科幻情報 Vol.28


成都WSF再び

 1991年,中国四川省成都市で行われたWSF(ワールドSF)例会は,それは豪勢なものであったらしい.日本から参加した《宇宙塵》の柴野拓美・山岡謙の両氏による詳細なレポートが《宇宙塵》191号に掲載されているし,台北から参加した《幻象》の呂応鐘氏によるレポートも《中国SF資料之五・再生縁》に載っている.91年金沢における日本SF大会i−CONでも山岡氏のスライドによるレポートと柴野氏のコメントで紹介されたのだが,この《科幻情報》の読者で,そのときのレポートを見た人,何人くらいいるのかな.
 WSFの例会ともなると立候補する都市は多いだろうから,再び中国へ誘致するのはいつのことになるだろうと思っていたのに,まさか来年とは思ってもみなかった.
 WSFというのは,プロのSF作家による国際交流の場である.といっても,SF関係の原稿でお金をもらったことのある人ならば,だれでも参加できるのだとか.当然,中国の作家も葉永烈をはじめ数名が会員になっている.ぼくなんかでも申請すれば会員になれるらしい(しかし例会に参加するだけのカネがない(^◇^;).ワールドコンの会場がアメリカ中心に持ち回りになっているのに対し,WSFのほうはヨーロッパを回っているので,今まであまりなじみがなかったのだが,《科幻世界》の編集主任楊瀟女史の政治力で,これを一気にユーラシアにまで広げたのである.なにしろ中国というお国柄,四川省政府のSFに対する熱意あふれる理解(あるいは誤解?)のもと,省をあげての盛会となったのだった.詳細に関しては上掲のファンジンでごらんいただきたい.
 で,その第2次成都大会に際して,すぐ近所である日本からもぜひ大挙して参加していただきたい,ついては今年の日本SF大会に特派員を派遣する,というFAX通信が舞い込んできて,入国手続きのため大童だったことはさておき,今年のコクラノミコンでまたまた中国からのゲストを迎える光栄に浴することになったものである.ゲストは当初《科幻世界》の編集部から3人ほどを予定していたのだが,諸般の事情により,一人に絞られることとなった.四川広播電台のSF番組担当,宋錦燕女史である.紹介文には「小姐」とあったので,妙齢の女性であると思われる.
 むろんコクラノミコンでは自主企画として,WSFの宣伝を行う予定.山岡氏による前回の成都大会のスライドおよび録画の紹介をメインに,宋錦燕女史へのインタビューなどまじえて,なるべくニギヤカに進めたいと思っているので,これをご覧のかたでコクラノミコンへ参加されるかたは,どうかおいでくださいますよう.


金庸の武侠小説いよいよ刊行

 2年ほど前にこの《科幻情報》で騒いでいた(その割に反応は少なかった)香港の作家・金庸による武侠小説が,この秋から徳間書店によって刊行されるという.
 この前の情報をごらんにならなかった人のためにかいつまんで紹介すると,武侠小説というのはあちらのアウトローの世界を描く剣豪小説みたいなもので,伝奇的色彩が濃い.香港はもとより大陸でも台湾でもたいそうな人気があり,作品はすべて映画化されている.『スウォーズマン(東方不敗)』『東邪西毒』『風と興亡』といったタイトルで,それと知らずにビデオショップでごらんになった人もあるはず.まだという方は探してみてください.
 舞台は明清のころというのが最も多い.旅人の護衛をする用心棒たち,といえば日本では雲助やら悪浪人やら,ろくでもないイメージが想起されるが,物語の中ではむしろ武芸者の集団であり,師匠や兄弟子の仇討ち,裏切者への復讐(ときには誤解に基づくものだったりもする),剣の秘伝をめぐる確執などという華々しいことになっていく.そう,あの水滸伝・三侠五義・児女英雄伝などの世界にとても近いのだ.現代中国の大衆小説を知るためには書かせない作品群なのである.
 中国に関心のある向きならば,この大長篇伝奇冒険小説の一群を見ないでいるのはあまりに惜しい.刊行を待って,ぜひともごらん頂きたい.筆者も,武侠小説について語りあえるファンがあまりに少ないので困っていたところなのだ.さしあたり夏の終りには入門書として《金庸読本》といったような本が出るということなので,どうかお見逃しなく(この項,SFと直接の関係はなかったな).


