は消失するわけだ。そのようにして黒いタブレットを見つけだした: 偶発性つまり<あり得なさ>の法則に則ったんだよ。これこそ五百万の人間の中から、一人の未知の男を拾い上げることを可能にする、知る限り唯一の科学的原理だ。」
「こんな方法で例の黒いタブレットを解釈できる人間を見つけられると思っているわけか?」
「その通り。」
「トーマス・ヴィヴィアン卿の殺人犯もか?」
「そう。全く同じ方法でトーマス・ヴィヴィアン卿の死に関係した人物に手が届くと期待しているよ。」
フィリップスが去った後の夕べを、ダイスンは街を散歩することに費やし、夜も更けてから執筆活動に手を付けた、あるいは彼の言葉を借りれば言の葉を綾織った。翌朝、窓際での駐屯が再開された。食事もそこのテーブルで摂り、食べる間も目を街に注いでいた。時折ほんの僅かな時間を空けるだけで、それ以外は一日中監視を続けた。日暮れてシャッターが降り、火影が点り、「街頭絵描き」が日中ものした労作を情け容赦なく消し去るのを見て、やっと詰め所から解放される自由を感じるのである。このちらちらとした間断なき監視は来る日も来る日も続き、到頭女家主も、こんな一銭にもならないことをよくもまあしつこく続けられるものだわと呆れ果てる始末であった。
しかしついに、ある夕方、光と影の劇が薄れ行き、雲一つない空だけがはっきりと輝きを残している頃、その時はやってきた。一人の中年男がグレート・ラッセル街の北側の歩道を東のはずれからゆっくりとぶらついてきたのだ。その男は顎ひげを生やし、うなだれて、耳の辺りには白いものがあった。男は大英博物館を見上げ、通り過ぎようとした。その時なんとなく「街頭絵描き」の芸術と絵の脇に座り帽子を手にした芸術家その人に目を止めた。ヒゲの男は一瞬立ち止まり、何か考え込むようにふらふらし始めたのだ。ダイスンにはその男がきつく拳を握っているのが見えた。男の背中は震え、横顔はと見ると、痙攣でも起こすかのように名状し難い苦痛に歪み始めた。ダイスンはソフト帽を取るや扉を開け、階段を駆け降りた。
街に出た時、激怒にかられていたその人物は背を向けたところだった。じろじろ見られているのを無視して、乱暴な歩調で足早に、元々の方向、ブルームスバリー・スクエアに向けて去ろうとした。ダイスン氏はそれを冷静に観察しながら、歩道の芸術家に幾許かの金(かね)を与えて言った。「これまで煩わせたが、もうあれを描かなくていいから。」
そこで彼もまた背を向けて、街を男とは反対側にだらだら歩いた。そのためダイスンとうなだれた男との距離は次第に開いていった。
「私の勝手で君の部屋に集まることにさせてもらったのには、たくさんの理由があるんだ。一番大きいのは、例の男は多分中立的な所の方が気楽だろうという点だよ。」
フィリップスは言った。「正直なところ、私は我慢がならないし、気掛かりでもある。君も私の立脚点を知っているだろう: 堅固なる事実だよ。君がそういいたいなら、ごくごく大雑把に唯物主義といってもいい。だが、このヴィヴィアンを巡る事件にはなんと言うか私をいささか心安くしないものがある。どうやってその男をここに来るように仕向けたのだ?」
「彼は私の力を過大視しているんだ。偶発性原理について話したことを覚えているね? あれが成功すると、秘密を知らない人にとっては大変驚くべき結果をもたらすことになるんだよ。今鳴ってるのは八時の時鐘じゃないか? ほらベルが鳴った。」
階段を登ってくる靴音が聞こえ、やがて扉が開いた。部屋に一人のうなだれて顎ひげを生やし、耳の所に髪をもじゃもじゃさせた中年男が入ってきた。フィリップスは一目でその男の顔にある恐怖の皺を見て取った。
ダイスンは「お入りください、セルビーさん(*1)。こちらはフィリップス君、私の親友で、今夜のホストです。何か食事でも? その後の方がいいでしょう、お話を伺うのは--非常に変わったお話だと確信しています。」
男の声は空ろで、少し震えていた。決して逸らされることのない視線は、ある一点を見据えていた。視線の先にある恐怖の何かを、彼はこの先死ぬまで、日夜目にすることになるのだろう。
