卑弥呼は殺されたのか?
発言者:山処猫
| 1.卑弥呼は殺された? 「卑弥呼は殺された」とする説があります。本当でしょうか?その主たる論拠は魏志倭人伝の次の記事の解釈にあるようです。 「爲檄告喩之。卑彌呼以死。」 「以」は原因・理由を示すのに用いられるから、「爲檄告喩之」が卑弥呼の死の原因だというわけです。 「張政が卑弥呼に死ぬよう告喩したのだ!」 あるいは、 「張政が誰かに卑弥呼を殺すよう告諭したのだ!」 なかなか想像力をかき立てる解釈ではありますが、そういうつもりで文章を書くなら、次のようにでも書きそうに思われます。 「爲檄告喩之。以卑彌呼死。」 また、皇帝から正式に冊封されている「王」に対して、反旗を翻したわけでもないのに、郡太守や郡の一属吏の立場で死を命じたり誰かに殺させたりできるのかという問題もありますが、しかしまあそれはおいておくことにしましょう。 2.「以」は「すでに」と読める! 「卑彌呼以死」には、もっと無理のない読み方があります。「以」を「已(すで)に」の意味にとって「卑弥呼は已に死す」と解する説です。むしろこちらの解釈の方が一般的です。主語(「卑弥呼」)と動詞(「死」)の間という「以」の置かれた位置からしてもこの方が自然なのではないでしょうか。「已」と「以」は通用する文字で已來・已往・已後・已還などの同義語として、以來・以往・以後・以還が用いられます。また、魏志傅[古暇−日]傳には、次の記事があることも指摘されています。 「孫権自破關羽、并荊州之後、志盈欲滿、凶[ウ/九]以極....今権以死、託孤於諸葛恪。」 「以極」・「以死」、いずれも「すでに」の意味です。とくに「権以死」は「卑彌呼以死」と全く同じ表現です。なお、同書裴松之注所引の司馬彪『戦略』にはこれ相当する記事があります。 「孫権自破蜀、兼平荊州之後、志盈欲滿、罪戮忠良、誅及胤嗣、元凶已極....今権已死、託孤於諸葛恪。」 魏志本文の「以極」・「以死」が「已極」・「已死」になっています。「卑彌呼以死」を「卑彌呼已死」と同義と解することに何の問題もないわけです。後は前後の文脈との整合性の問題でしょう。というのも「卑彌呼以死」を「卑弥呼すでに死す」と解すると、それ以前の文とのつながりが悪くなるという方もおられるようです。確かに、「以死」を「すでに死す」と解する説においても、「爲檄告喩之」と「卑彌呼以死」の関係が充分把握されていなかったと思います。そこで以下で魏志倭人伝の関係箇所を引用して検討を加えてみましょう。 3.張政は卑弥呼に会えなかった! (A)其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。 【其六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して假授せしむ。】 (B)其八年、太守王[斤頁]到官。 【其八年、太守王[斤頁]官に到る。】 (C)倭女王卑彌呼、與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。 【倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より不和せず、倭の載斯・烏越等を遣し郡に詣り相攻撃する状を説かしむ。】 (D)遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢拜假難升米、爲檄告喩之。 【塞曹掾史張政等を遣し、因りて詔書・黄幢を齎し難升米に拜假せしめ、檄を爲り之に告喩せしむ。】 (E)卑彌呼以死。大作冢徑百餘歩、[犬旬]葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。 【卑彌呼以に死す。冢を大いに作る。徑百餘歩。[犬旬]葬する者、奴婢百餘人。更に男王を立てしも、國中服さず、更に相誅殺し、當時千餘人を殺す。復た卑彌呼の宗女の臺與、年十三を立てて王と爲し、國中遂に定まる。】 (F)政等以檄告喩臺與。 【政等檄を以って臺與に告喩す。】 まず、「卑彌呼以死」の直前の(D)を検討してみましょう。 (D)遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢拜假難升米、爲檄告喩之。 これは「遣」による使役の構文です。このうちの「因齎詔書・黄幢拜假難升米」は、「ついでに詔書・黄幢を難升米に拜假させた」ということで、張政たちの本務ではなく付加業務です。この難升米に与えられた詔書・黄幢は(A)にあるとおり正始六年に出されたものですが、それが韓の乱などのために正始八年になってもまだ帯方郡に放置されていたので、倭國に派遣されることになった張政たちについでに持って行かせたわけです。 では本務は何かといえば、それは「爲檄告喩之」なのです。これは(A)の正始六年の詔の執行である「因齎詔書・黄幢拜假難升米」とは一応区別された任務ですから、直接には(C)にある正始八年の卑弥呼の遣使を承けたものです。帯方郡の新太守の王[斤頁]は、卑弥呼が遣使して狗奴國との「相攻撃状」を説いたのをうけて、これかかわる檄(ふれぶみ)を作成し、これを倭國に届けてその主旨を告喩させるために張政たちを派遣したのです。 「爲檄告喩之」の最後の「之」が誰を指すかは人によって見解の分れるところで、難升米とする説と卑弥呼とする説があります。しかし、これが付加業務の「因齎詔書・黄幢拜假難升米」とは区別され、(C)の卑弥呼の遣使をうけたものであるとすれば、卑弥呼を指すと考えるのが妥当です。張政等の本務は卑弥呼に帯方郡太守の檄をもたらして告喩する事なのです。これは使役の構文中の記述ですから、この時に実際に執行されされたかどうかは別の問題です。 次に(F)を見てみましょう。 (F)政等以檄告喩臺與。 この「以檄」はもちろん「檄によって」の意味です。張政等は卑弥呼への告喩のために持たされた檄で、臺與を告喩しています。これが張政等が実際に檄を用いて告喩を行ったことがはっきりしている唯一の記事なのです。(D)においては張政たちは、卑弥呼に檄を届け告喩することを目的として派遣されました。(F)においては張政たちは、臺與に対して檄を用いての告喩を実行しています。張政たちに即してみると、(D)において課された任務を(F)において実行しているのですが、相手が違っているわけです。 このように考えてくると(E)の位置が明確になります。任務の対象が、目的段階における卑弥呼から、実行段階では臺與に変った経緯が(E)に記述されている筈です。 (D)遣塞曹掾史張政等、・・・・爲檄告喩之。 (E)卑彌呼以死。・・・・復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。 (F)政等以檄告喩臺與。 正にそのとおりで、張政たちが倭國に着いた時には「卑弥呼はすでに死んでいた」わけです。従って(D)(E)(F)の大意は次のようになります。 (D)「帯方太守は檄をつくり、卑弥呼に告喩するため張政たちを派遣した。」 (E)「すでに卑弥呼は死んでおり、臺與が後継者になった。」 (F)「張政たちは檄によって臺與に告諭した。」 (E)の「以死」を「すでに死す」と読むことによって、(D)と(F)が自然につながるのです。卑弥呼殺しの嫌疑をかけられた張政たちですが、卑弥呼が死んだ時には彼らは倭國にはいなかったわけで、どうやらアリバイが成立するようです。 |