アンドレイ・ラザルチューク インタビュー

 アンドレイ・ラザルチュークは非常に抽象的な言い方をするが、発言の趣旨は的を射ている。現在のロシアでプロ/ファンを問わず高い支持を得ている作家がどのような意見を持っているか、知っていただきたい。

――まず、あなたの芸術または文学の「原点」を教えてください。
 子供の頃から文学全般が好きで、本質もわかっています。次に好きなのは演劇です。これは映画よりも好きです。音楽についてはほとんどわかりません。絵画に関する私の態度は非常に説明が難しく、また奇妙なものです。と言うのも私は若いころ、絵を描くことに熱中していたのですが、ある日突然止めてしまったからです。その理由は本人ですらわかっていません。
 好きな本を挙げ始めたら多くなりすぎます。また、そのどれにも挙げるだけの根拠があります。たとえばドストエスフキーの作品は、愛好するには厳しすぎるものがありますが、驚嘆させられます。
 作家を挙げてみましょうか。私の感覚と価値判断で別の時代の作家をあげてみると……レーモントフ、メリヴェル、ヘミングウェイ、芥川、レマルク、ブルガーコフ、オクジャワ、ストルガツキー兄弟といったとことです。他に私が影響を受けている作家としては……チェーホフ、シマシコ、ダヴィドフ、コネツキー、感心させられますが、それだけの作家としては……プーシキン、ドストエフスキー、ディケンズ、フィッツジェラルド、カフカ、フォークナーがいます。
 そして、好きでも嫌いでもありませんが、記憶に残こり、しかも読み返している作家は……デュマ、ハインライン、安倍工房、ポール・アンダーソン、ブジョルド、ドイル、ズヴャギンツェフ、ディック、ロベル・メルリなどです。
 好きな映画は、ボブ・フォスの「オール・ザット・ジャズ」と「キャバレー」、黒澤明の「七人の侍」、ノルシュテインの「話の話」、ダネリアの「不思議惑星キン・ザ・ザ」

――どうして文学を選び、作家になったのでしょうか?
 なぜ作家になったのか、私は自分自身にこの質問をよく問い掛けますが、正確なところはわかっていません。たぶん最初に読書に熱中したものの、本が品不足だったからでしょう。
 そして私の頑固さと諦めの悪さが今の地位を与えてくれたのでしょう。その結果として仕事が変わり(前職は医師)、生活は全く変わりました。収入は安定しました(ロシアでは、医者は儲からない仕事の代表)し、目覚まし時計も使う必要は無くなりました。  これらの要素が融合して化学反応を起こしたわけです。加えてストーリーを創作することは、退屈な部類に属していた生活に対する私なりの答なのです。そして作家になることが周りの世界と向き合う私の態度を明確に主張するための最良の方法に思えたのです。  最大の課題は自分自身の理解と、人々の中における私の存在についてです。そして私が理解できないのは人間の死です。
 さらに私が知りたいと思っていることは、この絶望的な状況からの出口があるのだろうかということです。神を介在した人と人との出会いを、どのように自分自身に伝えるのか。どう生きるのか、もし、誰かがそれを明確に知っているのなら、人生の目的も意味もなくなるのではないか。なぜ人類はこれまで存続し、これからも存続しようとしているのか。私が作品を書くのは、私自身が周りの世界をどう認識しているかを表現したいためです。

――なぜSF、またはファンタスティカとして作品を書かれるのですか?
 私はわずか二編しか「ファンタスティックな作品」を書いていません。残りの作品において、私はファンタスティックなコンセプトやイメージを、アイデアの切っ掛けとなる「道具」として使ったに過ぎません。時として私はこういった「道具」の助けに頼ることなく創作を行いますが、たいへん満足する成果が得られています。私はいつも問題と格闘しています。その問題は通常の文学的な手法や日常的なイメージで処理することが非常に難しいため、ファンタスティックな手法を使わざるを得なくなるのです。ファンタスティカは現実の人間や人間性を拡大してみせるレンズまたはテストスケールだと思います。
 思うにSFやファンタスティカを文学と切り離すことは間違いです。そして文学を構成する二つの異なった本質的な要素がファンタスティカという名前に込められているために深刻な混乱を生み出しています。たとえば、ある画家が周りの世界を見たままに描き、それが時として風変わりなものになるものとします。そしてもう一人の画家が他の惑星の風景や異星人の肖像画を描いているとしましょう。この場合、これら二つは全く異なる作風として認識されますが、文学の場合には同じ名前のものになってしまうのです。これは人の内なる宇宙を想像するのに幻想の手法を用いるのか、または外の宇宙を想像するのに用いるかの違いだと考えます。

