蝸牛月刊 第22号 1997年7月26日発行


往復書簡 「ソウヤー,SF,キリスト教,ルィバコフ」

富田恵子,大野典宏


背景となる状況

1)ターミナルエクスペリメント

 ロバート・J・ソウヤー著。早川文庫。ネビュラ賞受賞作品。
 SFミステリ,エンターティンメントとして非常に優れた作品である。だが,作中で語られる魂の存在や倫理観などが多くの日本人に??な印象を与えた。また,同書に収録された瀬名秀明による解説が数多くの議論を巻き起こしたことでも有名。文中ではアメリカの作家のような書き方だが,実際にはカナダの作家。(大野典宏)

2)ルィバコフの主張

 人類の歴史は戦争の繰り返し.軍事支配は敵方の価値観を根絶し,味方の価値観を押し付けるための手段である.
 味方の価値観を道徳的に補強し個々人へ浸透させる絶対的超越者が,→第一段階では「民族の始祖」,第二段階では「宗教的指導者(または神)」,第三段階では「社会発展の未来モデル・社会体制」であった.
 第三段階の〈信仰〉においては,同志集団への裏切り行為に対する超越者の罰は,「未来が実現しない」という形で示される.
 この第三段階の〈信仰〉は,超自然的な道徳の支柱であり,同時に,大衆的かつ世俗的な無神論的倫理である.
 この無神論的倫理はキリスト教世界において,発生した.中国では国家と家族,個人の関係を儒教的倫理が規定する.イスラム世界では広範な無神論化が起こらず,無神論的倫理は不要.ゆえに・・・

非キリスト教的道徳観・倫理観を有する社会では本格的なSFは誕生しなかった,日本を除いては.

 以下,ナチズムとマルクス主義の対立が一種の宗教戦争の要素を有するとして,ロシア国内での革命と大祖国戦争に触れ,70〜80年代の共産主義体制の崩壊--すなわち〈信仰〉対象の崩壊へと歴史を辿り,新たな未来モデルを提示する手法として,ファンタスチカの有効性を論じています(この辺は『群』の原稿で触れた)。(富田恵子)


1 富田→大野

(ターミナルエクスペリメントの感想として)
 なんやかやで間が空いてしまいましたが,読み終えました.
 そこそこ面白かったし考える材料にはなったものの,構成が今一つ単線的というか見え見えの結末というか……(枝葉の部分ですが,ミステリとして読むと情況説明に一部矛盾があるし)
 ソウヤーが提示したような死生観,倫理観,人生観,家族観,・・・etc.,と日頃の私の個人的な見解とでは相反する部分が多いような気もしまして,人それぞれやなぁというのを再確認したようなもの.
 このような形で作者が結末を用意してしまうあたりがいかにもUSA的な流儀? 英,露などであれば結末は提示されないのではなかろうか.
 作者は別の結末を用意できたか否か,というより,ロバート・J・ソウヤーという個人がこれと異なる結末を想定しえたのであろうかという点に,別の意味での興味が湧きますけれどね.


2 大野→富田

 ソウヤーが提示したような死生観,倫理観,人生観,家族観,・・・etc.,と日頃の私の個人的な見解とでは相反する部分が多いような気もしまして,人それぞれやなぁというのを再確認したようなもの.

 私は御都合主義的すぎる部分まで含め,ターミナルエクスペリメントをアメリカ的SFの特徴が極端な形で示されている作品として読みました。 作中に提示された考え方に対し,ほぼ全てにおよび私は絶対に承服できません。多様にアメリカの白人的,WASP的な価値観を反映させているのでしょう。キリスト教,もしくはピューリタン勢力の価値観が反映された作品は多くありますが,どれも私には理解しえません。
 ただ,日本人は戦後50年にわたってアメリカ的価値観を刷り込まれているので,表面的な部分では共通するものは多々あると思います。
 すくなくとも,異様な世界を提示する場合,読み手との共通点は論理でも文化でも歴史でもなく,価値観しかないわけですから,何らかの文化的背景を土台とすることが求められるのでしょう。主にキリスト教圏で発展したという背景を考えると,数が多いという理由によって「SFはキリスト教的な産物である」ということは可能でしょう。
 また,SFで常用されている,見えないものへの畏れと敬虔,別な世界の存在,魂の存在,絶対的シンボルの存在,苦難と救済,善悪の闘争,審判,復活というステロタイプは多分にキリスト教的です(^^;; ソウヤーはもろにこれら全部を提示してくれていると思いました。文化的背景が違うロシアでさえ,上記のようなステロタイプは存在していると思います。
 まぁ,私はキリスト教=SFという考え方には真っ向から反対ですが。 もし,SFがこのような価値観を共通の背景として持ちうるのだとしたら,日本人は日本人の価値観でSFを再構成するしか無いということになります。

