科幻情報 Vol.12


近況報告・ニュースなど

 厳冬変じて暖冬、昭和の終焉、手塚治虫さんの崩御といろいろなことがあり、はや桜の季節も過ぎて四月となりました。皆様お変わりありませんか。当方、仕事が一段落して少し息をついております。この辺で『科幻情報』を発行しないと、またまた大幅に遅くなる恐れがありますので、まずは平成元年の第一号を出すことにします。
 中国から日本SFの研究のために来日した彭懿氏のことは前号でお知らせしました。彭懿氏には昨年11月に浜名湖畔で開かれた『ハマナコン』に招待して日本のファングループの雰囲気を味わっていただきました。折よく柴野さんと山高昭さんに紹介できたのはさいわいでした。その後さらに蘇州在住の肖建亨氏の令嬢も東京芸大でチェロを学ぶため来日中です。ところがそこへ“日本語学校”の資格取消し騒ぎ。中国SF関係のお二人もなんらかの迷惑を被ってはいないかと気になりますが、今の所まだ問合わせに対する返事は届いておりません。何か自分にもお手伝いできることはないかと思います。お近くにおいでの方、再度連絡してみていただけないでしょうか。日本政府の対応のまずさにいらだちながら、お願い申上げます。
 手塚治虫さんの死は、大多数のSFファンにとって、極めて大きな衝撃だったと思います。昨年どこかの雑誌で見かけた中国訪問時の写真が、以前TVCF(横河ワーデックスだったかな)に出ておられた頃と比べてずいぶん痩せたなあとは思ったのですが、こんなに早くXデーが訪れるとは思いませんでした。いや、手塚さんの姿を見かけたのは写真だけではありません。本人を見かけたことが一度だけあります。日本SF大会『DAICONW』のとき、倪匡の『蠱惑』をスライドラマとして紹介したときのことです。あのときは会場がせまく、発表会場へ行くのにエレベーターも階段もパンク状態、後になって、せっかく期待をかけて下さった方々からも、行けなくて残念でしたという話を聞かされたほどでしたからよく覚えているのです。発表当事者の特権で、使用禁止の階段を通らせてもらい、どうにか開始時間に会場へたどりついてみると、その部屋では手塚さんのアニメ教室が開かれていました。たしか一五分かそこら、終了が遅れたと記憶しています。アニメ教室のほうも前の企画から押せ押せで遅れていたのでしょう。受講者が全部出るのも待たずに中へ入り、あたふたと机を運びながら見ると、手塚さんはまだ室内でファンの質問に答えておられたので、なんだか出ていくのを催促するような格好になってしまいました。けれども手塚さんは別にせかされてあわてる様子もなく、悠々と話を終えると、ちょっとあたりを見回すようにして「次の企画のかた、いらっしゃいますか」と言いました。私が机を並べながら「あ、私です」というと、あのトレードマークのようになっている手塚スマイルで「それじゃ、どうも」と会釈されたので、私もつられて「え、どうも」。たわいのない話ですが、これが手塚さんに会ったと言えないこともない体験です。昭和20年代からの愛読者にとっては神のごとき存在、たった一言をかわしただけでも光栄に思われました。今や自分の子供が手塚作品に夢中になる年齢、そこから何を読み取りどんな夢を育むことになるやら。活字に親しむことの少ない世代ですから、自分とは多少違ったものを見出だしていくのだろうなどと思って見ている所です。
 最後に少し明るいニュース。今年の夏八月初旬、四川省成都市において、中国のSF大会とも言える“銀河奨”授賞大会の開かれることがいよいよ決まったとのこと。ゲストとしてポーランドの作家・編集者を呼ぶとか。私もちょっと顔を出してくるつもりです。もしそのころ中国へ行かれる方があれば、ご連絡くださいますように。また、今年のSF大会DAINA☆CONZは愛知県で開催されることになっており、すでに参加申込みを済ませました。中国SF研究会として一部屋確保し、“銀河奨”大会の報告をと考えております。会員の皆様で参加する予定のかた、ご一報下さい。
 中国SFも次第に水準を高めつつあります。台湾・香港の作家の作品が大陸で紹介され人気を博すということも珍しくなくなりました。今年はひとつその辺の様子がうかがえるような作品を選んで、『中国SF資料』の発行を考えております。ご意見および原稿などお寄せ下さい。


