WORLD SF IN A BOX
ストラーニク・レポート&新世代の作家
  大野典宏、アレクサンドル・チューリン

 未だにコンベンション参加以外の目的で訪露したことがないというのも問題だと思うのだが、国内外を問わず、言い訳が無い限り出かけたくならない性分なので、ちょうど良いのかもしれない。今回の目的はSF作家会議「ストラーニク(遍歴者)」への参加である。まず、その模様を報告する。

●第二回ストラーニク
 ストラーニクは、一九九七年九月二五日〜二八日の期間、サンクトペテルブルグのホテル「ルーシ」において開催された。昨年に続き、今年は二回目の開催である。ボリス・ストルガツキーをはじめとしたロシアを代表するSF作家達に加え、今回はアメリカからロバート・シェクリィ、ブルース・スターリング、ローカス誌編集長チャールズ・ブラウン、日本から大野と森田有記の二名が参加した。
 文学の国ロシアでは、こうしたイベントへの関心が高い。開催期間中は終始、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌の取材陣がやってきていた。ロシアの作家によると、この状態は会期中に限ったことではなく、終了後にもレポートの寄稿やインタビュー依頼が多いのだそうだ。アメリカからのゲストは会期中にしかつかまらないということもあって、四六時中、何らかのインタビューを受けていた。ロシアで人気の高いアメリカ人SF作家はシェクリイとブラッドベリなのだが、そのシェクリイの参加することで関心が高かったようだ。  二五日の開会式は地元のSF出版社テラ・ファンタスティカ社の社長、SF作家にしてストラーニクの主催者であるニコライ・ユータノフの司会で始まり、ストルガツキー、ブラウン、大野(本当にこれでいいのか?)、スターリング、シェクリイの順で挨拶が行われた。そのまま出版社によるプレゼンへと続き、夜は記念パーティが開かれた。
 二六日は講演が続く一日。午前はボリス・ストルガツキー、セルゲイ・ペレスレーギン、アンドレイ・チェルトコフによる講演、午後はシェクリイによる講演とアメリカからのゲスト三名によるプレスコンファレンスが行われた。こういう日は、まじめに講演を聴く人、部屋で酒を飲んで寝ている人など、さまざまである。
 ちなみにロシアでは日本やアメリカのコンベンションのように複数の企画が同時進行するようなことはない。しかも余裕を持って予定が組まれているうえ、たいていは早く終わるため、企画の間には多くの待ち時間ができてしまう。開催期間中にはその隙間を縫って、または全企画の終了後にどこかの部屋で酒盛りが行われていた。筆者もそのいくつかに誘われたが、酒を飲みながら深夜まで多くの議論が交わされていた。その中の一つとして聞いた話だが、ロシアではいま、SFが不調なのだという。今のロシアでは大衆的・娯楽性の強い本が歓迎されているのだそうだ。ロシアSFは大衆性よりも文学性の追求に主眼を置いているため、このような風潮はSFにとって厳しいのだ。
 夜は第一回ストラーニクのビデオ上映に続き、「スターシップ・トゥルーパーズ」の予告とロシア語吹き替え版「MIB」が上映された。
 二七日はメインイベントの日である。午前中は「ロシアSFの輝きと赤貧」と題した作家によるサイン即売会のため、バスで市内のブックフェア会場へ移動。
 その企画に先立ち、関係者とプレスのみによる遍歴者賞ジャンル部門が発表された。この賞は昨年までクラスノヤルスクの作家会議で行われていたものを一緒に行うことにしたのだ。着飾った(コスプレ?)女性がノミネートを読み上げ、作家がプレゼンテータとなって各賞を発表した。受賞作は次の通り。
■遍歴者賞ジャンル部門
 ヒーロー 「幻想の皇帝たち」
   セルゲイ・ルキャネンコ
 歴史改変 「連邦最初の年」
   レフ・ヴェルシニン
 ファンタジー 「傷跡」
   マリヤ&セルゲイ・ヂャチェンコ
 ホラー 「第八条の孤児」
   ゲンリ・ライオン・オルヂ
 ゲンリ・ライオン・オルヂとは変わった名前だが、これはドミトリ・グロモフとオレグ・ラヂジェンスキイの共同ペンネームである。英語風のヘンリー・ライアン・オールディーをロシア語で書いているのだ。