 このような形で作者が結末を用意してしまうあたりがいかにもUSA的な流儀? 英,露などであれば結末は提示されないのではなかろうか.

 文化的背景の違い,ストーリーテリング手法の違いがあるので,違うものになったとは思います。第一,本作品のご都合主義は度を越していますし(^^;;
 ただ,本質は,あまり変わらないのではないかと考えます。


3 富田→大野

 今日の日本において支配的な価値観は,大野さんが頻繁に(?)指摘しているとおり,敗戦後にアメリカ合衆国から持ち込まれた物でしょう.
 だが,少し田舎へ行けば,戦前あるいは下手をすると幕末頃の意識を引きずっている「伝統的な」ムラ社会があり,何より怖ろしいことに,そこでは「異質な価値観がこの世のどこかに存在する」という概念そのものが存在しえません.これ,事実.(もちろん,地方がすべてそうだと言いたいわけではないですけれども).
 そんな社会環境の中にSFが立脚する余地があるんだろうか?
 それが日本の「伝統的な価値観」に基づいた社会なのだろうか? 日本人の伝統的な価値観といえるものはいつごろ形成されたものなのだろうか? 「日本人」という意識はいつの時代に生まれ始めたのだろうか? ……?
 異質なモノや未知のモノ−−物質的存在かエネルギー的存在か,あるいはその両方?どちらでもない?に関わらず−−はSFにとって必須の要素とは限らないのだろうか?
 私自身はこれらが必須か否かはともかく重要な要素であると確信しています.そういうドキドキするところがなけりゃおもしろくないもの……


4 大野→富田

 だが,少し田舎へ行けば,戦前あるいは下手をすると幕末頃の意識を引きずっている「伝統的な」ムラ社会があり,何より怖ろしいことに,そこでは「異質な価値観がこの世のどこかに存在する」という概念そのものが存在しえません. そんな社会環境の中にSFが立脚する余地があるんだろうか?

 きっと同じく,欧米では,キリスト教的価値観以外のものを想像すらできない人が山といるんでしょうね。この点では,対等だと思っています。キリスト教原理主義者がSF読むとは思えませんし,日本の「ムラ」のおっちゃんがSF読むとも思えません。
 キリスト教的SFという元の話に戻すと,ターミナルエクスペリメントをはじめ,米国SFは,先の表現を借りるなら「キリスト教的価値観で,現状とは違う未来,今日とは違った社会を再構築する」話であると言うこともできるかもしれません。
 結局,SFは本質的に,逃走と再構築という利己主義の文学だと思うのです。如何に今の場所から逃走・逃亡し,再構築を図るのか,ここにSFの醍醐味があるのではないかと考えています。これは現状からの逃走,現実からの逃走,価値観からの逃走,因習からの逃走,文化からの逃走など,数多くのシチュエーションがありうるでしょう。
 それぞれの文化,因習,宗教,価値観から,それぞれに応じた「異質な価値観」を想像/創造すること,または「異質な価値観」を想像すらしない/できない社会から逃走を図ること,これが私のSF観です。
 したがって,ルィバコフ氏の指摘を正しいと仮定すると,日本がキリスト教的価値観を持つ社会に受け入れられた「キリスト教的SF」をそのまま無条件に受け入れ,「この形式のみがSF」だと思い込んでしまった点に問題があるのではないかと考えます。
 以上の理由から,結論としては,可能性の問題にすぎませんが,日本独自の価値観からの逃走・再構築を図ることは可能だと考えます。


5 富田→大野

SFは本質的に,逃走と再構築という利己主義の文学だと思うのです。如何に今の場所から逃走・逃亡し,再構築を図るのか,ここにSFの醍醐味があるのではないか.

