科幻情報 Vol.30

97年北京国際科幻大会/四川サマーキャンプレポート特集


97年北京国際科幻大会/四川サマーキャンプ・かけあし記録

林 久之

7月27日……受付け日につき特に予定なし。林田・岩上の二人で、午前中雍和宮、午後孔子廟をじっくり見学。夜、先着の兜木・窪田・北山・安楽の諸兄諸姉と合流、ホテルの外で食事したのち、岩上だけ《立方光年》主宰の金霖輝の自宅へ。
7月28日 午前……オープニングセレモニー。
スピーチ、四川省科学技術協会副主席の周新遠氏。中国科学技術協会書記の常志海氏。E・A・ハル女史。
表彰式。岩上、日中交流の功により金橋賞を受賞。
全体会。《科幻世界》主編の楊瀟女史の司会によりスピーチ。A・A・レオーノフ氏(露)。シャノン・W・ルシッド女史(米)。J・ガン氏。
午後……全体会の主催者だったが、通訳つかないと聞いたので固辞し、故宮へ見学に行き、集中豪雨に遭う。て、天罰じゃあ……
夜……歓迎パーティー。
7月29日
午前……全大会。主催者にJ・ガン氏と郭建中氏。
スピーチ、E・A・ハル女史。チャーリー・ブラウン氏。不肖、岩上。中国科普研究所所長の袁正光氏。楊瀟女史。
昼食に天津名物狗不理包子(肉まん)の出店へ入り、肉まん定食で満腹。
午後……北京科学技術館のドームシアターにて、北京・天津地区のファンを集めて講演会。司会、《科幻世界》の譚楷氏。スピーチ、館長の李承益氏。F・アッカーマン。J・L・ロス飛行士。ベレサヴォイ飛行士。館内見学の後ホテルへ戻る。呉定柏氏と日本SF翻訳に関する問題点など協議。
夜……兜木氏の見つけた西単近くの店で火鍋で汗をかいた後、京劇鑑賞。《三岔口》《拾玉(金+蜀)》《盗仙草》。いずれも芸達者で堪能できた。
7月30日
午前……八達嶺にて長城へ登る。おもいのほか険しく、途中で引き返す。つづいて明の十三陵へ。途中、金殿友誼商場という所で昼食。日本式の幕の内弁当が出た。ただし刺身なんかは見当たらず、味噌汁の椀には甘ったるいトマトスープが入っていた。
午後……遅く帰着。夕食後、兜木さんの部屋でジャパンパーティー。アストロノーツはそれぞれ大使館へ行くというので不参加。アッカーマン、疲れていたのに女性二人で呼びに行ったら来てくれた。ウェルズとボリス・カーロフの声帯模写が絶品。その後テレビの三国演義に野次飛ばしながら見る。
7月31日
午前……アッカーマンの講演。スライド使ってコレクションの披露。
午後……西南航空で成都市へ。空港到着は夜だったが、小学生が花束持って出迎え。明日からサマーキャンプが開かれるという月亮湾(ムーンベイ)というレジャー施設。しかし賓館にエレベータなく4階まで歩く。先着の阿部さんと合流。
夕食は機内で済んでいるが夜食を出してくれた。猛烈な辛さのタンタン麺。茶碗の底にラー油が溜まってた。
8月1日
午前……10時開会式。早目に体育館へ行く。ブラスバンドと「腰鼓隊」が待機。控え室で記者会見。えらい人の挨拶のあとゲストを一人一人紹介し、テープカツト。こけら落としでもないのに。あと記念の横断幕にサインし、SFアート・イラストの展覧会へ。
午後……市内某高級レストランで歓迎昼食会。風引いていて食欲もなく朦朧状態。元気な連中はパンダ見に行く。
夕食はやはり施設内の食堂。ペキンダックが出た。ほかに兎の肉のトウガラシ味噌いため・回鍋肉など。夜はスケート場で演芸会。腰鼓隊やチベット系民俗の歌と踊り。そのあと日本映画『首都消失』を上映するとか言っていたが、敬遠する。
8月2日
午前……武侯祠へ。三国演義は通訳より日本人のほうが詳しかったりする。やりにくかつたことだろう。売店に日本の紙人形。なぜだ。
午後……《科幻世界》編集部訪問。10年前とは大違いで、今じゃマックも2台ほど、スキャナーもある。今やSF雑誌としては世界最大の発行部数。なんと25万部!
夕食は錦江飯店という豪華ホテル。招待宴会のあと夜行列車で西昌へ。しかし宴会直前になって、西昌ゆきの列車が2時間早まったと急報。宴会始まってまもなくあたふた出る羽目に。それでも列車内では空腹も冷房の故障も何のその、香港・台湾の人たちと深夜までバカ話。
8月3日 午前……西昌到着は2時間遅れ。なんのこっちゃ。朝食は名物料理という鍋焼きビーフン。盛大に汗をかく。小数民族であるイ族の博物館へ。漢族とはまた違った生活と歴史があり、興味深い。
午後……昼食後、いよいよ衛星射上げ施設の見学。当然ながら内部は撮影禁止。戻って夕食。食後、すぐそばの湖へ夕涼みに。ネッシーだとかUFOだとか舟幽霊だとか、日本語どうし中国語どうしで同じ話題に花を咲かせているのがおかしかった。
8月4日
午前……朝早く起きて飛行機で成都市へ戻る。西南航空。スチュワーデスも旗袍。着くと賓館へ戻らずパンダ牧場へ直行。あいにく昼寝の時間だった。
午後……街へ出て土産物探しと本屋めぐり。夜はまた街へ出るグループと錦燕小姐の住居を拝見するグループに分れた。夜、合流して、写真などとって下の部屋から文句がくるほど騒いだ。
8月5日……身支度ととのえて、帰国。国別、地方別にばらばらに。いちいち見送る楊瀟さんたち《科幻世界》スタッフの皆さん、たいへんでした。慣れないことで苦労したと思いますが、携帯電話があってよかったね。みんな連絡取るのに使ってたけど、便利なものなんだなあと再認識。まずは全日程の終わり。みんなお疲れさんでした。