 いったんホテルに戻った後、遍歴者賞の授賞式のため再びバスで市の室内楽コンサートホールへ移動。取材陣の数がいつもの三倍くらい増えた。モデルによるショーに始まり、途中でジャズバンドの生演奏をはさみながら進行した。受賞は次のとおり。
■遍歴者賞
人物 ロバート・シェクリィ
 長編 「チャパーエフと虚無」
   ヴィクトル・ペレーヴィン
 中編 「連邦最初の年」
   レフ・ヴェルシニン
 短編 「言葉を現実と化す人々」
   エフゲニイ・ルーキン
 翻訳 アレクサンドラ・ペトロナ
    マイケル・スワンウイック
    「The Iron Gragon's Daughter」
 エッセイ 「テラコッタ親衛隊の戦士」
   エドゥアルド・ゲボルキャン
 編集者 ヴァヂム・ナザロフ
   ロシアファンタジーシリーズ
 出版社 アーエステー
 イラストレーター ヤナ・アシマリナ
   「アンバーシリーズ(ゼラズニイ)」
 最終日の二八日はストラーニク賞受賞者によるコンファレンスのみ。その後は流れ解散。また来年会いましょう。 ●その他の賞  一九九七年は発表される賞が多い一年だった。以下、列挙する。
■インタープレスコン賞
 インタープレスコン参加者の投票で選ばれる。
 長編 「軟着陸」
   アレクサンドル・グロモフ
 中編 「クソッタレ!」
   ミハイル・ウスペンスキー
 短編 「文献学者達」
   エヴゲニイ・ルーキン
 評論 「世界の深淵にいる餓えた目」
   エヴゲニイ・ハリトノフ
 出版社 アーエステー
 アーチスト ヤナ・アシマリナ
■カタツムリ賞
 ボリス・ストルガツキーが選ぶ賞。
 長編 「ロープに生えた芝生」
   ヴャチェスラフ・ルィヴァコーフ
 中編 「ハイ!ニネーリ」
   ボリス・シテルン
 短編 「アマンジョール」
   ニコライ・ユータノフ
 評論 「テラコッタ親衛隊の戦士」
   エドゥアルド・ゲボルキャン
■アエリータ賞
 一九八一年から続く歴史のある賞。二年間発表されなかったので無くなったかと思っていたが昨年復活したようだ。選考委員会が選ぶ。
 キール・ブリチョフ 功績に対して
■START賞
 アエリータ賞と同時に発表される。ファン投票による。
 「奇妙な目」アンドレイ・ヴァレンチノフ
■ファンコン賞
 ファンコン(ウクライナ)参加者の投票で決定される。
 大賞 「アフラニアから来た伝道師」
   キリル・エシコフ(ただし、評論)
 長編 「向こう側の人間」
   ヴャチェスラフ・ルヴァコフ
 中編 「聖ヴィッテのメヌエット」
   アレクサンドル・グロモフ
 短編 「デリリウム・トレメンス」
   エヴゲニイ・ルーキン
 短短編 アンドレイ・シシェルバク-ジューコフ
 社会評論 「聖コロフの生け贄」
   アレクサンドル・ルリエ
 作品評論 エヴゲニイ・ハリトノフ
 ウクライナ新人賞 「奇妙な目」
  アンドレイ・シマリコ(ヴァレンチノフ)
 ロシア新人賞 「最も最後の秘密」
   ミハイル・チィリン
 海外を舞台にした作品 「僧と小猫」
   ダリヤ・トルキノフスカヤ
 海外作家の露語作品 「終結部の人々」
   ペサフ・アムヌエリ
 イラストレータ ヤナ・アシマリナ
 読者の支持 ワシーリ・ゴロヴァチョフ
 同時代的発展 アレクサンドル・カシリン
     *     *  ちなみに、ダリヤ・トルキノフスカヤの「僧と小猫」は日本独自のホラー「怪談」に挑戦した作品である。時は平安時代、源行張や藤原業平(微妙に名前を変えてある)、弁慶、小野小町が遭遇する妖怪騒動(ろくろ首などが登場する)を描いたものだ。作家に限らずロシア人全般に言えることだが、日本文学に対する知識は非常に深い。たいていの日本古典は読んでいると思っていい。平均的な日本人などより良く知っているため、日本古典の話になると非常に困ったことになる。

●ロシアのオールタイムベストSF
 今年、日本でオールタイムベストSFが発表されたが、ロシアでも同じようなことが行われている。日本と同じく作品ランキングと作家ランキングが発表されているが、その中から作家の人気ランキングを十位まで示す。
