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東海道歩行

東海道は、江戸(日本橋)から京都(三条大橋)までの493.7Km、途中に53の宿場がある、江戸時代では最も往来の多い道でした。現在は、国道になってみたり裏街道になってみたり、雰囲気のいい石畳になってみたりと、各地にその痕跡があります。鉄道や国道に分断されているところもありますが、ほぼ53次を辿ることが可能です。

東海道歩きとして一般的なのは、目的地まで歩き、帰りは電車などの交通機関を使用し、次回は前回終了した地点まで電車等で向かい、続きを歩くといったやり方です。なにかと忙しい現代人。昔の人のように一気に日本橋〜京都間を歩くことは難しいですが、分割して長期的に歩くことも、また楽しいものです。

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きっかけは?

ネットサーフィンをしていた時、なぜが「東海道徒歩の旅」なるページにヒットしました。東海道を歩く!それまでまったく考えたことがありませんでした。でも、読んでいるととてもおもしろそう。もともと歩くことが好きでしたので、東海道を歩くことに興味をもちました。ちょうどその時、箱根の石畳を歩いてみたいと思っていましたので、どうせなら、電車で箱根へ向かうのではなく、石畳まで東海道を歩いてみよう、歩いて芦ノ湖まで行ってみようと思いました。これが東海道を歩くきっかけです。

真夏の2001年8月18日、日本橋をスタートしました。そして、2001年11月17日、晩秋の箱根に到着しました。当初の目標は達成しましたが、箱根までの行程で東海道の楽しさを知り、さらに、京都までの道のりにはきっと、新たな発見や楽しいことが沢山あるだろう。そう思いました。そして、京都を夢見ながら、長い道のりを京都目指して歩くことを決意しました。

そして、2003年4月12日、春爛漫の京都に到着。足かけ1年10ヶ月、長いようで短かった東海道の旅が終わりました。今は、別の街道を探しつつ、もう一度歩きたい場所を訪れては、じっくりと東海道を味わっています。

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参考文献

東海道歩きの参考としている文献です。これらの書籍の地図と現在の地図を見比べながら歩きました。

 ・東海道五十三次を歩く(全5巻)
 ・東海道五十三次 ハンドブック
 ・広重の東海道五拾三次旅景色

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東海道用語集
東海道を歩いていると、よく耳にする用語です。

宿場(または宿) 江戸幕府の駅制の中で、人馬の継立と通信業務、宿泊施設の提供などを行っていました。各宿場には、本陣、脇本陣、問屋などが置かれ、宿役の業務にあたっています。東海道では、53次と言われる通り、日本橋から京都までの間に53の宿場がありました。
間の宿(あいのしゅく) 宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合、宿場と宿場の間に休憩用の「宿」が置かれることがありました。この宿が「間の宿」で、宿泊はできませんでした(江戸幕府の駅制下では、基本的に宿場以外での宿泊は禁止されていました)。
問屋場 本陣、脇本陣と並ぶ、宿場の中核的施設の一つです。馬の手配や次の宿場までの荷物の受け継ぎなど人馬の継立を行う施設です。
本陣 身分の高い人が泊まる宿場の中心施設で、大名のほか、公家、勅使、院使、宮、門跡、高家、旗本などが利用できたそうです。宿泊者が多い時は、脇本陣が本陣の代わりとして用いられました。

東海道では、現在、二川(愛知県豊橋市)、草津(滋賀県草津市)に本陣の遺構が残されており、内部を見学することができます。
脇本陣 通常は「旅籠」として経営し、本陣に宿泊者が多い時や大名が重複した時など、本陣では対応しきれなくなった際に、本陣の代わりとして利用された施設です。