夏日印象――’97北京国際科幻大会四川夏令営小夜曲

楊 蓉/林 久之・訳

編集さんたち

 最もワリを食ったのはベテランの編集さんたちであった。
 みんな平穏に過ごせるはずだったのだ。宇宙飛行士は計画通りに次のフライトのための訓練を進め、作家は家にこもって心静かにSFを執筆し、編集者は忙しくはあってもいつも通りに原稿を編集し、私たちは幸せに満ちた気分で何かつまみながらテレビを見る――と、こんなあたりまえの夏休みになるはずだった。
 ところがベテランの編集さんたちはその間も、人を集めて世話するのに大わらわだったのだ。
 すでに去年の訪米のおり、主編の楊瀟は“SF外交”を展開しつつあった。みな神秘の東方世界と聞いて目を輝かせ、また招待側が世界一の読者数を誇るSF雑誌であると聞いて、喜びに息はずませて参加を申し出てくれたものである。
 本当に忙しくなったのはそれからだ。北京大会とサマーキャンプは引続いて行われる。これは、ただでさえ人手不足の編集部が、兵力を二つに分けて戦うことを意味する。活動計画が具体的に進み、需要人員がはっきりしてくるにつれて、仕事が膨大なものであることが明らかになった。分身の術でも使わないことには、間に合いそうもない。
 この時期、もし読者のうちに「あわただしい」とか「見るに忍びない」とかいうのがどういう状態なのか分からないという人があったら、編集部へ来てみればよかったのにと思う。最初から最後まで、私たち志願兵は、七人の古参兵が何ともいえない表情でボヤくのを聞かされていた。「願いは一つ、十分に眠ることさ」みんな青い顔で、気息奄奄だったのである。
 The last one is the best one とか。本世紀最後の国際科幻大会である。“最後のもの”なのだからむろん“最良のもの”でなくてはならない。歴史的意義もはかり知れないものがある。だが私たちの主星はひたすら、尋常ならざる情熱に燃え、空気までもが火のようであった。
 成都市にとどまった秦関と孟舟とは駆けずりまわる忙しさで、衣服にしみた汗の乾く間もないほどであった。莫愁はいつもと違ってかすれた胴間声になっていた。北京に行っていたメンバーときたら、戻ってきて飛行機から下りたときの様子など、もっとひどいことになっていた。楊瀟は髪は乱れっ放し、足どりも定まらぬありさまだったし、譚楷の顔は真っ青で、かつぎ屋でもやってきたように背を丸めていた。田子鎰はからだ中の骨がカタカタ言いそうだった。編集部の花だった藍葉と張蕾は今や地に落ちて泥にまみれた花といった具合。ただひとり、今度の仕事がプラスに働いたのは、すっかり沈んだ顔になってしまった阿来くらいなもので、いつも太りすぎを気にしていた体形が、だいぶ「良好なほうに発展」しつつあったのである。
 個人的な意見を言えば、彼らはみずから苦境を求めたのである。私の父も祖父もそのまた父も、宇宙飛行士など一生お目にかかれなかったのだと思うと、たいそう嬉しいことではあった。
 私は編集さんたちに感謝しなくてはならない。孫に向かって宇宙飛行の歴史について語るとき、写真をさしてこう言ってやることができるのだから――「ごらん、この宇宙飛行士はお婆ちゃんと握手してるんだよ」
 要するに、目下のところ、編集さんたちに、ちょっとは頭を休めてほかのことを考えるように言ったところで、それは魚を溺死させるくらい難しいことだったのだ。