 一位 ストルガツキー兄弟
 二位 ワシーリ・ゴロヴァチョフ
 三位 セルゲイ・ルキャネンコ
 四位 キール・ブリチョフ
 五位 ニーク・ペルモフ
 六位 ヴャチェスラフ・ルィヴァコーフ
 七位 ヴィクトル・ペレーヴィン
 八位 ゲンリ・ライオン・オルヂ
 九位 ウラヂスラフ・クラピヴィン
 十位 マリヤ&セルゲイ・ヂャチェンコ
 (参考)十四位 ミハイル・ブルガーコフ

●ロシアのサイバーパンク
 話は変わるが、ストラーニクでついにロシア・サイバーパンクの第一人者アレクサンドル・チューリンに会うことができた。チューリンはドイツに住んでいるため、名前だけは聞くものの今まで会うことができなかった、言わば『幻の作家』だったのだ。
 簡単に紹介しておくと、チューリンは一九六二年生まれ、プログラマーとして働くかたわらヨガ、仏教、歴史学などを学び、一九八八年に作家としてデビューする。代表作として『宇宙公式年代記』シリーズがある。
 以下、チューリンのロシア・サイバーパンク論を示す。ロシア作家の姿勢が非常に良くわかるのと同時に、アメリカSFとロシアSFの本質的な違いがよくわかる。

■ロシア・サイバーパンク書簡
    アレクサンドル・チューリン
 ソビエトが死ぬ時まで、我らが親愛なるロシア固有のSFは精神錯乱状態にあり、そのけいれんは酷くなる一方であった。その様子は経済(産業、農業その他)の転換と同じようなものであった(すべての原因はソビエトという特殊な吸血動物が大がかりな方法で国のあらゆる富を腐さらせ続けていたことによる)。そして我々の「生ける屍状態」が改善されはじめたとき、我々にはどんな活力も残されていなかった。ソ連固有のSFは我々の農耕機器産業(トラクタといっても戦車のようなものだったが)と同じ状況にあった。賞賛・表彰されていた我らが公式の文学――純白の聖衣をまとった罪無き共産党員の未来を描いたもの――は、指導者達の関心を繋ぎ止めるのに忙しく、強い自縛状態に陥っていた。それはたとえば社会の進歩とは既存の一般的社会制度を殲滅する事だとし、それを夢見て銀河をうろつきまわるブルジョワの「悪漢」を描いたような作品のことだ。だが、権力上層部と公式なコネであろうと、旧式で非公認の印刷機を持った印刷所であろうと、どんな方法をもってしても我らが「正統ソビエトSF」を支えることはできなかった。マルクス主義の観点で宇宙の冒険を記述することは止められ、ブラスターの乱射や虚空間跳躍といった陽気なホラ話がアメリカ映画からコピーされ始めたが、ただアメリカのユーモアと常識をコピーすることを忘れていた。
 とはいえ、公式の文学に反抗していたSFが、それほど良かったかというと、そういうわけでもない。そういった作品は、強大な(だが実は汚い麻をまとった)ソ連をイソップ寓話のような手法で揶揄し、錆付いた順序機械がもたらす邪悪と恐怖を描いていた。人々は政治的な腫れ物を槍で突くという手法を非常に好んだ。そういった文学は「ファンタスティック・リアリズム」(訳注:ターボリアリズムも同じ意味)という名前を得たが、実際には「今日のSF」と呼ばれた(訳注:ボリス・ストルガツキーの作家セミナー出身者、たとえばルィバコーフなどの作品)。
 反抗し、戦い続けてきたSFの多くは残ったが、はるかに難解、そして曖昧で予見性の少ないものになった。つまり共産党中央委員会は消滅した結果、批評のための批評のみが残ったのだ。「今日のSF」は現実の複雑な変化によって自己の存在意義を失った。
 状況は誰にとってもしっくりとしなかった。ファンタスティック・リアリズムは自らのガス室送りを避けるべく、プロットはさらに恐ろしく、登場人物は声を嗄らして演説し、言葉とアイデアは単純になった。だが、以前のような画期的な作品も視点も、社会的に有用な思考も無かった。作家は陳腐な公理と用語を垂れ流した。その先には何があったのか?単なるフィクションへの分解である。
 私はSFが予言または規範の役割を負った時にのみ強力な文学たりうると断言する。