 私はここに「自己解体」というのを加えたい気がする.あるいは「逃走」と表裏一体かもしれません.その差は特定集団と自己との関係如何によるものだと思えます.さらに言い換えるならば,自己の定位のための座標原点をどこに設定するかという感覚的な違いがあるかもしれない.また,書き手として多数へ向けて問題提起をする側と,読み手としてひたすら自己の意識を拡散させうる側との差異もあるのかもしれない.前者については,自分で書いたことがないので確信はありませんけど.
 私自身は,自分が突き放してきたモノから「逃げる」という感覚は持っていない.むしろそれを否定しつつ,切り離し作業をし続けているという感がある.ブロツキイの『私人』に共鳴する部分が多くても,微妙な違和感が消えなかったのはそのせいかもしれません.(それでも『私人』は,圧倒的に,よい)
 利己主義を,個人主義とか自己中心主義と言ってみるとどうでしょう.単なる言葉の違いだとは思えないのだけれど?
 ただ,いずれにせよ,再構築というのはそのとおりだと思う.そのためには書き手にも読み手にも確とした定点が必要で,その動機や過程が個々人にとって,宗教的であったり,難解だと感じられたり,解放感を得られたり……,というSFの醍醐味に通じているんだろうな.

 それぞれの文化,因習,宗教,価値観から,それぞれに応じた「異質な価> 値観」を想像/創造すること,または「異質な価値観」を想像すらしない/できない社会から逃走を図ること,これが私のSF観です。

 上述の見解と合わせ,おもしろい.だが,《SF》に関してということになると,私はちょっと疑問.ここのところはこちらが後から突っ込む立場なので,揚げ足取りに聞こえたらごめんね.
 たとえば近縁のファンタジィでも同じことができる.SFのSFたる所以は?ということになると,もう少し違ったところにありそうな気が,私は,します.

 したがって,ルィバコフ氏の指摘を正しいと仮定すると,日本がキリスト教的価値観を持つ社会に受け入れられた「キリスト教的SF」をそのまま無条件に受け入れ,「この形式のみがSF」だと思い込んでしまった点に問題があるのではないか

 まさに私もずっとこの点が気になっていたのです.何か考えようとすると,ここへ行き着いてしまうのですね.ただ,私の乏しい歴史の知識の中では,日本文化は異文化の取り込みとアレンジを巧みにこなしてきていたように思うのですが,ということは,日本ではSFがまだまだ未成熟だということかな?氷河期ではなくて萌芽期,ですか.んな,アホな・・・!?
 ついでにルィバコフの見解を付け加えておくと神への信仰が崩壊しなかったイスラム世界や,国家と個人の関係を儒教的倫理が規定している中国においては,(本格的)SFが発生する必要がなかった,という意味のことも言っています.宗教そのものというよりは,宗教にとって代わりうる価値体系,世界観,思想信条といった,ある種の信仰の対象が必要とされる歴史的必然があったかどうか,ということだと思いますが.
 少し飛躍しますが,日本はキリスト教を浸透させなかったにもかかわらず,その影響下にある文化価値を徹底して受容した希有な国家の例と言えなくもないですね.先の敗戦がそれほどまでに徹底的な敗戦だった,ということでしょうか.


6 大野→富田

 私はここに「自己解体」というのを加えたい気がする.あるいは「逃走」と表裏一体かもしれません.その差は特定集団と自己との関係如何によるものだと思えます.さらに言い換えるならば,自己の定位のための座標原点をどこに設定するかという感覚的な違いがあるかもしれない.
 利己主義を,個人主義とか自己中心主義と言ってみるとどうでしょう.単なる言葉の違いだとは思えないのだけれど?

 ここでは私のSF観として,あくまでも「逃走」でありたいですね。自己解体はSF思考法以外を用いない文学の方法であると考えます。
 そして,指摘をそのまま使うのなら,自己解体は己で完結する話題であることから自己中心的,逃走は己の保身であることから利己的と称したいと思います。

 上述の見解と合わせ,おもしろい.だが,《SF》に関してということになると,私はちょっと疑問. たとえば近縁のファンタジィでも同じことができる.SFのSFたる所以は?ということになると,もう少し違ったところにありそうな気が,私は,します.