大先輩アッカーマン

 アメリカ最初のSFファンである、八十一歳のアッカーマンは、仁ニ当タッテハ譲ラズとばかり、訪米中の楊瀟主編の招きにこたえて、今回の大会に参加してくれた。大会のあと成都へ行くのに飛行機が少し遅れたため、月亮湾に着いたときはみんな疲れきっていた。けれどもご老体、たぶん中国へ来たのはこれが初めてと思われるのだが、異常な興奮を見せ、部屋に入って2秒も休んだかと思うと、ロビーに下りて歩き回り、会う人ごとに笑顔をふりまいていた。あの突き出た大きなおなかが邪魔しなかったら、近づく人をみんな抱きしめたことだろう。
 『科幻世界』の読者ならば、彼の18も部屋数のある邸宅兼私設博物館のことを知っているに違いない。「機会があったらきっと我が家を見においでなさい」老人は誇らしげに言った。「ずいぶんいろんなものを集めたけれど、みんなSFに関するものばかりなんだよ」そういいながら手を私の鼻先に近づけると、そこには奇怪な形をしたSFグッズの指輪が輝いていたものである。
 サマーキャンプ2日目の午前、アッカーマンと中国のSFファンとの座談会の時間がとってあった。ご老体は派手な花柄のシャツを着て、意気揚々と現れた。座談会はずいぶん長かったが、百人分の席しかない会議室には三百人もの聴衆がつめかけ、大勢の人が司会席の前に座り込んでいたが、もつと多くの人が両側の壁に肩を接して立っていた。
 アッカーマンの青い目には天真爛漫な笑みが浮んで、まるで年取った腕白小僧みたいに見えた。ハリウッドの映画スターよろしく、講演の中であるいは天真爛漫な子供を演じ、あるいはSFの父と呼ばれたウェルズの晩年のしゃがれ声をまねしてみせた。豊かな顔の表情と、ぽんぽん飛び出す軽妙な話術は三百人にのぼるSFファンたちを、始めから終わりまで興奮に包んでくれたのである。
 ファンの気まぐれな問いに答えるアッカーマンの反応は実にすばやく、ウィットに満ちていて、たえず拍手と笑いを巻き起こした。
Q:アッカーマンさんはSF映画に出演したことがあるそうですが……。
A:私は未来のアメリカ大統領に扮したこともあるし、未来世界の総督にもなったよ(拍手)。私はいつも正義の味方でね、一番愉快だったのは『タイム・マシン』のときだったな、ヒーローの役になって、悪いヤツをみんなやっつけてやった。
Q:どうしてSFファンになつたんですか?
A:人間は一度しか生きられない。生きている間には、火星どころか宇宙空間に行くことさえできないだろうね。……けれどもSFを読んでいると、そんな空想を実現している気持ちになるんだ(大きな拍手)
Q:SFに出てくる生物学者はマッド・サイエンティストが多いんですけど、あたしは生物学専攻の学生として、どうもヘンな気持ちになるんです。
A:あなたがそうでないらしいのは、さいわいですな(爆笑、拍手)
Q:アメリカでは空飛ぶ円盤を目撃したという報道が多いのに、どうして中国では少ないんでしょう。
A:乗組員が漢字を読めないんでしょう。
Q:今年の科幻大会とサマーキャンプについて、どんな感想をお持ちですか。
A:こんなに多くのSFファンに会うことができて、とてもうれしく思います。今年の大会とキャンプは大成功だったと思います。