 今こそ、その時なのだ。ロシアはモータリゼーション、コンピュータリゼーションおよびワールドワイド・コンピュータネットワークに象徴される三回の社会的・技術的な洗礼を受けなければならない。そして一九一七年当時の状況が今なお残り、これらの洗礼が未だに受けられずにいることを同志ボルシェビキに感謝しよう。
 どんな結果になろうとも、二十世紀の終わりまでに今のような荒野の時代は終わる。民主的な力もルーブルも強くなり、知識人がポスト産業・ポスト集団主義社会に向け、課題を解決しはじめる。そして、それは今とは違った文学の原理となるだろう。
 大邸宅はその種の作家を産み(読者も同様)、スラムは別の種類の作家を産み出す。したがって、人工環境に対しては、今とは全く違った作家が必要になる。テクノスフィア(人工的な感覚が支配する合成世界)は、複雑で奇妙な、固有のルールをもつだろう。
 我々は今から、来るべきテクノスフィアに注意を向けておくべきである。なぜなら合成された世界は市民の大部分を完全に制御してしまうか、完全にアナーキーな気違いにしてしまうことができるからだ。そして残った数少ない連中がクールなスーパーマン(キャプテンパワーやスカイウォーカーでも可)になるというわけだ。ところで、馬鹿者は現在でも腐るほどいる。そんな連中はたとえサンクトペテルブルグの街中であろうと平気でこう言ってのける。「コンピュータ化というのは『ユダヤ人の異教』なんだ。プログラマの旧姓はみんなラビノウィッチかフィンケルシュテインなんだぜ」。
 もし、馬鹿者の数を減らし、同時にスーパーマンの数を増やしたいのなら「頼もしい未来を書いたSF」を読ませるべきだ。SF以外のジャンルは確かに存在するだろうし、それらの成果は美的で人間的な創造にとってより重要なものとなるかもしれない。だが、それらはテクノスフィアの危険性や恐怖から我々を守ることができない。
 「頼もしい未来を書いたSF」を的確に言い表す用語を作り上げられないため、私はアメリカ文学の様式『サイバーパンク』の名称を使っている。
 確かにギブスンとスターリングが英語で書くのと同じようにロシア語で書くことはできない。彼らにはプラトーノフやハールムス、ザボローツキイ、ヴヴェジェンスキイ、サーシャ・ソコロフといった前衛文学の伝統がなく、また我々にはハッカー用語やニューヨークのスラングが無い。手短かに言えば、英語とロシア語はかなり異なっているのだ。
 しかし、海を越えた我らが「魂の兄弟」ともいえる作家達と共有できるものはある。それは双方とも完全に異質な世界を描いている点だ。サイバーパンクと伝統的なSFとの根元的な差は次の一点のみである。すなわち、伝統的なSFでは我々の共通体験――常識を空想と現実との繋ぎ目にしているが、サイバーパンクにおける繋ぎ目は、比較してかなり多彩である。したがって、作家は未来のリアルな生活を描写するために苦心惨澹する。要するに、たった一つの手法では、現在と大きく異なった存在や環境を描写することができないのだ。
 初めて私がサイバースペースの話を書いた時、人間の心を機械の機能に置き換えたとして評論家に叩かれた。それに対し、私は人間の姿が鏡に映るかのように人間の心がサイバースペースに映し出されるのだと反論した。これが人と個性の未来像なのだと作品で説明しようとしたのだ。サイバースペースは時として、どんな台詞よりも鋭く人間の内面を映し出す。ケルンやミラノの大聖堂が中世ヨーロッパ人の精神を最も正確に映し出しているように、人工のサイバネティックス環境は未来人の精神を映し出すことだろう。
     *   *
 余談だが、ペレストロイカまたはソ連崩壊以後に社会に出た世代の作家が徐々に目立つようになってきている。チューリンもそうなのだが、あのペレーヴィンにしてもまだ三十代半ばである。賞については(作家セミナー出身者に代表される)ペレストロイカ第一世代、つまり現在四十才以降くらい作家の作品のほうが多いが、人気ランクにはルキャネンコ、ペルモフ、オルヂ、ヂャチェンコといった若い作家が入り込んでいる。チューリンの文章ではペレストロイカ第一世代が思いっきり揶揄されているが、新しい世代がコンスタントに現れ、新たな方法論が提案されるのは極めて正常なことだと思う。