お詫び

 11号にのせた資料リストに、会員である飯崎充氏の評論が一つ落ちていました。次に掲げておきます。まことに失礼致しました。
 ○イスカーチェリ20号 『現代化の波の中で−中国SF事情一考−』  飯崎 充


新刊紹介

『翔べ! 大清帝国』 武田雅哉 (リブロポート)
『世紀末中国のかわら版』 中野美代子・武田雅哉 (福武書店)

 「中国古典SF」の研究家である武田氏が、二冊の著書(一冊は共著)をあいついで世に問うこととなった。元来武田氏の興味はSFに限らず清末の雑多な出版物にあるわけで、以前から『科幻情報』でもその一端を示しているのはご存知のとおり。今回の出版によって、一気にそのコレクションを読者に開陳してくれたことになる。タネ本となったのは、上海で刊行されていた『点石斎画報』という絵入り新聞。大量に入ってきた西欧文化の流れに戸惑いつつも何とか理解し消化しようとつとめている様子や、今も昔も変わらぬ奇譚への飽くなき好奇心、伝え聞いた話だけをもとに書かれた外国の風俗など、たいへん興味深いイラストが満載されている。前者は解説に重点を置き、後者は記事の分類・翻訳紹介に徹している。翻訳の文体もまた「かわら版」の雰囲気を演出すべく随分と思い切ったもので、虫眼鏡を用意して絵の隅にある原文と比べてみるのも一興であろう。

『中国の現代小説』(蒼蒼社)

 このシリーズは以前にも紹介したと思うが、すでに通算八号を迎えている。わが中国SF研会員の近藤直子氏が翻訳で参加しているのも、御存知の通り。半分は同人雑誌のような作り方で、会員が面白いと思った作品を持ち寄ってワープロでまとめるという方式をとっているという。それだけに八巻を通じて一貫した方針といったものはあまり感じられないものの、たいへんバラエティーに富んでいるのが面白い。実験的な作品、たとえば劉索羅『滑走路』・残雪『雄牛』・史鉄生『我の舞』などが収録されているほか、漢族以外の少数民族、チベットのザシダワ、内蒙古のマラチンフ、ウイグルのアクバル・メジットといった作家のものも入っていて、中国というとつい漢族だけを想像してしまうような人は、大いに蒙を啓かれることになろう。ことにザシダワについては、「魔幻現実主義」と称して漢族とは全く異なる作品世界の創造を目指しているようで、幻想的な設定と高原の民の荒々しい生き方との結びつきがたいそう興味深い。一読をすすめるゆえんである。

『封神演義』上・中・下 立間祥介訳 (講談社文庫)

 書名はかねて聞き及んでいるし、内容もほぼわかっている。原書も持っている。にもかかわらず、そのボリュームに圧倒されてついつい敬遠していたのがこの本である。さいわい今度日本語訳が出たので、これで楽に読めるぞ……と思って出入りの書店へ注文したのに、まだ現物は届いていない。しかし内容の奇想天外なことはSFM誌の書評にもある通りだし、その登場人物、いや神々は、中国の庶民にとっては水滸・西遊と肩を並べるポピュラーなものになっているらしく、年画のカレンダーや、廟にまつられた神像の中にも見かけるほどである。筆者同様、なんとなく敬遠していた方は、これを機会に読んでみてはいかが。


作品紹介

張系国『傾城之恋』  《科学文藝》86.12期号

 この作品をはじめて読んだのは昨年10月ごろだったと思う。ところが本そのものはその年の始めに届いていたもの。集まった資料を読む暇がなかなかないのだ。で、遅ればせながらその完成度の高さに驚き、二、三の諸氏にコピーを送ったところ、なんと近藤直子さんが四年も前にすでに読み終え、紹介文までモノしておられたのでした。うーん、勉強不足を反省せねば。もっとも、僕は香港・台湾への情報網を持っていないから、この作品に関する情報は知る由もなかったのであるけれど。
 そういう次第なので、以下はその近藤さんの紹介文の抜粋を再録させていただくことにします。ぼくがドロナワで書いた紹介文などより、はるかに深く読んでおられます。なお初出紙は「聯合報聯合副刊」1977年6月21日22日であるとの事。