 他の場所でも書きましたが,私はSFを「思考法」または「手法」であると捉えています。したがって,それをSFと呼ぶのか,他の何かと呼ぶのかは定義だけの問題なので,ここではしません。とりあえずSFと呼びます。したがって,私がSFというとき,非常に広い範囲になります。これでわかっていただけるでしょうか。ファンタジーは私の解釈では同じ場所にあります。
 ちなみにスタンスとして,私が理想のSFと考えるのは,「狭義のSFではない」と言われるポリティカル・フィクションであり幻想小説です。しかし,だからといって,教養小説としてのSF,啓蒙小説としてのSF,娯楽小説としてのSFを否定するものではありません。

 まさに私もずっとこの点が気になっていたのです.何か考えようとすると,ここへ行き着いてしまうのですね.ただ,私の乏しい歴史の知識の中では,日本文化は異文化の取り込みとアレンジを巧みにこなしてきていたように思うのですが,ということは,日本ではSFがまだまだ未成熟だということかな?

 件のターミナルエクスペリメントなどは,娯楽小説としての評価はできますが,何で賞を取るほどまでに評価されたのか,理解できません。日本はアメリカ的キリスト教思想を受け入れていないので,もしあの小説の中で書かれた価値観まで含めて米国で評価されたとするのなら永久に理解できないでしょう。これは現実として確固たるものです。
 すると日本は,富田さんの言う通り,キリスト教的SFを取り込むにはまだまだ文化背景の取り込みが中途半端だという結論になります。ここでルィバコフ仮説を受け入れるのなら,日本が真にSFを受け入れるためにはキリスト教的な価値観・歴史観も全て受け入れなければならないということになります。
 それこそ冗談じゃない。私は日本のオリジナルSFや中国SFだって重要なものだと認めています(中国のは冒険・啓蒙小説ではありますが)。誤差にされてはたまりません。
 つまり,どう考えてもルィバコフ仮説のように「宗教的価値観」だとまでしてしまう主張は受け入れることができません。したがって,違和感を感じざるを得ないのです。
 そもそも,私のルィバコフ仮説への解釈は,キリスト教圏の人だからそういう分析になるのだろうなぁ,といった程度の認識でした。

 少し飛躍しますが,日本はキリスト教を浸透させなかったにもかかわらず,その影響下にある文化価値を徹底して受容した希有な国家の例と言えなくもないですね.先の敗戦がそれほどまでに徹底的な敗戦だった,ということでしょうか.

 私はそう考えます。ただ,迎え入れるほどには背景を取り込んだが,理解するほどまでには至っていないといったところでしょうか。


7 富田→大野

 私も,SF/ファンタジィほかとの定義・ジャンル区分を厳密にする気は毛頭ありません.積極的に区別する必要もないと思う.がしかし,「SFは形式だけがあってジャンルではない」「SFを『思考法』または『手法』として捉える」という考え方には,うなずける点もありますが,全面的に賛成することもできない.「いかにもSF的な『SF』」という読後感の生まれる作品があるのは事実なので,自分自身の中に何かしら選択基準があるようです.物語世界を支える客観的論理の在り方に関係するような気もしていますが,今のところ確信はありません.


8 大野 追記

 ルィバコフ氏の説すべてを否定しているわけではなく,大筋ではそのとおりだと思う。結局のところ,私が一番引っかかっているのは「キリスト教」の部分に対してなのである。キリスト教者と非キリスト教者との間でキリスト教の影響を語り合うことは不可能だと思われるので,この議論をルィバコフ本人としたとしても,成り立つはずはないだろう。結局は,一般的な日本人として「それはわからない」としたうえで,「賛成しかねる」と答えるのだと思う。
 「無神論的倫理」までも含めて日本が輸入してしまったのだとすれば,氏の説に一致する。だが,日本が非キリスト教的道徳感・倫理観で動いている国であるという事実に変わりはない。


とっくに出た本

Люс-А-Град
Далия Трускиновская
АСТ-Terra Fantastica