北京で発行のSFファンジン

 私事ながら昨年の暮に郷里の母が亡くなった.その危篤の知らせの直前に送られてきたのが,はじめて目にした中国のSFファンジン《立方光年》である.最近その第2号も届いたので,この際紹介しておこう.
 編集人は北京の金霖輝という人.本人は小説ではなくイラストやマンガのほうが本領という.顧問として名前の出ている呉岩というのは北京師範大学の,助教授だったか講師だったか忘れたが,とにかく大学でもSF講座を開設し若手の作家を育てるべく健闘している人である.16歳で今はなき《科幻海洋》に短編が掲載されたという英才.執筆陣にも《科幻世界》に作品を投稿している常連の名が見える.翻訳も出ていて,タニス・リーの「逝水流情」……って,何だろ,これ.
 SFを書いても発表する場の少ない中国において,これは画期的な快挙である.SFの世界でファン活動が重要な役割を果たすものだということは,皆様ごぞんじの通り.全国各地で盛んになりつつあるファンクラブは,きっと中国のSFを質量ともに高めていく原動力になることだろう.《立方光年》のみならず各地のSFファンジンの発展を大いに期待しようと思う.


本のうわさ

 田中芳樹・井上祐美子・藤水名子といった名前に耳を尖らせる向きも多いことと思う(翻訳・完結・新作など)が,そのへんのうわさはすでに旧聞に属するので,今更ここで言うまでもなくご存じのことであろう.で,内輪ぼめの傾向はあるが,近ごろ面白かったのが武田雅哉氏の『猪八戒の大冒険』(三省堂).悟空でなく猪八戒であるところがミソ.中国人とブタとの関係はそれこそ深ーいものがあるわけで,漠然と感じていたものをみごとに形あるものにまとめる手腕は爽快にすら感じられる.昨年紹介した『桃源郷の機械学』(作品社)よりもまとまっていて分かりやすい.同じ著者による訳著,ラウファー他の『スキタイの子羊』(博品社)などともどこかで結び付いてくるのだが,こうした見えないものを見えるものとして提示し,読者の先入観をひっくり返してくれるセンスには,ただあっけに取られているほかはない(たとえば猪八戒は白ブタ,それと黒ブタ?).西遊記の登場人物と現代中国SFとの意外なカンケイについて興味あるかたは必読.


エイズのうわさ

 天津在住の若手ジャーナリストである方剛という人が,いますごい勢いで矢継ぎ早にルポルタージュを書いている……ということを知ったのは本を読んだあとのことで,実は内山書店の2階売場でに平積みになっていた本の題名に引かれたからだった.題名にいわく『同性恋在中国』(吉林人民出版社).なんだこりゃ,と思って手に取ってみると,これが題名から予想されるとおりの内容なので,驚いてしまった.すなわち,大陸におけるゲイの実態に関する赤裸々なルポだったのである.そういえば朝日新聞あたりが北京におけるゲイの集会を写真入りで報道したのを見たおぼえがあった.人権問題をめぐる国際非難に配慮してのことか,などとコメントがついていたような気がする.ゲイ・リブ運動の実態とかエイズ・ホットラインの現状とか,さるゲイの告白だとかが目次に見える.隣には『艾茲病逼近中国』という題名の本もあって,こちらも題名どおりの内容.中国にもすでにエイズ患者は発生しているのだという.葉永烈が「愛之病」などという作品を新聞連載していたころに比べると,世の中変わったものだ(葉永烈による述懐の文章もあるのだけれど,これはまた近いうちに翻訳紹介したい).というわけで好奇心のとりこになって結局2冊とも買い込んでしまった.まだ拾い読みしかしてないけれど,我ながらヤジウマだなあ,と思ったことでした.今は東京から離れて住んでいるけれど,これがもしもっと気軽に上京できる環境だったら,うちの本棚にはまだまだ変な本がならんでいたかも.