 会場のSFファンからは次々に質問が飛んだが、かなりのファンが英語による直接の交流を求め、自分の会話能力を試すとともに、より新しい知識を得ていたことも付け加えておこう。
 座談会が終わったあと、愛すべき大先輩は動物園の人気者パンダよろしく、会場スタッフの一人一人とカメラに収まり、疲れを知らぬ様子だった。きっと、本当に中国の子供たちが好きなのだ。
 アッカーマンさん、また中国へ来て、もっとたくさんのSFファンに会ってお話して下さいね。

拍売会場

 私たちは誰しも、スクリーンに見るような無敵のヒーローになることを夢見ている。けれどもそういうチャンスは通常あまり多くはない。
 今年のサマーキャンプを除いては。
 だから、君が黒いマントをひるがえし顔を覆面でおおったバットマンに扮し、身軽ないでたちのスーパーマンと手をたずさえて入ってきたとき、スタッフたちが歓呼の声をあげ、目に憧れの色を隠さなかったのを見て、きっと得意な気持ちになったことだろう。まるで本当に強大な超能力を手に入れたかのように。そこまではよかったが、通気性のきわめて悪いコスチュームでぴったり体を包んでいるものだから、あの暑さで衣服のなかは汗びっしょり、きっとアセモができて痒くてたまらなかったのではあるまいか。
 ともあれ我らがバットマンは威風堂々、サマーキャンプのオークション会場に着席すると、手には最新科学技術による武器――ならぬ木槌を振り上げて、最も高値のついたところで打ち下ろすのであった。背後には荘厳なる歴史的使命をあらわす小さな横断幕。いわく「一(木+垂)定音」。
 司会がお宝を展示しはじめた。目の前のテーブルに一列に並べ「王婆売瓜」の手つきよろしく、一つ一つ紹介していく。さて競売が始まったとたん、司会をびっくりさせたことには、会場はたちまち爆発的な熱気に包まれて、値段がどんどん釣り上がっていったのである。シラケるのではないかとの心配は一掃されてしまった。実は司会が最も恐れていたのはそうした状況だったのだ。最低価格を宣言したとたん、みんな席を立ってしまって、空の椅子ばかり残ることになったらどうしよう。あるいは会場にただ司会の声ばかりがむなしくこだまするようなことになったら。そうした心痛む状況になるのを防ぐため、司会一同は前の晩に秘密会議を開いて、何人かのサクラを伏せておき、もし憂慮すべき事態になったなら、買手にまわってせり落とそうという段取りになっていたのである。だがどうやら、サクラたちは失業したしまってようだった。
 価格が釣り上げられるにつれて、呼び声は少なくなっていき、最高値がついた。
「ほかに買い手はいませんか?」
 司会がたずねた。それ以上の高値がつかなければ、3度たずねたところでハンマーが打ち下ろされて売買が成立する。
 ところが司会の声が終わらないうちに、バットマンのハンマーの音が響いて、皆をびっくりさせた。競売の決まりをよく知らなず、最初の呼び声を聞いてやってしまったのである。あわてた司会がフォローにまわった。
「あのー、コウモリって夜に活動するでしょ、こんな明るい時間に出てきたんで、つい目がくらんで間違えたんです」
 笑いが起こって、なごやかになった。
 そのあとのオークションはかなりの成功をおさめた。司会はホッとした足どりで戻ってきたが、感無量の思いを致し、ついにこの『夏日印象』を書き上げたのである。