東海道では、現在、舞坂宿(静岡県舞阪町)に遺構が残されており、内部を見学することができます。
旅籠 一般の旅人が利用した宿泊施設です。食事付きのものが旅籠、食事無しのものが木賃宿です。東海道中、旅籠の数が一番多かったのは宮宿で、最盛期には250もの旅籠が軒を並べていたそうです。
旅籠には、客の相手をする飯盛り女が置かれている場合が多く、特に赤坂宿や藤川宿には、飯盛り女が多いことで有名でした。
東海道では、現在、赤坂宿の「大橋屋」が、旅籠として当時の建物のまま営業を続けています。
高札場(こうさつば) 高札場は、通常、宿場の出入口に置かれ、幕府の禁制や法度などのお触れを掲示しました。
東海道筋でも、復元も含め、ところどころで見かけます。
立場(たてば) 宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する施設です。茶屋などが置かれ、一般の人でも休息することができました。
茶屋 宿場で旅人が休憩をする場所で、宿泊はできません。現在の喫茶店にあたるものです。
一里塚 一里(約4キロ)間隔にたてられた、五間(約9メートル)塚で、馬やカゴの料金計算の目安として利用されました。また、一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩場所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
追分 街道の分岐点を指して「追分」と呼んでいます。追分には、道標が建てられ、分岐する街道の行き先(あるいは街道名)が書かれていました。また、茶屋が置かれている場合が多く、休憩場所として利用されました。
東海道筋で有名なのは、なんといっても草津宿(滋賀県草津市)の追分でしょう。共に日本橋と京を結ぶ東海道と中山道が分岐する追分が、草津宿の追分です。
曲尺手(かねんて)・枡形(ますがた) 曲尺手とは、宿場の出入口、または宿内の街道を鍵の手に折り曲げ、場合によっては石垣を組んでカーブ等をつくり、敵の侵入に備えたものです。東海道では、多くの宿場において、この遺構を見ることができます。
また、東海道の場合、多くの城下町を通りますが、城下町では宿内で何度も折れ曲がる場合が多くみられます。特に、岡崎宿では27回も折れ曲がり、「二十七曲がり」と呼ばれています。
川越し(かわごし) 江戸幕府は、特定の川に橋を架けることを禁止し、川越の業務全般を川会所の管理下に置きました。このことにより、大河を利用した防御ラインを作り出しているわけです。
東海道で橋が架けられなかった河川は、酒匂川(小田原)、興津川(興津)、安倍川(府中)、大井川(島田・金谷)などで、これらは人足による渡しで川越が行われました。なお、大井川の島田宿側には、川会所などの施設が復元され、川越遺跡として公開されています。
関所(せきしょ)・番所(ばんしょ) 「入り鉄砲に出女」と言われるように、江戸に鉄砲を持ち込むこと、江戸住まいの大名の奥方が許可なく国元に帰ることを厳重に取り締まる江戸防衛のための施設でした。
東海道では、箱根と新居に設けられており、箱根は復元ですが、新居は全国で唯一、当時の建物が現存しています。
見附(みつけ)・木戸・棒鼻 見附とは、宿場の出入口のことです。門が置かれ、番所が設置されている場合が多かったそうです。木戸、または棒鼻(ぼうはな)とも呼ばれています。
常夜灯 現代でいうところの「街灯」にあたるものです。暗い夜間、旅人を誘導する役割を担っていたようで、特に川岸や神社の近くに多く見られました。東海道筋でも、ところどころで常夜灯を見ることができます。
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歩く際のポイント
歩くことが好きな人ならば、東海道歩きはとても楽しいものです。ただ、問題点もあります。歩いてみて、自分なりに問題となった点をあげてみました。参考にしていただければと思います。

<問題点と解決策>
問題点 問題点詳細 解決策
宿泊施設 日帰りで可能な場所であれば問題ないのですが、東海道を踏破するためには、必ず宿泊しなければなりません。ところが、江戸時代と違って、今は宿場内に宿泊施設があるところはほとんどありません。 比較的大きな都市や街ならば、ホテルや旅館、民宿があります。インターネットやガイドブックなどで調べ、宿泊施設が近くにある宿場を中心に、行程を考えるといいでしょう。
トイレ 人間である以上避けられないものです。公園などがあればいいのですが、場合によっては全く見つけられない区間があります。 比較的大きなお寺を利用します。お墓のある大きなお寺の場合、墓参り客用に、外にトイレが設けられているところがあります。
交通 鉄道を基準にしても、かなり無理が強いられてしまう区間や、鉄道から離れている区間があります。 路線バスを調べましょう。路線バスによっては、おもいっきり東海道を通るものもあります。地元の路線バスを是非とも調べてみてください。
食事 都市部や国道沿いならば、食事のできる店がありますが、旧道沿いには食事のできる店がない区間や、土日は休みの店があります。このため、食事も満足に取れないこともありました。 こればっかりはどうしようもないので、時間を見ながら、店を見つけたら入るようにした方がいいでしょう。また、コンビニがあれば、そこで非常食を仕入れておくのも手だと思います。
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余談

五街道といえば、江戸幕府直轄の街道で、「東海道」「中山道」「甲州街道」「奥州街道」「日光街道」があります。この内、都内やその周辺で現在も同じ名称が使われている道があります。

●国道1号線
日本橋から神奈川宿(青木橋)までは現在の国道15号線が東海道に沿っていますが、神奈川宿から先は、国道1号線がほぼ東海道に沿って走っています。各地で東海道を通り名として使用していますが、中でも神奈川県内では、地図上や歩道橋等で「東海道」の文字を見かけます。

●国道17号線
日本橋から、大宮、熊谷、高崎を越えて新潟県までを結ぶ国道です。このうち、高崎までは中山道に沿っていますが、都内を中心に、現在も「中山道」を通り名として使用しています。交通情報などで、たびたび「中山道○○○で渋滞」などと聞くことがあると思います。

●国道20号
甲州街道に沿っている国道ですが、現在も「甲州街道」を国道の別名として使用しています。地図上でも「甲州街道」と書かれていますし、内藤新宿の置かれた現在の新宿駅付近でも、もちろん「甲州街道」と書かれています。

●国道4号
奥州・日光街道、どちらかというと奥州街道に沿っている国道ですが、よく呼ばれる名称としては、「日光街道」が多いようです。イメージ的には「日光街道」の方がいいのでしょうか。

●鉄道の路線名
東海道は、五街道の中で唯一鉄道の路線名にもなっています。JR東海道線は、東京から神戸間を東海道線と呼んでいます(近畿地方では、一部で愛称を付けていますが)。また、平行する新幹線も、東京と大阪(新大阪)間を東海道新幹線と呼んでいます。日本で最初に開通した新幹線にも「東海道」の名を使用するほど、東海道は重要な交通路なのでしょう。

五街道以外にも、かつての街道名をそのまま継承して、通り名にしているところは数多くあります。これらの道を調べると、その道の歴史がわかっておもしろいかもしれません。

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