中国《科幻世界》スタッフによる「はまなこん」アフターレポート

東の国のSF熱―――第34回日本SF大会参加メモ

 莫 樹清&鄒 萍/林 久之・訳

 盛夏8月,照りつける陽は火のようであった.それにもまさるのが日本の「SF熱」であったというべきだろう.日本の「中国SF研究会」の招きによって,われわれ《科幻世界》編集部の代表団(莫樹清<莫愁>と美術担当の鄒萍<藍葉>そして科幻作家の譚力)は,8月17日から26日まで滞在して,静岡県浜松市で行われた第34回日本SF大会に参加のしたである.
 東京に着くと(訳注:関西国際空港の誤り)旧知の林久之氏と留学中の若手SF作家である李博遜が出迎えてくれた.林氏はあいかわらず元気で情熱に満ちていて,しばらく会わなかったせいもあってとても親切であった.林氏は1980年に設立した日本の“中国SF研究会”の会長である.彼は北京外語学院に赴任していたとき,多くの中国SF作家やSFファンと知りあい,その後も中国唯一のSF専門誌《科幻世界》に対して長年にわたり支持してくれた.私たちが今度の大会に参加するにあたっても,最初から最後までついてきて世話をしてくれた.
 日本のSF大会は,日本のSF作家・翻訳家・漫画家・出版関係者,そして大勢のSFファンたちにとって年に一度の大きな集会なのである.今回の会場は42階建ての浜松国際交流センターに設けられ,2000人あまりが参加している.開会式は若く美しい女性ファンと,さっそうたる青年の司会によって進められ,間にSF映画やSFクイズ,SFに関する音楽のオーケストラ演奏その他の演目をはさんで,たいそう楽しいものであった.開会式のあとは分科会に分れ,SF図書の展示,SFイラストの展示,映画やテレビ番組の放映などなどが行われた.SFファンも大喜びで,それぞれ自分の興味がある活動に参加していた.あるいはファンジンを売り,あるいはイラストの展示を行い,あるいは自主制作映画の放映を行い,あるいはただ集まって気勢を上げるなど,非常な熱気に包まれていた.
 分科会で,莫樹清は「中国の《科幻世界》に見る中国のSFファン」という題目で報告を行い,満場の拍手を浴びた.そのほか日本のSFファンジン《宇宙塵》の創始者でSF作家・翻訳家である柴野拓美氏および夫人,イラストレーターの加藤直之氏とも親しく歓談することができ,浜松市(訳注:浜岡の誤記)の原子力発電所や水族館(訳注:これは鳥羽)などを参観した.夜は,日本とロシアのSFファン(訳注:実は代表的作家だったのだが)ともゆっくり話し合うことができた.その後は東京へ赴き,早川書房と徳間書店を訪問し,大量のSFイラストやマンガを購入し,私たちが《科幻世界画刊》を創刊するための大量の資料を収集したのである.
 かくて今回の訪問は大成功のうちに終わり,私たちは無事中国へ戻ったのであった.
(《科幻世界》1995年11月号)

