蝸牛月刊 第17号 1997年2月15日発行


世界SF会議の詳細決まる

 1997年度 世界SF会議が7月27〜31日,中華人民共和国の北京にて開催される.同会議は,今世紀最後の開催ということになる.同会議の主催はSF雑誌「科幻世界」および四川科学技術協会,後援は中国科学技術協会.
 会場となるのは北京市内にある中国科学技術会館.会議の主なテーマは,科学,SF,平和と発展.また,関連テーマとして以下のような話題がある.

  1. SFと現代化
  2. コンピュータ,ネットワーク,未来
  3. 環境,自然,人類
  4. SFにおける国際相互交流

 参加費用は220ドルで,宿泊費72ドル.登録費には印刷物費用,翻訳費,オプションツアー,オープニング/エンディング・パーティ費用が含まれる.
 参加登録受け付け期間は本年2月15日〜3月15日まで.


書評(1)

13カ国 いうたらあかんディクショナリィ
言ってはいけないことばの本

開高健 企画
講談社+α文庫

 題名通り,世界各国の隠語を集めた本である.ロシア語も含めた13カ国語による危ない用語を集めている(ロシア語の担当は原卓也).さすがに性行為関係の言葉が多く,最初のうちは面白いのだが,何カ国語にも及んで繰り返されるとなると,全部読み通すのは至難の業だ.
 いったい誰が何のために本書を読むのかと考えてみると,娯楽以外の価値,特に実用的・資料的な価値はあまり無い.特定の言語に関心のある人が,一資料として持っている分にはいいかもしれないが,ビジネスマンや旅行者が使うような代物ではない.
 企画者である開高健によると「タブー言うヤツはアホ,知らぬヤツはドアホ」ということで,本書が誕生したのだそうだ.確かにロシア人の前で海老を発音してしまうとギャグになるし,海老の意味を知っていて日常会話に使ったら品性を疑われる(この意味がわからない場合は近くのわかる人に聞いてください).だが,そんな知識を積極的に集めて,いちいち気を使おうという発想こそがギャグである.決して知らなくてもアホではない.
 そういうわけで,本書は,外国語で悪ふざけをした結果出来てしまった本として,本書が存在することそのものを単純に面白がるのが正しい.


書評(2)

私人
ノーベル賞受賞講演

ヨシフ・ブロツキイ 沼野充義訳
群像社

 ブロツキイの裁判における受け答えは,何度も繰り返し引用され,すでに神話と化しているほど有名な話である.面白い話なので,知らない人のために引用する.

裁判官「いったい,あなたの職業は何なのです?」
ブロツキイ「詩人です.詩人で,翻訳もします」
裁判官「誰があなたを詩人だと認めたんです?誰があなたを詩人の一人に加えたんです?」
ブロツキイ「誰も.じゃあ,誰がぼくを人間の一人に加えたっていうんです?」
裁判官「でも,あなたはそれを勉強したんですか?」
ブロツキイ「何を?」
裁判官「詩人になるための勉強ですよ.そういうことを教え,人材を養成する学校に,あなたは行こうとしなかったでしょう・・・」
ブロツキイ「考えてもみませんでした・・・そんなことが教育で得られるだなんて」
裁判官「じゃあ,どうしたら得られると思うんです?」
ブロツキイ「ぼくの考えでは,それは・・・天性のものです」

 この純粋さは,一面で神々しくさえあるが,別の見方をすれば,かなりのトンパチとも思える.時代が時代だけに,これはかなり根性の座った話である.だが,文学が,これほどの確信を抱かせる力を持っていたということ,ロシアにその土壌があり,ブロツキイがここまで見事にその影響を受けたということ,その事実には驚かされる.
 本書は,ブロツキイがノーベル文学賞を受賞したときの講演録である.ブロツキイの信念がかなりの密度に濃縮されている.一読して驚くのは,ブロツキーの「言語」や「文学」に対する確固たる信頼と確信である.かなり薄い本なのだが,その短い文章の中で,文学という形式に対する信頼,芸術のもつ力が繰り返し語られる.活字や言葉が軽視される風潮にあって,読んでいて元気が湧いてくる.何度も読みたくなる本である.


書評(3)

日本人はなぜ無宗教なのか

阿満利麿
ちくま新書

 ロシア人,アメリカ人,中国人など人種を問わず,確かに宗教的な感覚は日本人よりずっと強い.その日本人はというと,日常的な経験から結論すると,自分は無宗教だと考えている人が圧倒的に多い.
 外国で「無宗教」だと言うと危険だという説がある.個人的には,そんなことなど絶対に無いと思うし,いちいち他人の宗教のことを聞き,それをどうこう言うような人にこそ問題があると確信している.宗教がこの世から無くなれば今の百倍は良くなるはずだと確信している奴の言説なので,あまり当てにはならないが...
 本書は,この日本人の「無宗教」という現象を生むに至った原因,歴史的経緯,心理を分析してみせている.筆者は神主でもあり,宗教の側からの一方的な言説に堕してしまいそうな話題なのだが,内容はうまくまとめられている.
 本書によると,日本人の「無宗教」は決して無神論などではなく,宗教心は逆に強いのだそうだ.そうなるに至った原因は,「宗教」という言葉の定義そのものにあり,日本古来からの「信仰」が「宗教」という言葉の意味に当てはまらないからだという.確かに,本書でも指摘されているとおり,初詣やお盆,墓参りといった習慣は,かなり宗教色の強いものである.これら,すでに習慣と化してしまった「本来は宗教的だったもの」と,キリスト教など体系的な論理を持つ「宗教」とを比較すると,いわゆる「宗教」といわれるものほど確かなものではない.この意味で,日本人の大半は「無宗教」ということになる.
 だが,それらの習慣が,「宗教」ではなかろうとも,宗教的儀式であることには代わりはないし,宗教心によるものであることも確かである.筆者は,この意味の混乱を避けるため,日本の「信仰」を自然宗教と呼び,キリスト教などを創唱宗教と呼んで区別している.すっきりした説明である.
 ちなみに,本書ではさらに続けて,行政や裁判所が,「習慣」だからと言い逃れしながら地鎮祭や神社参拝に公費を使うのを,以上の理由から,はっきりと宗教的儀式だと説明している.
 以上のように,内容は非常に納得できるものだ.だが,本書を読んで納得したということと,「この世から宗教が無くなれば今の百倍は良くなるはずだ」という確信を撤回することとは別の話である.


書評(4)

岩波文庫1927-1996
解説総目録

 文字どおりの本.全三巻.ロシア文学は中編に入っている.膨大な岩波文庫の書誌的資料としては,下巻の「書名索引/著訳者別書名索引/刊行順全書目リスト」だけがあれば十分だという話もあるのだが,そればかりではなく,上中巻の作品紹介が結構面白いのだ.他社の目録を見る機会も多いが,それらと比較しても目録として出色の出来だ.この三冊に関して言えば,全部で2500円という価格が特に高いとは思わない.いわば世界文学の強力なアンチョコ本である.読みはじめたらと止められなくなってしまった.
 なんのかんのと言いながら,ロシア文学でも未読のほうが圧倒的に多いのだ.(^^;; 解説目録だけで本のあらすじを仕入れるのは外道のすることなのだが(ただしペリーローダンなどを除く),「いつか読みたい」と思っているだけの本も多い時節柄,今後の参考ということで(^^;;
 親切なのは,原書名が原語で書かれている点だ.ロシア文学は,ほとんどそのままのタイトルなので迷うことは滅多にないのだが,それを確認できるだけでも存在価値はある.
(以上,大野典宏)