World SF Report

 いわゆる8月革命(はたしてあれは革命か?)が共産党支配の時代にとどめをさしたことはご存じの通り。その結果としてレーニンの名前をかざしたレニングラードが元のサンクトペテルブルグに戻ってしまった事などは、あの大騒ぎの名残りとして最も直感的に分かりやすい事実かもしれない。なにしろ地図とか旅行案内書といったやたらと目につくものが全部変わっちゃうんだから非常にわかりやすい。
 91年の夏、ロシア共和国のボルゴグラード(旧スターリングラード)で非常時の真っ最中にもかかわらず国際SF会議ボルガコンが開催された。共産党の内紛によってレニングラードのように人物の名前を冠した市名からありきたりの名前に変わったという変なめぐりあわせの場所で、政変騒動があったばかりだというのにSF大会が開かれてしまうというのはいかにも冗談めいててこれこそSFファンらしい行動だ。
 その意味では家族と友人の反対を押し切って危ない時期の危ない場所で開かれるSF大会に参加するためにのこのこ出かけてしまうのもいかにもそれらしい。モスクワに降りたとき、他の客は乗継ぎ客ばかりで入国したのはたった一人。いやがうえにも気分は国際ジャーナリストである。そう考えれば格好いいでしょ?
 その期待を裏切らず確かにモスクワ市内は2、3日前まで毎日のごとく報道されてた現場がほとんどそのままの形で残っていた。見たかぎりでは確かにКГБ本部前からジェルジンスキーの銅像はなくなっていたし、現場付近にはキャタピラのあとや犠牲者に捧げられた花束が残っていた。その時期、その現場に居合わせていたはずのモスクワからの参加者達にあの事件の事を聞き回ってみたのだが、モスクワでの生活はいつも通り続けていたそうだ。彼らに言わせると国の方針がいかに変わろうとも生活が変わった試しが無いからだそうである。そんな諦めの感情が強いのだろうか、政治に無関心な人が多かった。  事実、ボルゴグラードは政情不安定が伝えられる中にありながらのどかで平和な場所だったし、食料危機が伝えられる中にありながら町中で野菜や果物が売られていた。そんな場所柄も関係しているのかも知れないが、ボルゴグラード市内で何人かの人にあの事件の事を聞いてみたところ、関心を持ってテレビにかじりついていたと答えた人はいなかった。
 それにもまして感心したのはイデオロギーを軽く超えてしまうSFファンの気質ですね。この世界共通だろうと思われる気質は思想信条を超えての対話には格好の話題かもしれない。旅行中、何度も議論をふっかけられたが、市街地でふっかけられたお題がほとんど政治経済関連だったのに対してSF大会会場でのお題はまるで違うのである。
 曰く、「UFO(ウフォと発音していた)は日本で造られた偵察機であるという説を私は支持するが、この件に関するおまえの意見を聞きたい」とか「惑星開発において開発をスムーズに進めるためには人体の改造が必要不可欠になると考えられるが、おまえはいかなる形態に改造するのが最適であると考えるか」などなど。特に前者の質問に対しては「まったくその通りだ。おまえは正しい」と答えたい誘惑をやっとの思いでこらえた。
 ただ、これも最近ユーゴスラビアでそれまで仲良しだったSFファン同士が民族問題で憎しみ合っているという話を聞いて自信が無くなったが。
 で、国際ジャーナリスト気分を散々ぶち壊されたあげくにボルガコンが始まった。
