ストルガツキー書評を評する

 雑誌などの書評欄を参考にして本を選ぶ人は少なくないだろう。だが、この書評欄をよくよく見てみると、希にとんでもないことが書かれている。ところが書評欄に文句をつける人はあまりいないため、今のところ書きっぱなしの野放し状態である。
 今回は、そのような書評を逆に評するという「書評・評」の試みとして、群像社から発行されているストルガツキイ兄弟のSFを評した三十二編の書評を読んでみた。その結果、発見された「問題書評」は全体の三分の一程度。試しに問題書評を分類してみたところ、数種のステロタイプの中にぴったりと収まってしまった。それぞれの分類ごとに背景を探ってみるのも面白いのだろうが、ここではまず最も問題の根が深いと思われるステロタイプについて考えてみる。
 具体的にはソ連に対する先入観だけで作品を断定しているタイプのものである。その主張をまとめてみると次のようになる。『本書はソ連批判の書である。したがって現代的な意味は薄く、また事情がわからない日本人にとっては息苦しく感じられる』。このタイプの書評が全体の中で三件(一割!)ほど存在していた。このような書評は未読の読者に対し、あらぬ誤解を植え付けてしまうという点で特に危険である。
 以下では、なぜこのような書評が書かれてしまうのか、その過程を推理してみる。
 ストルガツキイ兄弟の小説は、共産主義下のソ連で書かれ、そして一部の作品が『ソ連時代には発表できなかった』とか『発禁処分になった』という情報が伝えられているため、ソ連特有の問題を扱ったものだと思われがちだ。実際にはストルガツキイ兄弟の作品で、ソ連批判だけのために書かれたものは一つとしてないのだが、ソ連批判を目的としている部分は確かにある。したがって、そのことを指摘する分には何の問題も無い。実際、ソ連という強烈な存在と、権力に必死で対抗する批判勢力としての作家という劇的な構図が過去、盛んに伝えられた。作家たちにとっては創作活動のある一面でしかないとは思うのだが、この印象があまりにも強いため、確かに目を奪われてしまいやすい。言うなれば目くらましの術をかけられているのである。
 そして術にかかってしまった評者は「ソ連政府を怒らせるほどの批判」が書かれている作品だと思って読み始める。すると評者は、@批判の部分にしか目が行かなくなる、A本の目的が批判でしかないと思い込んでいるため他の重要な部分を読み落とす、Bたとえ読んではいても意味を深く考えないまま先に進んでしまう、C批判以外の内容は無いと決め付けて書評を書くための義務として流し読む、といった状況に陥る。
 その結果、『ソ連の話だから関係無い』とか『重苦しいし私には直接関係無い』という書評が書かれてしまうのだろう。
 問題はこれだけに終らない。仮にソ連批判の部分にしか目が行かなかったとしても、ソ連に対する批判はソ連に対してのみ有効だという考え方自体がおかしい。ソ連の不条理な社会と現代日本の不条理な社会との間にどれだけの差があるだろうか。「人の振り見て我が振り直せ」というありふれた諺が忘れ去られてしまっているのだ。
 つまり、紹介したような問題書評の背景には、容易に目くらましにかかってしまう注意力の不足、先入観によって思考停止してしまう単純さ、提示されている問題を一般形に発展させられない想像力の欠乏、しいては作品を丁寧に読み解いて評するという使命感の欠如にあると考えられる。
 価値の無い本だと思うのなら正直にそう書けばいい。だが、ピント外れなものは困る。読者に先立つ読み手として、書評家にはその責任を全うしてもらいたいと思う。