「前置きは勘弁させていただけるでしょう。」話し始めた。「こういう話はさっさとしてしまうのが一番です。私はイングランド西部の僻地で生まれました。もう少しで、森や丘やうねうねとした谷間の流れになろうかという所です。想像力豊かな人なら誰でも神秘的なものを暗示させられるような。私がほんの小さな少年だった頃、大きくて丸い形をした丘々が、木々が折り重なる深い森が、稜堡のような秘密の谷が、あたり一面にあり、理性的表現の埒外に及ぶ空想で心が満たされたものです。大きくなって父の書物に没入するようになると、本能的に、幻想を養い育てるものに向かいました。まるで蜜蜂のように。古色蒼然とした隠微な書物を愛読したり、お年寄り達が今も尚秘密裏に信じている野蛮な伝説を聞いたりしている内に、私は、時代に逐われて消えていった種族の財宝が、丘の下に今でも眠っているのだと確信するようになったのです。それどころか、緑の芝生の下1m程にあるはずの金の山を発見しようと、そればかり考えるようになりました。まるで魔法の力でも働いたかのように、とりわけある場所に惹き付けられたのです。それは塚でした。大きな山塊の崖を登った所にある、今では忘れられてしまった人々のドーム型の遺構です。私はしばしばその頂上にある巨大な石灰岩に座って、夏の夕べを過ごしたものです。そこからは黄色い海が見え、その遥か先にはデヴォンシャー(*2)の海岸が見えました。ある日のこと、ステッキ(*3)で何気なく石にこびり着いた苔を掘っていたら、緑がはびこったその下に、ある模様のようなものがあるのが目にとまりました。線刻が一つと記号が複数あり、どれも自然のものとは見えなかったのです。最初は何か珍しい化石を掘り当てたのだろうと思い、ナイフを取って苔を削ぎ落としました。すると、四角い台座が現れたのです。そこには二つの印があって、私は飛び上がらんばかりに驚きました。一つめは握った手で、指と指の間から親指を下向きに突き出していました。手の下には渦巻きないしは螺旋があり、驚くべき精密さで硬い岩の表面を彫ってありました。これぞ偉大なる秘密の目印だ、と自分で思い込もうとしましたが、この辺りの塚は何人かの好古家が掘りまくったけれども、矢じり一つ出土せず大変驚いた、という事実を思い出して冷や水を浴びせられた気がしました(*4)。ということは、明らかに石灰岩の印がある場所そのものが重要だというわけではないことになります。私は、これは外国で調査する必要があるなと腹を括りました。、私の探索が大いに進展したのは、ほんのささいな偶然からです。田舎家の辺りをぶらついていると、子供達が道端で遊んでいるのが見えました。一人の子がなにやら頭の上にかざして、他の子達は思い思いに、子供時代でしか判らない何か重要な登場人物になりきっていました。小さな男の子が掲げている何かの物体が私の目を惹き、私はその子に見せてくれないかと頼みました。その子達が使っていた玩具は黒い石でできた長方形のタブレットだったのですが、その表面には下方を指差す手、ちょうど岩で見たのと同じ図が刻まれ、下方にはタブレット一面に数多くの渦巻きと螺旋が細心の注意と腕で彫られているように見受けられたのです。数シリングでその玩具を貰い受けました。その家の奥さんによると、それは何年も放置されていたのだそうです。主人が家の前を流れる小川で見つけたんだと思いますわ、と言っていました。とても暑い夏の日で、小川はほとんど干上がっていました。石の間にそのタブレットがあるのを御主人が見つけたのだと。その日私が小川を辿っていくと、ひっそりした谷間(*5)の一番奥に冷たく清らかな水の湧き出る井戸がありました。これらは20年も前のことです。謎の印刻を解読できたのはほんの先の八月のことでした。私の人生を無意味に詳しく語って、皆さんを煩わすのは止めておきます。他の多くの人々と同じく私もふるさとを捨ててロンドンに出てこなければならなかったと言えば十分でしょう。所持金はごく僅かでしたので、グレイズ・イン・ロードのはずれにある汚い横丁の木賃宿(*6)に住めたのは幸いでした。今は亡きトーマス・ヴィヴィアン卿は、当時は私よりもずっと貧乏でぼろぼろだったのですが、そこの屋根裏に住んでいました。親しくなって何ヶ月かした頃、私は秘密にしておいた自分の目的を打ち明けたんです。最初、私が日夜徒に空想を追っているのではないということを信じてもらうのは大変でした。しかし、一旦納得してしまうと、私よりも鋭く熱意をもってあたるようになり、独創的な忍耐強さに対して授けられるはずの富というものを得たいという思いを募らせていました。