SFは若さだぜ

 譚 力/林 久之・訳

 日本のビルに入り,レストランに座り,会議に参加する.中国にいるのとなんの変わりもない.肌の色は黄色だし,目も黒い.もしも周波数の高い日本語がそこら中で聞こえなかったなら,大和民族の有名な腰をかがめるおじぎが周囲に見られなかったら,外国へ来たという感じがしなかっただろう.
 地球は小さいが人類は偉大だ.万物を駆使して,みずからを養わせているのだから.日本を訪問するといっても,村にいてお隣さんをたずねるようなもの,手にした一杯の茶が冷める間もなく,上海から東京へ飛んできた.これこそまさに天下無敵.だが万物は人類に報復を始めている.資源もいつかは枯渇し,環境は悪化し,生命にもいつか終わりの時がやってくる.「人生百に満たず,常に千年の憂いを抱く」.ではどうすれば?
 そこで想像力なのだ.地球人は天に上ることを欲し,太陽系の生命は銀河の外の星系に同類を探そうとする.人類はさらに生き方を洗練させようとするだろう.俗にいうとおり「生活は量にあらず,質なり」.さればこそ,科学にもとづく想像は人の脳裏から飛び出して,稲妻のごとくきらめき,宇宙を照射しようとする.勇士たちは分に安んずることなく探索のための触覚をのべて,大は宇宙をさぐり小は原子核に入りこむ.想像の大河を共有しつつ,全地球の科学幻想は帆に風をはらんで飛びかい,高らかに声を上げては,人類の未来に対する情報や私見を交わしあうのだ.こうした潮流は発達した国ほど盛んになっている.
 日本のSF大会はまさにSFファンの集会であった.偉いサンの臨席をたまわることで空しく箔をつけようとすることもなく,来賓席に肩書きだけはもっともらしい連中を並べ立てることもない.食事も宿泊も,旅費さえもすべて自前.外国からの招待客もまた「自前」の待遇を享受することになっている(もっとも中国代表団の費用は日本の友人である林久之とその夫人が負担してくれて,われわれは大いに感銘を受けた).元来,会議は「宴会」ではない.この点がわが国の習慣とは大いにことなる.SF大会では大勢の,人類の未来に本当に関心を持っている人々が,開催を望み交流を望んでいるのである.だから盛大な宴会なんぞなくても,一千人を超える日本および世界のSFファンたちは,本州にあるこの浜松市へと次々にやってきて,マスカレードに興じ,美術展をもよおし,天空の音楽を演奏し,SFファンジンを売買し,SFオブジエを制作し,講演をおこない……とにかく行きあう人みなインテリばかりなのである.二,三〇代が最も多く,白髪皓首の人はあまりいない.こうした会場内外の何もかもが生き生きとしているような空気に触れると,ついこんな感慨を洩らさずにはいられない―――
 人類の真の希望はそれがまだ若いという点にある.若いからこそ想像力もあるのだが,想像力とは進取の気を意味する.酒食あればネズミが目を光らせ,足下に気をとられているとハエが喜ぶ(というような諺があるのかな).漫然と生きている者に輝かしい未来はやってこない.想像力のすばらしさを知らないからだ.科学幻想とは,まことにわれわれの心を酔わせてくれるものなのだ.
 これをもって日本の第三四回SF大会に招かれた記念としたい.
 (《科幻世界》1995年11月号)


《科幻世界》100号を記念して

 《科幻世界》編集部/林久之・訳

 さんさんと降りそそぐ秋の陽のもと,新しく出た本をひもとくのは,まことに楽しいものである.
 《科学文芸》(1979〜1988)《奇談》(1989〜1990)から《科幻世界》(1991〜)に至るまでまる15年.読者の愛顧と作者の心血,そして編集員の頑張りによって装丁されることになった15冊の合本には,ずっしりとした手ごたえがある.
 この重さこそは,15年にわたる忘れがたい悪戦苦闘,15年の苦難と喜びとを物語っている.