 総参加人数約二百名、ボルゴグラードのツーリストホテルで九月七日から十三日まで開催された。参加ゲストは各国から多数、主なところでアメリカからラリー・マキャフリー、クリストファー・スタシェフ他二名、アイルランドからJ・P・ホーガン。他に確認しただけでもウクライナ、ラトビア、キルギス、ウズベク、トルクメン、モルダビア(モルドバ)、アゼルバイジャン、ブルガリア、ドイツ、フィンランドなど非常に多くの国から参加者が集まった。会場のツーリストホテルは窓から激戦の後に造られたママエフの丘の像とボルガが見えるという良い場所にあり、特にすることが無い時にはボルガのほとりで酒盛りが開かれたり、その場でヌーディストビーチに変わったりすることすらあった。これなどは写真をお見せできないのがつくづく残念である。
 さて、これだけの規模で開かれる大会なのでプログラムの方もさぞかし盛りだくさんだろうと思いきや、お国がらもあって日本人からするとのんびりしすぎる大会だった。  開催期間中、会場を使ったプログラムはオープニングとエンディングを含めてたったの5回のみである。ちなみにどのプログラムも1時間程度の長さしかない。
 ただ、それぞれの企画は、どこかの国の安直な企画がたくさんあるだけであまり得るものが無いのとは違い、少ないながらもよく考えられており、聴衆までも巻き込んだ議論に発展することすらあった。
 ボルガコンのプログラムの中で最もエキサイトした企画が「現代アメリカSFと現代ソ連SFについてのディスカッション」だった。パネラーはアメリカ代表としてサイバーパンク(ロシア人はシバパンクまたはチバパンクと発音していた)こそが最も現代的な文学だと主張するラリー・マキャフリー、主権連邦代表として復古主義的な小説を発表しているウクライナのアレクサンドル(サーシャ)・ボリニフという両国内でも両極端を行くような二人が代表として話すことになった。
 もともと主権連邦のSFはアメリカSFとは全く違う土壌から発生し、アメリカSFの影響をほとんど受ける事なくここまで発展した物だ。だから小説の形式や伝統として受け継いでるものも全く違う。極端な事をいえば文字で書かれたファンタジー/フィクションという点で一致しているだけなのかも知れない。
 これだけお互いの土壌が違い、どちらも強力に自分の方法論を実践しているだけに奇跡でも起こらない限り議論が成り立つわけがない。
 案の定、サイバーパンクのスポークスマンとウクライナのヤングアダルトノベル作家はお互いのSF観を語るのみで、歩み寄る気配すらなかった。そんなことで両者の溝が埋まるわけでもなく、最後にはかなり険悪な雰囲気にすらなり、サーシャ・ボリニフが怒って退場してしまった。もちろん後に残されたラリー・マキャフリーの顔色も真っ赤になっていた。
 その後、聴衆もそれぞれの立場を主張しあい、時間ぎりぎりまでこのエキサイトが続いた。この議論のおかげで皆その夜の議題には不自由しなくなったのは言うまでもない。
 このディスカッションのメンバーを最初に見たとき、なぜサーシャ・ボリニフが主権連邦のSFを代表するのかと疑問に思ったのだが、結果からするとこの人選は非常に考え尽くされた物だったのかもしれない。
 おかげで次の日に開かれたラリー・マキャフリーの講演は前日の激戦を物語るような内容になった。サイバーパンクが現代文学および現実の社会をいかに反映し、またそれらに影響を与えているかの説明に終始した。彼は冷戦終結によるポリティックパワーでのリードを失ったことも日本に経済面でのリードを奪われたこともアメリカにとっては重要ではなく、過去から現在に至るまで文化的なリーディングをアメリカが持ち続けていることこそが重要で、今後もサイバーパンクやバーチャルリアリティといった新しく刺激的な文化によって世界をリードしつづけるだろうと語った。これがあっているのか、間違っているのかは知らない。
 そのほかの時間は何をしているかというと、プログラムにはディスカッションと書かれていたのだが、要するに雑談の時間である。たいていはゲストへのインタビューに費やされた。  日本からわざわざ出かけて行ったSFファンというのもかなり珍しいので空き時間には新聞、テレビ、雑誌、地元ファンの質問責めにあった。