私は大変に彼の事が気に入っていたのです。彼はなんとも可哀想でした。医師になることを強く希望していたのですが、最小限の学資を払う方法すらなかったのです。餓死寸前になったのも、間違いなく一度や二度ではありませんでした。私は自分から厳粛に約束しました。どんな偶然であろうと、私が大きな幸運を掴んだらそれを彼にも分け与えるだろうと。かつては貧困であり、後にもなお富と快楽に飢えていた男、私にはどうしてそんなにも飢えていたのか判らないのですが、その男と交わしたこの約束こそが、私の最大の原動力でした。彼は熱烈な興味をもって打ち込み、大変鋭い頭脳と不屈の忍耐力でタブレットの文字を解こうとしていました。私は独創的な若者がよくそうであるように、筆跡の問題に好奇心があって、幻想的な書き方を開発したというか採用したんです。私はそれを時々使っていました。その書体はヴィヴィアンの心を強く捕えたようで、苦労しながら真似ていました。もし我々が別れても、何か核心に触れる事柄を手紙に書くことになった場合は私がつくり出したこの奇妙な書体を使うべし、という申し合わせができました。また、同じ目的で簡単な暗号も決めました。そのうちに、謎の核心に迫ろうという努力のために我々は疲れ果て、数年が経った頃には、ヴィヴィアンは嫌気がさした様子が見えるようになりました。ある夜、彼は私に、いささか感情を昂らせながら、無益な探し物のために二人の人生が費やされていくのは怖いと言いました。数カ月後、彼は自分自身忘れかけていた遠縁の老いた親戚が亡くなり、かなりの遺産を受け取りました。銀行に預金ができると、彼は急に遠い世界の人物になりました。何年も前に予備試験に合格していたので、すぐさまセント・トーマス病院に行くことにしたのです。もっと便利な宿を探す必要があると言うので、我々は別れたのです。その際、私は以前自分が約束したことを思い出させました。厳粛にそれを再確認したのですが、彼は笑ってそうかいありがとうと言うだけでした。その声には何かしら哀れみと軽蔑がないまぜになった響きがあったのです。自分がその後どれほど長い間苦労し惨めだったかはくどくど話すまでもないでしょう。今では二重に孤独になってしまいました。私は倦まず弛まず最後の勝利を目指し、毎日仕事のようにタブレットとにらめくらをしたのです(*7)。夕暮れになってやっと一息入れられと、毎日しているオックスフォード街での散歩に出たものです。私はその街に惹き付けられていました。街の音、動き、ランプの輝きといったものが恋しかったのでしょう。
散歩は日課になっていました。毎晩、どんな天気でも、グレイズ・イン・ロードを横切って西に向かい、あるいは時に北に向かい、ユーストン・ロードとトッテンハム・コート・ロードを、時にはホルボーンを、時にはグレート・ラッセル街を通って。毎晩一時間程、オックスフォード街の北側の歩道をいったりきたりしながら、ド・クインシーが書いた物語や彼がその街を呼んだ『石の心の継母(Stony-hearted step mother)』という名前を思い浮かべていたものです。それから私は暗くむさ苦しいねぐらに戻り、何時間もかけて、一向に解けない目の前の難題に向かっていたのです。」
「数週間前の夜、答えが頭に閃きました。私は碑文を読み、結局自分が費やしてきた日々が無駄ではなかったことを知りました。『地下に棲むものの宝館の在り処』というのが私の読んだ最初の部分でした。続いて、大いなる金の作品が永遠に保管されるべき場所、それは私自身の田舎にあたるのですが、その地点を示す詳細な指示がありました。これこれの道を行け、これこれの落とし穴を避けよ、ここは狐穴のように道が狭くなっている、次に広くなってついにはかの小部屋に辿り着くであろう。私は即座に発見した物を確認しようと決めました--何も凄い発見が実は間違いなのではないかと疑ったわけではなく、ヴィヴィアンをがっかりさせるどんな小さなリスクをも冒したくなかったからです。今では富裕な男になっていますが、私の旧友ですから。地図を片手に夜行列車に乗り、西に向かいました。指示に従って丘陵地帯を辿り、自分の眼で金の輝きを認めるまで進みました。私は行ったのはそこまででした。この先はなんとしてもヴィヴィアンと共に行かなければならない。