蝸牛月刊 第26号 1997年12月14日発行


ストルガツキー書評を評する

(同コンセプトで違う内容の文章はロシア文化通信「群」第11号(群像社)に掲載された)

 雑誌などの書評欄を参考にして本を選ぶ人は少なくないだろう。だが、この書評欄をよくよく見てみると、とんでもないことが書かれている場合もある。ところが書評欄に文句をつける人はあまりいないため、今のところ、どんなにとんでもないことを書こうとも、書きっぱなしの野放し状態なのである。
 今回は、「書評」書評の試みとして群像社から発行されているストルガツキイ兄弟のSFを評した三十二編の書評を読んでみた。もちろん、非常に良い書評も多いのだが、同時に「問題書評」も少なくない。以下では問題書評に見られる「病理」を分類してみる。なお、カッコ内の数字は、三十二編の中で該当したものの数である。複数の分類にまたがっているものもあるため、合計した数だけ問題書評があったというわけではない。
●紋切り型書評
 最も多いのは「ソ連」または「ロシア文学」に対する先入観・固定観念・誤解だけで作品を断定していまう「紋切り型」書評である。
 いくつかある紋切り型の中で最も特徴的なのは「本書はソ連批判(だけ)の書である」という言い方である(三件)。確かに、筆者もソ連を批判することを目的としている部分もある。だが、それだからといって「ソ連批判の書だから日本人にはわからない」とか「関係無い」、「理解できない」と言い切ってしまうとなると話は違ってくる。こういう言い方をしてしまうと、「収容所群島」や「われら」といった作品には、歴史的な意味しかないということになるのだが…。
 次に謎が解決されていないとか、結末をはぐらかされていると書かれているものも見かけられた(二件)。小説の意図するものは全て作者から一方的かつ明確に与えられるものだと思っているのだろうか。単に作者の意図を読み解けなかったことの言い訳としか思えない。また、類似のものとして「難解である」と結論して終ってしまっている書評もあった(二件)。こういった書評を読まされる読者は困り果ててしまう。難解な内容を読み解き、解説するのが書評または評論という行為ではないのか。
 そして米国型のエンターティンメントSFと比較して「娯楽」の要素が少ないと苦情を言っているお門違いのもの(二件)。娯楽小説として書かれていないものを娯楽小説の物差しで採点してしまうのは、フェアな行為とは言えない。中には「ロシアのSFが好きだというと奇妙な趣味ですねと言われる」などという記述すらある。人の趣味のことに「奇妙」だなどと口を出すのもおかしな話で、言われてもほっておけばいい話なのだが、わざわざ紹介するところを見ると、自分でも「奇妙な趣味」だと思っているのだろう。
 このような紋切り型で最も困るのは、自分の先入観に無理矢理にストーリーをはめ込んでしまい、解釈を捻じ曲げてしまう点である。
●責任放棄型書評
 以上の書評は問題こそあるものの、「評しよう」という態度は崩していない。だが、これから紹介するものは、まともに評しようとすら思っていない「責任放棄型」書評である。
 まず、ストーリーを最初から最後まで紹介してしまっている書評があった(一件)。それはそれで構わないのだが、それ以外には何も書かれていないのだ。その人が何を感じたのか、面白かったのかつまらなかったのか、まったく書かれていない。あらすじをまとめるだけなら、本を読みさえすれば誰にだってできる。
 本の内容に関連のある、しかし本とは全く何の関係もない話で終始するもの(二件)、さらには本とは何の関係もないこと、ソ連の話や作者のプロフィール紹介などに終始しているものもあった(二件)。書評を行うにあたり、あらすじや作品の背景、著者についての情報を提供するのは重要なことだ。しかし、それだけで終ってしまっては書評としての形をなしていない。これらの責任放棄型は、書評とは名ばかりで中身は何も無い。
 面白くない本、価値の無い本だと思うのなら、そう書けばいいことだ。だが、その判断基準が、ピント外れなものであるのは読者として困る。しかも、やっつけ仕事で評されてしまっては本がかわいそうだ。少なくとも真剣に書かれた本には、真剣な態度で向き合い、意見を聞かせて欲しいと、読者として思う。
(大野典宏)


第一印象「虫の生活」

――モデリングという考え方

 読後、まず思ったことは、ペレーヴィンは非常に理科系的な感覚の持ち主であるという点である。理由はこれから述べるが、区別の付かないものを無理に切り分けず、同じレベルで語る感覚は、シミュレーションサイエンスに近いものなのではないかと感じた。
 シミュレーションとは、もちろんコンピュータなどによって模擬的に状況を作り出し、仮想的に実験・観察を行う手法である。一般的に、「どうなってみるのか、とりあえず試してみる」ための手法として理解されているが、実はもう一つの目的がある。それは、シミュレーションにかけてみる対象の作成、モデリングという作業である。
 モデリングとは、目的に合わせて対象の特徴を切り出す手法である。モデリングが正しく行われれば、シミュレーションの結果が現実と一致する。すると、対象の一面が正確に記述されたことになり、対象に対する理解がより深まるというわけである。つまりモデリングが正しく行われた場合、シミュレーションの過程や結果は現実一致する。
 本書では、虫と人間が混ざり合い、法則性も脈絡も無く人間と虫とが目まぐるしく切り替わる。その様は「世界が交錯している」とか「たとえている」といったレベルのものではない。ここで、ペレーヴィンは人間を虫としてモデリングしたのではないかと仮定してみる。その場合、虫を主人公として進行する小説(シミュレーション)と、人間を主人公として進行する小説は寸分違わないものになる。その結果、等価である両者をわざわざ区別することなど何の意味も無い。その結果が本書だと考えると、(この結論に納得できるかどうかはともかく)一応の筋は通る。
 おそらく本書には、人間を虫にたとえたという評価が多く下されることだろう。しかし、本書に登場する虫は、擬人化として登場したのでもなければ象徴的な意味もない。「虫」に比喩としての効果は期待されていない。個人的には、比喩とは最も遠い形式なのではないかとさえ思う。
 本書に限らず、ペレーヴィンが作る話は非常に奇妙なものなのだが、それはあくまでも結果であり、対象の切り出し方、切り出す判断は非常にはっきりしているように感じる。
(大野典宏)