 ちなみに多くの主権連邦人は日本の工業力に対する信仰のようなものを持っている。しかもウクライナやバルト諸国といったロシア周辺の国の人にとって日本は唯一ロシアをこてんぱんに負かした国なので、日本の文化や歴史についての関心が高い。英雄が群雄割拠し、ほとんどどこからの干渉も受けることなく独自の文化を築き、現代においては工業力で抜きんでている神秘と驚異の国に見えるらしいのだ。主権連邦人のSFファンはすくなくともロシア語に翻訳された日本のSFや境界ジャンルの作品などはだいたい読んでいるようだった。
 主権連邦のSFファンの間で人気が高かったのは、主なところで大江健三郎、阿部公房、小松左京といったところか。また、アルカジー・ストルガツキー(またSFの偉人が一人いなくなった)が翻訳した芥川龍之介や上田秋成を愛好している人もかなりいた。
 また、主権連邦人とくにウクライナ人の日本に対する関心は別の事情で別の所にも向けられていた。チェルノブイリと広島、長崎の放射能である。どちらも第二次世界対戦の犠牲になったという理由でボルゴグラードが広島と姉妹都市になっているのも皮肉なものである。チェルノブイリ以後、ウクライナの各地方で放射能の影響が出始めており、奇形の植物や昆虫を見かけることは日常茶飯事になっているとのことだ。
 ウクライナのファンがみせてくれた実物のミュータント、例えばツノがぐにゃぐにゃに曲がった十センチはあるかぶと虫や膨らみが二つも三つもある串団子のような形をしたにんにくは恐怖以外の何物でもなかった。ただ、第三者の立場でこれを恐いと言ってしまうのは簡単なのだが、彼らの場合は事情が全く違う。主権連邦ではおいそれと引越しができないのだ。だから彼らはこれらを恐いとは言っていられない。彼らはこの環境の中でこれからも生活しなければならない。
 チェルノブイリに関するアネクドート(小話)をいくつか聞いたが、その中の一つ。
 『広大なステップに一組の親子が立っていた。父親は大きな黒い鞄を抱えている。子供が父親に聞いた。
 「その大きな鞄には何が入っているの?」
 父親が子供の頭をなでながら答えた。
 「むかーし、昔、このあたりにキエフという大きな街があった。でも、ある時みんなそろってどこかへいってしまったんだ。」
 父親は子供に鞄の中身を見せようとはしなかった。
 数日後、別の場所。広大なステップに一組の親子が立っていた。父親は大きな黒い鞄を抱えている。子供が父親に聞いた。
 「その大きな鞄には何が入っているの?」
 父親が子供の頭をなでながら答えた。
 「むかーし、昔、このあたりにチェルノブイリという小さな街があった。でも、ある時みんなそろってどこかへいってしまったんだ。」
 そう言って父親が鞄の中身を取り出すと放射能でぽんぽんに膨れ上がった父親の片腕が出てきた。』
 日本でこんな危ない話したらどんな非難を受けるかわかったものではない。しかし、ウクライナでは事情が全く違う。ウクライナのファンはこれを爆笑することで自分達の生活環境へのうっぷんを晴らしているわけだ。
 ちなみにこの話は彼らが聞かせてくれた話の中では最も安全な部類に入る。他の話はとてもじゃないけど公の場で口にできるものじゃない。
 この話を聞いたとき、日本の感覚からすればどう考えても度を過ぎた話なので大爆笑の中「俺はこんな話では笑えねーぞ」と憮然としていたのだが、「なぜ笑えないんだ。おかしいだろ。これが笑えないのなら、そんな中で生活しなきゃならない俺達の日常を何だと思っているんだ。俺達の生活は恐くも悲惨でもないんだ」とたしなめられてしまった。この件に関してそこに暮らしてもいない奴に何が言える?