天命そして背水の陣

 1984年,《科学文芸》は生死の選択を迫られていた.
 80年代初期の科学ブーム・文学ブームの冷え込みと,周知のような原因(訳注1)によって,北京や天津のSF刊行物はあいついで廃刊となり,あまつさえSF作品を発表していた科普刊行物までもが関停併転(絶版・発行停止・併合・路線変更)に追い込まれ,赤字続きの《科学文芸》だけが中国SFの最後の砦となってしまった.管理部門では赤字補填のためには一銭も出せないと言っていたが,もし雑誌が廃刊になった場合,編集員がそれぞれ東奔西走すれば,なんとか安定した職場にありつくこともできたことだろう.けれども数名の編集員は,背水の陣を布いて戦い抜く決心を固めたのである.
 改革はうまくいった.《科学文芸》は組織整理のため大鉈を振るい,楊瀟・譚楷・莫樹清の三名のほか,美術部門担当者として向際純一名をとどめ,楊瀟が推挙されて編集主任となった.財源*竭濶決のため,さまざまな困難にぶつかりながらも駈けずりまわり,ついに図書の発行をもって自活し,雑誌の刊行による赤字を補填するという道を探り当てたのである.
 このころ編集部を大いに励ましてくれた出来事があった.第1回銀河奨授奨大会に一人の日本人,林久之が参加してくれたのである.彼は日本の中国SF研究会の会長である.人民南路4段11号の住所をたずねて,彼は錦江飯店から4ブロック,数キロメートルを汗だくになって歩いてきた(訳注2).中国SFの低調(スランプ)を目の当たりにして,彼はこう言った.日本の柴野拓美も50年代に《宇宙塵》を創刊した当時は,ずいぶん苦労したものである,けれども彼は決してあとへ引かず,三,四十年ものあいだ,ほとんどその全経歴を費やして,ついに日本SFの今日の繁栄をもたらしたのである,自分は《科学文芸》の前途が明るいものであることを信じ,《紅楼夢》《三国演義》を世に送り出してきた偉大なる中国は,きっと世界を驚嘆させるSFの傑作を産み出すであろうと信じている,と.
 このとき,ある信念が編集員の心中に輝いた.継続,継続あるのみ! 中国SFの明日のために! かくて寒風吹き荒ぶ日々,編集員たちは自転車に跨がって一つまた一つと学校を訪問して歩き,原稿の依頼に宣伝に予約講読の勧誘にと努めた.エレベーターが停まってしまった時は,編集員たちは手に抱えたり肩にかついだりして,一万冊にものぼる書籍を十階まで運び上げた.運搬に急がしいときは編集主任みずからハイヒールを脱いで三輪車のペダルを踏んだ(訳注3).作者の原稿が落ちた時は,編集員が作者に代って案を考え,暁に至ることもあった……
 その間,専業作家および専業画家のポストが,編集員を誘惑し続けていた.手っ取り早く収入を得られる道が,編集員を刺激した.実利と奉仕との間にあって,彼らは奉仕の道を選び,黙々として奉仕に努めたのである.
 1991年,北京の英文版《中国日報》の記者である楊毅は驚嘆した.「中国SFには驚くべき献身的な編集者がいる,中国SFには希望が見えてきた」.楊瀟は12年間の出版経験をふりかえって,すこぶる感慨をこめて記者に語った.「私たちは財源の枯渇と原稿の払底という二つの難題を抱えていました.私たちは何とかして血路を開かなくてはと考え,図書発行班を作って一人一人が運搬や荷造りの係を担当し,ひとえに汗の力によって毎年数万元もの赤字を補填していったのです.経済困難のもと,私たちはそれでも5回の作家シンポジウムと3回の銀河奨コンテストを開催し,原稿を書いてくれる人を増やし,関係者の増員につとめてきました.80年代は私たちにとって生存の道を求める10年でしたが,90年代は発展を求めての10年になることでしょう!」