――あなたが現実を映し出す手法として使う「ターボリアリズム」について簡単に説明してください。
 私たちは仮想的な世界に住んでいます。世界は十分の一が我々自身の感覚で、残り十分の九は情報で構成されています。これら情報は、どこか別のところからやってきたものです。私たちはこれらの情報を管理することも、情報の出所を確定することすらできません。それゆえに私たちは、その情報を信用することで、いとも簡単に服従させられているのです。「ターボ」は、こういった作られた世界のための文学です。作り出された世界であることをはっきりと自覚すると、その中では事実も想像も区別がなくなるのです。

――あなたの作品は題材もテーマも非常に幅広いのですが、読者層は?
 学生から年輩の主婦まで、非常に多岐に渡ります。したがって一括りにはできません。総じて、自分の本に読者がいることにとても驚かされています。私の本のファンクラブさえあるんですからね。私は読者の一人一人を知りませんが、みんなの努力と忍耐力に対し、たいへん尊敬しています。ともかく私の本を読むのは一苦労ですから。

――ご自分の仕事とその評価について聞かせて下さい
 私が思うに、これは作家の仕事ではなく、陳列棚に並べられる際の評価です。私がこの件について言えるのは事実のみです。私は成功することを望んでいるのではありません。私が文学の仕事で忙しくしているのは、金のためでも有名になるためでもなく、わすかでしかありませんが、この世界に対する理解について書くためです。

――では、現在のロシアSFとソヴィエトSFとの関係、さらにはアメリカSFとの関係をどうお考えになりますか?
 ソヴィエトは最近まで存続し、その存在がロシアSFを過度に観念的で非常に難しいものにしていました。ある部分では理念(イデア)を提示し、別のある部分では反抗の文学でもあったためです。ここ数年の状況では、原始的な観念小説はどこかに吹き飛んでしまいました。今日では、ロシアの民俗的な題材を元にしたファンタジーが出てきています。歴史改変小説も非常に人気があります。そして宗教やオカルトを扱った作品群もあります。これなどは共産主義者の検閲組織が禁止していたものです。あと数年もすれば、ロシアファンタスティカの「真の核」となる部分が形成されることでしょう。
 アメリカSFに関して言えば、まず第一にアメリカのSFは愛国的な文学であり、かつ楽観主義的な文学です。たとえば今世紀にロシアや日本で起こったような国家的な危機状況をアメリカ人は体験してはいません。アメリカSFの基本的な特質として、善悪という概念を疑う姿勢が欠乏が挙げられます。確かにこの特徴から外れた興味深い例外はいます。たとえばP・K・ディックがそうです。しかし、現代アメリカSFは基本的に正反対の世界の文学です。ロシアSFの特質は、疑うことが自明であるという点です。現代のアメリカSFは文学的な技法を驚くほど習得していますが、最も進んだアメリカの作家たちでさえ、ロシアSFが昨日探求していたような主題に興味を持ちはじめたところなのです。
 昨今のロシアファンタスティカは発展の時期を迎えています。今の時点でそれがどんな形態や特質を持つのか予想するのはたいへん難しい。現在の状況は、懐疑的で諦めることを知らず、才能はあるものの教育が不十分な十代の若者が権威を認めず、自分の力を確信しているようなものです。力を溜め込んでいる状態だと思ってください。

――次回作である「カエサリス・オトラダの繁栄と死」はヒロイックファンタジーと犯罪小説、宇宙起源論を合わせたものだそうですが、なぜこのような多様で複合的な手法を使うのでしょうか。
 私が思うに、ファンタスティカ、推理小説、風刺、ホラーを一つの作品に詰め込むのが現代のロシアで有効的な手法なのです。これは非常に面白い作業で、他の手法を検討する必要などはありませんね。

聞き手:大野典宏
(1998年)