 ところでこの話を聞かせてくれたウクライナのSFファングループ「チェルノブイリゼーション」のメンバー達は海外のSF情報を喉から出るほどほしがっていた。欧米諸国はもちろん、日本のSFやファン活動にも興味があるとの事で日本のファングループとの協力関係をもちたがっている。全員英語が達者なのでお互い外国語同士で交流するのも面白いかもしれない。  ちなみにウクライナでは周期的に大規模なSF大会が開かれており、このチェルノブイリゼーションが主催している。実行委員長の話によると日本のSFファンであればいつでもゲストとして歓迎してくれるそうだ。彼らと交流を持ってくれるような日本のファンクラブがどこかにないものだろうか?今ならウクイライナのSF大会に招待という特典付きでお得になってます。
 かく言う私も深見弾氏をはじめとしたメンバーとともに今年の秋に主権連邦のSFファンとの交流を第一目的としたグループ「トロイカ」を結成したが、相手国側の数が多すぎるためにとても追いつかないでいる。
 また、海外との意見交換には手紙や電話以上にパソコン通信が有力な手段になるが、現在、主権連邦との交信を主目的としたBBSの開局を準備している。主権連邦国内でもパソコン通信がかなり盛んで、大都市を中心にかなりの数におよぶBBSが運転しているようだ。パソコン通信専門誌などでたびたび紹介されているので大規模局のアクセス番号をご存知の方も多いだろう。深見弾氏がこの欄でもたびたび紹介しているのでアクセスしている人もいるかもしれない。
 今回、サンクトペテルブルグに住むネットワーカーの協力によって日本でもっとも完璧に近いと思われる主権連邦のBBS局リストを入手することができた。ほとんどがFIDOのノードなので日本のBBSから簡単にメッセージを送れるはずである。興味のある方は、御一報いただければリストを送ります。  主権連邦のネットワーク人種は日本のネットワーカーとほぼ同じと考えてかまわないようだ。ほとんどのネットワーカーはSFについての知識を持っていると思っていてもさしさわりは無いかもしれない。手元にあるBBS局のリストを見ているとSFやファンタジーを思わせる(おたくっぽい)局名ばかりである。SFの情報が提供できるともなればきっと歓迎してくれる。
 情報に飢えているという面では一介のファンに限らず、かなり有名なSF作家でさえも海外とのコンタクトに熱を入れている。特に作家達は海外での出版が目的なのでどんな小さなチャンスであろうと逃すはずもなく、ボルガコン会場で未発表原稿や本をたくさん渡されたが、帰国後、今にいたっても原稿や本が届き続けている。現在までに預かっただけでも、これらを読むだけに専念したとして二、三年はかかる量になっている。困ったものだ。
 とかいいながら本の山を前にして途方に暮れているうちに来年二月にサンクトペテルブルグ(何かこの名前に妙な縁があるらしい)で開催されるインタープレスコンの案内状が舞い込んだ。その他にも五月にミンスク、七月にスベルドルフスク、八月にオデッサで開催される大会への誘いが来ている。特に現在、来年二月にサンクトペテルブルグで革命が起こるという噂が広まっているらしいので、ぜひともインタープレスコンには参加したいと思っている。今度こそは国際ジャーナリストに・・・などとかなり物騒な期待をしてわけだ。
 それにしてもアルカジー・ストルガツキーの訃報には驚かされた。実のところ、ボルガコンの会期中、ある編集者が「おまえが会いたい作家がいたら名前を言ってみろ。誰だろうと二日以内に会わせてやる」と言ってくれたので一も二もなくストルガツキーの名前を出したのだが、「彼は現在重病でここまで呼べない。コンベンションが終わった後、おまえの時間が許すようなら彼の所につれていってやる」とのことで残念だが諦めたという経緯があった。今になって後悔しても始まらないのだが、なぜあのとき無理にでもストルガツキーに会わなかったのかといまだに残念でならない。
 あるロシア人のSFファンはストルガツキー兄弟の性格の違いが作品にどんな影響を与えているかを克明に語ってくれた。言葉と文化が違う日本人にとってはそこまで分析できるほどの土台を持ち合わせていないため、彼女の分析には驚くばかりだった。彼女の弁によるとこの分析はすでに常識なのだそうだ。一部の若い作家は、ストルガツキーは過去の作家だと言っていたが、作品の偉大さは認めていた。彼らにとってストルガツキーはロシアSFそのものなのである。