そこで、道すがら拾った奇妙な石器のナイフを持って帰り、話を証明する手立てとしたのです。いらだたしいことに、ロンドンに帰ってみると部屋に置いておいた石のタブレットが無くなっているではありませんか。宿の女将は飲兵衛で、そんなの何も知るもんですかと言っていましたが、どうせウイスキー一杯を飲む足しにでもしようと盗んだのだろうと思わないでもありませんでした。しかし、タブレットに記された内容は記憶していましたし、文字の正確な複製もとってありましたから、タブレットが無くなっても大きな問題はありませんでした。ただ一つ腹が立ったことがありました。最初にその石を所有することになった際、裏側に紙片を貼って発見地点と日時を記録しておきました。後になって、その紙片に些細な感傷から、一言二言、自分の住んでいる街の名前のようなものを鉛筆で書き足してあったのです。これらは孤立無援に思われた日々の追憶であり、愛おしいものでした。時が過ぎ去っても、自分は希望を捨てず困難に立ち向かったのだということを、これが思い出させてくれるだろうと考えていたのです。しかしながら、私はすぐさまトーマス・ヴィヴィアン卿に手紙を書きました。先程話した字体と簡単な暗号を使って。私は自分が成功したこと、タブレットは無くなったが碑文の複写を持っていることを告げ、続いて、またしても約束について触れ、貴君の手紙乃至訪問を乞うと書きました。彼は返事をよこし、クラークンウェルの人目につかないある小道で会うことにしよう、と言ってきました。そこは昔我々がよく知っていた場所だったのです。ある夜七時のこと、会合に出かけました。その横丁の角を行ったり来たりしている時に、街頭絵師の絵が消え残っているのが見えました。彼が使っていたチョークの欠片が残っていたので、特に深く考えることもなく、それを拾いました。私は道をせわしなく往復しました。ご想像の通り、もう何年も会わなかった相手です、どういう風になっているのだろうかと思案し、ひっそりと埋葬したはずの過去の日々が押し寄せてきたのです。私はうつむいたまま、機械的に歩きました。白昼夢は突然破れました。どうしてお前は右側を歩かないんだ、という怒鳴り声に驚かされたのです。顔をあげると、富裕で身分のある紳士がすぐ前にいて、はげしい嫌悪と軽蔑の目で私の哀れな姿を見ているのです。それが我が懐かしい同志であることに、私はすぐ気付きました。彼に私が何者か思い出させると、彼は幾分申し訳無さそうに謝り、私の好意に感謝すると言い出しましたが、それはかなり怪しいものでした。というのも、いかにも自分は関わりたくないという様子で、しかも私の正気を疑っている感じがしたからです。私はまず話の触りとして、以前の友情を追憶するところから始めようとしましたが、トーマス卿にとってあの日々は大変厭わしいものだったのです。慇懃無礼に返事をしながら、絶えずそれらを『厄介事(*8)』と罵っていました。私は話題を替えました。先程貴方がたに話したことを、はるかに詳細に伝えたのです。自分達の隠語で『月の裏側』と呼んでいたその場所に実際に行ってきた証拠として石器のナイフを取り出すと、彼の態度は激変しました。息詰るような貪欲さが全身に現れ、相貌が何かしら歪み、私はそこに震えるような恐怖と、歯を食いしばるような決意を見たように思ったのです。努めて二人とも沈黙を守らせる、その様子が私にはどうも腑に落ちませんでした(*9)。詳細について正確を期す機会でしたし、また辺りは十分明るくもありました。私はポケットの赤いチョークを思い出し、壁に手を描きました。『ほら、これが手だ。』 そう言ってその真実の意味を説明したのです。『第一指と第二指の間から母指が突出しているところに注目してくれ。』 壁にチョークを当て図解を続けようとすると、驚いたことに突然私の手を叩き(はたき)落として言うのです。『そんなのはどうでもいい。ここはまだ人通りがある。ちょっと歩こうじゃないか。細かい所まで全てを教えてくれ。』 私はすぐそれに従い、彼は人気のできるだけない横丁ない横丁と選んで私を連れ回りました。その間私は隠された家まで行く計画を一語一語徹底して語ったのです。一度か二度目を上げてみると、ヴィヴィアンの様子がおかしいのに気付きました。ぎらぎらした視線を家々に送っているのです。