樹里程碑 迎新高潮

 1990年夏,《科学文芸》雑誌社の代表団が北京から大陸横断列車に乗り込み,まるまる8昼夜揺られ続けてユーラシア大陸を横断,オランダのハーグにおける世界SF協会(WSF)の例会に出席したとき,人々は驚いた.「君たち汽車に乗ってきたのかい? それこそまさにSF的だぜ!」
 これより前,楊瀟は重いスーツケースを引きずって単身サンマリノに至り,1989年のWSF例会に参加し,1991年のWSF例会を中国・成都市で開催すべく約束を取りつけていた.1990年,中国は競争相手を退け,1991年の開催権を獲得した.中国中央電視台がこのニュースを報道したとき,全国のSFファンのみならず,香港・台湾のSF作家までもが歓呼の声を挙げたものである.
 こうしてささやかな編集部が大きな国際会議のためにてんてこまいしている時,背後から銃撃する者があったとは! かれらは,小平の招いた賓客で世界的に著名なさるSF作家が1978年に書いた中国訪問記をばらばらにしてつなぎ変え,一篇の内部参考書≠ニしてデッチ上げることで,この大会をつぶそうとかかったのである.経費・時間ともに極めて厳しい状況にあった編集部は,ただちに北京へ人を飛ばして,中央の関係部門に出向いていろいろと説明しなくてはならなかった.説明を聞きおわると,中央関係部門の第一秘書はテーブルをたたいて怒った.「これでは,まるっきり四人組時代のやり口ではないか!」
 1991年5月20日,世界SF協会が成立して以来空前の盛大な例会は成都市の錦江賓館に開幕した.竜が躍り獅子が舞い,長江も海も覆さんばかり,賓客たちの目も応接に暇あらずといった有様だった.熱心な討論,心を込めた交流と,主催者側にとって成功であったことは疑いない.5月22日,大会はパンダの故郷である臥竜へと場所を移し,オールディス,スミス,ポール,柴野拓美の3人が欧・米・日をそれぞれ代表して,SF界の隆勢を象徴する三つのかがり火に点火した.中国と外国の代表たちは地元に住む蔵族,羌族,漢族の同胞とともに舞い踊り,大会は最高潮に達した.
 ところが,5月23日午前に降った大雨のため,8箇所にわたって土砂崩れが起きた.臥竜から成都に至る交通と通信とが同時に中断され,三百名の内外の代表は臥竜地区に閉じ込められることになったのである.臥竜では,森林防火指揮所の通信装置で成都へ救援を求めた.大勢の代表の中には24日の国際航空切符を手にした83歳のアメリカ人作家ジャックがいて,高山病のため心臓の具合が悪くなっている.臥竜ではしばしば土砂崩れが起こっては数日あるいは数十日も交通が途絶し,村が一つ呑み込まれて何十人もが生き埋めになったというおそるべき記録も残されている.
 重苦しい暗雲が編集部の心を圧していた.夜になって,編集部は譚楷を臥竜の蒲局長に同行させ,最も危険な土砂崩れの起きた地域へ行ってもらうことになった.別れに臨んで人々の目には涙が光った.
 臥竜では労働者,山地の住民,中学生までが,郷長や村長の指導のもとに危険を犯して力を奮っていた.まる一晩を費して,泥土の中に浸かった数百人の人々は大木でシュラを作り,10分ごとに数センチという速度で推し進め,ようやくシュラを川のほとりまで押出した.明け方,譚楷がこわばった体に鞭うって泥土の中を通り抜け,村から編集部に電話した時,編集部の耳に届いた声はほとんどすすり泣きに近かった――「おーい,道が通じたぞ!……」
 土砂崩れも中国SFの前途を妨げることはなかった.著名な作家,韶華の言葉によれば「1991年WSF大会は,中国SFの里程標だった」のである.
 例会に先立って,四川,福建,安徽,湖北,北京など十いくつもの出版社が何種類ものSF書籍を出版していた.長年のあいだ姿を消していたSF書籍が,また書店の店頭にならんだのである.例会ののち,SF書の出版は勢いを増した.中国SFは,90年代の発展期を迎えたのである.