張系国のSF小説集《星雲組曲》

近藤直子

 SFの醍醐味は結局のところ書き落とされた側にこそある。それは夜汽車のようなものだ。旅客が明るい車内の光景に気をとられながらも、いつしか窓の外に広がる闇夜と、黒い木々や山々の影に吸い寄せられていくように、読者は、そこだけ灯りに照らされた幻想の軌道を走りながら、その外の暗闇の部分に心を奪われていく。作家たちがつねに解明し残してしまう無数の謎を黒々とたたえたその深い闇の中で、科学は口を閉ざし、理性は敗北し、想像力は尽き果てる。そして読者は自分があまりにも遠くへ来すぎてしまったことを後悔とともにかみしめるのだ。
 《星雲組曲》(洪範書店,80年)の中で読者が出会うのも、この流離の底知れぬ心細さだ。張系国は相互に一応独立した十の短編と、それを年代記風に配列した《組曲》としての流れを、意識的に単なる暗示、もしくはヒントにとどめることにより、広大無辺な思弁と不安の夜に人々をいざなう。ここで扱われている時代は、二十一世紀から二百世紀ころまでとなっているが、もとより、その具体的な数字に大した意味があるわけではない。大まかにいえば前半は、現在の面影を残す世界において、人間と科学の不協和音が奏でられる序曲にすぎない。それが後半に入ると様相は一変する。人間の存在のし方、世界のあり方そのものが、自ら生み出した科学によって根底から揺さぶられ、覆えされていくのだ。
(中略・『傾城之恋』は)タイム・トンネルの建設に成功し、過去と数千年後の滅亡にいたる未来史を知りつくしてしまった「呼回星」には、荒廃と無気力の影が漂っていた。歴史研究のため地球からこの星に留学し、二千年後の未来の女性と恋をしている王辛は、何かから逃れるように過去の「索倫城」陥落の現場に通いつめ、歴史上すでに決着のついた原始的な戦闘に死にもの狂いで加わる。そしてついには追ってきた未来女性と共に、二度と戻れぬことを知りながら、その時代の人となるのである。滅亡の運命に反抗しているのか、あるいはタイム・トンネルなど無かった古き良き時代に加わりたいのか、その理由はわかにない。
(中略)
 張系国のSFはH.G.ウェルズ以来の深いペシミズムに貫かれている。彼にとっての未来は獲得や拡張ではなく、徹底的な現在の剥奪であり、喪失である。彼の描く人物は日常という保護膜をはぎとられ、存在の不可思議の闇に直接投げだされている。彼らは孤独で寄るべなく、根をもたない。この感覚は、重慶で生まれ、台湾で育ち、今はアメリカに暮らす張系国自身の「流離」の経歴にその由来をたずねることができるかもしれない。だがいっそう確実な原因として、科学技術の発展が人々の人生を昔の素朴な形からますます迂回させ、無遠慮に「人間の意味」を問いつめている現代という時代があることはいうまでもあるまい。《星雲組曲》で書き落とされた暗闇は、われわれの夜汽車が答えぬままに通り過ぎつつある問いの暗闇に続いている。
 張系国は1944年生まれ。SFでは短編集《夜曲》(博益出版集団,84年)等、SF以外にも長編《昨日之怒》(洪範書店,78年),短編集《香蕉船》(同,76年)等多数の作品がある。

大修館書店『中国語』1985年7月号


その他

 個人的な話題で恐縮ですが、さんざん迷った末に、とうとうEPSONのPC−286VEを購入してしまいました。NEC・PC−9801のコンパチです。ワープロソフトは「一太郎」、データベースは「プチカード」を使用しています。これで懸案の中国SF関係のデータ整理に着手しようと思います。いつかは通信のほうも、と考えてはおりますが、何年先になることやら。しかし、便利なOAを導入してもいっこう暇はできず、やりたい仕事がふえるだけとは、困ったものです。ともあれPCユーザーで互換性のあるデータなどお持ちの方、ご一報下されば幸いです。
 たいへんまとまりの悪い内容ながら、今年最初の『科幻情報』(あいかわらずの一人芝居!)でした。(林久上)