こそこそとした人目をはばかる空気があり、私はそれが気に入りませんでした。ついに彼は言いました。『北に向かおう。居心地のよい道に出るから、そこでこれらの件について静かに話し合える。今晩は君のために空けてあるから。』 私はオックスフォード街での散策を休むわけにはいかないという口実で断り、説明を続けました。その結果、彼も全ての曲がり角と回り道を私自身と同じくらい詳しく隅々まで知ることとなったのです。我々は自分達の来た道を引き返しており、赤い手を壁に描いたちょうどその小道に立っていました。木々が頭上に枝を張る姿に見覚えがありました。私は言いました。『これで出発地点に戻った。壁に手を描いた所に指を置くことができそうだな。同じように、君も間違いなく丘の謎めいた手に指を置くことができるだろう。忘れるなよ、川と石の間だ。』
「私は屈んで、自分で描いたに違いないと思ったものを見ようとしました。そこに鋭くひぅっという息が聞こえたのです。驚いて立ち上がると、ヴィヴィアンがナイフを振り上げていました。ナイフは歯がむき出しになっていて、眼には殺意がありました。全くの自己防衛として、ポケットの中の石製武器を取り出し、命がけで盲滅法彼の方にぶつかって行きました。次の瞬間には、彼は石畳の上で息絶えていたのです。」
「これで終わりだと思います。」 セルビー氏は間をおいて続けた。「ただ一つ貴方にお聞きしたいのですが、ダイスンさん、貴方は一体どうやって私にまで追求の手を延ばせたのですか、そんな方法があったとは思えませんが。」
ダイスンは言った。「数多くの道しるべがあったんですよ。 私を鋭いというなら、その栄誉は返上します。大きなしくじりも幾つかしましたからね。正直な所、天球を使った貴方の暗喩はそれほど問題じゃなかったんですよ。占星術用語がありふれた単語やフレーズの代わりに使われているという点は一目で見抜けましたね。貴方は何か黒いものをなくしたか、盗まれた。天球図は空のコピーですから、なくしはしたが複写が残っている。すると、明らかに次のような結論が得られます。貴方は黒い物体をなくし、それには文字や記号が記入されているか刻まれている。なんとなれば問題の物体には間違いなく価値のある情報があって、全ての情報は文字か絵で伝えられるからです。『我等の古き軌道は不変である』 明らかに我等の昔の道筋または配列です。『我が印の数字』は星座の印になぞらえた我が家の所番地に違いなく、『月の裏側』は他の人は誰も行ったことのないどこかの場所以外を意味しようがありません。『他の家』は別の会合場所、『黄道十二宮(house of the heavens)』を古くは『家(house)』と言ったのにかけているんですね。次のステップは盗まれた『黒い天』を探すことで、それには疲労困憊しましたね。」
「タブレットをお持ちなのですか?」
「まさしく。その裏の紙、貴方のお話に出てきた紙片に、「の道で(inroad)」と読めるものがあり、グレイズ・イン・ロード(Grey's Inn Road)のことだと思い付くまで、かなり悩んだんです。貴方は二つ目のnを忘れましたね。「石の心を持った継----」はすぐに貴方が仄めかしたド・クインシーのフレーズだと想像できました。そこで大雑把に、貴方はグレイズ・イン・ロードかその界隈に住んでいて、オックスフォード街を歩く習慣がある人物だろうと山をかけてみたら、見事に的中したというわけですよ。その人物は、かの阿片耽溺者が往来に沿いたる倦むべき歩道について長々と書き綴っているのを頭に浮かべたのでしょうから。
今ここで友人に説明したばかりなのですが、偶発性の法則によって、結局貴方はいつかはギルフォード街、ラッセル・スクエア、グレート・ラッセル街を通るだろうと結論しました。十分長い期間監視を行えば、貴方を見かけることになるわけです。しかしどうやって貴方を見分けるか? 部屋の反対側の歩道で見かけた街頭絵描きに目を付け、背後の壁に毎日大きな手の絵を描かせました。ここの皆がお馴染みの仕種をしている手を。無名氏が通りかかってこれを突き付けられれば、必ずや何らかの情動を見せるであろうと。彼にとっては最も恐るべき象徴ですから。残りは御存じですね。ああ、一時間後に貴方を捕えた時は、正直な所、推理を精細化するだけでした。周りの間借人がどんどん入れ代わっているのに、長い間同じ部屋を使い続けていることから、固まった習慣をもつ人物だろうと結論し、貴方が驚愕から立ち直った後にオックスフォード街のルートに戻ったのを見て、確信しました。貴方はニュー・オックスフォード街を通り、その角で私は待ち構えていたというわけです。」