金頂之上 還有金頂

 調査を進めた結果明らかになったのは,中国SFファンの年齢層は大部分が青少年だということであった.安徽省の読者である羅偉の言葉によると「21世紀における科学技術発展の方向および速度はきっと20世紀末における青少年SFファンによって左右される」のだ.刊行物はかれらに照準を定めなくてはならない.1年にわたる多忙な準備段階を経て1993年1月,《科幻世界》はイラスト・本文ともに充実した新版本≠出した.新版本≠ェ出てからというもの,編集部は頻繁に読者の意見を集め,収録する記事内容,表紙,割付けなど何度も改めてきた.「環球郵箱」「SF Fan Club」「科幻妙語」「毎期一星」「仮使当主編」などは,こうした改革の中から生まれたもので,大いに読者に歓迎された新しい記事なのである.
 2年ほどの間に,実力のある新人が次々に現れた.――王普康,何宏偉,楊鵬,星河,柳文揚,孔斌,李凱軍,任志斌,袁英培,緑楊,韓建国といった人々である.かれらは,鄭文光,葉永烈,童恩正,劉興詩,蕭建亨といった著名な作家たちのあとに続く次の波ともいうべきで,まさに興りつつあるSFの大波の到来を世間に予告するものでもあった.喜ぶべきことに,3回にわたる校園科幻の募集には6000件にものぼる作品が寄せられ,中学生の中からも,才気煥発,奇抜なアイデアを持った作家のタマゴが次々に現れ,中国SFの燦然たる未来を垣間見せてくれている.
 台湾の学者で著名なSF作家でもある呂応鍾は,わが社が2度にわたって「科幻文芸奨」を設けたことに対し,刊行物を通じて有力な支持を表明してくれた.実力派のマンガ家,阿恒の金虹公司と「科幻世界」の合作も成功し,中国SFマンガに斬新な局面を開くことになった.
 91年より今に至るまで,たえず若い人たちが私たちの仲間に加わってくれている.劉志勇,張健翔,鄒萍,張蕾,賀静といった人たちである.長江の水が次々に押し寄せるように,編集部にはいつも活気がみなぎっている.
 毎日郵便受けに一杯になっている読者からの来信,寄稿,そして講読申込書は編集部にとって何よりの喜びである.楊瀟は喜々として来信の一節をみんなに読んで聞かせ,楽しげな笑いや感嘆の声が起こる――これこそ読者のベテラン編集者に対する何よりの報酬なのである.
 雑誌も93年に版を改めて以来,発行部数は上昇し続け,反響もより大きく広がりつつあり,ますますSFファンの愛顧を得てきている.SFが時代に迎えられていったように,《科幻世界》も読者に迎えられ,本誌は数万のファンに囲まれている.黒龍江の姚海君,成都の徐久隆,湖北の周有達といった人たちがSFファンクラブを結成あるいは設立準備中であり,1995年は中国のSFファンにとって大いに交流を深める年になりそうである.編集部としてもSFファンの諸君が私たちと手をたずさえ,推し進むSFブームの波を支持してくれるのを感じている.
 ことし7月17日の夜,シューメイカー・レビ彗星と木星との衝突があった.編集部は数十人のSFファンとともに,天体望遠鏡をかついで夜をついて急行し,夜中ごろ峨眉山の金頂に登った.数日来,かれらの活動は金頂および峨眉山に天体観測ブームを巻き起こし,数百人もの観光客の注目を集めたものである.編集部とファンたちはぜひとも自分の目でこの世紀のキッスを見とどけ,堅実なる自立の精神を体現すべく頑張ったのであった.
 創刊時,すなわち1979年,編集部はかつて科普作家の一団を迎えて峨眉山に遊んだことがあった.15年ののち,当時まだ30代だった編集員もすでに50歳を迎え,おさげ髪の新米編集員もよきママになった.15年の歳月を思い切りよく舎身崖(訳注4)に投げ捨てて――中国SFのために! 滔々たる雲海に向かって老編集子は早くも次に出す本のことを考えている.さらなる頂上を目指して!
《科幻世界》1994年9期号より

 この文章は《科幻世界》の94年9期号に載ったもので,ぜひ日本のSFファンによませてくれと言われていたものである.「科幻情報」の発行が遅れたため,発表の時期が中途半端になってしまったが,これはひとえに編集者(つまり僕です,すいません)の責任である.掲載された94年9期号はまた,WSFから「最佳科幻期刊奬」を受賞した記念の意味もあるということで,表紙 ウラのカラーページにはこの10年間の思い出のシーンを撮影した写真が並んでいる.編集者みずから苦難の年月をふりかえっての感慨なので,心して読んでいただきたい.
――訳者敬白