レオーノフ将軍とその絵画

秦 莉/阿部敦子・訳

 天翔ける人類、といえばすぐ、コローリョフ、ガガーリンなどの一連の名前と、偉大なロシアが思い浮かぶ。かれら偉大なロシアの英雄を思うとき、わたしの目の前には列賓、列維坦などの偉大な画家や、ロシアの壮大な大地の風景が現れる。そして97年の北京国際科幻大会で、ロシアの宇宙飛行士レオーノフ将軍と知り合ったことは、わたしに外宇宙と内宇宙のふたつの宇宙空間で、人類の精神がいかに交じり合い、自由に飛翔できるか、という思いを強くさせた。
 レオーノフ将軍は幼いころから絵が好きだったが、運命の巡り合わせで、殲撃機飛行学校で飛行術を学ぶことになった。時はまさに人類がその飛行史上において音速の壁を克服した時代である。ある状況下における高速飛行は、芸術がもたらすと同じような脱俗の快感を与えるものであった。ひょっとすると、将軍はすでに幼いころのなつかしい夢から遠く隔たっていたのかもしれない。しかしアインシュタインの説によると、速度はさまざまな奇妙な現象をひきおこすものらしい。高速飛行はかれのなつかしい夢をそこなうどころか、その青年時代に少年時代の夢と再会させたのである。将軍は、飛行士のために設立されたクラブで、それぞれが各自の趣味をのばし、才能を開花させる機会を与えられた思い出を語った。その機会に、かれは再び絵筆をとり、ロシアの美しい大地を描くことになったのである。
 1959年、かれの運命はまたひとつの大きな転機を迎えた。幸運にも宇宙飛行士訓練センターで、栄光ある宇宙飛行士となることになったのである。その後、レオーノフは無重力空間に足を踏み入れた最初の人間として歴史に名を残すことになった。それと同時に、重力の軛を離れ、宇宙を自由に飛び回ることは、かれに独特の視覚と感受性をもたらし、宇宙に対する全く新しい認識を芽生えさせた。そうした感受性や認識はのちのレオーノフの絵画に独特の風格を与える大きな要因となった。
 レオーノフは水彩・油彩ともに堪能であるが、その題材は大きくふたつに分けられる。風景画と宇宙を描いたものである。
 かれの筆になる風景は、暮れなずむ夕日の風景にしろ暁におく初露の景色にしろ、山や草原の情景にしろ古さびた教会のたたずまいにしろ、安寧と素朴さ、平和と静けさにあふれている。画家の平和な生活に対する深い理解と誠実な願いがしのばれるものである。一方宇宙を描いた絵は、凛と力が漲っており、観るものをしてはるかなる広大な宇宙へと心を遊ばさせるのである。
 創作する上で、ひとりの芸術家としての衝動や規律の他に、自分には自らを宇宙飛行士であり科学者であるとする認識がある、とレオーノフはいう。従ってかれの芸術はArt of Science、即ち科学的芸術であるべきなのである。レオーノフは宇宙の絵を描くとき、肉眼による観察にのみ頼るのではなく、測量機器による精密さを加味する。かれは宇宙飛行や船外活動などの特殊な経験から、世界中のほとんどの人々が見ることのかなわない宇宙の姿を親しくその目でみてきた。しかしそれは決して意のままに機械や星座の位置を書き込むということではない。たとえば大熊座や小熊座を描くとき、将軍は単にきらめく星としてそれらを描くのである。観るものもまた星座の具体的な位置など一向に顧慮しない。
 しかし実はかれは、絵を画く前に必ずその星座の宇宙における正確な位置を調べあげているのである。
 絵画は将軍の一種の趣味であるにもかかわらず、大きな成功を収めている。97年の北京国際科幻大会の科幻撮影美術展覧会に展示された、宇宙からユーラシア大陸を俯瞰した一連の作品は、われわれに巨大な視覚的衝撃をもたらすものであった。8月2日、将軍は「科幻世界」の編集部を見学に訪れ、自らの絵をわれわれの友好の記念として送ってくれた。レオーノフ将軍が機械の助けを借りて自在に外宇宙を飛び回ることはもはやない。しかし人の心の内宇宙において、闊達に絵筆をふるうことにより、将軍は今もなお魂と天地の間を飛び続けているのである。


