蝸牛月刊 第10号 1996年7月20日発行


ロシアSFニュース


ロシア出版状況

生きていたБиблиотека фантастики
 1980年代半ば,主要出版社の共同出版で刊行開始した『ファンタスチカ叢書』全24巻.ソ連邦解体後,どうなっているのかわからなくなっていたが,第8巻の2『80年代ソ連邦のファンタスチカ』がモスクワの《諸民族の友好》出版社より,1994年に発行されていたことが判明した.編者はSF作家のオリガ・ラリオーノワ,収録作家は古株ではセーヴェル・ガンソフスキイ,ワジム・シェフネル,ゲオルギイ・グレーヴィチ,セルゲイ・スニェーゴフ等.ターボ陣営からは,昨年の日本SF大会『はまなこん』に参加したヴャチェスラフ・ルィバコフの他,ボリス・シュテルン,ミハイル・ウェレル,エドゥアルト・ゲヴォルキャンの短篇が収録されている.
 本叢書,あいかわらず書誌情報の記載が欠如しており,いつ書かれた作品なのかわからないのが欠点.また,ウラジーミル・ミハイロフによる序文の日付が91年8月となっていることからも,ロシアにおける出版の困難な事情が推察される.

複雑な話
 先月号で紹介されたロシアのSF賞に関する大野典宏記事中のカーツ著『ソ連SF史』は題名どおりのSF史研究書ではなく,ソ連SF史を題材としたSF小説であることが判明した.ややこしい話である.

ターボの新刊
 アンドレイ・ストリャーロフの新刊『世界の子供たち』がこのほどロシアで出版された模様である.


ロシア映画情報

ソクーロフ来日
 ストルガツキイ兄弟の『世界終末10億年前』のモチーフを基にした長編映画『日陽はしづかに醗酵し…』などで知られるロシアの映画監督アレクサンドル・ソクーロフが7月16日,日本での制作活動準備のため来日,29日まで滞在の予定。同月20日,渋谷のユーロスペースにおける『精神の声』全編上映の際には監督の挨拶が行われる。また,同監督の作品の一部は近日中にビデオが発売される予定とのことである(残念ながら『日陽…』は対象外)。対談集『ソクーロフとの対話』(河出書房新社)に続き,雑誌『ユリイカ』での特集,単行書『ソクーロフ』(原著1994年)の翻訳発行もこの夏に予定されている。
 さらに,これはおそらく本邦初公開の話題かもしれないが,ソクーロフ監督は来日直前に新作劇映画『母と息子 Мать и сын』のモンタージュを終え,帰国後の8月には音入れに着手,10月に完成の予定である。日本公開も期待できそうだ。

ブルガーコフ原作の映画
 ミハイル・ブルガーコフのグロテスクな風刺ファンタスチカ『運命の卵』が昨年,映画化された.監督はセルゲイ・ロムキン,主演はロチャヌーの『狩り場の悲劇』やタルコフスキイの『ノスタルジア』その他で知られたオレーク・ヤンコフスキイ.どんなできばえになっているのか,ちょっと気になる作品である.原作小説を読みたい人は,創元推理文庫『ロシア・ソビエトSF傑作集 下』に深見弾訳が収録されているので探してみてほしい(残念ながら版元品切れのはずだが).

外套の制作進む
 アニメーション作家のユーリ・ノルシュテインがゴーゴリ原作『外套』の制作を再開した.現像所のトラブルにより撮影済みのフィルムがおしゃかになる事件にもめげず,既に45秒分ができ,来年中には第1部が完成する見込みである.

『深紅の帆』の謎 解決
 以前,紹介したナウカ扱いのロシア映画ビデオであるが,アレクサンドル・グリーン原作の『深紅の帆』は予想どおり,ソ連の特撮男,アレクサンドル・プトゥシコ監督の1961年作品であった.現物が手許にあるのだが,私事都合により未見のため,内容については後日改めて紹介したい.
 同監督作品では,パーヴェル・バジョーフのウラル民話を原作とした『石の花』が有名である(日本で初めて公開されたカラー映画でもある).原作は,岩波少年文庫の同題図書その他に収録されている.

(以上 担当:大山)

新刊書評

「お笑い大蔵省極秘情報」

または「トロイカ物語」について改めて考える

 本書は「お笑い北朝鮮」で一躍を馳せたテリー伊藤が,大蔵省主計局の高級官僚にインタビューした記録である.
 なぜ,この本を取り上げるかというと,リアル版「トロイカ物語」としか思えないからだ.「トロイカ物語」に出てくる官僚はコンスタンチン星コンスタンチノフ市出身のコンスタンチン・コンスタンチノビッチ・コンスタンチノフなどの漫画的ギミックと同じレベルで議論してしまう存在だ.思いっきりデフォルメされた官僚に信じられない物件,悪い冗談としか思えない会議風景など,全体がカリカチャライズされていて抱腹絶倒の傑作に仕上がっていた.このあたりの茶化しようはストルガツキーの十八番である.
 だが,本書は,はっきりいって笑えない.登場する高級官僚の人格が理解不可能なのだ.決して馬鹿ではなく,恐ろしく頭が良く,半端ではない激務をこなしている人々だとは思うのだが,人格は幼い.物事の「高級・中級・低級」や,人が「凡人・ガリ勉秀才・天才」のどれに分類されるかなど,些細なことに執拗にこだわり,自分がいかに特別なのかを強調したがる.
 本書では,「トロイカ物語」で戯画化されてからかわれていたような人格が,裸のまま出てくる.曰く,偉そうな話し振りと態度は本当に偉いから,自信過剰としか思えない態度の大きさは本当に自信があるから,人を不愉快にさせる話し方は愉快にする必要がないから,人を馬鹿にしたような話し方をするのは相手が本当に馬鹿だからといった具合だ.
 そのような人格は一般社会や一般的な常識では通用しないという反論すらも,「俺達は一般ではなく,日本を引っ張る一握りのエリートだから」という特権意識によって彼らの中で正当化され,消し去られてしまう.
 日本の国は俺達にまかせろというようなことを言われても,どんな意見に対してもエリート意識丸出しの「あーいえばこーゆう」方式でかわされ,通常の会話が成立しない人に対して何を期待できようか.このような人々によって動かされている国で生活しているという事実を前にすると無力感に支配されてしまう.
 読後,本書で感じた無力感を思い出しつつ「トロイカ物語」を読み直してみた.「トロイカ物語」のアホな会話の中に,本書で感じたような感覚が織り込まれていたのか,または「トロイカ物語」で茶化された官僚主義の窒息状態を,日本にも共通する己の問題として認識し,読後に暗澹たる気持ちになってしまうのかどうかを確認したかったのだ.
 結論として,「トロイカ物語」はやはり面白かった.本書のような無力感・虚無感にとらわれるようなこともなかった.ストルガツキーもソ連時代,官僚機構を相手にいろいろと不愉快な思いをしたり,無力感にとらわれたりしたのだろうから,その感覚を小説の中で表現するのは,ストルガツキーの力量からいって簡単なことだろう.しかし,「トロイカ物語」にはそういった感覚が感じられない.怒りや無力感を感じる以上に,理解できないコミックスのキャラクターでしかないのである.
 本書のような実態をそのまま出して「こんなものだ」という手法は正直ではあるが,前述のように笑えないし楽しめない.より効果的・強力に批判する方法としてのファンタスティカという手法の威力を再確認した次第である.
(大野)