「素晴らしい推理です。」 セルビー氏は言った。「加えると、トーマス・ヴィヴィアン卿が死んだ夜も、私はオックスフォード街をぶらついたのです。これで全てを話したと思いますが。」
「もうちょっとだけ、」 ダイスンがいった。「宝物はどうなりました?」
「その話はしない方がよいと思いますよ。」 セルビー氏は頭のてっぺんまで真っ青になって言った。
「そんな馬鹿な。私達はタレ込み屋ではありませんし、第一、貴方は今私達の手中に落ちているんですよ。」
「それならばダイスンさん、御希望に沿って話しましょう。私はその場所に戻り、前回より少しだけ先に進んだのです。」
男は息を飲んだ。口を震わし、唇を開け、喘ぎ、さめざめと泣き出した。
「そ、そうですね、」ダイスンは言った。「とても快適とは言えなかったということですね。」
「快適ですよ、」セルビーは続けた。努めて自分を抑えながら、「そう、とても快適です、地獄の劫火が永遠に身体の中で燃えるように。丘のその慄然たる家からはある一つのものだけを持ち帰りました。その家は石器のナイフがあった場所のほんのちょっと先でした。」
「どうしてそれだけしか持ち帰らなかったんですか?」
魅入られた男の体全体の骨組みが見る間に萎縮していった。顔は獣脂じみた黄色になり、額から汗が滝となって落ちた。胸が悪くなるような恐怖の光景だった。しゅぅしゅぅ蛇のような声が聞こえてきた。
「なぜならば、まだそこに守護者がいるからですよ。私は見てしまったんです、彼等を。また、このためです、」 変わった金細工を取り出し、掲げた。
「ほら、これこそ山羊の苦痛(*10)です。」
フィリップスとダイスンは同時に叫び声を上げた。その卑猥さは嫌悪感に吐き気を催す程だった。
「どっかにやってくれ、頼むから見えない所に仕舞ってくれ。後生だから!」
「これを持って帰ったんです。それだけです。」彼は言った。「不思議には思われないでしょうね? 私はそこには長く留まりませんでした。そこに棲んでいるのは獣からほんの僅か上等になっただけの物どもです。今御覧になったものより千倍も酷い。」「これを取っていってくれ」ダイスンは言った。「役立つかも知れないと思って持っていたんですが。」 黒いタブレットを取り出し、ぶるぶる震える恐怖の男に渡した。
「さて、」ダイスンは言った。「出て行きますね?」
二人の友人はしばらくの間座ったまま黙りこみ、落ち着かない目と震える唇を互いに向けあった。
「彼を信じる、と言ってみたいものだ。」 フィリップスは言った。
「親愛なるフィリップス、」 ダイスンは窓を開け放って言った。「結局、今度の奇妙な事件で、自分がこれ程馬鹿げた酷いへまをやるとは思っていなかったよ。」
数量はできるだけメートル法に書き換えました。
この小説では都市散策場面がたくさん出てきます。ここにまとめて原語を載せておきます。
So then, Oxford Street, stony-hearted step-mother! thou that listenest to the sighs of orphans and drinkest the tears of children, at length I was dismissed from thee; the time was come at last that I no more should pace in anguish thy never-ending terraces, no more should dream and wake in captivity to the pangs of hunger.
さればオックスフォード街、石の心を持ちたる継母よ! 汝は孤児の溜息をば聞き子供の涙をば飲み、遂には我汝より捨て去られたり。我、最早汝に沿いて、果てしなきテラスの列の内を苦悶と共に歩むことなかるべし。餓えの痛みに囚われつ夢見また目覚めを迎うることなかるべし。
以下、訳出上問題になった点、及び各種固有名詞を挙げます。