甜蜜的日子――ボランティア奮闘記

万 晶/林 久之・訳

 「志願兵」――誇らしい名だ。そしてぼくもその一人なのだ(ウッシッシ、うらやましいだろう!)。でも名称は名称、ぼくらの活動はともかく人を粛然とさせるものがあったのだ(こういうのを自画自賛という)。志願兵の活動には苦しいことも楽しいこともあり、サービスしなきゃならないこともあれば役得といえるものもあった。ぼく自身について言えば、of course 役得のほうが多かった! ウソだと思うなら次を読んでくれたまえ。

壮士熱汗洒会場

 会場設営のため、志願兵の先頭部隊は7月31日からムーンベイに“進駐”することになった。集まったのは熱血男児の一群。さあ何でもこい! 車を下りたとたん、急いで体育館に行っていろいろ運んでくれという。みんなたちまち笑顔が引きつってしまったが、しかたがない、しぶしぶと向かった。何が“志願兵”なものか! 最初の仕事は、体育館に置いてある器材をぜーんぶ(ピンポン台、跳び箱、サンドバッグ、平行棒など)を保管庫に運びこむことだった。20いくつものピンポン台は、脚が鉄製ときている。二人でやっと半分を運ぶ。よくやったものだ。しばらく作業すると、体は疲れてガタがきて、両手は赤かぶみたいに腫れ上がった。午後になって少しは楽になるかと思ったら、雑用が次から次へと降ってくる。みんな大型スピーカーを据え付けたと思うと、100メートルも離れた賓館までディスプレイを運びに行かされる。テレビを運んで10分ほど腰を下ろしたと思うと、こんどは植木鉢を運び、テーブルを運び、それから……。みんな心に叫んでいた。“God,save my life!”(神様、たすけて!)

挂牌上陣 威風八面

 志願兵のマークは胸にかけた“ボランティア工作証”だ。これをつけると、なぜか誇りと責任感とが心に満ちてくる。道を歩くにも、頭を上げ、胸を張って、わざわざ見せびらかしたくなるのだ。かくて……
「ちょっと教えて、開会式はどこでやるの?」「イラスト展はどう行くの?」「食堂はどっち?」「サインして!」
 ――というわけで、
「ほら、あっちです」「あ、ついてきて下さい」「え? ……ああ、いいよ!」
 ――まさに東奔西走、しばらくするとくたくたになって、まるでお年寄りみたいに脚がふるえ出し、そうと気づいたとたん、いても立ってもいられなくなった。早く言えば休むにしくはないというわけ。やっとのことで人込みを抜け出し、そのへんの竹林に避難すると、ベンチにひっくり返って目を閉じ、束の間のいこいを求めたのだが、
「ねえ、きみ、トイレはどっち?」
 びくっとして目をあけると、むさ苦しい男が顔を赤らめてぼくを見つめていた。
「ほかへ行って聞けよ、とんちき。なんでオレでなきゃいけないんだよ、ひとがせっかく休もうとしてるのに!」
 それはしかし、心に思っただけで、口のほうは反射的に答えていた。
「ああ、トイレでしたら、その……」

This way please!

 志願兵にはもう一つ重大な任務がある。会場の秩序を保つことだ。特にサイン会のとき。ほら言わんこっちゃない、外人ゲストが体育館を出たとたん、ファンが群がってきて取り囲まれた。みんな手に手にサイン帳をかざしている。爆発的な勢い、とはこのことだ。たちまち指令が下る。すみやかに海外ゲストを賓館に案内し休ませること。そこでぼくらは人込みに分け入って血路を開くことになった。もみあいながらも、どうにかゲストのところにたどりつき、たどたどしい英語で、
“Excuse me,please follow me.I'll take you to the hotel.This wey please!”
 そう言って人込みをかき分けると、ゲストは救いの神とばかり、“揮毫”をやめてのこのこついてきた。しきりに“Follow him,follow him!”と繰り返している。あちらへぶつかり、こちらに突き当たり、ようやく囲みを破って大脱走に成功したのであった。しかし、そのあともう一つ苛酷な戦いが待っていたのである。ゲストを安全な場所へ連れ出すと、ぼくらは当然のごとくサイン帳を取り出したのだ。ゲストもまた“救いの神”をむげに断るはずがなく、まもなくサイン帳は一杯になった。まさに「水に近き楼台まず月を得」というわけ。ぼくらがどんなに喜んだか、いうまでもあるまい。

辛辣和甜蜜

 志願兵の食費と宿泊費はタダである。ちょっと魅力的に聞こえるではないか。でも、あわてちゃいけない。宿舎はまあまあだったのだが、食事のほうはちょっと問題だった。弁当を出してくれたのはよいが、内容はどうもいただけない。ぼくらはこれを「ラー油定食」と呼んだ。どこかの広告にあったとおり、まさに“激辛!”なのだった。ぼくらのような成都育ちならまだしも、四川以外のメンバーは悲鳴をあげていた。ひと口ごとに顔を真っ赤にしてうなっているところは、食事というより拷問でも受けているみたいだった。考えてみれば、志願兵であるからにはすべて自ら望んだこと、これも鍛練のうちと思うほかはない。ウソだと思うなら、調理場のおばさんたちがラー油の缶をさかさに振っているから見てごらん。
 やがて夜の交歓会が始まった。これが終わるとサマーキャンプもおしまいになる。みんな口をそろえて言ったものだ。「仕事は終わった、こんどは自分のことに精出すぞ!」交歓会では、我も我もとばかり、互いに住所を教え、サインをし、記念写真を撮し、すごく賑やかなことになった。ぼくもそこら中を走り回って、友達づくりに励んでいた。あれ、左足が変だぞ、どうしたのかな? うつむいてみると、なんと、左の靴底がぱっくり口をあいてぼくを笑っている。こんな時になんてことだ。ぼくは言ってやった。帰ったらちゃんと修理してやるからな!
 満天の星と遠くの灯が一緒になって、天も地も分からなくなってきた。さざめきの中、ぼくは家路についた。永遠に忘れられない思い出とともに。


後記 今回の『科幻情報』はほとんど他力本願、《科幻世界》に掲載されたアフターレポートを翻訳するだけでまとめてみました。私たちのレポートで触れていないウラ話が、たいそう興味深いんじゃないかと思います。遅くなりましたが、読んでいただいて、有難うございます。(林)